巨大前方後円墳の謎に取り組んだ跡部正明
日比谷高校の先輩で月に一度程度、テニスも楽しんでいる跡部氏から、仲間にお知らせがあった「巨大前方後円墳と倭国形成のプロセス」という本を出したというので、取り寄せた。なかなか興味深い。
話は、群馬県太田市の太田天神山古墳から入る。前方後円墳が、古墳文化の中でも権力の集中により巨大なものになったということは、小学校の頃から学んだ気はするのだが、さまざまな規模で、大和以外にも存在し、その意味が解き明かされるのは、歴史の謎解きとして面白い。確かに、文字が残される以前の社会は、日本史も、まだまだ進化の途上ということなのだ。任那の日本府が滅んだのが562年というのは、覚えた記憶があるが、朝鮮半島における倭の国からの出兵のため、関東の首長が連合国を組み、大和の大王に協力した。その見返りとして、少しこぶりの前方後円墳を作ることが出来たということは、なるほどと思う。(第1章)
大王墓と天皇陵を見直す考察も興味深い。日本書紀(720年)の記述も、作成された時代の正当性を綴るものであって、仁徳天皇あたりからは実在したとしても、300年も前となると、そうとうに疑わしい記述も多いと想像できる。仁徳・履中・反正の王墓が続けて、百舌鳥古墳群に営まれたとする想定は成り立たないと断言する。(p.71)考察のように、上石津ミサンザイ古墳が仁徳天皇陵、大仙陵古墳(堺市)が履中陵だということになると、小中学校の記述も書き換えが必要となる。ネットで検索しても、今の仁徳天皇陵は、誰を祀ったかについては、相当いろいろな意見があるようだ。(第2章)
物部氏が、蘇我馬子に滅ぼされ、その後、聖徳太子(574-632)の時代になって、仏教が公的に普及され、古墳時代の終わりを告げるようであるが、物部氏については、第3章で、仏教伝来と聖徳太子については第4章で考察がまとめられている。そのあたりにも、たぶんに日本書紀による脚色が多いことを指摘している。仏教以前は、自然崇拝だったり、原始神道であったと言えるが、明らかに新しい文化が外から入って来たわけである。古墳文化が仏教とつながるようには見えないあたりのことが、もう少し解説してほしかった。聖徳太子の実態説・虚構説という言い方を紹介しているが、その点では、実態をもう少し論じられたら、さらにおもしろかろうと想像した。さすがに100年前くらいということだと、日本書紀も、それほど作り話にはなっていないだろうと思うが、ひとつひとつ検証しようとすれば、また、歴史は変わるかもしれない。
少々読みづらさを感じたのは、論文としての書き方が残っているということを「あとがき」で知った。3章の物部氏、4章の聖徳太子をテーマにしていることが、同時代のはずだと思うが、古墳の話と切り離された感じなのは、読み手としては少し残念である。