アジア人物史10巻「民族解放の夢」に登場する思想家たち

「アジア人物史」も、5冊目の刊行。800ページをメモにするのも一苦労だ。
今回は、第1次世界大戦から第2次世界大戦の間のアジアにおける思想家たちを取り上げて、第1章から第19章までで、朝鮮、中国、台湾、インドネシア、インド、イスラム、アフガニスタン、モンゴル、アラブ、日本、沖縄とめぐる。名前を知っている人物も全く知らなかった人物も、同じようなことを考えていたことが、実に各国に大勢いたことに驚く。特に気になった人物を挙げてメモを付すことにする。
尹致昊(1865-1945) 上海のミッションスクールからアメリカのヴァンダービルト大学に留学。「力を持つ者は、不可侵の権利と正義と成功を享受している」と日記に記す。最初期の近代的知識人であったが、転向し1915年に天皇の特赦で釈放されると、「日本を信じ、日鮮両民族の同化に力の限り努力する」と言う。3.1独立運動を批判する立場にたつ。徳富蘇峰との親近性を感じた。(第1章)
金マリア(1892-1944)「朝鮮のジャンヌダルク」と評せられる。三一運動の後、大韓民国愛国婦人会を結成し、裁判闘争を繰り広げる。1921年中国に亡命、さらに1923年アメリカに亡命。1933年帰国後、女子神学院教授として農村啓蒙運動、神社参拝強要への抵抗をつづけた。(第2章)
李載裕(1905-1944)最後は朝鮮の「保護教導所」で獄死。東京での活動では70回以上の検束を受ける。朝鮮共産党日本総局の一員として活動。1933年京城帝国大学教授三宅鹿之助との出会いと拷問、派手な脱走劇。獄中手記もあり。他にも多くの民族解放の仲間あり。(第3章)
魯迅(1881ー1936)20世紀でもっとも重要な中国文学の生みの親。母は独学で読み書きを覚え、進んで纏足をほどき断髪をした開明的女性という。東京時代は日露戦争を機に、医者よりは文学者に目覚める。このあたりは、太宰治の「惜別」が当時の激動を想像させる。1926年からの10年は上海時代。1927年4月蒋介石が反共クーデタ。1928年6月首都は北京から南京に移され、上海は繁栄の絶頂。内山書店の内山完造がさまざまな支援を。死の直前の医師への連絡を依頼した日本語メモは内山宛のもの。弟の周作人(1885-1967)も近代中国の大知識人。そして日本占領下の上海に彗星のごとく現れたのが張愛玲(1920-1995)。魯迅の後継者として戦時を生き延び、戦後1955年からアメリカに移住。人民共和国体制下で1952年以来禁書の扱いが、85年に解かれ、中国のアイデンティティを与える書としてブームを生んだ。(第4章)
林献堂(1881-1956) 台湾にあって15歳までは大清国の統治下、65歳までは日本の統治下、その後は中華民国の統治を経験。林家は福建省から1754年に台湾に移住して開拓。日本統治下では公務にもつき、農、商業経営の職務を尽くす一方、非武装抗日運動としての民族運動に身をおき、戦後も日華親善を主張。1949年渡日し、望郷の念を持ちつつ日本で死去。蔡培火(1889-1983)は林献堂の援助のもと民族運動を進めるが、戦後二人は疎遠に。帰台の説得に林は「法律もなく殺生与奪は蒋介石に握られている。帰台すれば籠の中の鶏同然だ」と答えたという。(第5章)
カルティニ(1879-1904)インドネシア女性解放運動の先駆け。ジャワの家父長制慣習打破や平和運動への共感も訴えている。基底に地場産業振興活動があり、木彫工芸振興に尽くしたという。これは、ネグリ・ハートの「アセンブリ」にも通じることで、震災復興とも同じ視線を持つと感じた。(第6章)
カマラーデーヴィー・チャトパディヤーイ(1903-1988)アメリカからの帰国途上、1941年4月5月、日本で遊説し「家族国家建設はアジア人にとって荒唐無稽で、日本の唱えるアジア新秩序は家父長的帝国主義」と切り捨てた。1944年全インド女性会議議長に選出され、カーストの階級闘争とも連帯。1952年全インド手工芸委員会の議長として伝統工芸の収集と存続に尽力。(第7章)
オリガ・レベヂェヴァ(1854-1912)ロシア連邦タタールスタン共和国の首都カザンで生まれたロシア貴族の娘。タタール語、オスマン・トルコ語の学びを通してムスリム女性の啓蒙・解放に展開。プーシキンやトルストイの翻訳を通してイスラム的男女平等論を説く。(第8章)
アブヂュルシト・イブラヒム(1857-1944)韃靼の志士としてイスラム世界を巡り、日本にも来て夏目漱石、大隈重信、犬養毅、徳富蘇峰らにも面会し、ユーラシアのイスラム世界を夢見た男。1944年8月東京で没。1933年来日時には「ムスリムは日本と日本人に目を向けるべきである。道徳と倫理を重んじ、満洲や日本に住むムスリムに支援を惜しまず、ボルシェビキの非人道的政策に終止符を。来るべき戦争においては日本人とともに戦わねばならない」との言葉を残している。こんな人間がいたとは、想像すらできなかった。(第9章)
ドースト・ムハンマド(1793-1963)アフガニスタンの国造りに周辺国とせめぎあい、一時はほぼ統一。「私たちのもとには多くの男と岩がある。他には何もない」の言葉を残した。王位継承の争いでの敗者はブハラ(当時ロシア領トルキスタン)やサマルカンドに逃げたという。これは、日本で明治が始まった時代。その後20世紀になっても、列強に翻弄され続けている。その後、アブドゥッラフマーン・ハーン(1844-1901)や息子でサマルカンド生まれのハビーブッラー・ハーン(1872-1919)も、ロシアの影響下で国造りに尽くすが、暗殺される。アマーヌッラー・ハーン(1892-1960)は第三次アフガ二スタン戦争を経て独立を宣言した(1919年)。その後も国を混乱させたのは、イギリスやソ連などである。(第10章)
モンゴルの独立運動は、清朝統治から抜けてジェブツンダムバ・ホトクト8世(1869-1924)から始まる。外モンゴルには、その後、エルベグドルジ・リンチノ(1888-1936)がモンゴル人民国家に向けて登場する。仏教、ソビエトの影響が複雑にからむ。(第11章)
サアド・ザグルール(1858-1927)は、イギリスからエジプトの独立の立役者。1923年に憲法を制定し立憲政治を実現した。1922年2月28日にアレンビー高等弁務官はエジプト王国の独立を一方的に宣言したが、イギリスの影響下に置く体制は変わらず、アメリカと沖縄の関係を連想させる。
トマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)「アラビアのロレンス」は、アラブに潜入しアラブの独立国作りに貢献するも、パリ講和会議ではあいまいなままにされ、イギリスの実質支配の残る結末となり、ロレンスの努力が報われるかたちにはならなかった。(第12章)
マラク・ヒフニー・ナースィフ(1886-1918)は、エジプトでのフェミニズムの論考を展開した。ナバウィーヤ・ムーサ―(1886-1951)やフダー・シャアラーウィー(1879-2947)らがその活動を続けて行ったことが今日にもつながっている。(第13章)
後藤新平(1857-1929)は、水沢出身で、医術開業免状から始まり、日本、台湾、満洲の国作りへの貢献がすさまじい。金儲けのためということでなしに、鉄道や発電、衛生のまちづくりを推進した。それが関東地震後の都市計画への試金石ともなったが、そう簡単に実現はできなかった。晩年は国民がもつべき自治の精神を説き、政治の倫理化運動を展開した。
原敬(1856-1921)は盛岡出身。外務省に入るが外相の大隈を嫌って下野、1897年大阪毎日新聞入社。1900年伊藤博文、井上馨の勧めで政友会に入る。普通選挙制度には否定的、授爵には辞退。政党嫌いの後藤と対極的なリアリスト政治家。本多清六(1866-1952)は、日本初の林学博士で日比谷公園の設計者。震災復興にあたり、後藤にバルセロナの都市計画を語る。国立公園運動を展開。(第14章)
夏目漱石(1867-1916)を、社会を見る目として取り上げている。日本が外発的に西洋を模倣し、「西洋の理想」に対して「争って奴隷たらんとする」ことを「進歩」とみなしていると見抜いていた。二葉亭四迷(1864-1909)については、「失敗」の人生を通じて近代日本文芸に「先駆者」としての足跡を残したという。朝日新聞ロシア特派員から病を得て帰国途中にベンガル湾で客死。また幸徳秋水(1871-1911)は、漱石や二葉亭、啄木が煩悶の中で生きざるを得なかった「時代閉塞」の歴史の断頭台に捧げた「生贄」だったという。「社会主義神髄」(1903)において、レーニンより前に世界で初めて帝国主義の暗黒をあぶりだした先見性を認められるという。(第15章)
柳田国男(1875-1962)は農政官僚として地方視察の末に民俗学を提唱することとなった。戦後も日本国憲法の審議にも参画、初等・中等教育の教科書作りでも陣頭指揮を執った。和歌山の奇才、南方熊楠(1867-1941)については、ニュージーランドのカンタベリー大学図書案で全集(1971年刊)に触れたことを思い出すが、その存在が、民俗学、博物学、運動家としての評価を高めたという。渋沢敬三(1896-1963)は、渋沢栄一の長男で、南方熊楠全集を編集(1951年)、柳田国男、折口信夫の個性の強い民俗学者の調整役も果たし、宮本常一の支援もしている。敗戦前に「戦争の責任を負うべき資本家は自分も含めて没落する」と言っていた現実を受け入れた。(第16章)
吉野作造(1878-1933)は、社会主義、自由主義、国粋主義の交差点に位置し、大正デモクラシー期の歴史的検証に欠かせない人物という。」宮城県志田郡出身。中国への21か条要求に対する態度を見ると、かつての福沢諭吉が東アジア諸国の自力改革を見限った論理と類似するという。民本主義という意味で普通選挙を主張する点は、皇室中心主義の徳富蘇峰が「国民の力」を基礎とするという考えと通じているともいう。弟の革新官僚である吉野信次も取り上げていて、井上ひさしの戯曲「兄おおうと」を紹介しているのも、一興である。石橋湛山(1884-1973)を吉野作造とともに欠かせない民主主義の人物として挙げている。第一次大戦参戦への反対、ロシア革命のレーニン政権容認、と言った言動が戦後も一貫し、1956年総理大臣を一時務めるまでになった。小学生であったが、隣の不良っぽい中学生が石橋湛山を評価していたようなことを何となく覚えている。(第17章)
与謝野晶子(1978-1942)、平塚らいてう(1886-1971)、山川菊栄(1890-1980)、市川房江(1893-1981)、高群逸枝(1894-1964)を取り上げている。女性の自我の開放を近代日本で謳い上げた人々である。(第18章)
伊波月城(1880-1945)は明治期沖縄の新人世代の言論人。内村鑑三訳のイタリア宗教改革の先駆者サボナローラの詩を、沖縄社会の実態とみて生き方を問う。日露戦争を帝国主義戦争として非戦を唱える内村鑑三や幸徳秋水を継承し、辛亥革命(1911年)の孫文の檄文を「沖縄毎日」で取り上げ共鳴している。大国に虐げられた琉球、沖縄の歴史の証言者として大正デモクラシーの一翼を担っていた。兄の伊波普猷(1876-1947)も沖縄研究の創始者、啓蒙的社会思想家として取り上げている。(第19章)
大文字で取り上げられた人物について、記憶に留めたい部分のメモであるが、これだけの多くの数となってしまった。日本が近代国家としての歩みの中で、日本も含むアジアの思想家の100年前の声は、親の時代の声でもあり、現在も国と国がぶつかり合い、駆け引きを仕組んでいる中で、学ぶべき多くの先人の存在を改めて教えられる。


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