「地域からつくる内発的発展論と東北学」赤坂憲雄・鶴見和子 に思う

昨年6月に、鶴見和子と川勝平太の対談を読んでいろいろ触発されたが、今回は赤坂憲雄との対談である。きっかけは、NHKラジオ深夜便の「私の人生手帖」(2月26日)に赤坂憲雄が登場し、東北学について語っていたこと。
対談は3回行われている。最後の対談は2006年4月でその3か月後に鶴見は亡くなっており、赤坂が今も「東北学」として展開している3・11以後の課題は、鶴見との対談から何を引き出すかであるが、その意味で本書の中でも、赤坂は、自分が語りすぎた、鶴見にもっと語らせるべきだったと反省している。朝日新聞の追悼文に「グローバリズムの専制に向けてのもっとも優れた抵抗の思想」(p.38)書いているその思想を、自分の東北学の中でさらに発展させたいということだ。
きっかけは、柳田国男であり、柳田の見た東北の稲作は歴史の浅い新風景に過ぎないという指摘である。そこに宮沢賢治の「注文の多い料理店」も登場する。ちょうど稗から稲への転換の時代だったという。(p.46) さらに続けて、今や東北はかつてほど貧しくない。ただそこで、「生業とか経済的なものと自然環境とが寸断されている地域で、どうやって発想を立て直して、内発的な力をくみ上げることができるのか」と問いかける。(p.71)貧しくはなくとも格差の広がっている社会で「ほんとうの化的な豊かさは何かという、指標がつくれない」(p.74)と、鶴見も言う。
東北がさまざまな文化の融合体になっているということを見て来た赤坂は、仙台や会津でも大きすぎる、「字か大字ぐらいのレベルの「〇〇物語」をシリーズ化してみようか」(p.119)というが、まさに唐丹についてこの10年で得た知識は、地域の内発的発展の基礎となると心得た。葛西昌丕、柴琢治、鈴木東民の足跡が繋がり、さらにその前の歴史が見えてくると良いのだが。
遠野物語がある意味、東北学でも原点になっているものの、柳田の短絡的な日本=稲作文化を批判するところでは、二人とも共鳴し、鶴見は「東北の発展モデルを創ってください」(p.174)と山形のセミナー(1995年)の講演で、結論を言う。鶴見の曼陀羅は南方熊楠の発展形であるが、赤坂は「その南方の自然の対し方って宮沢賢治にやっぱり似ているかなという思いがしますね」(p.198)という。その時からは3・11の段階で16年、今やすでに27年も経っているのだから、東北学も完成の域に近づいていると考えてよかろう。次は、「東北学」を読まねばなるまい。
核心は鶴見の論考タイトルのひとつ「われらのうちなる原始人」であり、柳田の歴史意識の「つららモデル」の解釈である。原始―古代―中世―近代と言った時代区分は西洋社会の分析モデルに過ぎない。共同体が異文化との出会いを通して、創造性が生まれる。それを繰り返して来たのが東北の各地域の姿だと分析する。まさしく、農村、漁村といった数百人規模の共同体の中に、今、都会からの人種の流入が新しい東北を創っていくと考えると希望が湧いてくるのである。

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