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「軍都」を生きる―霞ヶ浦の生活史1919-1968-(清水亮著)に思う

読み始めたきっかけが面白い。読売新聞の日曜の書評に見つけた著者の清水亮。東大卒で社会学者ということから、てっきり東大の新領域創成科学研究科時代の同僚、清水亮准教授だと思って読み始めたのであるが、著者の研究のスタートが2010年以降ということから、いままで大学ではこの種のテーマは登場しなかったと納得して読み進めたものの、ついに、エピローグに著者の写真も現れ、明らかに別人と判明。1991年生まれというのだから当然で、後から考えると、なぜもっと早く気付かなかったか、不思議なものだ。
特攻隊の話は、鹿児島の知覧が有名であるが、「若い血潮の予科練の」で始まる歌に登場するのは、そういえば「霞ヶ浦」である。子どものころは、戦後まもないときに、けっこう軍歌を歌ったり、てまり歌でも日露戦争が登場したりと、無邪気なものだった。そんな、社会のまちの連続性が、1919年から1968年の半世紀には綴られているのだった。奇しくも、1919年は母の生まれ年である。
日本が第1次世界大戦で、戦勝国側にあって、これから軍備も拡大し、海軍航空隊を増強していくというときに、霞ヶ浦に面する阿見村が選ばれて、1920年代に一気に軍のまち「軍都」に変化していく。太平洋戦争が始まるまでは、いきなりの歓楽街や、派手な狼藉もあっても大目に見られ、あるいはかっこいい海軍兵にあこがれる農家の娘も少なくなかった。予科練が横須賀では手狭になり、阿見村にやってきたのは1939年である。14歳から17歳の青年が訓練を受けて特攻隊として死に向かって飛ぶ。人間とは、まことに恐ろしいことを考えるものである。
まちとしては、下宿や貸間など、兵隊さんの休みのときのくつろぎを提供する。花街などは、未成年の予科練生が来るようになって、阿見村から土浦市に移ったという配慮もあった。村としては、経済的にも人的にも、まさに海軍におんぶにだっこという状況で、終戦を迎えた。
幸いというべきか、ごく自然というべきか、自衛隊駐屯地を迎えることになった阿見町である。5章には、自衛隊の広報の様子も書かれているし、1968年は、1954年の武器補給処が開所したときから阿見町の人口は倍増しているという。(p.143)まさに全共闘が反安保やベトナム戦争反対で政治的にも過激だったとき。阿見町は静かに自衛隊と共存するまちになって行った。自衛隊にいた中川さんの言葉として「驚くほど戦時中と瓜二つの光景があった」と語られている。(p.147)「基地と地域との「平凡」な”共演“のなかで、本質的にはハードで硬い軍隊は、ソフトに柔らかくイメージされ、日常生活に溶け込んでいったのである。」(p.192)
著者が、大学3年生のときに、出来たばかりの予科練平和祈念館に、緊張感と好奇心をもって訪れ、その後、郷土史家たちと多くの言葉を交わしたのち生まれた本である。エピローグの「現地へ足を運んで下さい」を読む前に、まちを見ておきたいと思った。風の強い日だった。実際は、鉄条網という無粋な塀に囲まれた自衛隊の駐屯地、公園の中の記念館のほかは、まちは、どこにでもある田舎のまちである。旧海軍通りにある、戦前からの桜の木が葉桜になっていた。お昼は、まち外れの花室川沿いの「魚祐」という店に入った。店主は祖父からの3代目で、戦前からの店だという。


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