「アジアの人物史12アジアの世紀へ」読後レポート

アジアの人物史も、1年半読んできて、とうとう最終巻になった。自分の生きてきた時代が語られる。子どものころ、あるいは、社会人になってからも、表面的に時代の流れの中で泳いでいたものの、近隣で、どんな人物が社会に影響を与えていたのかを、いまさらになって新鮮に知らされたという次第である。12巻の登場人物は、両親の世代の人物が中心であり、歴史が今に繋がっていることを強く意識させられる。
第1章 朝鮮戦争では、何と言っても1950年に開始された戦争が、いまだ収束していない事実を明らかにしている。その遠因は、日本が、7月26日のポツダム宣言の受諾に手間取っていたから。直ちに受諾していたら、広島・長崎の原爆もなかったし、ソ連の参戦もなかった。そうなると朝鮮は1つの国のままに日本同様の占領下に置かれたのだろうか。逆に終戦がもっと遅れていたら、日本も北と南2つの国に引き裂かれていたかもしれない。始まりは、ソ連の参戦を前提として手を出した金日成(1912-94)の北朝鮮による戦争で、一時は李承晩(1875-1965)の韓国軍は、1か月あまりで、朝鮮半島南端まで追い込まれた。しかし、アメリカ軍の反攻著しく、空爆の様子は、今のウクライナにおけるソ連と変わりない。その時、日本から出撃した仁川上陸作戦の海兵隊の4分の3は日本人船員が運んだという。(p.29) 一時は平壌を越え鴨緑江に達したのが、今度は、中国人民志願軍の反撃により押し戻され、38°線付近での膠着状態となって、1951年10月板門店において休戦協定への段取りいうことになった。実際に調印されたのは、1953年7月27日であった。第3次世界大戦が回避されたということであるが、ベトナムやドイツと異なり、まだ統一は見えない。
第2章は、韓国である。李承晩政権末期は、政権と軍幹部との対立があった。1961年5.16軍事クーデタで、政権を奪取した朴正熙(1917-79)は、1979年会食時に、部下の銃弾に倒れた。戒厳令下で、やはりクーデタで政権を取ったのは全斗煥(1931-2021)。その後民主化への足取りは大変なものであった。金大中(1924-2009)が、朴政権下の中央情報部により、九段のホテル・グランドパレスから拉致されたのは、1973年8月である。あわや海に投げ込まれる寸前に、飛行機の爆音が聞こえ(事実は未確定)、命が救われ、5日後に自宅近くで解放されたという。(p.77) 1980年の「ソウルの春」の民主化運動の高まりを押さえようとしたのは全斗煥で、金大中は死刑宣告を受けたものの、支援運動の世界規模の展開から、無期懲役に減刑、そして2年後に釈放となり、アメリカ亡命生活を送った。1987年ソウル大生の拷問死をきっかけに市民の声の高まりが、盧泰愚(1932-2021)大統領に民主化宣言を出させることとなった。1992年は金永三(1927-2015)に大統領選で敗れ、一時は政界から引退したものの、1995年政界復帰を果たし、1997年73歳で、第15代大統領に選出された。金融、企業、公共、労働の改革を謳ったが、大宇グループは解体されたのに対し、三星グループが巨大化した。(p.91) 文益煥(1918-94)は、1970年代後半から民主化、平和統一運動に向けて精力的な活動を行ったというが、金大中の自伝の中でも「分断国家の良心であり、知性として、熾烈に生きた」(p.122)と評されている。廬武鉉(1946-2009)は、建設現場を知る大統領であり、2007年には、わが国の建築基本法制定の動きも影響を与える形で、建築基本法をトップダウンで制定した。退任後、不正献金疑惑もあり、自宅の裏山で投身自殺をした。金大中は自伝で「検察のやりすぎ」を批判している。その検察を指揮した李明博(1941-)は、現代建設の出身で、ソウル中心の清渓川の復元など都市整備の成果を残している。
第3章は、中国の動向で、鄧小平(1904-97)を中心に語られる。フランス留学のマルクス主義者という経歴をもつ。文革の後、73年中央軍事委員会、中央政治局委員として指導層復帰している。その後の経済発展を指導し、社会主義国における格差拡大を一時的には容認した。(p.165)1989年の天安門事件に対しては断固とした態度で乗り切り、経済特区を育てて発展のレールに引き戻した。台湾の生んだアジアの歌姫テレサ・テン(1953-95)の数奇な運命も語られる。江沢民(1926-2022)は、鄧小平の後継者としての役割を担ったが、引退後人気が出たという。ゼロコロナ政策に反発する「白紙運動」の広がりの中での死去は、習近平指導部への最後の冷や水という。(p.197)
第4章は、台湾である。李登輝(1923-2020)の果たした大きな役割が記される。59歳のときに、32歳の長男を癌で亡くしている。(p.219) 中華民国の主権をどのようにして図るのかは、難しい問題であるが、1999年9月の集々地震への迅速対応や、後の総統を務める蔡英文(1956-)を、アカデミックな立場から国際対応に当たらせたり、総統退任後も2014年3月の「ひまわり学生運動」を受け止める態度を示すなど、生涯現役の実践家とされる。蒋経国(1920-86)は、蒋介石の長男でモスクワの留学体験、ロシア人妻という経歴もあって、戦後の混乱期を乗り越え「本土化」政策への役割を果たした。1978年には中華民国総統に就任し、86年の死後、李登輝に引き継がれる。
第5章では、ブルース・リー(1940-73)の生涯が、今も「生きている」香港のヒーローとして語られる。サンフランシスコ生まれで、ハリウッドでの苦闘と挫折もあり、カンフー映画で酷使した体は、32歳という若さで逝ってしまったが、今も香港の人々の心には「be water」という言葉とともに、ヒーローとして残っている。
第6章は、チベットで、ダライ・ラマ14世(1935-)とその家族が語られる。1959年3月ラサでの武力衝突に先立って、家族と共に脱出し、亡命先のインドでチベット独立を訴えた。(p.298) 1989年ノーベル平和賞を授与され、国際認知は進むものの、中国からの名ばかりの自治から、状況は変わっていない。長兄のトゥプテン・ジグメ・ノルブ(1922-2008)は、独立の実現を主張し続けた人物、次兄のギャロ・トゥンドゥブ(1928-)は、チベット・中国間の対話・交渉に貢献した人物という。
第7章は、東南アジアで、冷戦下にあって権威主義的独裁体制を成立させた人物が紹介される。ホー・チ・ミン(1890-1865)は、フランス仕込みのベトナム共産党の創始者で、ベトナム民主共和国の国家主席、政府首相などを務めた。ノロドム・シハヌーク(1922-2012)は1941年にはカンボジア国王に即位しているが、1953年11月フランスからの独立を宣言、1955年の総選挙では、警察によって他党のキャンペーンが妨害され、全議席を獲得して体制を確立した。1970年ロン・ノル(1913-85)によるクーデタで失脚。ポル・ポト(1925-98)率いる共産党がシハヌークに呼応して内戦状態となるが、1993年立憲君主国となり、シハヌーク国王が復活した。
タイの軍人サリット・タナラット(1908-63)は、1957年クーデタにより、10年間の権力闘争を勝ち抜いて立憲民主主義を否定し君主制を取った。シンガポールではリー・クアンユー(1923-2015)が都市国家を反映に導き、開発の父と呼ばれている。マレーシアはマハティール・モハマド(1925-)、フィリピンではフェルナンド・マルコス(1917-89)、インドネシアではスハルト(1921-2008)が、冷戦期に「開発独裁」として国を治めた。ビルマ、ラオス、東ティモールなどは、武装闘争を経験し、あるいはまだ継続している。
第8章では、ベトナム戦争を人物史から見る。レ・ズアン(1907-86)は1960年にベトナム労働党第一書記に選出される。ベトナム戦争終結後も亡くなるまで書記長を務めた。ゴ・ディン・ジェム(1901-63)は、アメリカの援助もあって1955年、ベトナム共和国大統領に就任した。1963年クーデタで殺害されたが、アメリカの関与があったといわれる。(p.466) 北ベトナム総司令官ヴォー・グエン・ザップ(1911-2013)や、ベトナム民主共和国(北ベトナム)特別顧問として、アメリカ大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャー(1923-2023)との秘密会議による停戦交渉をすすめたレ・ドゥック・ト(1911-90)ら大勢の人物が登場する。
第9章はインド。ジャワーハルラール・ネルー(1889-1964)は、ガンディーとの出会いから独立運動に参加、1947年印パ分離の形で独立を達成した。1970年代までの低成長の原因をライセンス・ラージと揶揄された国家による経済介入に求める学説もあれば、現在の経済成長の基礎をつくったのがネルーの経済政策との学説もある(p.554)という。74歳で大動脈解離で死亡し、遺骨はカシミールに空中散布されたという。(p.557) その娘インディラ・ガンディー(1917-84)は、1966年から77年、80年から84年まで首相を務めるが、66歳で護衛をしていたスィク教徒に暗殺された。ポピュリスト指導者の草分けとの評価もある。(p.577) ラージ―ヴ・ガンディー(1944-91)は、インディラの長男で、母の暗殺に伴い、後継首相を務めるが、46歳の若さで暗殺される。結果として、現在のヒンドゥー至上主義の隆盛を招いた(p.581)、と分析される。
第10章はアフガニスタン。1973年クーデタにより「アフガニスタン共和国」が誕生するが、ソ連の圧力、パキスタンとの関係などから、イスラム復興のムスリム運動は内戦状態を招いた。ラッバーニー(1940-2011)やヘクマティヤール(1949ー)らは、エジプトを拠点にイスラーム研究会で、アフガニスタンのあり方を模索した。マウデゥーディー(1903-79)は南インド生まれであるが、「イスラームによるジハード」を呼びかけ、1941年にイスラム党を結成し、アラビア世界に思想を広めた。ヘクマティヤールの「アメリカはソ連との冷戦のためにムスリムを利用したに過ぎず、ジハードを支援したのではない」との批判が、ウサーマ・ビン・ラーディンらの反米ジハードにつながっていったという(p.620)。1994年の治安回復を求める運動を指導したのが、ムッラー・ムハンマド・ウマル(1960-2013)である。タリバーンと呼ばれ、1996年カーブルを制圧し暫定政権を樹立した。ウサーマ・ビン・ラーディン(1957-2011)は、名前を見出しに取り上げられておらず、記述も1ページ程度である。「アル・カイーダ」を結成、9.11同時多発テロを引き起こしたとされるが、タリバーン政権はアメリカに身柄引き渡しを拒否した。(中村哲医師のペシャワール会がコラムで紹介されている(p.626))タリバーン政権は崩壊し、ビン・ラディーンも米軍特殊部隊に殺害された。ラッバーニーは自爆テロで殺害され、ヘクマティヤールは2017年にアフガニスタンに戻ってタリバンに和解を求めた。2021年タリバーンがカーブルを制圧し新政権樹立で、戦争状態は幕を下ろしそうという。もう一人のイスラム学者としてヒンドゥスターニー(1892-1989)が紹介されている。帝政ロシア時代のフェルガナに生まれブハラで学び、タシュケントにも一時滞在し、アフガニスタンでは裁判官も務めている。タジキスタンに97歳で没した際は、タジキスタンとウズベキスタンから数万人が葬儀に参列したという。
第11章は、終始大国支配に抵抗するイラン。ホメーニー(1902-89)は、中流階層の家庭に生まれたが、生後5か月のときに、父親は仲間に銃弾で殺害された。石油収入で潤沢なシャー権力であったが、パリからの遠隔操作で抗議運動は盛り上がり1979年1月シャーは国外退去、革命指導者ホメーニーは2月に300万市民の歓喜の中で凱旋帰国した。筆者は、1976年から79年3月まではエディンバラ大学留学中で、イラン人学生も居たように記憶するが、論文の仕上げと長男の誕生もあり、イランのニュースもきわめてぼんやりしたものでしかない。その後の米国大使館占拠事件もホメイニーの熱烈支持学生によるものであり、またイラン・イラク戦争もペルシア対アラブの民族対立やシーア派対スンナ派の宗教対立というよりは、ホメーニーの「イスラーム革命輸出」を訴えるイランとそれに怯える周辺国との戦争であるという。(p.675) 今も基本的にはホメーニーの弟子たちがイランを治めているということのようだ。
第12章はエジプト。こちらもイギリスの権益からの独立をかけた闘争が勢いを増す中、1952年7月23日の革命でナセル(1918-70)は中心的役割を果たす。アラブ革命は、ソ連の水爆実験があったことから、アメリカの側面支援もあったりして、幸運な船出(p.716)をするが、1967年第3次中東戦争の敗北あたりから陰りを見せ、イスラエルに制空権を奪われ「消耗戦争」の中で経済的にも疲弊した。ナセルの死後、第3代大統領となったアンワル・サダト(1918-81)は、自叙伝で、革命に至った自由将校団を組織したのは、自分であるが、投獄されている間にスーダンから帰国したナセルに主導権を握られたという。(p.733) 同じ年に生まれた2人は目標は同じでも、ライバル意識が死ぬまで付いてまわったのであろうか。
第13章では、パレスチナ解放を目指した指導者として、カイロ生まれのヤセル・アラファト(1929-2004)が登場する。1950年代はナセル大統領と共闘したが、第3次中東戦争でアラブ側が敗北し、PFLPを設立、1970年代にはパレスチナ解放闘争を展開した。1993年クリントン大統領仲介のもとパレスチナ代表アラファトは、イスラエルとの自治原則を結んだものの、少しずつ独裁色を強め「晩節を汚す」ことになったと分析する。(p.779)
第14章は戦後の日本。石坂泰三(1886-1975)を経済発展モデルの中心人物として扱っている。東芝争議に象徴されるように、労使協調路線が生産性向上の功を奏したと分析する。土光敏夫(1896-1988)、盛田昭夫(1921-99)、松下幸之助(1894-1989)、本田宗一郎(1906-91)、中内功(1922-2005)、稲山嘉寛(1904-87)らは、小項目として取り上げられている。
第15章は、野坂参三(1892-1993)と宮本顕治(1908-2007)を取り上げ、戦前、戦後を通してのソ連との関係、戦後の日本共産党における位置、立場が解説される。
第16章は、戦間期の協調的帝国主義に郷愁を抱く保守政治家、吉田茂(1878-1967)と戦時動員体制の革新官僚の代表格で国家主義的な政治家、岸信介(1896-1987)を戦前戦後の橋渡し役としてとりげている。1944年7月サイパン陥落のころから岸は東条と袂を分かち、東条内閣瓦解のきっかけをつくったといい、それがA級戦犯容疑から救う「アリバイ証明」につながったという。(p.849)
第17章は戦後民主主義の思想家として丸山真雄(1914-96)を中心において人物を辿る。東京裁判の戦争遂行における共同謀議に関して、丸山は「非計画性こそが共同謀議を推進せしめていった」と言う。(p.889) このことは、今日の行政の法律の運用や管理についてもあてはまり、誰も責任意識をもたずに状況を変えようとしないことに通じるようにさえ感じた。丸山の主要敵は天皇制とマルクス主義と公言していたというが、むしろ、欲望充足以外の思想的機軸などないまま、責任ある主体を確立することなしに一種の安定性を獲得していったことへの異議申し立ての陳腐化から、政治的発言を封印したのではないかと分析している。(p.896) アカデミアとジャーナリズムにまたがる旺盛な活動を展開した清水幾太郎(1907-88)、魯迅論から毛沢東論まで独自に展開した竹内好(1920-77)、「思想の科学」を主宰した鶴見俊輔(1922-2015)、安保闘争で丸山真雄批判を展開した吉本隆明(1924-2012)らが登場するが、今日も続く日米安保問題を戦後の課題として論じ、行動した人たちである。
第18章では、日本文化として世界に広がっている漫画史が扱われている。第一人者としては水木しげる(1922-2015)で、ラバウルの戦争体験、日本文化における妖怪と民俗学まで論じている。手塚治虫(1928-89)は、時代の流れをつくった人として語られている。民俗学つながりで南方熊楠(1867-1941)も登場するのがおもしろい。
第19章でアイヌ、第20章で沖縄を舞台に、アジアの人物史は終わる。アイヌでは、若くして逝った知里幸恵(1903‐22)と違星北斗(1902-29)が残したアイヌの語り、それを文化継承の形で活動した萱野茂(1926-2006)が紹介される。沖縄では、大田昌秀(1925-2017)が人権闘争としての運動を展開、知事政治家として、学者思想家として行動で示した。
20世紀を生きた人物の思想や行動は、まさに今の社会の規範となっている。戦後の平和憲法の下で経済成長を遂げ、これからどのような社会が展開するのか。気候危機や格差問題、ウクライナ、ガザの戦争の現実が、親世代の、ここに登場した人物との距離の近さを、改めて痛感するのである。
 
 
 
 
 
 

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