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都市に緑地を

これは、石川幹子著「都市と緑地」(岩波書店)の読後感である。それでも、なるべく自分の言葉で書いてみたくて、「都市に緑地を」とした。拙著「小さな声からはじまる建築思想」の中で、参考文献として宇沢弘文だけ「社会的共通資本」と「経済学と人間の心」の2冊を上げているのだが、後者に改めて目を通したところ、1章を割いて「都市と緑地」を紹介していることを知り、さっそく手に入れたら、なんと、2001年1月刊行なのに、2014年12月に9刷りが出ているのだ。第6章が「社会的共通資本としての緑地」で、あとがきには2014年9月に亡くなられた宇沢弘文の追悼も述べている。
石川幹子を初めて知ったのは、2008年の四川地震復興支援に東大の都市工の学生を大勢連れて行って乗り込んだ話をご本人から聞いたとき。次は、東日本大震災直後に、ご実家のある閖上地区での震災復興でのご活躍、その後の岩沼市復興まちづくりの成果だ。秋山宏先生を囲む少人数の会でご一緒したときもあるのに、「都市と緑地」のことは知らなかった。秋山先生が、東大を退職する前後から、大学でも建築学会でも、都市問題に取り組んでいたこととつながったのである。
ニューヨークのセントラルパーク、ロンドンのハイドパークのスケールが、東京の日比谷公園とあまりに違うことは誰も知るところであるが、このことが、今われわれにわかりやすく課題を示してくれていると思えるのだ。
とても丁寧に、近代都市における緑地形成を整理して記述している。アメリカのランドスケープ・アーキテクチュアの発祥のハーバード大学で学び膨大な資料を検証して学位論文にまとめ本書が出来たとある。ニューヨークだけではない。シカゴもボストンもミネアポリスもカンザスシティもワシントンも、それぞれ地域の条件の違いはあっても、都市に人が住み、その営みがある以上は、緑地が必要であることについての理念と実践が見られるのだ。アイデアの原点には、エベネザー・ハワードの田園都市論であり、1903年設立のレッチワースであり、それがアメリカでは大都市のパークシステムとして展開したものである。
明治の日本も大正の日本も昭和の日本も、そのことは十分に学んでいて、緑地を配した都市計画の提案もなされていながら、アメリカで8割9割達成させていることが、日本では1割も出来ていないという現状である。昨年8月の東京都の都市計画マスタープランの案に対して意見を述べたが、緑地を拡充するという姿勢はほとんど見られない。その町に住んでいる人間が発信し、行動しなくてはいけない。日本で達成できていない理由はそこにある。
大田区でも、200haに及ぶ羽田空港跡地を明治神宮の森にする可能性があったのに、結局大部分が官民連携の資本による開発が優先し、今わずかに残された公園のアイデアはないか、区民に投げかけているが、なんと2haである。上野の森を明治時代から大規模な緑地としてパークシステムをお手本にしていたはずなのに、例外規定を作って東京文化会館を建てた。今また、田園調布のせせらぎ公園にまだ使える建物を壊して、木を切ってせせらぎ会館を建てた。少ししかない都市内の緑が、このまま行くとまだまだ縮小されてしまう。
庭のある家のためには敷地が大きくないと無理で、今の経済の仕組みからは、木造3階建か高層マンションかという選択肢しかないことを、しょうがないとあきらめてしまいがちである。一方で、東京の人口も遠からず減少する。空地空き家は今以上に増える。関東大震災後にも、戦災後にも、東京に緑地をと描かれた計画は、いつの間にか建築基準法で保障された自分の土地には建物を建てる権利があるという経済原理の発展が、緑地を削っていることに気づいていない。あるいは、気づいていてもしかたないと諦めている。そして息詰まる暮らしを強いているのだ。
緑は、絶対的に善である。緑地を削るようなことは、この東京で許されない。しかし、それを保全するには、それなりの工夫と努力が必要であることも「都市と緑地」は教えてくれる。コロナ禍をまさに転換点として、都市を健全な姿にすることが、建築関係者、都市計画関係者の責任である。

おまけの話。表紙の写真を見て、没になった新聞投稿を思い出した。ホテルニューオータニの敷地に、ニューオータニガーデンタワーに加えて、今のガーデンコートが計画されたことを知り、景観問題からも緑が減ることからもおかしいという問題提起を投書したのであるが、一部書き換えて、一度OKと言われたのに、結局載らずに、西山夘三の類似の投稿に差し替えられ没となり、3か月後にお詫びの1000円が送られてきたことがあった。1989年のことだったと思う。ある意味で本質をついていたということだったのかと、思い出した。

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