ミシェル・フーコー「言葉と物」(渡辺一民・佐々木明訳)心覚え

2か月以上かかってようやく最後まだたどり着いた。読んで理解したというには程遠いので、少し気づいたことだけでもメモにしておく。
カラー挿絵の「侍女たち」は、マドリッドのプラド美術館でしっかり眺めた印象に残る作品の一つ。その前に、バルセロナのピカソ美術館で、若いピカソがこのベラスケスの名画からさんざん学んだ様子を見ていたこともある。改めて解説され、直接表現されたもの、裏に隠されたもの、たまたま現れたものなどの役割の考察が本書の第1章になっている。
記号、言説、言語、言葉、意味作用などの語になじむのに、時間がかかる。気になったフレーズを上げておく。
第3章「表象すること」では、「書かれたものと物とは、たがいにもう似てはいない。ドン・キホーテは、この二つのもののあいだをあてでなくさまよいつづけるのだ。」(p.76)「この広大な自然の内部に、人間の本性という独異かつ複雑な小分野が分離された」(p.101)《マテシス》(学の統一)、《タクシノミア》(分類学)、《エピステーメー》(知識)も頻繁に登場する。そして「《タクシノミア》は、同一性と相違性を扱うものであり、分節化と分類階級の学、《諸存在》に関する学なのである。」(p.104)
第4章「語ること」では「おのれの判断に規則を設ける、それが論理学だ。おのれの言説に規則を設ける、それが文法だ。おのれの欲望に規則を設ける、それが道徳だ。(p.117)「アルファベット文字は、表象の図示を断念することにより、理性そのものにとって有効な規則を音の分析に移入する。」(p.147) 18、19世紀を思い浮かべて、漢字文化の日本は浮世絵など絵画に優れ、表音文字文化のヨーロッパがクラシック音楽に優れることと関係あるかと思ったり。
第5章は「分類すること」で博物学について、17、18世紀の古典主義が登場する。ベーコン、デカルト、リンネ、ニュートン、ヒューム、カントまで。第6章は「交換すること」で富の分析について解説される。「貨幣と価格の理論は、富の分析において、博物学における特徴の理論と同一の位置を占める。」(p.244)は、少々無理があるのではないかと思う。「古典主義の知の対象が解体するところにいまや新たな哲学的空間が開けつつある。」(p.248)として時代が変わり第1部が終わる。
第7章「表象の限界」からが第2部。まずは、アダム・スミスからで「交換の動機と交換されうるものの尺度とを、また、交換されるものの性質とそのものの分解を可能にする単位とを、それぞれ区別するのである。」(p.267)
第8章で、「労働、生命、言語」という学の古典主義からの質的変革が解説される。労働は、スミスからラマルクへ、生物はリカードからキュヴィエへ。「生命を維持しているにちがいないある種の力と死をもって生命を罰するようなある種の脅威とをあきらかにした」(p.324)
第9章「人間の分身」では言語について考察する。「経験的であると同時に批判的であろうとする言説は、ひとつながりに実証主義的であり終末論的であることしかできない」(p.376)ニーチェ、マラルメ、ヘーゲルが語られる。人間が労働する存在であり、客体化して生物を捉え、「話す主体としての本質規定しようとする」(p.388)とまとめる。そして有限性として四辺形を描く。「実定的諸領域と有限性との紐帯、経験的なものの先験的なもののなかにおける二重化、コギトと思考されぬものとの恒久的関係、起源の後退と回帰」(p.395)
第10章は「人文諸科学」としているが、全体のまとめの考察。生物学、経済学、文献学を中心において、そこからはみ出した精神分析、文化人類学、そして歴史について論じ、「人間は消滅しようとしている」(p.453)「おそらくその終焉は間近いのだ」(p.455)ここでいう人間は、16世紀に誕生した、知によって提起された人間のこと。
訳者あとがきによると、1966年に刊行されベストセラーになったのだという。16世紀からの思想家の主題を読み解き、20世紀まで、言葉とは何かを整理し限界に迫ることができるとなると、手に取りたくなるのであろうが、いかんせん、日本人には翻訳という難題がついて回る。「すでに専門分化した西欧の学問をそのまま輸入したわが国では、西欧の同一語であらわされる事柄が、専門領域ごとにまったく相互に異質な語に訳され、それがすでに日本語として定着している」(p.458)と。それでも、1974年に邦訳が世に出てものが、2020年に新装版として発行されたというのは、日本人の先学に学ぼうという志は大したものだ。付録の固有名詞索引と事項索引も、とても有用である。

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