太宰治の「惜別」(新潮文庫)

もともとは高橋源一郎が、朝日新聞(4月1日)のオピニオンにウクライナ戦争に作家として何ができるかということで、「ロシアの作家が、ウクライナの作家の作品を読めと発信しているが、実は80年前に太宰治が魯迅のことを「惜別」に書いている」と紹介していて、同じ日にNHKの夜のラジオでも「これとアレだ」の例としても話していた。

ところが、文庫本を探したら、新潮文庫「惜別」には「惜別」の前に「右大臣実朝」が入っていた。吾妻鏡を解説するようにして、実朝に仕えたお女中が物語っているのを読むと、今、大河ドラマで鎌倉殿をやっていることもあり、鎌倉幕府を取り巻く人の動きを面白く読んだ。実朝の死後、後鳥羽上皇が北条義時を討伐しようと軍を展開したことは、まさにロシアのウクライナ侵略にも重なって見えて「惜別」を読むのが遅くなった。

東北の田舎の老医師の回顧談の形で、仙台医専の新入生として知り合った周さん(魯迅の本名)について書いている。解剖学を学ぶ中で、藤野先生という素晴らしい師に会うものの、日露戦争の後の日本(東京)の様子を体験して、もはや医で母国に貢献するよりは文の道を選択するということで退学していったといういきさつである。

その頃の日本国民の気概を周さんの言葉を借りて大いに賞揚している部分もある。また、急速な文明の発展を案じて「酒が阿片に進歩したために、支那がどんな事になったか。エジソンのさまざまな娯楽の発明も、これと似たような結果にならないか、僕は不安なのです。これから4,50年も経つうちには、エジソンの後継者が次々とあらわれて、そうして世界は快楽に行きづまって、想像を絶した悲惨な地獄絵を展開するようになるのではないかとさえ思われます。」(p.307)まさに、今のSDGsについての先見の明が語られる。

また、若者らしく哲学についても語り、「孔孟の思想を軽んじません。その思想の根本は、或いは仁と言い、或いは中庸と言い、あるいは寛恕と言い、さまざまの説もありますが、僕は、礼だと思う。礼の思想は微妙なものです。哲学ふうないい方をすれば、愛の発想法です。人間の生活の苦しみは、愛の表現の困難に尽きるといってよいと思う。」(p.348)わからないがカントに通じるような気がする。確かに暴力も愛の表現の困難さから来ている。

魯迅の「藤野先生」という小品の中で、周さんが藤野先生に別れを告げたときに、藤野先生から写真をもらい、終生自宅の壁に掛けてあって勇気をもらったのだという。そして、その写真の裏に「惜別」と書かれていたというのが、この小説のタイトルになっている。

解説(奥野健男)によると、太宰がこの小説を書くきっかけは昭和18年に内閣情報局からの委嘱によるのだという。それを逆手にとって、清国の友人について書いた。高橋源一郎の文からは、もっと直接的に魯迅の作品を紹介しているのかと期待したのが、少しあてが外れた感じでもある。老医師の回顧談であるが、太宰は1909年生まれで日露戦争後の世代、魯迅より28年ほど年下なのだから、まさに架空の老医師の物語なのである。「現代の中国の若い知識人に読ませて、日本にわれらの理解者ありの感情を抱かしめ、百発の弾丸以上に日支全面和平に効力あらしめんとの意図を有しています」(p.386)と情報局に提出しているのだという。

戦時中は、多くの作家が筆を折ったり、あるいは逆に狂信的な軍国主義にのっかったりという中で、太宰の面目躍如というところなのであろうか。ウクライナ戦争も50日を超え、先が見えない。当事者側の人間であったら、それこそ何ができるか。30代の太宰治を想像してみると、2つの作品ともに、けっこう健康的な苦悩の表現なのだとも思った。

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