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僕は自殺室で死にたいだけです


・【はじまり】

 入学は90人で始まる。
 その90人は期を越えていくごとに人数が減っていく。
 授業のレベルが高過ぎて減っていくわけではない。
 いやまあ考え方によってはそうなんだけども、自ら選択していなくなるわけではない。
 学校が定めるテストで最下位の生徒は、自殺室で自殺をしなければならないのだ。
 三学期を4で分けて、計12回、最下位を決めるテストがあって。
 12×三年で36人が死んでいく。
 この36という数字が絶妙で、半分よりちょっと下でも卒業できてしまうというところが肝で、そのせいで下位は潰し合いになる。
 この高校を卒業できれば将来の成功は約束されたようなものなので、生徒たちは必死で蹴り合うなのだ。
 とはいえ、僕は最下位になることなんて無いだろうと思っていた。
 何故なら神童だったから。
 だが、この世には神童が山ほどいることを知った。
 それに……まあそれはもういいんだ。
 自殺室は旧校舎の一番端にある。
 旧校舎は三方が山に囲まれていて、自殺室はまるで洞穴の中に入るようなイメージ。
 日当たりも悪く、ジメジメしているので、うってつけと言ってしまえばその通りだと思う。
 自殺室へは自分の足で向かう。
 考えようによっては逃げ出せそうにも思えるのだが、監視されているような感覚はある。
 だからこの流れから脱出することは不可能だと思う。
 そもそも、少なくても僕は、この場からいなくなろうとは思っていない。
 そんなことよりも早くこの世界からいなくなりたいんだ。
 まあきっと人によっては教師などに自殺室へ連れていかれるパターンもあるのだろうけども、僕はある意味”信頼”もされていたので、自ら進む。
 そんなことを考えていたら、自殺室の前へ着いた。
 自殺室への扉は錠が掛かっていない。
 誰でも好きに入れる状態だが、ここへ好きに入る人は今日まで誰もいなかったと言われている。
 そりゃそうだ。
 この学校を首席で卒業して、世界の中枢に入りたいと皆、思っているから。
 そう、首席に入れば将来の約束くらいじゃ済まない。
 日本はもとより、世界の核になれたのだ。
 この学校はそれだけの価値がある学校で、正規ルートの学校では決してない。
 裏道から本当に世界の、否、地球の中枢に入ることができる。
 なので集まってくる生徒たちは一癖も二癖もある生徒ばかりで。
 でもよくよく考えたら、どこの学校も一緒だったのかもしれない。
 一緒だからこんなことが起きるのだろうな。
 いやまあ自殺室という制度は普通の学校ではありえないけども。
 さて、入ろう。
 自殺室のドアノブは、他の旧校舎のドアノブよりも腐食が進んでいる。
 きっと手汗まみれの手で握るから、鉄がよりボロボロになるのだろう。
 そんな僕はと言うと、実はそんなに緊張もしていない。
 分かっていたことだから。
 そして僕は自殺室に自ら入った。
 ドアの鍵は勝手に閉まった音がした。
 さぁ、死ぬだけだ。
 噂では、自殺室は部屋中が血みどろで、生臭い匂いが充満し、入ったと同時に死の臭気に当てられて死んでしまうという話だったが、それは全く違った。
 部屋の床も壁も天井も平衡感覚が失われそうになるくらい真っ白で、香りは聖母の腕の中のように甘く澄んでいた。
 さらに道具が無い。
 自殺するためには死ぬための道具が必要なはず。
 だが、この部屋には何も無かった。
 どうすればいいか分からず、とりあえず息をとめてみるが、やはりすぐに自分で呼吸を始めてしまう。
 さすがに息とめは無理があるかと思い、僕は自分の眉間を強く殴ってみた。
 すると、その場で僕は倒れ込み、意識を失っていった。
 あっ、死ねるんだ。
 この時、僕は少し走馬灯が見えた。
 見知らぬ女子と一緒に手を繋いで歩いている。
 ここは、孤児院だ。
 僕が生まれ育った孤児院。
 そこで知能テストを受けて、特別な場所に連れていかれて。
 見知らぬ女子も一緒だ、と思った時、その見知らぬ女子が光莉(ひかり)だということを思い出した。
 何で僕は一番大切なことをまた忘れていたのだろうか。
 何で光莉のことを忘れてしまったのだろうか。
 走馬灯の中でもこれじゃ、しょうがないなぁ。
 


・【はじまりのおわり】

 僕は目を覚ますと、目の前には自分と同じ学生服を着ているが、明らかに見た目が生徒と言える年齢ではない男が僕の顔を覗き込むようにしゃがんでいた。大学生四年生くらいか、もう社会人になりたてくらいだろうか。
 というか目を覚ますと、ということは、と僕が喋りだそうと思ったところで、その男が先に口を開いた。
「珍しい生徒がいたもんだ。まあ大体分かっていたがな」
 そう言いながらアゴを触る男。
 加齢した顔の割にはヒゲが生えていないな、とか、妙に冷静なことを考えている自分に気付き、少し自己嫌悪した。
 いやいやそんなことよりも、そう思いながら僕は
「……ここが地獄ですか?」
 と聞くと、その男は首を横に振りながら、
「いや、自殺室だよ」
 あっけらかんとそう答えた男は、ゆっくりと屈伸するように立ち上がった。
「……死ねなかったのか……」
 僕はそうポツリと呟くと、男は何だか少し鼻で笑いながら、見下すように、そして物理的にも見下しながら、こう言った。
「君、自分のこと殴っていたよね、その程度じゃ気絶が関の山だよ」
 えっ?
「見ていたんですか?」
「うん、なんせ俺は自殺室の番人だからね」
「番人ということは、貴方を倒さないと死ねないということですか?」
 と僕が疑問を投げかけたところで、男はニヤァと笑みを浮かべながら、
「君は珍しいね。その言動間違いない。君は何の疑問も持たず、死のうとしているよね?」
 と言ってきたので、僕は聞かれるがままに、
「はい、テストで最下位でしたから」
 その返答に対して、男は間髪入れずにこう言った。
「それはわざとだろう?」
 僕はドキッとした。
 でもここで怯んでは値踏みされると思って、すぐに、
「いや、実力です」
 と答えると、その男は「ハッ」と掠れた笑いをしてから、
「まあ最下位をとった理由はなんでもいいんだ、今は」
 その後から付けたような”今は”が妙に気になって、
「今は?」
 と聞き返すと、男は少々面倒臭そうに、
「しかし君が死にたいという願望を持っていることはダメなんだ」
「いやでも、自殺室行きになったのですから、僕は死にたいんです」
 ハッキリそう答えると、男はやれやれといったような感じで、
「違うんだよ。自殺室行きになった人間は生きていたいと思わなければ死ねないんだよ、何故なら罰としての死だからね」
 なんとなく理解はできているが、もっと情報がほしいので、
「どういうことですか?」
 と掘り進めると、男は淡々と説明し始めた。
「君は心の底から死にたいと思っている。この自殺室は入ってきた生徒の心理状態を表しているんだ」
「死にたいのならば、もっと禍々しい感じになるべきなんじゃないんですか?」
「いや、君の死にたい気持ちは高潔なんだ。だからこんな美しい部屋になっているんだ。本来、この部屋はもっと禍々しく変化するし、死ぬための道具だって出てくる。でも君はダメだ。死ねないね」
 死ねない、つまり、
「ということは、元の学校生活に戻るということですか?」
 それに対しては、ゆっくり首を横に振って、少し間を持ってから、こう言った。
「いや違う。この自殺室で次にやって来る生徒たちの自殺を手伝う係として、俺と一緒に生きてもらう」
「じゃあその時に出現した死ぬための道具で死ねばいいんですね」
「いや、きっと君は、死ぬための道具に触れた時に、その死ぬための道具は消えてしまうだろうね。状況にもよるが、基本は触れられないと思う」
 何から何まで否定するその男に内心イライラしてきた僕は、ちょっと声を荒上げながら、
「でもやってみないと分からないじゃないですか」
 と言うと、その男は僕と反比例するかのように、澄んだ瞳になって、
「分かるよ」
「どうしてですか?」
「俺がそうだから」
「……えっ?」
 徐々に高鳴っていた心臓が、ここにきてより強くなった。
 この展開じゃいけない、と思っても、そうならざる得ない展開が聞こえてきそうで。
 男は冷静にこう言った。
「俺は前に……今までやって来た人数から察するに、一年間36人×三学年分だから……七年前に自殺室へ入ったこの高校の生徒だ。君がやろうとするようなことは、きっと全てやり尽くした」
 状況から見ても、直感的にも、この男が言っていることは真実だということは分かった。
 でも、それでも、どこか反抗したくて、僕は、
「どうやって生きているんですか、食べ物とか、どうしているんですか?」
「知らない。ただ生きているんだ。ただし、これだけは変わらずあるモノがある」
 僕は生唾を飲みこんだ。
 聞いていいものかどうか、一瞬躊躇した。
 でも聞かないと進まない。
 ここまで聞いてしまったらもう最後まで聞かないといけない。
 そういう思いに駆られて、僕は声を出した。
「……なんですか?」
「死にたいという気持ちだ」
 全てを理解した。
 男の気持ちも手に取るように分かったような気がした。
 僕は妙に落ち着いた。
 そして男のやり場のない怒りを汲み取るように、僕は喋りだした。
「貴方も僕と同じで、死にたい気持ちを持って自殺室に入ったんですね」
「あぁ、そうだ、ずっと死にたいし、きっと死ねないだろうな。この自殺室での手伝いというモノは、あまりにも死にたすぎる作業だからね。でも」
 とってつけたような”でも”に違和感を抱き、僕は素のまま聞き返した。
「でも?」
「君が来る前にいた、一人の女生徒は急に死んだよ。だからまあ人によっては生きたくなるのかなぁ。分かんないけども。なんせ俺はずっと死ねていないからね」
 ――そして僕の自殺室での生活が始まった。
 食べなくても寝なくても生きている謎の空間。


・【溝渕さん】

 僕と一緒にこの空間で暮らす男は溝渕弥勒(みぞぶちみろく)と言う人で、僕は溝渕さんと呼んでいる。
 溝渕さんがどういった生徒だったのかどうかは不明。聞いていないので。
 僕もあまり話を聞かれたくないので、聞いていない。そうなるとどっちも聞かないということになる。
 溝渕さんは干渉してくるほうの人じゃないので、正直助かっている。
 何も無い白い空間。
 仕切りは無いけども、一人の時間というモノは取れている。
 と、言っても、一人でやることなんて何も無いんだけども。
 だから基本的に寝るだけで。
 寝ることはどうやらできるみたいで、僕は現在、ほとんど寝ている。
 空想しながら寝て、空想だと思ったら実は夢で、起きたらまたすぐに空想して、気付いたら寝て、の、繰り返し。
 本当に食事をしなくても生きているし、だから便意も無いし、お風呂に入らなくても体が汚れていく感覚も無い。
 本当に無のまま。
 無のままなんだけども、頭脳だけは巡る。
 死ねるのか死ねないのか、ずっとこのままなのか、よそう、何か空想しよう、いやでも空想したいことも無い、だって僕は死にたかったんだから、死ねるのか死ねないのか、いやさっきも考えたばかりだ、このルート、何か思い出そうかな、でも思い出せないな、思い出していい許可も下りないだろうし、いや誰に、誰にって、それは、あれだろ、あの子からだろ、あの子って、あれか、あの子、光莉、光莉って言葉に出していいのかな、いや言葉にはしていないけども、全部脳内だけども、僕はもう光莉なんて考えてはいけないくらいの人間なんじゃないか、なんじゃないかというかまあそうだろう、僕は光莉のことを忘れるほど没頭してしまったんだ、何で忘れていたのだろうか、何で飲まれてしまったのだろうか、こんな大切なことを失って未だに僕は生きているなんて地獄だ、地獄なのにまだ死ねていない、死ねるのか死ねないのか、ずっとこのままなのか、なんて、さっき考えたような、いや考えていなかったっけ、分からないな、分かりたくないな、このまま混乱して死ねないかな、死にたいんだ、もう今すぐに死にたいんだ、舌を噛んだ、でもダメなんだ、何故か舌がゴムのような弾力になって、痛みも感じない、噛み切れそうにないんだ、全然死ねないんだ、どうすればいいんだ、今日は寝ようか、今日は寝てしまおうか、それがいい、それがいい、それ以上のことはもう無いもんな、果報は寝て待てと言うもんな、死ぬという果報は寝て待つに限る、非常に寝やすい空間だ、空気は澄んでいて、気温も少し涼しいくらいでちょうどいい、でもあれなんだな、これは僕の空間でもあり、溝渕さんの空間でもあるんだな、だから溝渕さんも僕と一緒で、溝渕さんの言葉を借りるならば、高潔な死にたいなんだろうな、溝渕さんは今何を考えているのだろうか、溝渕さんも今死にたいのかな、いや死にたいからこそこんなに白い空間なんだろうけども、溝渕さんは今寝ているかな、どうかな、起きているのかな、ちょっと溝渕さんのことが気になってきたな、自分が干渉されたくない分、喋ってこなかったけども、何だか溝渕さんのことが気になってきたな、思い切って話し掛けてみようかな、でも溝渕さんの第一印象はそれほど良くないんだよな、嫌な人だったらなお死にたいと思って死ねないだろうな、でも逆に溝渕さんがめちゃくちゃ嫌なヤツで、コイツよりも先に死ねないと思って、生きたいと思ったら死ねるのかな、そうだ、ここは二人いる強みを生かして、どっちかは生きたいと思って死のう、その作戦でいこう。
「あの、溝渕さん、起きていますか」
 僕はおそるおそる、体育座りをして頭をうなだれている溝渕さんに後ろから話し掛けると、
「何だ、田中くん。俺はそんなに寝たりしていないぜ」
 そう言いながら、座った姿勢のまま、僕のほうを振り返った溝渕さん。
 その大人が、お尻を滑らせて回ったということが何だか滑稽に感じて少し吹き出してしまうと、
「寝言を言う君のほうが面白いけどな」
 と溝渕さんから言われてビックリした。
 自分が寝言を言っているなんて知らなかったから。当然だけども。
 僕はそれが気になって、
「僕、なんて寝言言っていますか?」
 と聞くと、溝渕さんは少し小首を傾げながら、
「人名なのかな、ヒカリという言葉をよく言うよ」
 ヒカリって光莉だ、そう人名だ、って、すぐに言えなくて、少し俯いて黙っていると、溝渕さんが頭を掻きながら、
「まあ言いたくないことは言わなくていいよ、こんなに死にたいということは理由があるってことだから。まあ生きたいということも分かりやすい理由があるんだけどな」
「そう、ですね……」
 あからさまに肩を落としていたのだろう。
 溝渕さんは足を伸ばして、まるでテディベアのような態勢になりながら、こう言った。
「まあこうなってしまったのは仕方ない。何も無い時はダラダラしていればいいんじゃないかな? 聞きたいことがあったら何でも聞いていいよ。俺はそういうこと全然気にしないからな。君と違って」
 そう言って笑った溝渕さん。
 最後の”君と違って”にちょっと棘を感じたけども、いい人過ぎても怪しいからみたいな配慮なのかもしれない。
 だから僕はハッキリ聞いてみることにした。
「死ぬことを手伝うことは義務なんですか?」
「いや義務ではないよ」
 そうサラッと言い切った溝渕さん。
 じゃあ、
「何で死ぬことを手伝うんですか?」
 それに対しては少しう~んと唸ってから、こう言った。
「生きたいヤツが作り出す空間って気持ち悪いんだよね。そんな空間にいたらマジで死にたいから、ちょっとでも生きたいために早くこの白い空間に戻したいんだ」
「じゃあ溝渕さんが一人でいた時も、この白い空間なんですね」
「そうだな。だから君がいてもこの空間が崩れないことから見て、君は相当死にたいんだなと思っているよ」
 真剣そうに言った溝渕さん。
 自分が死にたいと願うほど、溝渕さんも死にたいと思っているような気がした。
 僕と溝渕さんは気持ちが全く一緒。
 でも死ねない。
 なんて、あべこべな世界なんだ。
 否、この世界はずっとあべこべだ。
 そんな捻れ曲がったこの世界を正したくて、この学校に入ることも了承したはずなのに、自分が捻れ曲がって一番大切なことを忘れてしまうなんて。
 こんな宙ぶらりんな世界で、やっとそのことに気付くなんて。
 もっと早く気付いていれば。
 もっと早く気にかけていれば。
 いっそのこと死にたい。
 いや、いっそのこと、とかじゃないけども。
 ただただ死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい、あぁ、また気が狂いそうだ、気が狂ってくれないかな、気が狂って世界も感じないようにならないかな、気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気が狂って死にたい気がする、いや死にたい、もうただただ死にたい。
 と考えていると溝渕さんが、
「そんな顔しても現状は変わらないぜ。と、言っても現状が変わる時は自殺室に生徒が入ってきただけだけどな」
 そう言ってニヤリと笑った。
 何でこんな時に口角を上げられるのか。
 そうか、溝渕さんはもう狂っているのか。
 いいなぁ、狂えて。
 じゃあもう狂ってる人に遠慮もいらないし、暇潰しに聞いてみるかな。
「溝渕さんは何でそんなに死にたいんですか?」
 一瞬キョトンとした溝渕さんはすぐに怪しく喉を鳴らしながら笑うと、こう言った。
「クックックッ、急にそんなことを聞いてくるなんて予想外だな。でもいいよ、教えてあげるよ。簡単な話だ。この学校が嫌になったんだ、田中くんだって一緒だろ?」
 いや、僕が嫌になったのはむしろ自分に対してだ。
 気付かなかった自分に腹が立っているんだ。
 だから、
「ちょっと違いますね」
「そうか? 大きく見たら同じだと思うんだけどなぁ。まあその辺は感性の違いというとこかな、うん」
 そう言って勝手に納得した溝渕さん。いや違うって言っているのに。
 でもまあ確かに学校が嫌になったところはあるけども。
 じゃあ本当に感性の違いといったところなのかもしれない。
 いやそんな話はどうでもいいんだ、僕が聞きたいのは、
「もっと具体的に話してもらっていいですか? 僕と違って聞かれて大丈夫な人なら」
「おぉ、結構攻撃的にくるね、いいね、気に入った。じゃあ話すよ、暇潰しにさ」
 そういう言葉はいいから早く言えよ、と、高圧的に思っている自分がいる。
 僕は誰かへ高圧的に出ることなんてできなかったのに。
 もしその高圧的を、もっと早く出せていれば、で、また自己嫌悪。
 ダメだ、死にたい、やっぱり僕はダメな人間だ。
 こんな時にならないと、高圧的にすらならないなんて。
 いやまあ声にも出していないから、実際はそんなに高圧的でもないんだけども。
 溝渕さんはアゴに手を当てながら語り出した。
「好きだった子がいたんだ。その子は自殺室で死んでな。俺はその子を言動によっては守れる立場にいたのに、守り切れなかった。それを悔いたんだ。そして俺はわざと自殺室に行くようテストで低得点を叩き出して、無事自殺室へ。ここで一つ選択ミスをした。自殺室に頼らないで自分で死ねば良かったんだ。でも自殺室では簡単に死ねるみたいな噂があって、つい頼ってしまった。その結果がこのザマだ」
 この話を聞いた僕は、いや、聞いている途中から徐々に頭が真っ白になっていき、今はもう呆然自失だ。
 何故なら溝渕さんの話はまんま僕の話だったからだ。
 最後に溝渕さんはこう言った。
「せめて笑ってくれよ、暇潰しなんだから。ただまあ多かれ少なかれ、君もそういった感じだと思うから笑えないよな?」
 僕は静かに頷いた。
 それを見た溝渕さんはまたお尻で回って、僕から背を向けてから、
「だろうね。一番死にたいよな、人間として」
 そう、どこか優しい雰囲気の声でそう言った。
 僕は一つ、強く思ったことがあるんだ。
 それは。
 死にたい。


・【最初の生徒】

 空想の末に眠りかけたその時、突然訪れた。
 自殺室のドアが開いた。
 男子生徒だ。
 彼が入ってきた瞬間、自殺室の光景は一変した。
 公衆便所を思わせるような匂い、否、自殺室は公衆便所そのものに変化し、さっきまでの清い色の空間は幻と化した。
 あまりの床のタイルの汚さに、僕は勿論、溝渕さんも立ち上がった。
 その流れで僕はこの空間を小走りで見渡した。
 入ってきた彼よりも、変わった空間のほうがずっと気になったからだ。
 公衆便所の内装に、小さな天窓が一つ。
 そこからは青空が見えていた。
 天窓は高すぎて、人間が手動で開け閉めはできない感じ。
 じゃあ公衆便所の”外”にはどこまでいけるのかと思っていたが、外へ通じると思われる場所は扉となって、それ以上は行けなくなっていた。
 つまりここは公衆便所の密室といったところだ。
 あと気になる箇所と言えば、手洗いをする蛇口のところに薬箱が出現している。
 でも公衆便所に変わるということは一体何なんだろうか、何か意味があるのだろうか。
 僕は何か知っているかもしれないと思って、溝渕さんの近くに寄って、話し掛けることにした。
 正直、聞きたいことは山ほどある。
 こういう状況になって、やっと聞きたい事柄が分かった。
 今までは聞きたい事柄さえも浮かばなかったけども、こう何かが起こって初めて分かったんだ。
 まず入ってきた彼に僕たちの姿が見えているかどうか、空間がこう変わったことに意味があるのか。
 まあ焦っても仕方ない。
 一つずつ聞いていこう。
《溝渕さん、僕たちの姿は彼に見えているのですか?》
 僕は少々興奮を抑えられないような感じでそう言ったけども、溝渕さんは慣れているだけあって、淡々と、
《いや、俺たちが念じない限り、俺たちの姿が彼に見えることは無いよ》
《じゃあ声も聞こえないということですね》
《その通りだ》
 自分が喋った時も思ったけども、何だかいつもと比べて溝渕さんも僕も声がおかしい。
 まるで言葉にぬめり気が覆っているような。
 ちょっとこもっているような不思議な声になっている、とか考えていると、溝渕さんが見透かしているようにこう言った。
《声がおかしかったり、動いている時に妙な動きづらさを感じるだろう、田中くん》
 僕はハッとした。
 そう言えば、動いている時も何か少し変だった。
 あんまり動いていなかったせいで体が鈍っているのかなとすぐに考えて、それ以上の思考は停止していた。
 じゃあ
《何か理由があるんですか?》
《誰かが来た時、俺たちには膜が張るんだ。いやまあ俺が勝手に”膜”と呼んでいるだけだがな》
 膜。
 確かに膜だ。
 この感覚は膜でしかない。
 溝渕さんは正確に言葉を扱うなぁ、と感心した。
 溝渕さんは続ける。
《この膜を破ることによって、この入ってきた彼と会話をしたり、俺たちの姿を見せることができる。やり方は簡単だ。強く念じるだけでいい》
《じゃあ出て行ったほうがいいんですかね》
《いや最初は傍観したほうがいい。それはあくまで俺のやり方だがな。まあすぐに俺たちが出てきたら情報過多でパニックになってしまう。向こうも様子見しているし、こっちも様子見するべきだ》
 なるほど、多分経験上仰っているんだなと思った。
 でもあれだ。
 人が自殺する瞬間を見届けるって苦痛だなと単純に今、そう思った。
 さらには死ななかった場合、自殺の手伝いをするとか、そんなことできるのか、と不安になってきた。
 いやその前に、まだ聞きたいことがあった。
《何で空間が公衆便所になったんですか?》
 少し悩んでいるように、腕を組んだ溝渕さん。
 理由が分からないのなら分からないと言ってほしいのにな、と、少しソワソワしながら待っていると、
《まあこの辺はこっちの勝手な予想みたいなところにもなってくるし、ここは言わないことにしておこう》
《何ですか、もったいぶっているんですか?》
《いやそういうことじゃないんだ。でも一つ言えることがあるとしたら、情報過多でパニックになるのは入ってきた彼だけじゃないってことだ》
 これは明らかに僕のことを指している言葉だ。
 僕が情報過多でパニックになる心配をしているのだ。
 でもそれはバカにしているような言いっぷりではなくて、本当に親身になって、言っている感じだと分かった。
 そうか、そりゃそうだ、情報過多でパニックになって彼が死ぬことを邪魔してしまったら、どうしようもないもんな。
 変に長引いたら、溝渕さんからしたら面倒そのものだろう。
 僕は溝渕さんの言葉を受け入れ、静かに見ていることにした。
 最初、呆然としていた入ってきた彼は、徐々に何かを口にし始めた。
「おい、何だよ、この部屋、まるで地元の公衆便所みてぇじゃん、何なんだよこれぇ……」
 地元の公衆便所。
 ということは彼の思い出が出現しているということか?
 でもこの公衆便所の汚さから察するに、あんまり良い思い出といった感じでは無さそうだ。
 いやそれとも彼はヤンキーみたいなもんで、こういう公衆便所でたむろしていたのかな。
 だとしたら友達との記憶といった感じで、良い思い出なのかもしれない。
 最後は良い思い出の中で死なせてあげるみたいな話なのかもしれない。
 そんなことを考えていると、入ってきた彼は、手洗いする蛇口のところで薬箱に目をやった。
 その薬箱は箱が既にパカッと開いていて、中に錠剤の薬が入った瓶がある。
 その瓶も、もう口が開いて、蓋の類は薬箱の中に入っている。
 錠剤は結構たくさん入っている感じだ。
 瓶にラベルは無いが、多分これが毒薬だと思われる。
 入ってきた彼はその錠剤に手を掛けた。
《あっ、溝渕さん。彼、錠剤の瓶に手を出しましたね》
 と言いながら僕は溝渕さんのほうを見ると、溝渕さんは少し訝し気に、
《……これがそのまま死ねる毒薬ならいいんだけどね……》
 とポツリと呟いた。
 その憂鬱そうな声に、僕は少し不安になりながら、
《どういうことですか?》
《この空間は、絶対に死にたくない方法で死なないといけない空間なんだ。勿論、本人がそう思っている死にたくない方法で、ね》
 一個、情報が出てきた。
 溝渕さんは本当にちょっとずつ情報を出してくる。
 それが正直煩わしい部分もあるんだけども、その分、一個一個考えることができる。
 いや考える必要なんてないのかもしれないけども、やっぱり分析のようなことはしてしまうもので。
 本人が死にたくない方法で死なないといけない。
 その縛りにどんな意味があるのか。
 いや意味は分からないけども、僕が死ねない理由はなんとなく分かった。
 死にたくない方法が無いから死ねないんだ。
 死にたさ過ぎて、死ねるならなんでもいいと思ってしまったから死ねないんだ。
 なんて天邪鬼な空間なんだろうか。
 どうせ平等な死が待っているのなら、そんなプライドを折るような死はいらないような気がするんだけども。
 それとも何か深い意味があるのだろうか、と思った時、一つ、答えが浮かび上がってきた。
 これは誰かが監視しているんだ、と。
 監視なら、まだ幸せだが、まさかこの空間を娯楽として喜んでいる富裕層の人間みたいなもんがいるのでは、と。
 奴隷を闘わせるコロッセオのように、これで楽しんでいる連中がいるのでは、と考えた時、背筋がゾッとした。
 でも考えられる。
 この考えられない技術で作られた空間に意味があるのならば。
 僕はどうしても気になって、溝渕さんに問いかけた。
《この空間は、もしかすると、大金持ちの娯楽として配信されているんですか?》
 僕がそう言うと「おっ」と少し驚いた表情をしてから、こう言った。
《まあそう考えることが妥当だよね。俺も正直そう思っている、が、昔俺と一緒に自殺室に長く居た子は何かに気付いたような顔をして、こっちを見つめてきたのち、何事も無かったように砂になっていき、消えて死んでいったんだ。俺はその時のその子の微笑みが忘れられないんだ。それなりに仲良くしていたことは事実だが、そんな笑うようなことは無くて。もし苦しんで死ぬパフォーマンス劇場なら、その子はあんな顔して死ぬはずがないんだ。いやでも何か特別な例だったのかもしれないけどな》
 一応は溝渕さんも僕の意見に賛同してくれたが、特例もあるみたいだ。
 まあ長く居た人は特別なことが起こるだけかもしれない。
 基本的にはこの方向性で間違っていないんだと思う。
 自殺室は見世物小屋。
 まさかそんなことが分かってしまうなんて。
 月並みだけども、さっきよりも俄然死にたくなってしまった。


・【死の覚悟】

 僕は、いや僕も死にたい。
 でも入ってきた彼はやっぱり死にたくなさそうで。
 錠剤の瓶に手を掛けてから、完全に止まっていた。
 これが毒薬だということを理解したが、それ以上が出ない。
 当たり前だ。
 死にたくないんだから、死ぬための行動はとりたくないだろう。
 でも逃げ場の無い空間。
 多分いつか死を覚悟するんだろう。
 その時を僕は固唾を飲んで見守った。
 彼が止まってから何分経っただろうか。
 多分三十分以上止まっている。
 彼からは汗がぶわっと吹き出して、徐々に紅潮していった顔は、今や真っ赤だ。
 そろそろ手伝いに行かないとダメなんじゃないか、と思ってたその時、彼は大きな叫び声を上げた。
「クソ! やってやるよ! 死んでやるよ! クソがぁぁぁあああああああああっ!」
 そう言って錠剤から薬を取り出して、口に放り込み、手で水をすくって飲みこんだ。
《彼、錠剤の薬を出して、飲みましたね……じゃあこれで死ぬということ、ですか、ね?》
 おそるおそる溝渕さんにそう聞くと、溝渕さんは眉一つ動かさず、
《田中くん、様子を見ていこうか》
 と言うだけで。
 確かに溝渕さんは”毒薬ならいいんだけども”みたいな意味深なことを言った。
 じゃあ死ねないのか、死なないのか、じゃあこの薬は何なんだ?
 そう思いながら、見ているのだが、確かに彼に異変は起きていない。
 よくドラマとかで毒薬を飲んだら、すぐに倒れ込むみたいな描写があるけども、彼にそう言ったところは見られない。
 飲んだ後も全然ピンピンしている。
 というわけで、彼はまだ喋る。
「……全然何にもなんねぇぞ、もっと飲めということか? 一発で死ねる分量にしとけよ! クソがっ!」
 そう言って彼は何錠も何錠も薬を飲んだ。
 薬を飲む度に、錠剤が入った瓶には何故か減った分の錠剤が出現し、無限に継ぎ足されていった。
 そして。
 ついに。
 僕はつい大きな声を出してしまった。
《あっ! 彼、倒れましたね! 死んだということですかっ?》
 それに対して溝渕さんはゆっくり首を横に振って、
《いや、この空間は死ねたあと、体が砂のようになっていき、跡形も無く消えていく。つまり彼は死んでいないね》
《じゃあ僕と同じで気絶した、ということですか?》
《それよりも、これはきっと寝ているね。睡眠薬で眠ってしまったようだ》
 睡眠薬。
 そうか、あの薬は睡眠薬だったのか。
 でも
《睡眠薬って同時にたくさん飲むと死ねるんですよね? 死ぬんじゃないんですか?》
《いやきっとそういうことじゃないと思うよ。仕方ない、今度は俺たちが姿を現して、彼を自殺に導いてあげよう》
 自殺に導くって他殺では、と思いながらも、僕は溝渕さんの言う通りにするしかない。
 郷に入ったら郷に従えだから。
 まず最初に溝渕さんは目を瞑り、すぐさま「ハッ!」と声を上げると、何だか溝渕さんの見た目が一段階クリアになったような気がした。
 その時に自分の手を改めて目視すると、自分の体が何だか少し濁っているような気がした。
 あっ、これが膜を張っているというヤツなんだ。
 溝渕さんが「ハッ!」と言った時、声もこもっていなかったし、これで溝渕さんは膜を破ったんだ。
 僕も溝渕さんがやった通り、姿を現すことを念じつつ、気合いを入れると、確かに自分の手がハッキリと見えた。
「やっぱりできたね。誰でもできるみたいだ」
 溝渕さんはそう言いながら頷いた。
 僕は自分もできてちょっとホッとしていると、溝渕さんが、
「安心する暇なんてここからは無いよ。さて、このまま寝させていても意味は無いから、叩いて起こそう」
 と言った時、僕は一応の確認として、
「僕もあの錠剤を飲んでみていいですか?」
 すると溝渕さんは理解したような表情をし、
「そりゃ一回試してみたいよな。うん、蛇口のほうへ行ってくると良いよ。俺は待ってるから」
 ”俺は待ってるから”に死ねない意味合いが含んでいるけども、僕は気にせず、手洗い場のほうへ行った。
 そこには錠剤が入った瓶があったので、早速掴もうとすると、まるで自分が幽霊になったかのようにすり抜ける。
 掴むことすらできないとは、正直思わなかったので、めちゃくちゃ驚愕した。
 試しに手洗い場の蛇口に掴めるかどうか触れようとすると、それには普通に触れることができた。
 じゃあ蛇口の角に頭をぶつけて死ねるのでは、と思い、思い切って蛇口に向かって頭突きをかましたら、それはすり抜けた。
 スカッと空を切って、前のめりに転びそうになったくらいの感じ。
 その前のめりに転んだ勢いで死ねたら、とか一瞬思ったけども、まあ倒れたとしても最初の気絶くらいで終わるんだろうな。
 あまり何も考えずに蛇口に触れようとすると、蛇口に触れられるし、捻れば水が出るし、その水を手ですくって水も飲めた。
 正直久しぶりに何か口の中に入れたので、その感覚が嬉しくて、結構ガブガブ水を飲んでいると溝渕さんがやって来て、
「一度飲み始めると際限無いぞ」
 と言われて、僕はすぐに水を飲むことをやめた。
 そう言えば、水を飲んだらオシッコが出るのかな。
 オシッコを出しているところを、この自殺室を見ている人間に見られたくないな。
 というかこの水を飲む行動自体、めちゃくちゃ笑っているんじゃないのか。
 そう思ったら、急に自己嫌悪の波が襲ってきた。
 そんな僕を見ていた溝渕さんは、
「余計なことを考えていても何も起きないぞ。あとオシッコは出ないから安心しろ。それも経験済みだ」
 僕は少しホッとしながら、溝渕さんのあとをついていって、倒れている、というか寝ている彼のところへやって来た。
「田中くん、俺は彼を叩いて起こすから。田中くんは基本的に黙って見ているだけでいいから。でもまあ上手く説得できそうな言葉が浮かんだら構わず言ってくれ。そろそろ時間との勝負になるはずだから」
 溝渕さんは肝心なところを誤魔化す癖があると思う。
 ”そろそろ時間との勝負になる”って、どういうことだろうか。
 でもそれも説明し過ぎると、情報過多でパニックになるというヤツなのだろうか。
 確かに僕は何も分かっていない状態と言って等しい。
 蛇口の角で頭ぶつけて死のうとするくらい、何も分かっていないヤツだ。
 その言わないことも優しさだと思って、僕は黙って溝渕さんのことを見ていることにした。
 溝渕さんは倒れている彼の近くにしゃがみ、彼の顔を強めに何度かビンタすると、彼はゆっくりと瞼を開くように目を覚ました。
 僕らを目視した彼は、驚きながら、すぐに声を上げた。
「……! 何だオマエら!」
「目を覚ましたようだね、俺とこの子は君を自殺に導くための案内人だ。溝渕と言う」
「僕は田中です」
 僕の声に反応し、僕のほうを向いた彼は目をまん丸くしながら、
「オマエ! 直前のテストで”何故か”最下位をとった田中信太(しんた)か!」
 溝渕さんは溜息をついてから、
「田中くん、やっぱり君は……」
 と何かを言おうとしてきたので、それを遮るように僕は
「僕のことはどうでもいいんだ、それより時間との勝負になるんですよね? 溝渕さん」
 と言ったところで、彼が上半身を起こしながら、ガッツポーズを決め、
「いやいやいや! 生きてるじゃん! ということは死ななくていいということか! よっしゃ! 俺も一緒に生きるぞ! 田中信太!」
 確かにそう思っても不思議ではないな、と思っていると、溝渕さんはハッキリとこう言った。
「いや、この自殺室は死にたくない人間は自殺し、死にたい人間は死ねない空間なんだ。つまり君はここで自殺しないといけないんだ」
 それに対して彼はキョロキョロと目を泳がせながら、
「どういうことだよ! 普通逆だろっ? というか田中信太、オマエ、死にたいのか……? 何でだよ! テストの成績もスクールカーストも上位だったオマエが何故!」
 余計なことばかり口走る彼に少し嫌気が差しながら、
「僕の話はしなくていいよ、それよりも君の話だ」
「いやでも! オマエが生きているならオレも生きれるだろ!」
「それはさっき溝渕さんが説明した通りで」
「何だよ! 訳分かんねぇよ! ずっと! オマエが死にたいのも分かんねぇしよ! 正直この学校で頂点獲ってれば遊びたい放題だろっ? 底辺とは元々の格が、次元が違うもんだろ! 地頭がよぉ!」
 つい、バカのくせに言葉数が減らないな、という台詞が浮かんでしまった。
 いやいやそんなことを考えている時間だって、きっと無いんだ。
 これを言ってしまったら、マジで長引くだろうから、言わないようにして、
「とにかく、僕の話はどうでもいいんだ。君の話をするべきだ、今は」
「何だよ偉そうによぉ、まあそんだけ成績良ければ偉くなるよなぁ、それなのに自殺室行きってオイ、オマエ、何かやっちゃいけないことでもやったのか? 犯罪でも犯したのか? それも、とびっきりヤバイヤツ。ハッハッハ! スクールカースト上位のくせに、ヤバイことしてんじゃねぇよ! バカじゃねぇのっ!」
 バカはどう考えてもオマエだろと言いそうになったその時、溝渕さんがこう言った。
「まあ俺が言いたいことは一つだけだ。簡単に死ぬか、苦しんで死ぬか、選べ」
 それに対して彼は、
「何だよ、マジで誰だよ、オマエ、オッサンが急に何なんだよ」
 と言ったところで溝渕さんは一切顔を変えずにこう言った。
「簡単に言えば死神みたいなもんだ。鎌は持っていないが、空間は俺が操っている」
 そう言った瞬間に彼は顔の血の気が引いたような顔をした。
 いや溝渕さんの言ったことは嘘だけども。絶対に嘘だろうけども。
 溝渕さんが空間を操っているはずが無いけど。
 でもそっちのほうが話は早いと思う。
 見知らぬ人が死神を演じたほうが話の決着は早いだろう。
 彼は生唾を飲みこみ、こう言った。
「何で俺の地元の公衆便所が分かるんだよ……」
 溝渕さんは間髪入れず答える。
「俺が死神だから、としか言えないな」
 逆にそうとしか言わないことが、真実味を増させていた。
 溝渕さんは続ける。
「答えろ。楽に死ぬか、苦しんで死ぬか。どっちがいい」
 彼はさっきまでの威勢がどこにいったのかと思うくらい、静かに喋りだした。
「……まあ確かにこの際、田中信太の話なんざどうでもいいか、オレは田中信太のように生きたい。どうすればいい?」
 それに対して溝渕さんは答える。
「話を聞いていなかったのか。君は楽に死ぬか、苦しんで死ぬしかできないんだ」
 納得のいっていない顔を、僕にチラチラと向けながら彼は、
「オレはそのどっちかしかダメなのかよ……」
 溝渕さんは堂々と、
「そうだ。オマエは死ぬだけだ。でも今なら楽に死ねる方法もあるんだ」
 彼は頭をわしゃわしゃと両腕で掻いてから、
「どうやるんだよ。クソがぁ。全然毒薬では死ねなかったぞ」
 と言って、溝渕さんのほうを睨んだ。
 しかし溝渕さんは一切動じない。
 本当にこの役をやり慣れているんだ。
 死神という役を背負って、ずっとここで生きているんだ。
 溝渕さんは静かに口を開き、
「君が自殺する方法は分かっている。あの睡眠薬を飲んで、大便のほうの水洗便器に顔を出す。そして寝たところで水洗便器に張られた水に顔をつけ、そのまま溺死する。それが君の死に方だ」
 僕はゾッとしたし、何だその死に方って思った。
 でも確かに睡眠薬では死ねない。
 それはもう分かった。
 さらに手洗い場では水を溜めておく栓のようなモノは無かった。
 つまりそこで溺死ということもできない。
 だから水洗便器の水で溺死をするということか。
 でも何だこの違和感。
 というか何だその死に方。
 あまりにも気を衒いすぎているというか。
 いやまあ自殺室が見世物小屋だとしたら、そういうこともありえるのかもしれないけども。
 そう溝渕さんに言われた彼は激高した。
「何だよその死に方! そんな屈辱的な死に方するはずねぇだろ! オレはササ……じゃなくて! とにかく! そんな死に方はしねぇ!」
 一瞬何かを言いかけた彼。
 一体何を言いかけたのだろうか。
 いやそんなことを考えても無駄だ。
 よく分かった。
 この空間は考えても無駄ということだ。
 確かに溝渕さんは考えて、彼が死ぬ方法を導き出したけども、基本的に何を考えても無駄だということだ。
 彼は立ち上がり、しゃがんでいる溝渕さんを見下ろしながら、思い切り溝渕さんの顔を目掛けて蹴ってきた。
 しかし彼の足は空を切った。
 そう、彼は溝渕さんに触れられなかったのだ。
「化け物め……」
 そう恨めしそうに溝渕さんを睨んだ彼に、溝渕さんは立ちながら、こう言った。
「化け物は君のほうだよ。君はこういった公衆便所でイジメを繰り返していたんじゃないかな? たとえば、そう、水洗便器に顔をつけさせるような、ね」
 そう溝渕さんが言った時、僕は完全に分かってしまった。
 いや溝渕さんは既に何回かそのようなことを言っていたから、その時に分かるべきだったとは思うけども、今完全に理解した。
 そうか、死にたくない方法で死なないといけないって、そういうことからきているのか。
 過去に行なった自分の悪い行動からきているのか。
 さっき言いかけた言葉はきっとそのイジメをしていた相手の名前だ。
 ”オレはソイツじゃないんだ”みたいなことを言おうとしたんだ。
 僕は、余計なことを喋った彼を疎ましくは思っていたが、正直この状況に陥ったことへは同情していた。
 しかしそんな非道なことをしていたのならば、話は別だ。
 全然同情する余地なんてない。
 今すぐ死ねばいい、とまで思った。
 彼は声を震わせ、体全体も動揺させながら、
「……何で分かるんだよ……」
 と呟いた。
 それに対して溝渕さんは毅然と言い切る。
「この自殺室では、一番自分が死にたくない方法で死ななければならないんだ。だから自分が一番屈辱だと思うシチュエーションが出現するんだ」
 彼はキッと唇を噛んでから、
「そんな方法では死なねぇ! 舌を噛みきって死んでやる! ……うっ! うぅっ! うっ! ……全然噛みきれねぇ!」
「それ以外の方法は全て閉ざされるからね」
「じゃあ死なねぇでそのまま生き続ける! ざまみろ! それでいいだろ!」
「残念、いずれ死ぬんだ。その場合は最後まで意識を持った状態で苦しんで苦しんで死ぬんだよ。ほら、睡眠薬を飲んで便器に顔を出せば、最後の部分は苦しまず死ねるよ」
 溝渕さんは淡々としている。
 表情も変に厳しくは無い。
 全てを案じているような、そんな面持ち。
 僕は正直ハラワタ煮えくり返るような気持ちだが、溝渕さんからはそう言った怒りのような部分は感じられない。
 それがまた死神のような、本物の死神のような気がした。
 いや待てよ、溝渕さんは本当にこの自殺室の番人なのでは。
 見世物小屋として運営している側が用意した、案内人なのでは。
 そりゃまっとうな仕事じゃないけども、高い賃金をもらって行なっている仕事なのでは。
 いや、そんなことを考えることも無駄だ。
 全部無駄なんだ。
 きっとこの死のうとしない彼に対して、思っているこの気持ちも無駄なんだ。
 無になろう。
 なんとか無になろう。
 そんなことを考えながら見ている。
 彼はもう僕のことなんて気にせず、溝渕さんのほうだけ向いて叫んでいる。
「何だよ! どういうことだよ!」
「さぁ、実際あまり時間は無いんだ。早く睡眠薬を飲むべきだ。そうすれば最後は苦しまなくて済む」
「ちゃんと説明しろよ!」
「説明したところで君は理解できないだろうから。というか説明することもそんな無いんだ。俺は死神として君が死ねばどうでもいいだけだからね。でも苦しまず死ねるように、ちゃんと用意をしてあげているだけなんだ。むしろ感謝してほしい」
 彼はワナワナと唇を歪ませている。
 溝渕さんの誤魔化す言いっぷりが死神感をより醸し出している。
 多分この死神役をやりすぎて、こんな言いっぷりになったんだろうな、溝渕さんは。そう考えるようにしよう。
 さて、この彼はどうするか、と思って見ていると、彼は急に水洗便器のほうへ向かってゆっくり歩き出したので、僕はつい声を出してしまった。
「どうしたの、君。何か水洗便器のほうへ歩いていって」
 鬼気迫る表情で彼は、
「体が勝手に!」
 と叫んだ。
 それに対して溝渕さんはやれやれといった感じに、少々呆れながら、
「まあある意味、自分で死ななくていいから楽だけどね、そうなると」
 彼は慌てながら、腕を大きく動かしながら、
「待って! 待ってくれ! 睡眠薬を持ってきてくれ! 今から飲むから! 待ってくれぇぇえええ!」
 僕は走って手洗い場にあった錠剤が入った瓶を持った。
 本来モノに触れられない僕が、錠剤が入った瓶に触れることができたのは、きっと僕自身に今、この瞬間だけは死ぬ気が無いからなのだろうか。
 まあ理由はどうでもいい。
 僕は急いで持ってきたが、時既に遅し。
 彼は自ら水洗便器に顔をつけ、溺死を遂行していた。
「うばぁばぁばぁばぁばぁばぁがぁっぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁ……、……、……」
 彼は最初、排泄物ほどに汚い声を上げていたが、いつか声は出なくなり、その場でぐったりした。
「あーぁ、あの時に言う通りにすればまだ間に合ったのに。まあこれでおしまいだね」
 溝渕さんがそう言ったその時、動かなくなった彼は、急に砂のようにボロボロと崩れだして、自殺室のこの空間と共に風化し、彼が完全に消え去った時にはまた自殺室は真っ白い空間に戻った。
「次は物分かりのいい子がいいね」
 そう言って溝渕さんは部屋の隅に体育座りをした。
 こんな光景を見ると、なおも死にたくなる。
 もう見たくない。
 早く死にたい。
 でもきっと、そう願うほど死ねないんだろうな。
 果たして、僕は死ねる時が来るのだろうか。


・【会話】

 僕は多分というか絶対にメンタルが弱いと思う。
 だからこそ自分から言い出さないと気が済まなかった。
「僕も、溝渕さんと一緒で、自ら低い点数を取りました」
 その場に座り込んでいる僕の近くにやって来て、座った溝渕さんは優しい声でこう言った。
「最初から分かっているよ。君は俺にそっくりだからな。辛いなら言わなくてもいい」
 でも僕はもう堰が切れたように言葉が喉奥から溢れてきた。
「僕のせいで女子が、光莉が死にました。それを知ったのも時間がだいぶ経ってからで。自分の不甲斐なさが憎いです。何で自分のことばかり考えていたのか。何でもっと周りのことを気に掛けることができなかったのか。後悔しています。でももう遅いので死にたいんです。それなのに死ぬことはまだ早いと言われているように死ねなくて。こんな死ぬことさえできない無力な自分が心底嫌いです」
 溝渕さんは静かに頷いていた。真剣な表情で。
 喋り切った僕の肩を優しく叩きながら、溝渕さんは、
「まず第一に、光莉という女子が死んだのは田中くんのせいじゃないよ。それだけは言える。詳しくは知らないが、絶対に違う。見殺しにしたわけでもない。君のせいということはあり得ない事なんだよ」
 何だか、まるで溝渕さんが自分に言い聞かせるように確実に語っているような気もした。
 溝渕さんがそう思おうとしているといった感じだ。
 そう考えてしまう僕はきっと性格が悪いんだと思う。
 そのくせ狡猾なほど世渡りが上手いわけでもなく。
 こんなクソみたいな人格のところも大嫌いだ。僕は本当にクズだと思う。
 そんな僕の心の中は露知らず、溝渕さんはまた、ゆっくり、言葉をかみしめるように語り出した。
「人間は気付かないもんだ。自分の不幸にだって気付けないことが多いんだから、他人の気持ちならなおさらだ。勿論俺も今、田中くんの気持ちは一切分からない。何故、こんなに喋ったのかも分からない。でも言いたいことがあれば言ってもいいし、言いたくなければ言わなきゃいい。適当に暇潰しがしたければ、俺に何か聞いてもいいし、二度と会話しなくてもいい。とは言え、他の生徒が来た時はきっと喋ることになると思うがな」
 そう自嘲気味に笑った溝渕さん。
 まあ確かに誰か来たら喋ることになるだろうけども。
 溝渕さんは総じて優しい、だからこそ僕に似ているなんて思ったら自分で自分のこと優しいと言っている痛いヤツだけども。
 でももし誰かのことを想うような人間でなければ、僕は今ものうのうとこの学校で生きていたのかな。
 いやそんなIFなんて、もしかしたらなんて存在しない。
 僕はずっと僕だから、こんなことにもなってしまっているんだ。
 今更変わることはきっとできない。
 だからこれから一生僕はこの自殺室にいることになるんだと思う。
 一生というか死ねず、生き続けるんだろう。
 それとも溝渕さんと接していくうちに、何か変われるようになるのだろうか。
 いや変われないと思う。
 でも変わるとしたら溝渕さんと交流するしかないと思う。
 溝渕さんは第一印象ほど嫌な人ではないし、この人と会話していけば何か生きたい……って、思うかぁ?
 溝渕さんが良い人なことは分かる。
 でも交流することによって生きたいと思うことは無いだろう。
 それとも一緒に何か面白い暇潰しを発見して、ずっとその暇潰しがやりたいね、ってなって、一生生きてこの暇潰しやっていきましょうってなって、死ねたりするかぁ?
 いやしないだろ、正直僕も溝渕さんもそんなバカじゃない。
 そんなバカなら悩んでいないと思うし、そもそもこの学校に入学できていないと思う。
 でも変えるには何かを変えないといけない。
 ということは溝渕さんと会話してみることも手かもしれない、と思ったところで、何だか部屋の空気が変わったような感覚がした。


・【ナルシスト】

 自殺室にまた一人、入ってきた。
 男子生徒だ。
 その瞬間に自殺室は様変わりした。
 自分の姿が乱反射する鏡張りの部屋だとは思うんだけども、その鏡は粉々といっていいほどひび割れていた。
 どう考えても、その男子生徒がいつもいた場所みたいな感じじゃなくて、これはどういった記憶なんだろうと思っていると、
「自殺室はこんなもったいないところなのか! 鏡にひびが割れてしまっている! 割れていなければ美しいオレが見放題なのに!」
 この言動である程度分かったけども、どうやらナルシストっぽい人らしい。
 確かに見た目も、男子にしては長めの髪の毛に、耳にはピアス、口紅もほのかに引いているようにも見える。
 まあいわゆるイケメンで、眉毛は自分で整えているみたいだ。
 そして今の言動、ナルシストっぽいと最初に思ったが、見れば見るほど完全にナルシストだ。
 でも
《溝渕さん、ナルシストだと思うんですけども、何で鏡がひび割れているんですかね?》
《それは自分が嫌だと思う空間が自殺室に現れやすいからだと思うよ。鏡張りはいいけども、それがひび割れていたら普通の部屋よりも彼は嫌だと思うんじゃないかな》
 なるほど、と僕は納得した。
 確かにその通りだと思う。
 ということはこのナルシストの彼は、最初の彼とは違って、誰かをイジメたり、苦しめたりしていないのかもしれない。
 何故ならそういった場面になっていないし、要素も出現していないから。
 ……いや今は急に空間が変わったことに対してリアクションしてしまったが、僕はそこ以外にも気になっていることがあったので、溝渕さんに聞いてみることにした。
《すみません、何か人がやって来るスパン早くないですか? この学校って三学期を五で分けて、計十五回ですよね。今やっと僕の中の一人目が終わって、ちょっと溝渕さんと会話していたらすぐ来ましたよね。どういうことなんですか?》
《どうやら時間経過が一定じゃないみたいなんだ。俺も未だに面喰らう時があるよ。今がまさにそうだな。だから時間経過は今までここにやって来た人数を数えるしかないんだ》
《ということは溝渕さんは七年間ここにいると言いましたが、七年間分ずっと同じ時間が流れたわけじゃないんですね》
《その通り。体感だと一年弱といったところかな。それでも長いがな》
 これを聞いてなおさら僕は、この自殺室が見世物小屋なんじゃないかなと思えてきた。
 でもどう考えてもハイテクノロジー、いや、オーバーテクノロジーだ。
 そんなことが実際に可能なのか、でも溝渕さんが嘘をついているようにも思えない。
 いや、溝渕さんがこの自殺室の本当の番人で、雇われてやっている人という可能性もゼロではないけども。
 だけど溝渕さんのあの時の、自分に言い聞かせるように語った声などから察するに、やっぱり溝渕さんもこの自殺室に振り回されているだけの人といった感じもする。
 そんなことを考えていると、溝渕さんがアゴを触りながら、こう言った。
《まあこの空間の話に戻してさ、大切なのはあの中央の紐だね》
 溝渕さんの視線の先を見ると、確かに一本の紐、縄のような紐がぶらさがっていた。
 まるで蛍光灯からぶらさがる紐だ。
 なんとなしにその紐の上を見ると僕は驚愕した。
 溝渕さんも気付いていたようで、先に声を出したのは溝渕さんのほうだった。
《あれは鉄槌かな?》
 巨大な鉄っぽい何かが上部に設置されていた。
 もしかするとこの紐を引っ張ると、溝渕さん曰く鉄槌が降ってくるということなのか。
 だとしたら圧死という、かなり壮絶な死に方で、その瞬間僕は、彼が何かやらかしていることに気付いてしまった。
 絶対この鉄槌という死に方には意味があるはずだ。
 前回から学んだ、ある意味唯一のことだ。
 僕は溝渕さんにゆっくりと聞いた。
《いつ僕たちは顔を出せばいいですかね?》
《まあもう少し様子を見ようじゃないか。何も気付かず、紐を引っ張って死んでくれればそれでいいわけだし》
 溝渕さんも紐を引っ張れば鉄槌が落ちてくると分かっているみたいだ。
 まあ当たり前か、溝渕さんのほうがここでの生活は長いし、そもそも鉄槌と言ったのは溝渕さんのほうだ。
「こんなところで裸になったって、鏡がひび割れのせいで、何だかオレの体がバラバラになっているみたいで嫌だろうが!」
 僕は彼のこの台詞を拾って溝渕さんに投げかけた。
《醜い自分を見せるみたいな話なんですかね、この自殺室の意図していることは》
《まあ基本はそうだろうな。一番嫌がるシチュエーションになるからな。そもそも圧死は自分の肉体が残らない死に方だ。だから窒息の溺死とかではなくて、肉体がめちゃめちゃになる死に方をしなければならないんだろう》
 なんて残酷な部屋なんだ。
 いや分かっていたけども。
 でも何故そこまで徹底的に精神を破壊する方向を向いているのか。
 まあ見世物小屋ならそうなんだろうけども。
「そもそも何だこのボロボロの汚い紐、腐った神社の縄じゃん」
 そう言いながらナルシストの彼は上を向き、鉄槌に気付いた。
「えっ、まさかこれで死ねということか……そんなん嫌に決まってるだろ! オレは死ぬにしても美しく死にたいんだ! 首吊りがいい! 神が世界を諦めたように静かに息を引き取りたいんだよ! この縄を首吊り用に加工……なんてできるか! 台が無いだろ! 台が!」
 溝渕さんが困った顔をしながら、こう言った。
《やっぱりこっちで導かないといけないみたいだね。ところで、どうする? 田中くん》
《何ですか?》
《よくよく考えたら田中くんは姿を現さなくても、別にいいと思うんだけども、俺と一緒に姿を現すかい?》
 確かに僕が姿を現す利点は特に無い。
 前回は溝渕さんに促された以外にも僕自身いろいろ試したかった部分もあって、即決で姿を現したけども、また今回も僕の過去をとやかく言い始めるヤツだったら嫌だな。
 でも溝渕さんだけに頼ってしまうのも、どうかと思ってしまう自分がいて。
 死にたくなる役目を溝渕さんだけに背負わせて、自分だけはのうのうと生きるなんてことは正直苦手だ。
 少なくても今は苦手なんだ。
 こんなことが光莉への罪滅ぼしになるとは到底思わないけども、でも今は人と関わる道を選びたい。
 人と関わらなければ変わることなんて絶対に無いわけだから、
《僕も何か手伝えることがあるかもしれないので、姿を現します》
 そう伝えると、溝渕さんは耳のあたりを掻きながら、
《あんまり根詰めないようにね。こんな場所で根詰めても意味無いから》
 そして溝渕さんは僕の目の前で、そしてナルシストの彼の目の前で一段階クリアになって、姿を現した。
 僕はそれに続き、姿を見せた。
 急に現れた男二人にナルシストの彼は大層驚くものだと思っていたが、意外と彼は冷静に、
「何だ。神様の登場か? オレを正しい死に方に導いてくれるのか?」
 きっと自分の望む形、首吊りさせてくれる神様だと思っているようだけども、それは全然違う。
 まず溝渕さんが語り出した。
「俺は死神だ。オマエの死に方を教えにやって来た」
 ナルシストの彼の表情から察するに、田中信太という人間のことを知らないみたいだ。
 だから僕は堂々と言い放った。
「僕は死神の見習いです。よろしくお願いします」
 それに対してナルシストの彼は、
「なるほど、神は神でも死神か。まあいいだろう。オレと対話するには相応しい存在だ」
 と偉そうに言い切った。
 どうやらかなりの自信家で、自分が特別な存在と思っているみたいだ。
 神と対話するレベルの人間みたいな。
 まあ実際僕らはただの死ねなかった元・生徒なんだけども。
 溝渕さんは続ける。
「オマエはこの紐を自ら引っ張って、上にある鉄槌に押し潰されて死ぬ運命だ。さぁ、紐を引っ張るといい」
 彼は舌打ちをしてから、こう言った。
「そんなはずないだろ。もっと美しい死に方があるはずだ。オレはこんな死に方、絶対にしたくない」
 それに溝渕さんはすぐに応戦する。
「残念だったな。この空間は自分が一番死にたくない方法で死ぬしかないんだ。オマエが死ぬ方法はこれ以外には無い。舌を噛み切ろうとしても噛み切れないし、鏡に頭をぶつけても死ねないだろう」
「どっちにしろそんな汚い死に方はしねぇよ、オマエ、死神の割に一方通行なんだな」
 実際は死神じゃないし、死神なら一方通行だろ、と思いながら、僕も何か言うことにした。
「あの鉄槌は非常に大きい鉄だから、死ぬ時は一瞬だと思う。苦しまずに死ねるだけ有難いと思ったほうがいいよ」
 ナルシストの彼は大きな溜息をついてから、こう言った。
「美しく死にたいんだよ!」
 僕は間髪入れず、
「死に方なんてどうでもいいじゃないか。それよりも苦しまずに死ねるなんて幸せなことだよ。この空間では、ね」
 そう苦しまずに死ねるなんて、本当に幸せなことだと思う。
 あんな意識のある状態で、自分で水洗便器に顔を付けるなんて、考えただけでも恐ろしい。
 さらに僕と溝渕さんに関して言えば、こんなに死にたいのに、死ねていないわけだから。
 苦しまずに死ねる、それは素晴らしいことだと思う。
 しかし当の本人には何も伝わらないもので、
「オレはあんなもんで死ぬ理由が無い! オレは絶対に美しく死ねる方法を探す! そりゃ生きたいが死ぬなら美しくだ!」
 と彼が叫んだところで、溝渕さんが咳払いをしてから語り出した。
「いや……これで死ぬ理由はあるんだ。オマエ、出る杭を打って、要は他者の足を引っ張っていただろ?」
 その溝渕さんの一言に表情が変わったナルシストの彼。
 一瞬にして青ざめたことによって、それが図星だということが分かった。
 溝渕さんは続ける。
「出る杭を打って、他人の邪魔をした人間は、鉄槌で死ぬ運命なんだよ」
 その時、溝渕さんがすぐにあれを鉄槌と分かった理由が分かった。
 こういう人は過去にもいたんだ。
 だからあれが鉄槌だということをすぐに理解できたんだ。
 溝渕さんはさらに、
「自分で引っ張れば楽に死ぬことができる。さぁ、君はここで、これで自殺するんだ。今すぐ」
 それに対してナルシストの彼は歯を食いしばってから、
「嫌だ……ぐちゃぐちゃになんてなりたくない……オレはカッコイイんだ……最高にカッコイイまま死ぬんだよ!」
「カッコ悪いよ」
 自分で気付いた時には、自分の口から言葉が出ていた。
 そこからするすると、まるで自分じゃないように言葉が溢れてきた。
「君はカッコ悪いよ。人の邪魔をするなんて。仮に君がナルシストならナルシストらしく自分を鍛えるべきだよ。なんで出る杭を打つんだ。そんなチマチマしたことをやっているから、そんなチマチマしたことに気を掛けているからダメなんじゃないかな。もしそのことに悔いがあるなら、自ら杭を打たれて死ぬべきだ。さぁ、自分に終止符を打つんだ」
 明らかにたじろいでいるナルシストの彼。
 いやしかし戦々恐々としているが、まだ目は死んでいないといった感じだ。
 そして彼は叫んだ。
「うるせぇ! オレはカッコイイ自分でいたかっただけなんだよ! カッコイイ自分を際立たせるにはモブが必要だろ! でもモブがいねぇんだよ! じゃあモブを自分で作るしかねぇじゃねぇかよぉ! だって入学はできたんだ! だからオレはイケるはずなんだよぉぉおおおおおおおお!」
 入学はできた。
 それが地獄の始まりなんだな、と思った。
 そして光莉も入学できてしまった。
 そのせいで、こんなことになってしまった。
 入学できてしまったことは不運だけども、だけども
「カッコイイ自分は自分が頑張ることでしか作れないでしょう、人を蹴落とした時点で、もうカッコ悪いんだよ」
「うわぁぁぁああああああああああああああああああああああああああ!」
 そううめき声を上げ、頭を抱えて、その場に座り込んだ彼。
 下を向いたまま、彼は声を搾り出すように喋りだした。
「死神のどっちか……オマエらが紐を引っ張ってくれ……」
 溝渕さんが淡々と言う。
「ダメだ。ここは自殺室なんだ。我々は基本的にモノも人間にも触れることはできない。自殺室だから、自ら死のうとしなければならないんだ。もし死のうとしなければ、自分の体が勝手に動いて自殺しようとするんだ」
 それに対してナルシストの彼は何か浮かんだような表情をしながら顔を上げた。
「じゃあそれでいいじゃん……自分の体が勝手に動くんだろ? それならそれに任せて死ねばいいじゃん……」
 確かにそうだ、そう言われて僕もそう思った。
 今回は鉄槌が上から降ってくるだけ。
 それなら結果は一緒だ。
 圧死は一瞬だ。
 僕もそれに賛同するようなことを言おうとしたその時だった。
 溝渕さんが少し圧を掛けるように、こう言った。
「ダメだ。今すぐ自ら死になさい」
 ナルシストの彼は当然、
「嫌だ……自分からいくなんてそもそもプライドが許さない。オレはそもそも死にたくはないんだよ!」
 純粋に死にたくないと言えるところが羨ましいと思いつつも、それはまあそれでいいんじゃないか、と思ったその時だった。
「おっ、何か、勝手に体が立ち上がったぞ」
 そう言いながら、しゃがんでいたナルシストの彼は立ち上がった。
 その瞬間、溝渕さんは叫んだ。
「クソッ! 勝手に動くことを認めたせいで早まったか! 早く自分で引っ張るんだ! まだ間に合う!」
 ナルシストの彼は掠れた笑いをしてから、
「いいよ、自分から死にいくなんて雑魚じゃないんだから、そもそも無理だわ、勝手に動くならそれでいい」
 自分から死にいくなんて雑魚。
 その言葉に激高しそうになった刹那、そのナルシストの彼は紐を引っ張った。
 僕は激高する暇なく、彼は圧死……していない。
 なんと鉄槌は彼に当たるまで高速で降ってきたはずなのに、彼に当たった瞬間からスローモーションになったのだ。
 さらに
「あがががががががががぁぁぁぁあああああああああああああああああ!」
 痛み、そしてその声は、きっとスローモーションにはなっていない。
 現実の時間そのままに、痛みを感じているようだった。
 つまりはじっくりと激痛が走っているような。
「助けてくれぇ! 助けてくれぇ! 助けてくれぇぇぇえええええええええええええ!」
 徐々に彼の肉片は飛び散り始めた。
 飛び散った肉片はひび割れた鏡に乱反射して、気持ちが悪い。
 でもそのスローモーションで飛ぶ肉片に当たりたくないので、僕は目を開けて、かわしていた。
 多分当たっても触れられないとは思うんだけども、その確証も無いので、かわしたかった。
 鉄槌が彼の目のあたりにいったところで、目玉は飛び出て、ゆっくりとそれもスローに回転。
「視界がぁぁぁぁあああああああああああああああぁぁぁぁあ! オレが! 潰されていくぅぅうううう!」
 どうやら目玉と彼の意識は繋がっているようで、目玉が回転し、自分の姿が目に映るようになったみたいだ。
 そのタイミングで目玉の回転はさらにゆっくり、というよりも停止し、自分が潰されていく姿を視ていく形になった。
「醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! ぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!」
 まだ口も喉も潰れていない。
 本当に遅く、鈍足で鉄槌は降ってくる。
 でもしっかり潰す力はあり、どんどん四方八方に飛んでいく。
 ここで溝渕さんが喋りだした。
「ほら見てみろ。自分で死ねばすぐに圧死できたんだがな」
 自殺室はまるで断罪だ。
 でもそれは多分神様の鉄槌ではない。
 見世物小屋としての嘲笑の鉄槌なのだ。
 こんなところで生きていかなければならない僕は一体どうすればいいんだ。
 死にたいんだ。
 今日も今日とて死にたいんだ。
 鉄槌が一番下まできた時に、世界は風化して、元の白い部屋に戻った。
 自殺室はまるで断罪だ。
 じゃあ僕には断罪されるべきことが無かったのか。
 あるんだよ。
 僕は断罪されるべきなんだよ。
 光莉を守れなかった僕は誰よりも先に断罪されるべきなのに。


・【想う呟き】

 僕はふと、
「光莉……」
 と声が漏れ出るように呟いてしまった。
 自分で言っててキモイと思ってしまったんだけども、溝渕さんは僕の言葉に反応して喋り始めた。
「相当後悔しているんだな」
「していますよ、溝渕さんもそうですよね」
 そう自分のキモさをかき消すため、あえて切り返すと、溝渕さんはアゴを触りながら、
「当然だろ。俺も後悔しているよ。どうする? この流れ。田中くんが喋るか、俺が喋るか」
 僕はもしかしたら前にいた女子生徒というヤツは、溝渕さんの話を聞いてから死んでいったのかもしれないと思ったので、
「溝渕さんが過去を喋っていいと思うなら、喋ってくれると有難いです」
 と答えると、溝渕さんに座ることを促されたので、座り、溝渕さんも近くに座ってから口を改めて開いた。
「元々俺は極貧街の出身で、食べることは勿論、寝ることもままならなかった。ずっと厳しい労働を子供の頃から強いられてな。その時に出会った上流階級の娘、それが俺と一緒にこの高校へ入ることになった朝子(あさこ)という女子だ」
 当たり前だけども、僕とはちょっと違う境遇だ。まあ全部合っているほうがおかしいけども。
 溝渕さんは続ける。
「俺は毎日、朝子からパンをもらっていた。また時間がある時は勉強を教えてもらってな。そこで計算ができるようになって、肉体労働から頭脳労働へ徐々にシフトチェンジできるようになっていったんだ。勿論、どっちにしろ子供が働くのは法律違反だが、そういうことを言ってられる世界観じゃなかったからな」
 僕は静かに頷く。
 溝渕さんもそれ以上は求めないで、語り続ける。
「そんなある日、朝子は俺にパンを与え、勉強を教えていることを朝子の両親に知られたんだ。俺はどうなったと思う?」
 急な質問文に少々驚いてしまって、その場に固まってしまうと、
「何、ちょっとクイズ形式であったほうが会話も捗るだろと思っただけだ。でもどうせ暇だろ? ここは俺にとって転機になったところだから、考えてみてくれよ」
 そう言って笑った溝渕さん。
 なりに、という言葉は上から目線みたいで好きじゃないんだけども、溝渕さんなりに僕へ歩み寄ってきてくれているのかなと思って、僕は、
「分かりました。ちょっと考えてみますね」
 と言ってから、無意識に腕を組んでしまい、すぐさま腕を解いてぶらんぶらんとさせた。
 それに対して溝渕さんは、
「別に腕くらい組んでいいよ、それ見て偉そうだなとか思わないし。俺が年上かどうかなんて気にしなくていいからな。年齢なんてこの場に相応しくない。あるのは同じ立場だということだけだ」
「同じ立場ですか」
「そうだ、田中くんはスポーツとか観戦するかい?」
「あんまり興味はありませんでしたね」
「でも相手のことを敵とか、敵地と言ったり、アウェイと言ったりすることは知っているだろう」
 僕はうんうんと相槌を打ちながら、
「それは知識として知っています」
「でも実際は敵ではないんだよ、同じ立場なだけ。同じ立場だからいがみ合っているようになっているが、本当は全員が全員、共通の話題がある仲間なんだよ」
「何だか平和な考え方ですね、この学校には合わないと思います」
「その通り。なんせ俺もこの考えになったのはこの自殺室に来てからだからな。だから俺は自殺室に来てしまった生徒にはできるだけ安らかに死んでほしいんだ。まあ実際は俺や田中くんとは立場は違うんだが、でもまあ同じと言えば同じだ。同じ仲間として、嘘をついても優しくありたいのさ」
 正直こういうところだと思った。
 溝渕さんが自殺室で死ねない理由って。
 そしてその素養がきっと僕にもあって。
 優し過ぎて、自分を殺したくなるから死ねないんだ。
 そんなことを考えていると、溝渕さんはふとこう言った。
「でも勝ち負けというものはある。その場合、自殺した生徒が勝ちで俺や田中くんが負けなのか。それとも生きたいのに死んだ生徒が負けで、さらに死にたいのに生きている俺と田中くんも負けなのか。まあ自殺室に来る時点で負けなんだろうな」
「そうですね」
 曖昧に頷きが、ここはあえて口に出して返事をした、と、たっぷり意識をしたわけじゃないんだけども、この言葉はさらりと口から流れ出た。
 僕の相槌に溝渕さんはフッと笑ってから、
「そういうことだよな」
 と一瞬伏し目になってから、
「そうだ、そうだ、田中くん。話は俺のクイズからだったな、シンキングタイムも終了だ。答えは出たかな」
「いやシンキングタイムの話が考えさせられる話でクイズどころじゃなかったですよ」
「そうか、確かにノイズにはなっていたかもな。じゃあ改めて考えてほしい」
 さて、じゃあちゃんと思考してみよう。
 溝渕さんは結果的に朝子さんと一緒にこの学校に入っているわけだから、仲違いしたわけではないだろう。
 ということは関係は継続していると考えることが自然だろう。
 でもここをクイズに出したということは、何か特殊なことが起きた可能性もある。
 それか言葉か、関係は継続したけども変わった言葉を言われたというパターンもあるだろう、と思ったところで溝渕さんが、
「今考えている思考を教えてくれないか、競技クイズやクイズ番組でも、答えたあとの感想戦があるけども、今は二人きりだ。思考途中の式を教えてくれないかな?」
 僕は今考えていたことをそのまま言葉にすると、溝渕さんはニヤッと笑ってから、
「やっぱり田中くんは賢いな、その方向性で当たりだ。もしかしたら正解しちゃうかもしれないな」
 まず合っていたということが嬉しかったし、何だか少し楽しくなった。
 だからって生きたくなるほどではないが、正直今はこの答えを聞かずには死にたくない。
 やっぱり人と関わるってことは良いことなのかもしれない、そんなことを考えてから僕はもっと深く思考することにした。
 言葉、何を言われたか、もしかすると”男女としてお似合い”みたいなことかもしれない。
 これは結構意外だと思う。両親から急にこんなこと言われたらビックリするだろうし。
 でも溝渕さんの表情を見ると、何だか余裕そうだ。
 絶対当たらないだろうみたいな面持ちをしている。
 というと、この案はナシか。
 言うてもありがちではあるから、男女の関係として褒めるというのは。
 そもそも溝渕さんがそんな自慢のようなことを言うとは思えないところもあって。
 きっと酷いことを言われたんだろう、でも酷いことを言われた上で関係を継続するってどういうこと?
 そうか、分かった。酷いことを言われたけども、それとは別に関係を続けたということだ。
 後はどんな酷いことを言われたのか……って、それを思いついたとして口にすることは何か失礼だな、というわけで、
「分かりました。溝渕さん。酷いことを言われたけども、朝子さんとの関係を継続したということですね」
「じゃあその酷いこととはなんだ?」
「それを言ったら失礼になると思うので、考えてませんでした」
「田中くんは優しい人間だな。そんなに優しいと苦労するぞ」
「まあもうしていますけどね、この自殺室で生きてしまうという苦労を」
「時にはバサッと切り捨てることも大切だけどな、って、先生みたいなことを言ってしまってウザかったな。申し訳ない」
 そう言って頭を下げた溝渕さん。
 いやいや、
「全然大丈夫ですよ。僕からしたら、いくら立場が同じでも先輩は先輩なので、いろいろ言って頂けるほうが有難いくらいです」
「先輩といっても留年している先輩みたいなもんだけどな」
 と言って優しく笑った溝渕さん。
 溝渕さんにはずっと温かみがある。
 こんな人と、もっと早く、できればこんなところじゃない場所で出会いたかった。
 もし生まれ変われるなら僕はこんな先輩と一緒に人生を謳歌したいと思った。
 溝渕さんはアゴのあたりを触ってから、
「じゃあ答えを言うかな。あんまりもったいぶっているとハードルが上がってしまうからな」
 僕は一丁前にドキドキしてきた。
 どんな答えなのか、結構楽しみになってきていたからだ。
 溝渕さんは一瞬首をコクンと縦に動かしてから喋り始めた。
「正解は、朝子の両親から『子供のうちから人間を飼うことはいいことだ』と言われたでしたー」
 明るく言い放った溝渕さんとは対照的に僕は背筋が凍った。
 『子供のうちから人間を飼うことはいいことだ』なんて、まともな人間の言う台詞ではない。倫理観が完全に崩壊している。
 そうか、飼うことはいいことだからそのまま関係を継続するわけか。なんて異常性だ。
 僕はきっと張り詰めたような表情をしていたのだろう、溝渕さんは優しく首を横に振ってからこう言った。
「笑ってくれよ、だって異常だっただろ?」
「……笑えませんよ、異常過ぎて」
「笑いって裏切りだろ? 結構な裏切りだっただろう」
「そうですね、ありえないと思いました」
「でもそれが転機になって俺と朝子は公然の関係になって、勉強も捗ったし、美味しい食事を朝子の家族に交じって食べることもできるようになった。さらに朝子の屋敷の使用人にもなれて、生活が安定したんだ」
 『子供のうちから人間を飼うことはいいことだ』って言葉、子供のうちからという部分から察するに朝子さんの両親は人と関わることを”人間を飼う”と考えているんだろう。
 全て使用する立場ということ。正直僕とは全然立場が違うと思ったし、もしこの自殺室が見世物小屋ならそういう階級の人間が見ているだろうなと思った。
 溝渕さんは一回手を優しく合わせ、改めてといった感じに喋り始めた。
「じゃあ話を続けるか。そして俺と朝子はこの高校へ一緒に入学することになったんだ。朝子の家は高校生の年齢になったら必ずこの高校へ入学する習わしだったらしい」
 そのことについては何だかもうそうだろうなと思った。
 そんな両親なら当然のように卒業生だろうなと思ってしまった。
「最初は俺も朝子の成績も良かったが、朝子があまりにも厳しい環境に体調を崩し、その結果成績も下がっていったんだ。劣悪慣れしていなかったということだな」
 そんなものには慣れたくないけども、確かに慣れている慣れていないは大きなターニングポイントではあると思う。
「で、ずっと付きっ切りで朝子の傍にいたら、朝子から『まるで私が飼われてるみたいじゃない!』と言われたんだよ。さすがにこれには俺も傷ついてさ」
 そう昔を懐かしむように天井のほうを見ながら言った溝渕さん。遠い目をしている。
 でも確かにそうだと思う。朝子さんからも『飼われている』という言葉が出たら、じゃあずっとそうだったのかと思ってしまうから。傷つくということは朝子さんからは言われたことなかったんだろう。
「俺はさ、やっぱりそういう関係じゃなくて友達だと思っていたから。朝子から心の奥でそう思われていたことが悔しかったんだよ」
 僕が思った通りのことをすぐに言った溝渕さん。
 もし僕も光莉から『私が飼ってたから構ってただけ』とか言われたら、心臓が重くなるくらい苦しいだろうな。
「そこから仲違いして俺は成績優秀を一人で維持し。でも気付いた時には朝子は自殺室で死んでいたんだ。その時に思ったよ、失敗したって」
 全て語り終えたといった感じに、小さく一礼をした溝渕さん。
 でもすぐに溝渕さんは口を開き、
「きっと突発的に、思ってもない言葉が出てしまっただけなのかもしれないな、って今は思うよ。思おうとしているだけかもしれないけども」
「いや、実際に思ってもない言葉を言ってしまっただけだと思いますよ。朝子さんは」
「そう言ってくれて有難う」
 溝渕さんは優しく微笑んだ。
 あまりにも綺麗な瞳だったので、つい視線を外してしまった。


・【好意】

 今回、この自殺室に入ってきた人は女子生徒だった。
 しかし彼女が入ってきても、部屋に変化は無い。
 いや、あった。
 部屋の中央に白いテーブルが出てきて、錠剤の入った瓶とコップ一杯の水が出現した。
 それだけ。
 基本的に白い空間のままということは、死にたくないとは思っているけども、死にたい気持ちも少しは持っているみたいな、半々の人なのかもしれない。
 ちなみにあの錠剤は、普通の毒薬だと思われる。
 何故なら錠剤が瓶の中に一個しか入っていなくて、水も一杯しかないからだ。
 それを飲んで終われるみたいだ。
 僕は、そんなに苦しんでいるところを見なくて済むんだ、と思って胸をなで下ろしていると、
「あれ、田中信太くん……信太くんだよね?」
 と彼女に話し掛けられたので、僕は驚きながら溝渕さんへ向かって、
「あれ? 溝渕さん、僕、姿を現すように念じていないのに見られていますよ」
 と言うと、彼女は矢継ぎ早にこう言った。
「信太くん、誰と喋っているの?」
 どうやら溝渕さんは見えていないらしい。
 一体どういうことなんだろうと、少々挙動不審になっていると、溝渕さんがこう言った。
《田中くん、どうやら今回の人は、君に用がある人みたいだ。僕は黙っているとしよう》
 こんなイレギュラーもあるんだと思いつつも、この空間は不可解だらけなんだから、それを受け入れなければ。
 僕は一旦深呼吸をしてから、彼女のほうを向いて、
「あの……えっと、君は誰ですか……?」
 と、おそるおそる聞いてみると、彼女は優しく微笑みながら、
「私は菅野祥子。覚えていないかもしれないけども、信太くんと会話したこともあるんだよっ」
 しかし僕は正直彼女のことを全然覚えていない。
 そりゃそうだ。
 きっともっと大切だった光莉のことさえ、脳裏をかすめることなく没頭していたんだから。
 ここはちゃんと言ったほうがいいと思って、
「ゴメン、全然覚えていない」
 と俯いながら言うと、祥子さんは当たり前だよという感じに笑いながら、
「そりゃそうだよ、入学の最初だけだもん。それ以降は成績が違うからクラスも違って。でも、こうやって、死ぬ前にまた逢えた……嬉しい……」
 そう言って瞳に涙を溜めこんだ。
 まさか自分で嬉し泣きをしそうになっている人をみるなんて。
 僕なんて全然そんなことされていい人間じゃないのに。
 でもそれを謙遜のように否定することも違うので、
「喜んでくれてありがとう」
 と言って一礼すると、彼女は首を激しく横に振って、
「フフッ、困った顔しないで。私が一方的に信太くんのこと好きだっただけだからっ」
 好き。
 そんな短くて単純な言葉に、少し心が動かされた。
 自分のことを好いてくれている人がいたなんて、知らなかったから。
 僕は少しドギマギしながら、
「そ、そっか、僕のこと好きだったんだ……うん、そう言ってくれて嬉しいよ」
「信太くん、あの頃と一緒で受け答えが優しいね。私も嬉しい……というかもう……死にたいと思っていたけども、信太くんを見たら死にたくなくなってきた……何でいるの、決意が揺らいじゃうよ……」
「あっ、ゴメン……僕も自分ではよく分からないけども、この部屋は・・・」
「いやっでも!」
 と、僕がこの部屋と僕について説明をしようとしたところで、彼女は僕の言葉を制止し、喋り始めた。
 まるで何かを決心したかのような表情をしている。
 一体何をする気なんだろうか。
「もう……いることは受け入れるよ、うん……あのね、だからね、その、信太くん……」
 彼女は顔ばかりか体中を紅潮し、こっちを見ながら、こう言った。
「最期に、私の裸、見てくれないかな……」
 そう言って服を脱ぎ始めた彼女。
 僕はそれを止めようと、彼女の腕を掴もうとしたが、触れることはできなかった。
「やっぱり信太くんには触れられないんだね、なんとなくそう思ったよ。だって信太くん、私と違って透明感があるから」
「そ、それは、君が僕のことを好きだからじゃない、かな」
「ううん、何か違う。ここにいる信太くんは何か違うよ。本当は幻だと思っているよ、私」
 そう言いながらも、どんどん服を脱いでいく祥子さん。
 制服のリボンを外し、男子はよく知らないだろう位置のボタンをパチパチと外していく。
 あんなところにもボタンがあったんだ、みたいなバカなことを一瞬考えてしまう自分が少し嫌だ。
 ブレザーはもう床に落として、シャツとスカートだけになった祥子さん。
 僕はなんとか止めようと思って、喋り始めた。
「いや、幻ではないんだ。僕は今ここで自殺室に入ってきた人を自殺に導く案内人をしているんだ」
 すると祥子さんはフフッと笑ってから、
「何それ、幻だね」
 ちょっと脱ぐ手が止まった祥子さんに僕は畳みかける。
「幻じゃなくて、あの、僕は死にたくても死ねない状況なんだ。この自殺室は死にたい人は死ねなくて、生きたい人が死なないといけなくて」
「じゃあ幻だね、だって生きてるんだもん」
「生きてるから幻じゃないんだけども」
「信太くんは私にとって幻のような存在なの。まあこれは私だけの感覚だから言っても分かんないよね」
 確かに僕は幻じゃないと言っているのに、幻だと言い張る祥子さんに僕は混乱している。
 でも祥子さんの脱ぐ手は止まっているので、このまま喋っていくことにしよう。
「まあ幻云々はどうでもいいとして、この空間は早く自殺しようとしないと、居た堪れない死に方をしてしまうんだ。だから早くその毒薬を飲むべきなんだ」
「そんな急がせないでよ、せっかく最期に信太くんと出会えたのに」
「でも本当に、苦しみがずっと続くような死に方をしてしまうんだ」
「私は別にそれでもいいよ、だって信太くんと会話できる状況でしないほうが苦しいよ」
 そう言って自分の胸元をギュッと握った祥子さん。
 真に迫るその表情に、僕はドキッとした。
 祥子さんは続ける。
「というかずっと苦しかったんだ、信太くんとは住む世界が違って。何だか立場も違うような」
「同じ学校なんだから住む世界も立場も全く一緒だよ」
「ううん、違うよ、全然違うよ、ある意味住む世界が同じだからこそ遠さがより分かったよ」
 祥子さんの言う通り、多分クラスが違ったんだろう。
 この学校は成績ごとにクラスを分けているので、確かにクラスが違えば交流も基本無い。
 その交流が無くなってしまうせいで、僕は光莉のことを忘れてしまったんだ。
 いや、クラスのせいにしてはいけない。
 僕は注意散漫だった。
 光莉は光莉でそれなりに優秀だったので、絶対大丈夫だと思っていた。
 そう思ってしまった、そう妄信し、猛進したことが間違いだったんだ。
 祥子さんは少し心配そうな表情をしながら、こう言った。
「何かつらいこと思い出したの? 信太くん」
 ハッキリ心の中を見透かされていて、驚いていると、
「好きな人の考えていることくらい、顔を見れば分かるよっ」
 じゃあ僕は。
 僕は光莉の顔を見て、本当に光莉のことを分かっていたのか。
 光莉はいつも笑っていたけども、もしかしたら僕と一緒にいることは苦痛だったのか。
 楽しかったのは僕だけだったのか。
 僕が『一生一緒にいたい』と言ったから、光莉は無理してこの学校へ入学して。
 僕のせいでこうなってしまったんじゃないか。
 全部全部僕のせいで、ダメだ、ダメだ、ダメだ、死にたい。
 また襲ってきたこの気持ち。
 死にたいんだ。
 今日も死にたいんだ。
 死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだいじょうぶ?
 えっ?
「大丈夫?」
 気付いた時には祥子さんが僕を抱き締め、耳元で「大丈夫?」と囁いていた。
 今、祥子さんは僕に触れることができている。
 そのことに祥子さんも驚いているようで、
「ゴメン、信太くん。信太くんって幻じゃなかったんだね、本当に生きているんだね。心臓の鼓動が聞こえるよ」
 そう言ってから少し僕から離れて、顔を見せて笑ってくれた祥子さん。
 僕は何を言えばいいのか困惑していると、
「でも良かった。困惑してくれて。困惑って、困って惑わされてってことだもんね。心が私のほうを向いてくれて嬉しい」
「祥子さん、すみません……今ちょっと他のことを考えていて……本当はもっと祥子さんのことを考えないといけないんですけども」
「ううん、大丈夫だよ。信太くんの顔が大丈夫になってくれれば大丈夫。正直さっきつらそうだったもん。あんまりつらいことばかり考えないで」
「ありがとう」
 そう落ち着きを取り戻そうと、自分に言い聞かすようにそう言うと、祥子さんはコップを僕に差し出してきた。
「水を飲んで一旦休んで。私は薬を飲むにしても水が無くても大丈夫だから」
 僕はその祥子さんの好意を無下にできないという気持ちが大きくなって、促されるまま水を飲んだ。
 水を飲んだコップを白い机の上に置くと、案の定、また水が出現した。
「なるほど、そうなるんだね。面白い空間だね」
 そう言ってクスクス笑った祥子さん。
 どこか祥子さんは余裕がある。
 正直僕なんかよりもずっとずっと大きく感じた。
 だから、
「何で祥子さんはそんなに落ち着いていられるんですか?」
「もういいかなと思っているからかな。そりゃ死にたくないけども、死なないともいけないんだな、って」
 それがこの白い空間、白い机に、白い錠剤、白いコップなんだろうな。
 これなら長いこと、この空間にいても、苦しんで死ぬことはないのかもしれないな。
 要素も全然無いし。
 いやだからってこれ以上、脱がれても目のやり場に困ってしまうけども、と思ったタイミングで祥子さんがこう言った。
「じゃあ私、脱ぐね」
 そう言ってシャツのボタンにも手を掛け始めたので、僕は慌てながら、
「いやいや! 脱がないで! 脱がないで! というか何で脱ごうと思っているのっ?」
「だって、好きな人に自分の裸見てほしいじゃん」
「いやでも! 急にそんなのは困るよ!」
「困ってくれるのは大好き。いっぱい私のこと考えてほしいんだ」
 そう言って、どんどんボタンを外していく祥子さん。
 さっき祥子さんは僕に触れられたんだからと思って、僕は腕を掴もうとしたが、それはすり抜けてしまった。
 それに対して祥子さんは、
「何だか不思議。ずっと私に有利なように触れられたり触れられなかったり、この空間は天国かもしれないね。澄んだ良い空気だし」
 そう話しながら、スルスルと服を脱いでいく祥子さん。
 僕は目を逸らそうと思って、後ろを振り返ろうとしたその時に気付いてしまった。
 僕自身、動けなくなっていることに。
 というか瞬きもできなくなっている。
 まさか動きの制限が僕にも作用するなんて。
 硬直しつつ、その場で黙って立っていると、祥子さんはまた僕の異変に気付いたようで、
「もしかすると動けないの? 視線を動かすこともできないの? なんて私に有利なの……嬉しいなぁ……死にたくないなぁ、ずっとこうしていたいなぁ……」
 そして下着姿になった祥子さんを見て、僕はゾッとしてしまった。
 なんと、体中に生傷がたくさんあったからだ。
 その多分、ギョッとしてしまった僕を見た祥子さんはこう言った。
「あっ、そんな顔しないで。傷を見せたいわけじゃないんだ。ただただ裸を見てほしくて。信太くんにえっちな気持ちになってほしくて……でも無理だよね……ゴメン……」
 少し俯いてしまった祥子さんに僕は聞いてもいいかどうか迷ったけども、何だか聞かないと話が進まないような気がして、
「そのケガ、どうしたの?」
 祥子さんは俯きながら喋り始めた。
「この学校の成績下位なんて、みんなこんなもんだよ。いつか死ぬと思って、イジメが横行しているんだ。まあ本当に上位の人たちは自分にしか興味が無いから、信太くんみたいな人は知らなかったと思うけども」
 上位の人たちは自分にしか興味が無い。
 この言葉を聞いて僕も俯きたいが、今は俯けず、ずっと祥子さんの下着姿を見ている。
 祥子さんは少し顔を上げて、
「弱肉強食って本当に怖いよね、というかコイツは自分より下だと認識した時の人って本当に怖いよね」
 額を抑えながら喋る祥子さん。
「死にたくないけども、自殺室に来れて良かったなと思うところもちょっとあって。でも今は死にたくないなぁ。だって、信太くんがいるんだもん。ずっと信太くんと一緒にいたいよ……」
 そう言ってついには泣き出した彼女。
 そうだ。
 そういうことだ。
 僕が自分を消したくなった理由と繋がる。
 彼女はすぐに気付く。
 物事に変化があれば、好きな人に異変があれば、すぐに気付いて想うんだ。
 でも僕は大切な人を失ったことさえも気付かず、盲目で生きる。
 ある日、ふとした瞬間に気付いた時にはもう遅くて。
 だから殺したくなったんだ。
 でも結局。
 今でさえ。
 僕のことを大切に想ってくれている人の死ぬ間際にも、何も感じなくなっている部分もある。
 服着ていないと寒くないかな、とか、どうでもいいことを考えてしまう自分が嫌だ。
 殺したい。
 殺したい。
 自分を殺したい。
「ゴメンね、ゴメンね、勝手に一人で盛り上がって泣いちゃって、キモいよね、ゴメン、信太くん、ゴメン……」
 そう言って涙をボロボロ流す祥子さん。
 僕は首を横に振っているつもりで、
「いや、全然気持ち悪くないよ。むしろその清廉潔白な君が羨ましいよ」
「全然清廉潔白じゃないよ」
「だから、その、服を着てほしいんだ。その状況じゃ、君のことを見づらいよ。君の顔を、君の姿をしっかり僕に見せてほしいんだ」
「私のこと見てくれるの? ホントに?」
 そう言って笑った祥子さん。
 僕は頷いたつもりで、
「うん、見るよ。というか君のような人をしっかり見たいよ。だから」
「分かった……」
 そう言って服を着た彼女。
 一回脱ぐ時に服をくしゃくしゃにしたはずなのに、入ってきた時よりも何だか輝いて見えた。
「あぁーぁ、死にたくないなぁ、ずっと信太くんと一緒にいたいなぁ、でも無理なんでしょ、きっと無理なんでしょ? 分かるよ、なんとなく分かるよ、私」
「うん、僕は死にたくても死ねないし、君は死にたくないから死なないといけないんだ」
「何かあべこべだけど、そういうことだと思う。でも嫌だな、信太くんに死ぬ瞬間を見られるなんて嫌だよ……醜く死ぬところなんて見られたくない……」
 醜く死ぬというワードで、僕は、公衆便所の彼や鏡張りの彼がああなって死んだことを思い出し、言葉が詰まる。
 祥子さんは続ける。
「変に泡吹いて死なないといいな……そんなところ信太くんに見せたくないから……でも」
 でも、って一体何だろうか。
 僕は気になって、そのままオウム返しした。
「……でも?」
「幸せなのかな、とも、ほんの少しだけ思うの……」
 理解ができなくて、短絡的な言葉しか出てこない自分に嫌気が差しつつも、
「……何で?」
 と聞くと、祥子さんは切なく微笑みながら、
「だって自分の最期を好きな人に看取ってもらえるんだもん」
 正直意味は理解できているけども、どこか理解できなかった。
 もし同じ状況なら、僕は死にたくないから。
 やっぱりずっと一緒にいたいと思ってしまうから。
 と思ったその時だった。
 少し自分の体が動いたような気がした。
 何か前進して、祥子さんのほうへ歩き出すような。
 そして少し腕に力が宿ったような気がした。
 嫌な予感を抱いた。
 まさか祥子さんはこのまま死のうとしなければ、まさか……の、刹那、彼女は錠剤を口に含み、水を飲みこみ、その場に膝から崩れ落ちた。
 そして彼女の体は星の砂のようにサラサラと崩れていき、同じように自殺室に出現した白い机も風化され始め、元の自殺室に戻った。
 まさかこんな美しい死があるなんて、知らなかった。
 こんな風に死にたい、と強く願ったが、強く願うほどに死ねないのだろうな。
 そして気配を消していた溝渕さんがアゴを触りながら喋り出した。
「彼女の死を替わってあげたかったよ、俺は。君と彼女でこの自殺室の案内人をすればいいのにと思ったよ」
 僕は首を横に振った。
「いや、ダメですよ。僕が祥子さんを穢してしまいますよ。きっと、そうだ」
「そうかなぁ」
 溝渕さんは納得のいっていない表情で相槌を打った。
 ところで
「もし、僕が死んでいたら、祥子さんの自殺室はどうなっていたんでしょうかね」
「きっと本物の君の幻を見たんじゃないかなぁ」
 本物の幻。
 それこそ存在しない話なんだけども、今の僕よりも、彼女が見る本物の幻のほうが最期に良いことを言った気がした。
 僕はダメだ。
 何をしても中途半端だ。
 だから自殺室に逃げてきたんだ。
 そして中途半端に逃げてきたから、自殺室で死ねないんだ。
 溝渕さんはまた部屋の隅に体育座りをした。
 僕は祥子さんがいた場所にしゃがんで、ゆっくり目を閉じた。
 祥子さんがいたことを忘れないように。
 しっかり記憶するように、目を閉じた。
 そして考える。
 自分が動き出しそうになっていたことを。
 きっと祥子さんは自殺しなければ、僕が無理やり、力づくで毒薬を飲ませたんだろうな。
 そうならなくて良かった。
 祥子さんが自ら死を選んでくれて助かった。
 僕が祥子さんを直接自殺させようとしたら、もっと僕は死にたくなっただろうから。
 とか、ほらまただ、すぐ自分のことを考えている。
 もうだ。
 もう自分のことを考えてしまった。
 嫌だ。
 こんな自分が嫌いだ。
 早く死にたい。


・【溝渕さんの女子生徒】

 僕は、溝渕さんと一緒に自殺室にいた女子生徒のことが少し気になっていた。
 その人のことを知ればもしかしたら何か糸口が掴めるかもしれない。
「すみません。最近溝渕さんに話を聞いてばかりで恐縮なんですが、溝渕さんと一緒にいた女子生徒の話を聞かせてくれませんか?」
 床に横になっていた溝渕さんはすぐに座る態勢になって、またお尻だけ回してこちらを向き、
「まあ気になりはするだろうからな。いいよ、分かること、聞かれること、全部答えるよ」
 そう言って笑った溝渕さんは、お尻歩きで少しこちらへ詰めてから、
「まず名前は岩田直子(なおこ)で最初は暗いメガネの女子だったよ。まあ最初から明るいヤツなんていないだろうからな、この自殺室に死にたいと思ってくるヤツで」
「暗いってどんな感じに暗い感じでしたか?」
「そうだなぁ、常に伏し目がちで目を合わせないようにして。ブツブツ何か一人で呟いて、気になるから話しかけてみたら急に激高して『近付かないで!』といった感じだったよ」
 想像通りというか想像以上というか、そんな感じだ。
 でもそれも自然だとは思う。だって死にたいのに死ねなくて、知らない人と一緒に空間に居続けないといけないわけだから。
「俺が死神役していたことに対して、いつも懐疑的な目で見てきて。ある日、俺に話し掛けてきたんだ。何でそんなことをしているのかって。だから俺は人が苦しんで死ぬところを見たくないと言ったらさ、エゴイストだね、って。最初は本当に嫌なヤツだと思ったよ」
「僕は溝渕さんの考え方に同意しましたけども、エゴイストなんて言葉を言ったんですね」
「そう、そんなこれからずっと一緒にいるヤツにキツイ言葉使わなくてもな、と思ったよ。まあもういないけどな」
 自嘲気味に笑った溝渕さん。
 そこには何でアイツだけ、みたいな、ちょっとした悔しさも感じた。
 溝渕さんは続ける。
「でもまあそれから少しは喋るようになってさ、でもずっと独善的とか、偽善者とか、自己中とかいろいろ言われたよ。だからコイツがもし死ぬ時があったら汚らしく死ぬんだろうなと思っていたら、田中くんのことが好きだった子みたいにサラサラと月の砂のように綺麗に舞って死んでいったよ、そんなのアリかよ、って」
 今度はちょっと吹き出しながら、そう言った。
 思い出し笑いしているような感じだ。
 そこから察するに、そうは言われていたけども、その内容というか言い方は徐々に和らいでいった感じだろうか。
 だから、
「でもどんどん仲良くなっていったわけですよね?」
「その通り。まあ言われはずっとこうなんだけども、冗談っぽく言われるようになったよ。結局直子も手伝う流れになって、これで私もエゴイストの仲間入りだね、とか言いやがって。エゴイストは二人いたらもはやエゴイストじゃないだろ、共存関係だろ」
「確かにそうですね」
「そうやって親密にずっとなっていったと思うだろ? でも違うんだよ」
 急に頭上に疑問符を浮かべた溝渕さん。
 正直この流れならそうだと思う。
 でも一体、と思っていると、溝渕さんは口を開いた。
「徐々に明るく喋りかけてくるようになったのにさ、時折静かになって、こっちのことをじっと見てきたと思ったら俯いてそっぽ向いて。まるで最初の頃みたいに。その落差が何か怖かったんだよな」
「それはよく分かりませんね」
「だろ? だから本当は俺のこと憎んでるのかなとか思って。結局何を考えているかどうか分からなかったよ」
「憎んでいるかどうかは分かりませんが、まあ分からないことは僕も分からないです」
 未だにちょっと不満そうに天を仰いだ溝渕さん。
 腕を組んでまだ考えているような感じだ。
 僕も溝渕さんもそのまま黙って会話は終了した。
 でもあくまで僕は、直子さんという人は溝渕さんに対して好意的だったように感じられる。
 急に黙ることも、この状況を考えればありえることだと思う。
 やっぱり現状を思い出してしまったら死にたくなるだろうから。
 じゃあ何故死ねたのか、それは一切分からない。
 今を考えれば考えるほど死にたくなるはずだ。
 ずっと今を考えているような時間が存在していたのならば、やっぱり死にたいという気持ちが少なくなることは無いはずだ。
 否、増幅だってするくらいだ。
 僕はこの自殺室に居れば居るほど死にたいという気持ちが大きくなると思っている。
 それが急にいなくなるなんて、生きたいと思うなんて、と思った時、もう一つ聞きたいことができたので、聞いてみることにした。
「溝渕さん、直子さんは消える直前に何か言っていませんでしたか?」
「あぁ、言っていたよ、それこそが俺を憎んでいるといった感じだったよ」
「どういうことですか?」
 溝渕さんは一呼吸を開けてから、こう言った。
「何で、弥勒は違うの? だったよ。まるで俺にも死んでほしいみたいな感じで、だから俺のことを憎んでいたんだと思うよ」
 何で、弥勒は違うの? か、確かに何で自分だけ死なないといけないんだといった感じだけど、この状況なら死ぬほうがいいことだ。
「何だか直子さん、矛盾していますね」
「そうなんだよ、死ねたんだからいいはずなのに、俺に対して何か言ってきて。だからもう全く意味が分からないんだ。だからもう俺のことを殺したいくらい憎んでいたと思うしかありえないんだよ」
「そうなってしまうかもしれませんね……」
 と深いため息を僕はついてしまった。
 一緒にこの空間にいて、そんな感情になることってあるのかな、と少し思ってしまった。
 いや、このことはあえて言おう。
「僕は、溝渕さんのこと同志だと思っています。この空間のことを教えてくださるし、今も聞いたらいろいろ答えてくれるので、むしろ尊敬しています」
「いやいやいや、そんな気を回さなくてもいいんだ。自然体で大丈夫だよ。でも有難う。その気遣いが嬉しいよ」
 そう言って優しく微笑んだ溝渕さん。
 やっぱり溝渕さんが嫌われるなんてありえない。
 きっとその直子さんという人がおかしかったんだ。
 そもそもこんな状況で生きたいと思うことも分からないし。
 相当変な人だったんだろうな、と思うと、全く参考にならないなといった感じだ。
 溝渕さんの過去を知れて、より近付いたような気になったけども、ここから脱するためのヒントには一切ならなかったなぁ。


・【アホみたいだ】

 来る時は前触れも無い。
 自殺室に一人の女子生徒が入ってきて、早々こんなことを叫んだ。
「やっと死ねる! やったぁっ! 死の臭気吸って死ぬぞぉ!」
 僕と同様、噂を真に受けている生徒だ。
 自殺室は部屋中が血みどろ、生臭い匂いが充満し、入ったと同時に死の臭気に当てられて死んでしまうという噂を。
 さらに言えば僕と、そして溝渕さんとも一緒だ。
 彼女は死にたい人だ。
 やっぱり僕の時と同様、自殺室は真っ白い部屋のままだった。
 本当にこの人も死にたいんだ。
 死にたくない人は死んで、死にたい人は死ねない部屋、自殺室。
 さて、これからどうするか。
 僕は溝渕さんのほうを見た。
 すると溝渕さんはいつものようにアゴのあたりを触りながら、
《後から自殺室に変化が起きるかもしれないから、もう少し様子を見ていよう》
 ちなみに僕と溝渕さんの会話は、こっちで念じない限り、彼女には聞こえないし、僕たちの姿も見えない。
 前回ちょっとイレギュラーがあったけども、今回はどうやら大丈夫らしい。
 いや大丈夫という言い方もおかしいけども。
 そんな自分の脳内のことよりも、僕は溝渕さんに聞きたいことを聞くことにした。
《それって、もしかすると僕の時も溝渕さんはそうしていたということですか? 変わるかもしれないから》
《あぁ、そうだ。部屋はたまに途中で変化することがあるんだ。だから最初は様子を見るといい》
 僕と溝渕さんの会話は聞こえない。
 彼女は一人で喋っている。
「あれぇっ? 全然クサくないばかりか、むしろ良い香りぐらいな感じだぁっ? どういうことだろう?」
 小首を傾げながら、キョロキョロしている。
 でも焦っている感じはしない。
 なんとなく全てを受け入れて、じゃあどうするかということを建設的に考えているような表情だ。
《何だか僕の時と似ていますね》
《そうだね、似ているね》
 僕は溝渕さんのGOを待つ。
 溝渕さんのほうがずっと詳しいので、自ら動いたりはしない。
 自ら動いたところで好転するとは思えないから。
「舌でも噛みきるか……いやゴムか! 急にアタシの舌がゴムになったわ! もはや冬用のタイヤだわっ!」
 何か一人でツッコんでいる……お笑いが好きな女子なのかな。
 ノリがちょっとおかしい。
 でも死にたいんだろう。
 死にたい人間がこんなノリで生きている?
 ちょっと考えられないけども、この自殺室という空間への信用はそれなりにあるので、バグとかではないのだろうな。
《これはもう出ていいみたいだね》
 溝渕さんがそう言ったので、僕は頷き、溝渕さんと共に念じて、彼女の前に現れた。
「死神か! 男二人の死神か! 珍しいな! 鎌持て! 鎌ぁっ!」
 そう何かハイテンションに、むしろちょっと嬉しそうにツッコんできた彼女。
 何が楽しいんだろうと思いつつ、僕は喋りだした。
「いや僕たちは死神じゃないんだ。この自殺室で死にたくても死ねない人間なんだ。一応生きている」
 溝渕さんもそれに同調しながら、
「この自殺室は死にたくない人は自殺して、死にたい人は死ねない部屋なんだ。君の言動をさっきから見ていたんだが、死にたい人だろう? そんな感覚じゃ、一生死ねないよ」
 この言葉に対してどんな反応を見せるのかと思っていると、彼女は凍えるようなポーズをしながら、
「マジかっ? 何それ寒っ! そのギャグ寒っ! 冬用のタイヤじゃん! 寒すぎて冬用のタイヤじゃん!」
 と言った。
 何なんだこの人と思いながら、僕はちょっと呆れながら、
「いや本当にそうで、ギャグじゃないんだ……あと、何か、君、すごい饒舌だね……」
 すると彼女は、口から声を出していることをアピールする手の動きをしながら、
「そうそう口が滑って滑ってたまらないよ! ……って! こちとら冬用のタイヤだから滑らないんだよ!」
 と何だかノリツッコミをしているような感じ。
 僕は何だか嫌な汗が止まらない。
 背筋に汗が伝った。
 溝渕さんは耳のあたりを掻きながら、
「死にたいのに、そんなに明るい人って珍しいな」
 それに対して彼女はやたらデカい声で、
「死は解放! 現世からの解放! だから尊いことじゃん! あー! 死にてぇっ!」
 あまりの変な”アレ”さに戸惑っていると、彼女は僕のほうを見て、
「オマエもそう思うだろ! なぁっ!」
 と言ってきたので、目を逸らした。
 するとすぐさま彼女は場所を動いてきて、僕の目の前に立ってきて、
「聞いているんだよ! 答えろよ! そういう無視とか絶対ダメだからな! 信号無視禁止!」
「いや君は信号じゃないでしょ。信号だったら無視しないけども」
「私は一番元気な! ヒマワリのような黄色信号!」
「確かにヒマワリは黄色だけども、信号にとっての黄色は一番元気とは言い難いよ」
 思ったことをついそのまま口にすると、彼女は嬉しそうに手を叩きながら、
「良いツッコミじゃん! じゃあこっからアタシがボケね! 君はツッコミ! よろしくなっ!」
「そんな漫才の役目みたいなことを言われても。僕は普通に喋るだけだから」
「それでいい! 普通が一番ツッコミに向いているからなぁ! あとそこのあんちゃんは客な! オーラが無いから!」
 そう言いながら溝渕さんのことを指差した彼女。
 いやいや溝渕さんこそすごい人なんだけども。
 この自殺室の役目を全て網羅している、オーラが一番ある大人の人なんだけども。
 まあそういうことを説明するかと思って口を開いたところで、それを追い越すように彼女が、
「はいどうも! よろしくお願いします!」
 と言い始めたので、すぐさま僕は、
「だからそんな漫才のスタートみたいなことを言われてもっ」
 と言うと、彼女は親指を立ててグッドマークを出しながら、
「いいね! そういうツッコミじゃんじゃん頂戴!」
 そう快活に笑った。
 この人、本当に死にたいのか?
 死にたいという気持ちと笑いって真逆なんじゃないか?
 もしそれが同居しているということは、本当に狂っている人だ。
 狂っているからこそ裁きようの無いという感じだ。
 この人はマジで早く死んでくれないかな。
 どんな悪いことをしてきた人よりも、何だかそう思ってしまう自分がいて。
 もう嫌だ。
 こんな人とずっと一緒なんて本当に無理だ。
 死にたい。
 あぁ、ダメだ。またこの言葉が僕を押し潰してきた。あの鉄槌のように、ゆっくり、ゆっくり、僕の脳内を圧迫していく、ダメだ、もうダメだ、死にたい、ちょっと思うことは、ちょっとだけ思うことは、人のことを死んでしまえと思ってしまったことへの自己嫌悪だ、光莉を助けたかったと思って、でもそれ以外の人は死んでも良くてなんて、光莉が喜ぶはずがないのに、ダメだ、死んでしまえばいいんだ、僕なんてすぐに死んでしまえばいいんだ、死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいいし死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいい死ねばいいし、僕なんて、君なんて言うの? ん?
「君なんて言うの? 自己紹介もそう言えばまだだったね! こりゃ失礼! 漫才はここでブレーキ!」
 話し掛けられていたのか……そうか、えっと、答えないと……と自分の言葉を探っていると、それより先に彼女が、
「いや何か疲れているみたいだし、すぐに喋りださなくてもいいよ。アタシはかなりの美人だから待てるほう!」
 かなりの美人だから待てるほう。
 よく分かんないけども、まあ本当に待っているみたいだし、いいか。
 でもそれならそっちから自己紹介してもいいのに。
 何だか自分が決めた道は曲げない人みたいだ。
 こっち側が、僕たち側が先に自己紹介するもんと決めつけているみたいだ。
 一体何なんだ、この人。
 まあこういう人なんだと思って、もう認めるしかない。
 喧嘩しても多分仕方ないし、一緒に居づらくなるだけだから。
 よしっ、平穏な思考回路が戻ってきた。
 これなら大丈夫だ。
 喋りだそう。
「……これから君とは長い付き合いになりそうだね。僕は田中信太、よろしく」
 僕がそう言うと、それに続けて溝渕さんも、
「俺は溝渕弥勒だ、よろしく」
 それに対して彼女は何か考えるような表情をしながら、
「田中信太……溝渕弥勒……」
 えっ、もしやこの人、溝渕さんの過去を知っている……?
 僕は少々ドキドキしながら彼女の次の言葉を待っていると、
「いや溝渕弥勒は全く知らないけども、田中信太ってSクラスなのに自殺室行きになった田中信太ぁっ? はー! アンタ死にたかったんだ! だからわざとテストで手を抜いたんだぁっ! アタシと一緒じゃん!」
「あっ、溝渕さんのことは知らないんだ……」
「いやもう全く知らない! 誰このあんちゃん!」
 そう言って何故か少し軽蔑しているような”しっしっ”というアクションをとった彼女。
 いやそういう動きは冗談でも失礼だろ、と思っていると、溝渕さんは冷静に、
「まあ俺のことは置いといて、君もわざとテストで手を抜いたわけか」
 確かにそのことは気になる。
 彼女の返答は、
「そうそう! 何かもういいかなって思って! 未練なんもねぇし! あっ、アタシは深山陽菜(はるな)、陽菜でいいよ! 信太! ……えっと、まあ、あんちゃんを呼び捨てで呼ぶほどあれじゃないんで、弥勒さんね! これでいいでしょ!」
 そう言って、えっへんというような偉そうな顔をした陽菜。
 腰に手を当てて、お腹を前に突きだして、動きがいちいちコミカルだ。
 でもやっぱり違和感がある。
 まずそれを聞いてみなければ、
「陽菜は死ねないと分かっても、そんなに落ち込んだりしないんだね」
 それに対しては間髪入れず、
「いや落ち込んでるよ! タイヤを溝にハメて動かなくなった人くらい落ち込んでるよ! でももうこうなったらしょうがねぇじゃん! だからよろしくってことよ!」
 そう言ってコロコロと鈴の音のように笑う陽菜。
 何でこんな明るい人が死のうと思ったのだろうか。
 いやでも、もしかしたらこんな明るい人ほど、この学校では死にたくなるのかもしれない。
 僕は違うけども。
 陽菜は大笑いしながら、
「そっか、そっかぁっ! 死ねねぇのか! あーぁ! どうなんだろうなぁっ! あー、死にてぇっ!」
 本当に一体どうなるのだろうか。
 未来が見えないし、もう未来なんて無い状態だし。
 死ねる時って、くるのかな……。
 それに。
「死ねる術の開発とかしねぇとダメかなぁっ!」
 こんなテンションがおかしな人と一緒にいるなんて苦痛だ。
 より死にたくて、死ねないよ。
「なぁっ!」
 そう言ってまた僕のほうを見てきた陽菜。
 あんまり僕に関わらないでほしい。
「信太! 聞いてるのか! なぁっ、みたいな文末の時は同い年のオマエに言ってるんだぞ!」
「いやでも、うん、あの、この空間は、馴れ合っても仕方無いからさ、それぞれで生きていこうよ」
「何だよ! 死にてぇ仲間じゃん! どうせなら一緒に死のうぜ! 同い年なんだしな!」
 こんな口の悪い女子とは一緒に死にたくない、あっ、今の死にたくないという気持ちで死ねるか?
 いや全然何もこの自殺室に変化は無いか、そりゃそうか、この程度じゃダメか。
 でも。
「じゃあどっちが死ねる術を先に開発できるか勝負な!」
 そう叫んで口角を上げた陽菜。
 ……僕は結構この人と一緒に死にたくない気持ちあるんだけどな。
「曲げたことの無い方向に指を曲げてみるか!」
 僕があんなことを考えている時も陽菜は何かすごいバカげたことを言っている。
 というかそもそもこの人、この学校に入学できるくらいの頭を持ち合わせているのか?
 とか思ったその時だった。
 自殺室に、白い空間に大きな音が響いた。
《《《ボキィッ!》》》
 僕はすぐさま音の鳴ったほうを見ると、指が曲がってはいけない方向に曲がった陽菜がいた。
「あっ、折れた」
 そう言った陽菜。
 僕は正直ここにきて一番ゾォワァッとしてしまった。
 躊躇無く自分の指を折るなんて誰もできなかったこと。
 いやまあ指が折れたところで死ねないだろうから、試していなかったことでもあるし、祥子さんは最終的に自ら自殺できた。
が、祥子さんもそんなすぐに、といった感じでは無かった。
 でもこの陽菜は何の確証も無い状態で、すぐさま自分の指を曲げたのだ。
 なんという唐突感。
 この向こう見ずなところが、完全に死にたいヤツのソレだと思ってしまった。
 僕は陽菜のほうをワナワナしながら、震えて見ていると、指が何事も無かったように、平常時の位置に戻り、陽菜は、
「おっ、勝手に治った。面白い空間じゃん。指折るボケし放題じゃん。何か痛みも無かったし」
 と言い放ったので、僕はつい声を出した。
「何言っているんだよ……指折るボケとか止めなよ……何しているんだよ、陽菜は……」
「ほら、いろいろ試さないと。死ねるかもしれないじゃん。基本的にはトライ&エラーだろ」
「そうかもしれないけども、この空間はずっと死にたい人は死ねなくて」
「まあ弥勒さんを見れば分かるよ、多分ここの生徒だったんでしょ。でもあれだな、成長はするんだな」
 そう言われた時に僕はハッとした。
 確かに溝渕さんは成長している。つまり老いている。
 全く何も変わらない空間ではないんだ。
 なんでこのことに気付かなかったのだろうか。
 いやいや気付いたところで何もすることはない。
 変わらないんだ。
 この空間は何をしても変わらないんだ。
 もう諦めないといけないんだ。
 でもこの彼女は、陽菜は、全て新鮮な思いで一からいろんなことをし始めているし、多分これからもしていくに違いない。
 その度にきっと、僕は、諦めたほうがいいと思うんだろうな。
 もう全てを受け入れて、死ぬ時を待つしかない、と。
 でも溝渕さんのことを見ていると、やっぱり死ぬ時なんて来ないのかな。
 またダメだ、死にたい思いが止まらなくなってきた、死にたいんだ、止まらないんだ、止まらないのに止まっているんだ、ずっと停滞しているんだ、手痛いんだ、死にたいんだ、死ねないんだ、死にたい、ダメだ、また死にたいだけが襲ってきた、いくら襲われても死ねないのに、死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいぃぃいいいいいいいいい?
「またその顔になった。つまんないから。つまんないともっと死にたくなるだろ。それじゃダメなんじゃないのか?」
 気付いた時には陽菜が僕の頬を思い切りつまんで引っ張っていた。
 というか今は触れられる状態なのか。
 いやまあこうなってしまった同士はそもそも触れ合えたのかもしれないけども、そう言えば僕、溝渕さんに意図的に触ろうとしたことないな。
 僕と陽菜は目が合ったタイミングで、陽菜は僕の頬を引っ張ることを止めた。
 陽菜は長い溜息をしてから、
「死ねない同士楽しくしようぜ! ほら! 楽しくしたら生きたいと思うかもしれないだろ! そうしたら死ねるじゃん! ラッキー!」
 そう言って笑った陽菜。
 確かにそうか、確かにそうかもしれない。
 楽しければ生きたくなって死ねるかもしれない。
 じゃあ、
「分かった。できるだけ陽菜の言うことは無視しないようにするよ。少なくても陽菜が楽しくなるように努力する。そうしたら陽菜だけは死ねるかもしれないもんね」
「そこはwin-winでいこうぜ! 信太も楽しくなって死ぬんだぜ! あと観客の弥勒さん! アンタのことも笑わせてやるからよぉ!」
 そう言って溝渕さんのほうを見ると、溝渕さんは体育座りしながらも、こっちを見て手を振りながら、
「期待しているよ」
 と言葉短くそう言った。
 でも不快に思っているといった感じでは無かった。
 むしろちょっとした変化を受け入れ、楽しみにしているようだった。
 そうだ、溝渕さんだってそうなんだ。
 この状況を楽しめば死ねるんだ。
 そうだ、だからだ。
 だから溝渕さんは死神役なんてやっているんだ。
 穏やかに人が死ぬところを見ることができれば、死にたい気持ちを抑えられるかもしれない、と。
 溝渕さんも陽菜も、平穏に生きたいと思っているんだ。
 なんとか変化を望んでいるんだ。
 でも僕はすぐに考えてしまうんだ。
 変わろうとしても今さら変われないって。
 どこか無理だと蓋をしてしまうんだ。
 無理だ。
 無理なんだ。
 もう無理なんだ。
 無理難題なんだ。
 そもそも溝渕さんの死神役もそんなうまくいっていないじゃないか。
 僕がいるせいか?
 僕がいるせいで逆に悪いほうへ入っていっているのか?
 いやいや溝渕さんもここまでお兄さんになるほど、ここにいるじゃないか。
 僕のせいじゃない僕のせいじゃない、あぁ、ダメだ、こう考えたらまた堕ちてしまう。
 何なんだ、僕は。
 一体どうすればいいんだ。
 どうしても無駄なんだろうな。


・【他愛も無い会話】

 また陽菜が僕に話し掛けてきた。
 絶対全く意味の無い会話に決まっている。
「私さ、まだ未成年だけどもお酒飲んだことあるんだ。凄すぎるだろ、凄すぎるスキルだろ」
 そう、えっへんといった感じにふんぞり返ってきた陽菜。
 いや、
「全然ダメだよ、そういうことは人に言って自慢することももっとダメだよ」
「でも正月だったから、正月は無礼講だろ? それに信太だって親戚の集まりで一回くらいビールを味見したことくらいあるだろ?」
「いや僕に親戚の集まりとかないから」
 そう、僕には親戚なんてモノは無い。
 だからここを今から陽菜に掘り下げられたら面倒だなと思っていると、陽菜はこう言った。
「じゃあこっから私のターン! ビールって不味いんだぜ!」
 良かった、自分の言いたいことを一方的に喋る人で。いや本来会話としては良くないけども。
「結局お酒って不味いんだと思うんだよね!」
「いやでも大人は喜んで飲んでいるから美味しいんじゃないのかな」
「でもさ! ワインってあるじゃん! ワインは知ってるっ?」
「知ってるよ、味は知らないけどもモノはちゃんと知っているから」
「あれって結局ぶどうジュースの部分が美味しいんだと思うんだよね! 果汁というかさ!」
 何か熱弁を振るっている。
 相槌を打つことも正直面倒だけども、まあこれで陽菜が楽しくなって生きたくなって死んでくれたら、また平穏が訪れるからここは我慢だ。
 いや死にたくて死ねない平穏なんて本当はいらないんだけども。
「まあワインの味はよく知らないけども、ぶどうの果汁が美味しいことは分かるよ」
「結局ワインってぶどうジュースにアルコールを入れたもんなんだよ! 絶対に!」
「そんな単純な足し算ではないと思うけども、近いは近いと思うよ」
 ここを反論すると話が長くなりそうなので、一応同意はしておく。
 陽菜は楽しそうに続ける。いやもうコイツ、すぐに死ぬんじゃないの?
「で! 信太はさぁ! アルコールランプのアルコールを飲もうと思ったことあるぅっ?」
「無いよ、絶対飲まないよ、あんなもの」
「そうなんだよ! アルコールは美味しくないんだよ! 美味しくないモノをぶどうジュースに入れて美味しく飲んだらもはやぶどうジュースが美味しいだけじゃん!」
「いやアルコールランプのアルコールとお酒のアルコールって違うんじゃないの?」
「元素は一緒でしょ!」
 まあ確かに言いたいことは分かった。
 ウォッカとかアルコールそのものだみたいな言い方もするし、全くその論が正しいとは思わないけども、近いということは確かなのかもしれない。
「つまり、陽菜はどう考えているの?」
「お酒はアルコールが邪魔なんじゃないかって! そしてアルコールなんていらないんじゃないかって!」
「でも大人は酔えるからいいって言う人もいるじゃないか」
「だからそれはもうただの麻薬なんだよ! 合法麻薬! 取り締まるべきだと思う!」
「陽菜はお酒に酔った人に何か暴力を振るわれたことでもあるのっ?」
「一切無い! でもそういうことが起きる前に取り締まるべきだぁ!」
 そう言って拳を強く握った陽菜。
 何でこんな熱量が出るんだと思って、ちょっと吹き出してしまうと、
「えっ? 面白すぎて生きたいと思ったっ? あちゃー、先越されちゃったぜ!」
 と言ってから、てへぺろをした。
 いやいや全然面白くはないけども、何か勢いがすごいなと思ってしまっただけだけども。
 でも、
「まあ、勢いは面白かったよ。勢いだけだけども」
「やっぱりね、漫才の大会でも一回戦は声が出てないと落とされるからね」
「いやあんまり褒めたつもりでそう言ったわけじゃないけども」
「でも実際、まずは勢いが無いと、元気が無いと一回戦で落とされるから」
「そんな漫才の大会の定石みたいなこと言われても、全然褒めていないから」
 と冷たく言い放つように言っているんだけども、陽菜は何かめちゃくちゃ嬉しそうに、
「褒められるって嬉しいし! 何これー! 抱かれるのー!」
 と言いながらおでこに手を当てて、仰け反りながら笑っている。
 ダメだ、コイツ、電波すぎる。
 どうしようも無いヤツだ。
 こんなヤツとずっと一緒なんて気が重い。
 こんなんじゃなおさら死ねないと思う。
 もうどうすればいいんだ……と思いつつも、何だか懐かしい気持ちにもなっていた。
 陽菜はまるで光莉みたいだから。
 光莉もこんな感じの一方的な人間だった。
 特に初期はこんな感じだった。
 まるで一から光莉と会話しているような感覚。
 いや光莉はもっとまともだったような気がするけども。


・【交差点】

 あれから陽菜は、主に僕と本当によく会話するようになった。
 時に僕を叩いてくるようなスキンシップをしてきて、正直ウザったいけども、やっぱりどこか懐かしくて。
 まるで光莉みたいに感じることが多々あるから。
 また陽菜は一気に溝渕さんを質問攻めして、直子さんの話とかも聞きだしていた。
 距離の詰め方が早いといった感じだ。
 溝渕さんは一瞬たじろいたけども、すぐにいつもの冷静な、優しい喋り方になって、全部教えてあげていた。
 聞き終えた陽菜は「いろんな人間!」とだけ一言叫んだ。
 いや集約しすぎだろと思った。
 そんなことを思い返して反芻していたその時だった。
 そう、生徒は突然やって来る。
 一人の男子生徒が入ってきた。
 自殺室の中は一変した。
 例えるなら、青信号になったスクランブル交差点。
 人間の幻が無数に出現し、この空間を歩いていき、壁の近くに行くと消えていく。
 そしてその人間は皆、男子生徒のことを一瞥して通り過ぎていく。
 しかもただ一瞥するだけではなく、必ずどこか蔑視を含んだ目線や行動だ。
 その男子生徒へ唾を吐く幻もいた。
 歩きタバコを投げつけるような幻もいる。
 そしてその唾やタバコと言った放たれた物体だけは実体化し、その男子生徒に当たっていた。
 入ってきたと同時に投げつけられたタバコを喰らったその男子生徒は、熱がっていたので間違いない。
 ちなみにそのタバコは地面に落ちて数秒したら消えていく。
 全ては一過性の空間。
 でもそういう人達が永遠現れては消えるので、一過性が断続的で、大きな括りで見れば無限に続いていた。
《何これ酷い! 素直に死なせてやれよ!》
 陽菜が大きな声を僕の耳元で叫んだので、頭痛がした。
 痛くなっている僕を尻目に溝渕さんは陽菜に改めて説明した。
《この自殺室という空間は基本的に自分が一番死にたくない状況で死なないといけないんだ。だからこの空間はあの男子生徒が作り出したモノなんだ》
 それに対して陽菜はムッとしながら、
《何それめちゃくちゃイジワルじゃん! 何でそんな空間がこの学校にはあるのっ? 馬鹿じゃねぇのっ?》
 やっぱり陽菜にちゃんと考える能力は備わっている。
 ちゃんと僕が考えたような足跡を辿っている。
 陽菜は発言が粗暴だが、決して馬鹿ではないような気がする、と思ったところで陽菜が、
《アタシ! 助けるから!》
 そう言うと、陽菜はその男子生徒の前に姿を勝手に現してしまった。
 僕たちの姿は基本自殺室に入ってきた人には見えないのだが、念じることにより、姿を現し、声も届くようになる。
 でも最初は見守り、死ねなかった場合、死ねるように手伝うことが僕たちの役目だということにしている。
 それなのに、陽菜は勝手に姿を現してしまった。
 これじゃ死ねるものも死ねないのではないか。
 姿を現す前の僕たちはどこか体に不思議な膜が掛かっているのだが、姿を現すと今の陽菜のようにクッキリと輪郭が出現する。
「また人がっ! 今度は真ん前に!」
 彼は怯えた。
 当たり前だ、歩いていく幻と全く同じような感じなんだから。
「アタシは深山陽菜! 安心して! アンタの味方だから!」
 陽菜は胸を叩きながら、堂々とそう言うと、怯えている彼は小さく陽菜を指差しながら、
「えっ……深山陽菜って自殺室行きになった元Aクラスの……」
 元Aクラス……陽菜はAクラスだったのか。
 考える能力があることは分かったけども、まさかそこまで上位だとは思わなかった。
 何故ならこの学校は学年ごとにSを頂点に、A、B、C、と下がっていき、Eが最下層。
 つまりAは十分能力が高いほうとなる。
 何だか少し感心していると陽菜はまたいつもの通り大声で、
「偉い! よく知ってんなぁ! 飴でもあったら飴あげたい! それか寝る前になると美味しく感じる白湯!」
「は、はぁ……」
 電波なことを口走る深山陽菜にヒイている彼。
 そりゃそうだ、急に変なこと言われたら誰だってああなってしまう。
 明確にボケのつもりで言っていることが分かっていなければ、本当にただの変人だ。
 陽菜は彼に手を差し伸べながら、こう言った。
「アンタ死にたくないんでしょ! だったらアタシがずっと守ってあげるから!」
 陽菜の手を掴もうとした彼。
 しかし案の定掴めず、それに驚いたのは彼よりも陽菜のほうだった。
「何か透けたぁぁぁあああああああああ! 大丈夫っ? アタシの服とか透けてないっ?」
 そんな訳の分からないことを言う陽菜に明らかに困惑している彼は、
「大丈夫ですけども、あの、触れられないんですね。というか、あの、何で深山陽菜はこんなところにいるんですか?」
 それに対して陽菜はなんと答えるかなと思っていると、少し悩んでから、こう言った。
「全然分かんない! いやどういうことっ?」
 これじゃダメだ。
 一度、誰も来てない時に溝渕さんと全部説明したのに、完全に飛んでしまっている。
 とにかく僕は陽菜に助けられないことだけ伝える。
《ダメなんだよ、陽菜。自殺しなければ、何かに体を操られて自殺のような形で結局その人は死ぬんだよ》
「えっ? そうなのっ? じゃあ出てきた意味ねぇーっ!」
《そうだよ、意味無いんだよ。だから僕たちがすることは安らかに死ねるよう自殺をサポートするだけ・・・》
 と言ったところで、怯えていた彼が陽菜に対してこう言った。
「あっ、あの、誰と会話しているん、ですか?」
 そうだ、僕の姿は見えていないから、僕の声もこの彼には聞こえていない。
 一旦、念じて姿を現さないといけないんだけども、陽菜は喋ることを止めない。
「でもそれは今までそうだったって話だろっ?」
 今、念じている。
「やれば何か変われるかもしれないじゃん!」
 今、念じているってのに。
「やらずにそうだと決めてしまうことはおかしいだろっ!」
 邪魔だよ。
「アタシは全てに対して全力を尽くしたいんだよ!」
 念じるのに邪魔だよ。
「今までのパターンから考えるんじゃなくて新しく、今までやったことも全て試すんだよ!」
 脳に陽菜の邪魔が入る。
「なぁ! アタシの言っていることおかしいかっ? 試さずにはいられないだろ! こんな空間じゃよぉ!」
 僕はまず姿を現した。
 言いたい。
 早くこの言葉を言いたかった。
 ぶつけたかった。
 陽菜に。
「陽菜! 君は元Aクラスらしいけども、やっても変わらないから死のうとしたんだろ!」
 それに対して少したじろいだ陽菜。
 陽菜の勢いは弱まり、少し俯きがちに、
「……! 何だよ、急に……まずはこの男子生徒からだろ……」
 いやそんなことはどうでもいい。
 彼のことは一回無視する。
 僕は言いたいことを言い切るんだ。
「陽菜はこの自殺室に逃げてきた! それは事実だ! どんなに明るく振る舞っても君は僕と、そして溝渕さんと同じだ!」
 静かに黙っている溝渕さん。
 溝渕さんのことも巻き込んでしまったけども気にしない。
 全部言い切ってやるんだ。
「もう諦めるんだよ! 全て諦めるんだ! どんなに今、頑張ったって過去は変わらない!」
 その言葉に、急に闘志を燃やした目をした陽菜。
 何なんだ、まあどんな言葉がきたところで僕は止まらないけども。
「でも変わっただろうがぁっ!」
 何、意味の分からないことを言っているんだ。
 僕は続ける。
「何がっ! 何も変わっていないよっ!」
「そうだな! 変わっていないなぁっ!」
 何だよコイツ、本当に意味分かんない。
 電波すぎ、やっぱり前言撤回、コイツはバカだ。
 話にならないレベルのバカだ。
 よくAクラスになんていられたな。
 正直ちょっとバカすぎるので、これ以上言うのは止めようとしたその時だった。
 陽菜は叫んだ。
「変わらなかったな! この自殺室はっ! アタシが入っても変わらなかったな!」
 ん、どういうことだ?
 陽菜はこの勢いのまま喋り続ける。
「だから変わったんだろ! 自殺室が変わらないということは変わったってことだろっ? 死ぬ運命から生きる運命に変わったんだろっ? 何で自分が生きているのか考えろよ! 誰かを変えるためじゃねぇのかよ!」
 誰かを変えるために僕は死ななかった?
 死ぬ運命から生きる運命に変わったことにより、誰かを変える?
 何だその考え方。
 でもふと思い浮かべてしまった。
 祥子さんのことだ。
 祥子さんは僕に会ったことによって、きちんと自殺することができた、ところもあると思う。
 いやでも僕がいなければ本物の幻に出会ったのでは、と。
 いやいやそれはただの仮定だ。
 祥子さんは僕の幻も見ずに、死ねない死ねないと言って、最後は溝渕さんに無理やり薬を飲まされて死んだのかもしれない。
 そうしたら溝渕さんは心に深い傷を負うだろうし、祥子さんも悔いの残る死になってしまったのではないか。
 変えられるのか?
 僕は誰かの運命を変えられるのか?
 そんな自問自答をし始めたその時、彼に蔑視する通行人が何かを投げ始めた。
 それは爆竹とライター。
 でも火のついていない爆竹だ。
 つまりライターで自分で火をつけ、爆竹で自殺しないといけない、ということか……!
 なんたる悲惨! 今まで見た中でも特に悲惨な死に方だ……これを、言って、手伝う……?
 こんな自殺を……手伝わないといけないのか……いやいやいや、こんなの、こんなの……キツすぎる……しかし、しかしだ、今までの経験上、この彼の過去の行ないがそうさせていることは明瞭だ。
 僕は溝渕さんのように、過去にそういうことを行なっただろうと指摘しようとしたら、それよりも早く陽菜が口を開いた。
「こんな死に方は絶対させない! 仮に死なないとダメだとしても、もっと楽な死に方があるはず! 考えるぞ! 信太!」
 いやでも考えたところで、それは変えられないし、むしろ彼に問いかけないと、と思っていると、今度は彼が喋りだした。
「何で深山陽菜に、田中信太がここにいるんだよ。貴方たちはなんで生きているんですか?」
 この人は僕のことも知っているんだ。
 いやそんなことはどうでもいい。
 僕は陽菜に喋る隙を与えないように、すぐさま喋りだした。
「この自殺室は死にたい人は死ねなくて、生きたい人は自殺しないといけない部屋なんだ。僕と陽菜は死にたくてこの部屋に入ったから死ねないんだ」
 彼は少し混乱しているように目を泳がせながら、
「何で死にたいんだ、深山陽菜も田中信太も上位のクラスだったはず。死にたい理由なんてないだろう」
 僕はどう説明すればいいか迷っていると、陽菜は快活に言い切った。
「いろいろあるんだよ! 人間はっ!」
 確かにその通りだけども。
 そしてそれ以上無い答えだ。
 彼も何だか勢いに圧倒されて、納得してくれたみたいだ。
 さて、次は死ぬシチュエーションは自分の過去の行ないからきているということを伝えないと。
「君、この死ぬ時の状況は自分の過去の行ないからきていることが多いんだ。君は何かこの状況に見覚えは無いか?」
 と言ったところで、その言葉にすぐ反応したのは陽菜のほうだった。
「こんな状況普通無いだろ! 寝る前になると美味しく感じる白湯くらい無いだろ! 所詮白湯はお湯だから!」
「いや陽菜、君はいいんだ、黙っていてくれ。正直今は邪魔だよ」
「いやでも白湯って何でただのお湯のくせに、新しい呼び名で出現してくるんだっ?」
「白湯の話はどうでもいいんだ、それよりも僕は彼と会話しているんだ」
 すると陽菜は首を激しく横に振って、こう言った。
「アタシとも会話しろよ! 会話を楽しもうぜ!」
「いやそんな悠長な時間は無いって前に説明しただろ。時間が経つと、彼は勝手に体が動いて、最も苦しむような死に方で死んでしまうんだよ。だから早く済ませたほうがいいんだって」
 このタイミングで陽菜は突然激高し、
「早く済ませたほうがいいって何だよ! 死ぬんだぞ! 人が一人死ぬんだぞ! それに対してそんな言い方はねぇだろ!」
「いや言い方が悪かったのは謝るけども、早くしないとダメなんだって」
 そう言うと、なんとか少し収まった陽菜は一息ついてから、
「とにかく早く済ますとかお手洗いじゃないんだぞ、夜寝る前のお手洗いじゃないんだぞ。白湯飲んだ分を出さないと、みたいなお手洗いじゃないんだぞ」
「知っているから。いやもうちょっと陽菜のほうも遊び始めているじゃん。人が死ぬのにそのテンションは良くないと思うよ」
「これはあれだろ。リズムを作っているだけだろ。ツッコミはいいけども、揚げ足はとるな」
 自分が言われたくない流れになったら揚げ足って……もう本当に面倒だな、陽菜は。
 でも時折、陽菜の言葉が刺さることがあって。
 いやそれよりも今は彼のことだ。
 そんな反芻はいつでもできる。
 今はとにかく彼のことをしなければ。
 彼のために。
 せめて彼が優しく死ねるように、状況を変えるために。
「で、君にさっき言った通りなんだけども、この状況に見覚えはあるかい?」
 彼は青ざめ、ぶるぶる震えているが、うんともすんとも言わない。
 でも分かる。
 これは完全に図星だ。
 この状況に見覚えがあるんだ。
 むしろ多分やっていた側の人間だ。
 僕はもう一押しすることにした。
「長くこの空間に居続けると、君の心の中が透けて見えるんだ。君はこの状況になったことがあるね」
 と言ったところで陽菜がまた喋りだしてしまった。
「長くいるとそんな神様みたいな特殊能力身に着くのっ? すげぇっ! というかこの状況になったことがあるということは被害者じゃん! 可哀相!」
 もうハッキリ言うか。
 時間だってそんなに長くは無いはずだ。
「そうじゃないんだ、陽菜。この状況は自分がやられた状況が出現するのではなくて、自分が行なった状況が現れるんだ。その自分が行なった行動こそ、自分はやられたくない、屈辱的な行動なんだ。そんな屈辱的な死に方をしなければならない場所が、この自殺室なんだ」
 その言葉に納得したのは、彼のほうだった。
 陽菜は硬直してしまったが、まあある意味硬まってくれたほうが今は楽だ。
 このまま黙っていてほしいな。
 彼は喋りだした。
「ハハッ、知られているんだ……本当に……ボクが、野良猫を爆竹で殺していたことが……」
 その台詞にハッと目を覚ました陽菜は叫んだ。
「アンタぁっ! そんなことしてたのかよぉぉぉおおおおおおおお?」
 陽菜が彼へ向かって激怒した。
 彼はどこか自嘲気味にヘラヘラしながら喋る。
「いや、遊びなんだ……こんなん遊びだったんだ……憂さ晴らしの遊び……でも……でも……ハハッ、なるほど、自分に返ってくるというわけだね……」
 僕はできるだけ冷静に、溝渕さんのように喋る。
「その通りです。この空間は今までの自分が全て返ってくる部屋なんです」
 それに対して彼は震えながら、こう言った。
「確かに、確かに、こんな野良猫のような死に方は嫌だな……」
 と言ったところで、陽菜が力強く怒鳴り声を上げた。
「バカ野郎! 野良猫は本来こんな死に方しねぇんだよぉっ!」
 真正面から怒られた彼は唇を震わせながら、
「いや分かってる、分かってるけど……」
 陽菜は手から血が出そうになるくらいに拳を握りながら、
「クソ! こんなクソ野郎は助けられねぇよ! 勝手に死んじまえ!」
 陽菜は感情的だ。
 感情的にすぐにカッとなるし、行動するし。
 でも理念はよく分かった。
 そして、言葉が、やけに響いた。
 反芻はあとでもいいと考えたはずなのに、やっぱり考えてしまう。
 自分のことだから。
 誰かを変えるために死ぬ運命から生きる運命に変わったのか。
 でも誰を変えるんだ。
 祥子さんだけを変えるため?
 じゃあもうお役御免では?
 これ以上何をどうすればいいんだ。
 この自殺室にはどんな秘密が隠されているんだ。
 ただの見世物小屋ではないのか?
「あの、どうやって、死ねば、いいかな、ハハッ」
 掠れ笑いの彼が僕にすがってきた。
 過去にどんなことをしてきたとしても、できるだけ安らかに死ねる方法を僕は考えたいと、今はそう思っている。
 そうしたほうが自分の心が穏やかになるだけのことかもしれないけども、今はそう強く願っている。
 だから、
「とにかく爆竹の量を増やして下さい。一発の火薬の量を増やせば楽に死ねるはずです」
 その僕の台詞に対して、陽菜は烈火のごとく否定する。
「何楽に死ねる方法を教えてるんだよぉっ! こんなヤツ! 苦しんで死ねばいいんだよぉっ!」
「ダメだよ。そんなこと。だってつらいじゃないか」
 それに対して陽菜は僕を睨みながら、
「何だよ、つらいのはコイツじゃなくて、信太、オマエだな! 目の前で苦しんで死なれることがつらいんじゃないかぁっ?」
 陽菜の言葉は時折胸に重たく響く。
 苦しくて。
 苦しくて。
 スカッとする。
 言われたかった。
 ずっとこう言われたかったんだ、僕は。
 一瞬溝渕さんのほうを見ると、溝渕さんにもこの陽菜の言葉が響いているような気がした。
 でもそれは僕のように苦しいといった感じでは無くて、僕のように清々しいといった感じだった。
 陽菜はすぐさま言う。
「目を泳がせずに、アタシのほうをハッキリ見ろよ。信太が苦しいんだよ。目の前で苦しんで死なれたら」
 そうだ。
 その通りだ。
 苦しんで死なれたら、もっと死にたくなるから。
 でも。
 でもだ。
「陽菜、目の前で苦しんで死なれたら苦しいんだよ」
 当たり前の、バカみたいな言葉が口から出た。
 それを聞いた陽菜は少しバカにしたように笑ってから、こう言った。
「何かやっと本心聞けた気がしたな。そうだよな、苦しんで死なれたら苦しいもんな」
「そうだよ。もっと死にたく思って、なおさら死ねなくなるんだよ。絶対にそう」
「じゃあ楽に死ねる方法をやってやるか! こっちが苦しくなったら嫌だもんな!」
 そう、バカな言葉を言い合った僕と陽菜。
 何だか心が一つになれたような気がした。
 言われたくないことを言われてスカッとしたし、バカみたいなことを堂々と言えてスカッとしたし。
 何だか悩むことも少しバカらしくなった。
 思ったことは全部言えばいい。
 陽菜ならきっと受け止めてくれるだろうし、溝渕さんだって何言ってもいいと最初に言ってくれていた。
 勝手に蓋を閉じていたのは、結局僕だけだ。
 悩んでいたら絶対死ねないだろうし、悩まず生きていこう。
 陽菜は場を整えるかのように大きな柏手を一発鳴らしてこう言った。
「よしっ! クズ! 楽に死ねる方法やるぞ!」
 そして彼は爆竹を集めた。
 時には「爆竹を下さい」と通行人に物乞いして、プライドもクソも無い状態で集め、そして死んでいった。
 大きな爆発だった。
 多分苦しまずに死ねただろう。
 すぐに空間は風化し、元の真っ白い空間に戻った。
「でもさぁ! あんな連中ばっかなのかなぁ! 腹立つなぁ! なぁっ!」
 なぁっ、は、僕への同意だったな。
 じゃあ、
「そうだね。そういう連中は多いよ。本当に嫌だよ。でもそうじゃない人もたまにいるんだよ」
「そうじゃない人だけならいいな! いやでもいい人は自殺してほしくないから、やっぱりあんな連中だけでいいのかもな! ハハッ!」
 陽菜、君は何だか、僕にとっての……と何か言葉が出そうになったタイミングで陽菜が、
「まあまた次のヤツが来るまで楽しげに生きていくか! 会話しようぜ! 会話!」
 出そうになった言葉が何だったのか、あとから思い出そうにも思い出せなかった。
 でも、そんなことよりも、今は陽菜と会話していたほうが、気が紛れるんだ。


・【溝渕さんの表情】

 最近、溝渕さんがよく黙ってこっちを見ていることが多くなった。
 まるで溝渕さんが前に話してくれた直子さんのように。
 また、意図的なのか何なのか、本当に溝渕さんのことを客と思っているのか、陽菜はあんまり溝渕さんに話し掛けず僕にばかり話し掛けて漫才のようなことをしてこようとしてくる。
 それが何だか溝渕さんは嫌なのだろうか、自分も仲間に入れてほしいということなのだろうか。
 でも溝渕さんの表情から察するに、決して一緒に話したい感じではない。
 むしろ何か考えていて、話し掛けないでほしいといった感じだ。
 それがすごく気になる。
 正直僕は溝渕さんと会話したいんだけども、無視してくれというようなオーラも溝渕さんは出している、と思ったところで、
「はいどうも! よろしくお願いします!」
 と言いながら拍手しながら僕に近付いてきて、僕の隣に座った陽菜。
 いや、
「漫才師なら座らないでしょ」
「だって信太が座ってるんだもん! じゃあもう座り漫才じゃん」
「そもそも漫才じゃないんだけどね、僕と陽菜はただ会話しているだけなんだから」
「いやいや、弥勒さんというお客さんがいるでしょ! あんちゃんが見てるよ!」
 そう言って溝渕さんのことを指差した陽菜。
 溝渕さんは軽く会釈をした。
「勝手に人をお客さん扱いしちゃダメだよ、溝渕さんは先輩なわけだし」
「いやいや! 喋る二人がいたら残りは全員お客さんでしょ! いい加減にしろ! どうもありがとうございましたー!」
「言いながら終わるんだ、いや終わるなら別にいいんだけども」
 と僕が一応ツッコんでおくと、陽菜が僕に顔を近付けながら、こう言った。
「ほらほらほらー! 何かさっきから弥勒さんのことばっか見て! 相方を見てよ! アイコンタクト見逃すよ!」
「アイコンタクトもクソも無いでしょ、何の作戦も無いんだから」
「お客さんのことよりアタシを見て!」
「仮に溝渕さんんがお客さんだったらお客さんのこと見ることも大切でしょ、多分」
「そういう笑い待ちみたいな高度なテクニックは今やらなくていいから! まずはアタシでしょ!」
「笑い待ちなんてテクニック知らないよ、知らない用語を出さないでよ」
 と僕が言うと陽菜はちっちっちっと人差し指を立てながら、音を鳴らしてから、
「笑い待ちも知らないなんてまだまだ素人だねぇ、ベストアマチュア賞を狙いにいく感じ?」
「いやだから全然分からないよ、そんな意図的に専門用語ばかり使われても困るしかできないよ」
「アタシは信太を困らせる! だからもっと専門用語を使う!」
 そう言って語気を強めた陽菜。
 でも僕はもうなんとなく分かる。
 なんとなく分かるくらいには陽菜と会話してきた。
 陽菜は得意げにこう言った。
「漫才ってね! 結局! ボケとツッコミなの! いや専門用語すぎて分からないかぁ!」
「いや陽菜はベタすぎるよ、そう振った時は必ず逆をいくもんね」
「……えっ? ベタという言葉は何……?」
 そう言いながらキョロキョロと目を泳がせた陽菜。
 いや、
「それも含めてベタなんだよ、陽菜って全然分かんないところもあれば、分かりやすいところもあるよね」
「ザ・人間シリーズ!」
「それはまあ全然分かんないけども」
「まあアタシが死ぬ時はアタシのこと全部分かってよ、全部理解してから見送ってよ、そっちのほうが感動的でしょ?」
 そう言ってウィンクしてきた陽菜。いやどういうアイコンタクトだよ。
「というか、死ねる時ってくるのかな」
「今大事な部分は感動的なほう! アタシは感動的に死にたいよ!」
「死ねないのに高望みし始めちゃった」
「アタシがいなくなったら泣いてね!」
「静かになってせいせいするんじゃないの?」
「そういう毒舌は全然面白くないと思います。ネタを練り直しましょう」
 そう諭すように、冷静に言った陽菜。
 何だかちょっと本気でムッとしている感じだ。
 でも僕としてはこれくらいのことが陽菜に言えるようになったので、関係としては良好だと思う。
 そんなことを思いながら、チラリと溝渕さんのほうを見るとすぐさま陽菜が、
「だからアタシだけ見てよ! アタシで感動してよ!」
「いや感動する理由が無いから感動しないよ、絶対に。陽菜は映画とかじゃないでしょ」
「むしろ映画! 感動巨編なんだからね!」
 そう自分のこと言えるって、ボケでもすごいと思う。自己評価が高いというかなんというか。
 でも陽菜だって死にたいと思っていて。
 自己肯定感が高い人は死にたいと言い出すイメージ無いけども、またそれとは別に理由があるんだろうな。
 陽菜と会話していって分かった。
 陽菜にはちゃんと言動に理由がある人だ。ただの電波じゃない。
 きっと僕や溝渕さんのような何かがあるんだと思う。
 でもその何かは聞いても答えてくれ無さそうだとも思った。
 そんなことを考えながら、またつい溝渕さんのほうを見ると、溝渕さんが口を開いた。
「俺のことを気にしてもしょうがないよ」
「いやでも僕と陽菜、うるさくないですか?」
「いいや懐かしいよ」
 そう言って少し俯いた溝渕さん。
 間ができたので、陽菜がカットインしてくるかなと思ったら、陽菜は静かに溝渕さんのほうを見ていた。
 すると溝渕さんが改めてといった感じに前を向いて、こう言った。
「陽菜さんは少しだけ直子に似ているから懐かしいよ」
 すると陽菜が照れながら、
「弥勒さんの懐かしさを刺激してしまいました!」
 と言って笑った。
 陽菜はすぐに続けた。
「もっと懐かしくなってもらっていいですからね!」
 それに対して溝渕さんは、
「いやまあ少しだけだけどね、直子に似ている感じは」
「そりゃ少しでしょ! 人間が違うんだから! 別の人間シリーズ!」
「でも明るい子がいるとちょっとだけ気分が上向くからいいね」
「おっ、もしかすると弥勒さんは生きたくなった感じですかぁ?」
「どうかな、でもちょっとだけ考えることもあったね」
 そう言って優しく微笑んだ弥勒さん。
 僕は気になって、少し掘り下げることにした。
「溝渕さんは今、何を考えているんですか?」
「やっと自分を客観的に見れているところだよ。有難う。詳しく言うともしかしたら邪魔になるかもしれないから言わないけども感謝はしているよ。信太くんと陽菜さんには」
 そう言って自ら頷いた溝渕さん。
 僕は正直意味が分からなかった。
 溝渕さんは一体何を見ているのだろうか。
 いや僕と陽菜しか見ていないはずだけども。
 でも自分を客観的に見れている?
 僕と陽菜を通してってこと?
 あと感謝しているって何?
 やっぱり意味が分からない。
 まあそれも僕とは人間が違うからということだろうか。
 そんなことを考えていると陽菜はニッコリと口角を上げてからこう言った。
「全然意味分からんけども、弥勒さんが幸せなら嬉しいね! 弥勒さんもじゃんじゃん幸せになって生きたくなって死んじゃってください! アタシは弥勒さんの死を願う!」
 普通そんなこと言ったら喧嘩だけども、この状況はそれが一番の優しい言葉で何だか吹き出して笑ってしまった。
 溝渕さんも笑ったし、言った本人である陽菜も笑った。
 三人の笑い声が何も無い、真っ白な空間に響き渡った。


・【おびき寄せる】

 一人の女子生徒が入ってきた。
 自殺室はまた一変し、前回のような人間が多い雑踏の光景になった。
 陽菜はすぐさま平坦に《あーっ》と声を出したと思ったら、こんなことを言った。
《入室と同時に声に膜が張るよな。便利というかなんというか》
《確かに。来る前は別に、普通に会話できるもんね》
《この膜が張っている感じは何か嫌なんだよな。自分がいないみたいで》
《でも実際僕には見えているから大丈夫だよ》
 僕が普通にそう言っただけなのに、何だか陽菜は少し嬉しそうに笑ってから、
《そうだな、信太に見えているだけで十分かもなっ》
 何だかその表情にドギマギしてしまった。
 何だろう、この感情。
 不思議なような、新しいような、懐かしいような。
 そんなことを考えていると陽菜が、
《それにしてもまた人混みって、爆竹?》
《そんなことは無いんじゃないかな、まあ様子を見てみよう》
《ただ全員で打ち上げ花火を見るだけならいいんだけどな》
《河川敷とかならまだしも、ここ都会っぽいから違うんじゃないかな》
 と僕がツッコむと、まるで陽菜が僕にツッコミを入れているようなテンションで僕の肩を叩きながら、
《まあ確かにそうだなぁ! 都会で打ち上げ花火は危ないからな! ハッハッハ!》
 と、やけに快活に笑った。
 何がそこまでおかしいのかはちょっと分からなかったけども、楽しそうで何よりだ。
 僕と陽菜はこんな他愛も無い会話をすることがどんどん多くなっていった。
 だけど僕と陽菜の会話が増える度に、溝渕さんの言葉数は減っていった。
 実際、陽菜が溝渕さんのことをお客さん扱いしているから会話する機会自体が少ないだけなんだけども。
 溝渕さんの表情を見ていると、こっちの会話を聞いて優しく笑っていると思ったら、急に思い詰めたような表情をしている時があって。
 ふと溝渕さんが言っていた『直子は俺のことを憎んでいたのでは』というような言葉が脳内で再生される。
 溝渕さんは何か僕と陽菜に文句があるのだろうか。
 いや確かに陽菜から一方的にお客さん扱いされたら嫌かもしれない。突っぱねられている感じもするし。
 でもそんなことで嫌な気持ちになるような人じゃないだろうと思うこともあって。
 いやいやそんなことより今はまずこの女子生徒の動きを注視しよう。
 さて、そろそろ女子生徒の言動も何か出てくる頃だろうと思っているんだけども、この女子生徒は反応が薄い。
 まだ一言も喋っていない。
 でも何も動じていないわけでは無さそうだ。
 何故なら何か思案しているような面持ちはしているからだ。
 そしてついにこの女子生徒は口を開いた。
「何で地元だし?」
 どうやらここは地元の風景らしい。
 今回は思い出の中で何かあったパターンだ。
 胸糞の悪い話じゃないように、と心の中で願ったが、公衆便所のことを思い出し、きっと良くない話なんだろうな、と思ってしまった。
 そんな僕は、きっと不安そうな顔をしていたのだろう。
 僕の顔を覗き込んで陽菜が、
《どうしたの? これヤバイ感じなの?》
《自分の地元が、思い出が出てくる時に良いパターンは無かったかな》
 と僕が言ったその時だった。
 部屋の真ん中に机が出現した。
 その机の形状は祥子さんの時とは全然違った。
 祥子さんの時の机は、真っ白い色に丸い机だった。
 しかしこの女子生徒の前に出現した机は、真っ黒い色に角が鋭い三角形の机。
 さらにその机の上にはラベル付きの液体が入った瓶。
 陽菜はすぐさまそのラベルを見に行き、
《これ硫酸だ! ヤバイ!》
 硫酸。
 硫酸を被って死ぬなんて、どう考えても苦しむしかない。
 ということはこの女子生徒は良くないことをしていたことが確定した、と言っていいだろう。
 だから、とりあえず僕は陽菜にそのことを伝えた。
《苦しんで死ぬ可能性が高い時は、きっとこの女子生徒は良くないことをしていたんだと思う》
《何それ! 腹立つな! すぐに出てってやる!》
《いやちょっと待って、陽菜。もう少し様子を見よう。周りの光景は変わることがあるんだって……そうですよね、溝渕さん》
 そう言って僕はまだ座っている溝渕さんに同意を求めると、溝渕さんは小さく頷きながら、
《そうだ。俺の経験上、これから周りの風景は変わっていくだろう。まるで周りの風景だけが動いていくようにな》
 陽菜は今にも飛び出しそうな雰囲気から、一旦落ち着いた感じになって、とりあえずは傍観する流れになった。
「何? 帰ってこれたの? でもあの黒い机何? あんなんあったっけ?」
 女子生徒も黒い机に近付き、ラベルを確認した。
「硫酸? 何これ? これで死ねってこと? いやいや、意味分かんないし。ここ中央通りじゃないの?」
 何だか話の進みも遅そうだし、そろそろ出ないといけないかなと思っていると、その女子生徒は急に大きな声を上げた。
「誰だ! 急に男が出てきたし!」
 痺れを切らした溝渕さんが出てきたのかな、と思ったら、存在がクリアになっているのは僕だった。
 何で、念じていないのに、いやでもこんな経験は一度ある。
 祥子さんの時だ。
 あの時は念じていなくても僕が出現した。
 じゃあこの彼女は僕に何か用がある人なのか?
《信太! 急にどうしたんだよ! まだ見ていく流れだっただろ!》
「たまにこういうことがあるんだよ。念じていないのに出てしまうパターンが」
《何だそれ! いろいろあって分かんないな! この空間は!》
「本当にそうなんだけどもっ」
 と陽菜と会話していると、その彼女が喋りだした。
「いや誰と話してんの? というか誰? 地元のダチじゃないしさ、普通このタイミングなら地元のダチじゃね?」
 ……あれ? 僕に関係している人じゃない?
 それなのに僕が出現してしまった、って、一体どういうことなのだろうか。
 もしかしたら逆に、僕がこの彼女に関係しているのか。
 いやいや全然見覚えが無い……わけでもない?
 何故かどこかで見たことあるような。
 僕は割と記憶がいいほうだと自負している。
 そんな僕がどこかで見たことあるのならば、僕は見たことあるんだ。
 そもそもこの彼女がいったこの場所”中央通り”は、何だか行ったことがあるような。
 古本を探して大きな街へ行った時、こんな場所があったような。
 と、じっくり考えたいんだけども、彼女はどんどん喋ってくる。
「いやマジ誰? イミフなんですけど。ここ中央通り? それとも自殺室? どっちなん?」
 ここはまず彼女の質問に答えないといけないな。
「僕は自殺室を司る死神です。ここは自殺室です。この自殺室は貴方の心の中とリンクして、死ぬ時のシチュエーションが決まります。貴方はここ、中央通りに強い思い出があるのでしょう」
「死神て。こんな普通の男子生徒みたいな感じが? ウケんね。何か死にきれなかったガキみたいな感じじゃん」
 多分偶然だろうけども、死にきれなかったガキは合っている。
 でもその説明は省いていいだろう。
 僕は続ける。
「この自殺室では自分が最も死にたくない、屈辱的な死に方をしなければいけません。貴方は自分の容姿が気に入っているのでしょう。だからこの硫酸を被って死ななければならないのです」
「マジかよ……硫酸ってドロドロにただれるヤツだろ? そんなん絶対嫌だし。私は結構今盛れてるし」
「だからこそです。その容姿を失うような死に方をしないといけないんです」
「クソみてぇな罰だし。罰を受けるべきはオマエのような凡人顔の男だし。つまんねぇ顔、硫酸で溶かして整えろや」
 ヘラヘラ笑って人を見下しているような言い方。
 僕はこの空間を理解している側だから、正直そんなに気にならなかったけども、陽菜が叫び声を上げた。
《何言ってんだよ! 信太が優しく言ってんだから従えよ! バカ! 信太! アタシも出てこようかっ!》
「いや、ここはまだ僕一人で大丈夫だから」
 と声を出したところで彼女が、
「他に誰かいるん? 死神って群れてるんだ。ウケんね。連れション死神とかあるんだ」
 卑しく笑う彼女に僕はハッキリと言うことにした。
「何でそんなに余裕なのかは分かりませんが、自分で死のうとしないと、最も苦しむ方法で死なないといけなくなるんです。だからまだ意識があるうちに、硫酸をかぶって自殺して下さい」
「そんなんするわけねぇじゃん、誰がオマエの言うこと鵜呑みにするかよ。というかその制服、ウチの学校の制服じゃん。オマエ、もしかすると自殺室へ先に入った生徒か? 普通に死なずに生きてるし。じゃあ私も生きるから安心するし」
 どうやら勘は良いみたいだ。
 仕方ない、ちゃんと説明するか。
「この自殺室は生きたい人は死んで、死にたい人は生きてしまう部屋。確かに僕は死神ではなくて、この自殺室で死ねなかった人間です」
「嘘ついてたし! というか死にたいってマ? 死にたいヤツは勝手に死ねばいいし! ウケんね! マジで!」
「僕の話はこの際どうでもいいじゃないですか。今は貴方の話が重要です。この状況、何か見覚えがあるんじゃないんですか?」
 と僕が言ったところで、彼女は何かに気付いたような表情をしながら、
「この状況に見覚え?」
 と言った。
 何に気付いたのだろうか。
 やっぱり僕と彼女はどこかに接点があったのだろうか。
 いやでもイマイチ思い出せない。
 ちょっとすれ違ったくらいなんじゃないかな。
 でもそれだと学校にいた生徒はほぼ全員そうなるだろうし。
 それこそ、何か状況に関係しているのか、とか思っていると、彼女はこう言った。
「なるほどね、じゃあオマエにこれをやってやればいいんじゃね? そうしたら仲間も出てくるんじゃね?」
 そう言って悪知恵が働いている人のような笑みを浮かべた。
 一体何をやるんだろうと思って、身構えていると、
「ねぇ、お兄さぁん。ちょっと私と楽しいことしないぃ?」
 急に甘ったるい声を上げて、ブリッコのように僕へ近付いてきた彼女。
 何だこれ。
 何なんだこれ。
 めちゃくちゃ既視感がある。
 その時に僕は思い出してしまい、思わず声を出した。
「あの時の逆ナンの人だ!」
 その言葉に一瞬ビクついた彼女は、ブリッコのような雰囲気を止め、少し嫌悪感のある目つきでこちらを見ながら、
「えっ、アンタ一回私に引っかかったことあんの? マジウケるしぃ」
「いや、断ったというか、しつこかったから逃げ出したけども」
「あーっ、じゃあ引っかかってないほうのヤツかぁ。確かに写真に残ってねぇと思うしなぁ」
 僕は浮かんだことを率直に聞くことにした。
「そうやって逆ナンして遊んでいたのか?」
「そうそう、めちゃくちゃ遊んでやってたしぃ、どう? 慈善事業っしょ」
 そう怪しくニタァと笑った彼女。
 これは違う。
 ただ二人で何かしていただけではない、何故なら
「仲間も出てくるってさっき言っていたけども、君に逆ナンされてついていったら、その部屋に君の仲間がいてボコボコにされるってことだな」
「ボコボコて。ウケるし。暴力だけじゃねぇし。まあなんというか、蹂躙プレイって感じぃ?」
 暴力だけじゃない、ということは、暴力だってあるということだ。
 さらに蹂躙だなんて、多分想像もしたくないようなことをするんだろうな。
 だから想像なんてする必要無い。
 する必要があることと言えば。
「今すぐ硫酸で死んで下さい。貴方はきっと醜い死に方をしてしまうだろうから」
「醜いのはあんな蹂躙されても女子が裸になったら反応してしまう男子のほうじゃね? ハハッ」
「何の話か分かりませんが、今すぐ自殺して下さい」
「嫌だし。自殺室でも生きる道があるって分かったから、このまま生きてやるし。そうしたらマジで遊んでやってもいいけどぉ? 悪くない取引じゃねぇ?」
 僕は正直、醜い死に方をすればいいと思ってしまっている。
 だからもうこれ以上、何か言うことは止めようかなと思い始めてきた。
 チラリと溝渕さんのほうを見れば、大きな溜息をついて、呆れた表情をし、陽菜のほうを見れば顔まで真っ赤にして怒っている。
 いや陽菜が何でそんなに怒っているかは分からないけども、もう今回はこのまま行くしかないみたいだ。
「じゃあ君は死ぬ気が無いんだね。じゃあそのまま自分が思うままに動いているといいよ」
「男なんかに命令されなくてもそうするし。というわけで! お兄さぁん、私と一緒に楽しいことしようよぉ?」
 また甘ったるい声を出しているが、最初と違って邪悪に満ちている。
 僕はただただ黙って立っていると、周りの光景が動き出した。
 まるでプロジェクションマッピングのように、周りだけが動いて、真ん中の黒い机はそのまま。
 その光景を見た彼女は、
「うわっ、進みだしたし! ていうかマジで私たちのアジトに向かってる感じじゃん! ウケんね! オマエ、行く気無いみたいな顔しといて私についてく気満々だったんじゃん! アソコは正直じゃん! ハハッ!」
 あくまでこれは彼女の物語だ。
 僕の気持ちは作用せず、彼女の物語が進行している。
 でも少し気になってはいる。
 果たして仲間はいるのか。
 一体どんな自殺が待っているのか。
 依然、プロジェクションマッピングのような移動は行なわれている。
 勿論、自分たちが動いているわけじゃないので、歩いてはいない。
 でもまるで歩いているような錯覚を受けてしまうのは、きっとこの風と香りのせいだ。
 歩行している時のような向かい風を浴びて、雑居ビル群のところへやって来ると、カビくさい香りがした。
 そして風景は階段を上がり始めて、とあるアパートの一室に来た。
「じゃあここで楽しいこといぃっぱぁいぃしましょうねぇ、お兄さぁん」
 物語の中に入っているような彼女はニッコリと微笑んだ。
 その時だった。
 今まではあくまで映像を投影しているような感じだったのに、目の前に本物の扉が現れたのだ。
 その扉の登場に彼女も一瞬怯む。
「何この扉、全然違うし」
 その扉は鉄の扉で、全体的に腐食していた。
 まるで硫酸をぶちまけられた扉のように。
 あまりの禍々しさに、言葉を失う僕たち。
 彼女は急に後ずさりし始めた刹那、彼女はその場に尻もちをついた。
 腰が抜けたのかな、と思っていると、彼女は声を震わせながらこう言った。
「うまく動けないし……何これ……どういうこと……」
 彼女が震える度に、彼女の上方にある黒い机に乗った硫酸の瓶が揺れる。
 このタイミング。
 この場所。
 そうか、彼女の体が大きくブレたその時に、上にある硫酸の瓶が倒れて、彼女に偶然のように降り注いで死ぬんだ。
 動けなくなる場所がまさしくそうだ。
 僕はそう思っていると、鉄の扉が開く音がした。
 きっとここで何か驚かすようなモノが出てきて、そして彼女は体を強く揺らすんだと思っているので、何が出てきても驚かないつもりでいたが、僕は鉄の扉から出てきた存在に心臓が止まるかと思った。
 その存在は、硫酸でただれ、ゾンビのような見た目になった人間たちなんだけども、全員目玉と両腕が無かった。
 そんな人間が徐々に彼女に近付いていく。
「嫌だし……助けて! おい! オマエ! 助けてくれぇぇぇええええええええええええ!」
 そう言って僕のほうを見そうだけども、彼女は首を動かせなくなっていることがなんとなく分かった。
「助けろよ! 男だろ! ……うわぁぁぁあああ! 何だよ! ここで普通の人間ってどういうことだよ!」
 えっ、と思いながら、陽菜のほうを見ると、なんと陽菜の見た目が一段階クリアになっていた。
 さらに多分この彼女は気付いていないと思うけども、後方で体育座りをしていた溝渕さんも姿を現した状態になっている。
 その時に気付いた。
 僕たちが彼女を見る側なんだと。
 この部屋に彼女が僕を連れてきたんじゃなくて、僕が彼女をこの部屋に連れてきたんだ。
 そして僕の仲間がいる陽菜と溝渕さんの部屋にやって来て、彼女がいわゆる蹂躙されていくところを見るんだ。
 嫌だ。
 見たくない。
 そう思った時に気付いた。
 僕は体が動けなくなっていた。
 それはどうやら陽菜も一緒らしく、全然動いていない。
 瞼も閉じることはできず、僕たちはこの光景を見るしかないんだ。
 果たしてこの光景とは。
 彼女に近付いていくゾンビのような人間たちは、徐々にスピードを上げて近付いていった。
 そしてゼロ距離になったところで、ゾンビのような人間たちはしゃがんだり、倒れたりして、彼女へ覆い被さっていった。
 自分の体についた硫酸をこすりつけるのかな、と思っていると、そのゾンビのような人間たちはなんと彼女の体中を舐め始めた。
「やめてくれぇぇぇぇえええええええええええええええええええええええええ!」
 断末魔に似た叫び声を上げる彼女。
 しかし舐める行為は止めない。
 まるで今まで彼女が人のことを舐めていた分だけ舐めているように。
 そして彼女が舐められた箇所は、まるで硫酸を浴びたように溶け出していった。
「あぁぁぁあああああああああああああつつつつつつっつつつついぃぃいいいいいいいいいいいいいいい!」
 一気に死なないように、徐々に、徐々に、蝕ませていく。
 言いようもない臭気とただれた皮膚を見ていると吐き気を催すが、何か出るようなモノは体内に無い。
 地獄だ。
 単純にそう思った。
「見ないでくれ! 見ないでくれ! ぁぁぁぁああああああああああああああああ!」
 彼女がそう叫んだ時、急に彼女は動き出し、黒い机の上にあった硫酸の瓶を手に取った。
「体が勝手にぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
 でもきっと、あの硫酸の瓶を浴びれば死ねるんだ、と思って見ることしかできずにいると、彼女は硫酸の瓶を口と鼻の間に掛け始めた。
 硫酸の瓶からは瓶のサイズ以上の硫酸が溢れ出る。
 いくら硫酸が流れ落ちても、どんどん沸いてくる。
「あばあばばばばばばばああああああばばばばばばばああああああああああああああああばばばばばあああああああああ!」
 彼女は硫酸で溶けるというよりも、硫酸で窒息死するように死んでいった。
 そしてやっと彼女は砂状になっていき、空間も、ゾンビのような人間たちも風化して、元の真っ白い空間に戻った。
 戻った瞬間に陽菜が、
「おぉぉおおおおおおおおおおおおぇぇぇぇぇええええええええ!」
 と叫んだ。
 勿論何も出していないけども、陽菜はその場に跪き、うなだれた。
 今まで見た自殺というか、もはやこれはもう自殺なんかじゃない。
 一体何なんだ、この部屋は。
 いや忘れよう。
 こんな死に方はすぐに忘れよう。
 僕は陽菜の背中をさすりながら、ゆっくり、ゆっくりと、
「大丈夫、大丈夫だから、陽菜、落ち着いて」
 と、ずっと言っていた。


・【変わるということ】

 陽菜はあれ以来、あまり喋らなくなってしまった。
 静かに俯いていることが多くなった。
 僕もどうすればいいか分からず、陽菜と距離を取っていると、溝渕さんが僕に近付いてきて、こう言った。
「ほら、陽菜さんと年齢の近い、信太くんが陽菜さんのことを慰めにいってほしい」
 すると陽菜が、少し怒っているような強い声で、
「聞こえてるよ。アタシのことは気にしないで」
 と言った。
 でも溝渕さんは僕の背中を促すように押したので、僕は立ち上がり、陽菜の隣に座った。
「いいよ、別に」
 そう言って伏し目がちにそっぽを向いた陽菜はまた口を開いた。
「そういうさ、気を回す説教オジサンみたいなことウザいんだけども」
 それに対して溝渕さんは頷くだけで。
 僕はちょっと気になって、
「オジサンとか言うの止めなよ」
 と言っても、
「事実じゃん」
 と言うだけで。
 溝渕さんは優しく柏手を一発叩いてから、
「まあオジサンがこれ以上喋ってもしょうがないから、俺はちゃんとどっかを向いておくよ」
 と言って体はまだ僕と陽菜のほうだけども、首はじゃないほうを向いた。
 沈黙。
 何を言えばいいんだろうか、溝渕さんに丸投げされてしまって。
 でも言葉は浮かんだ。
 それを言うことにした。
「陽菜、僕は元気に喋る陽菜のほうが好きだよ」
「でもさ、あんなの見ちゃったらもう終わりだよ、元気なんて出ないし」
「陽菜はさ、この空間を変えようとしていたじゃん、僕はそれにすごく感銘を受けていたんだよ」
「でも変わらないし、変わる必要も無いよ、あんなヤツら、死んでしまえばいいんだよ」
「悪い人しか来ないわけじゃないよ」
「いやでも今までだってさ」
 という言葉を遮るように、僕はこう言った。
「だって陽菜が悪い人じゃないじゃん」
 ビクンと体を波打たたせた陽菜。
 僕は続ける。
「溝渕さんも僕は良い人だと思う。僕はまあ自分のことだからよく分かんないけども、少なくても溝渕さんと陽菜は良い人だよ。溝渕さんはこの空間を熟知していて導いてくれるし、優しい言葉も掛けてくれるし、この空間を変えようと思って行動していた陽菜は絶対に悪い人じゃない。それに、実際本当に悪い人じゃなくて穏やかに死んでいった人だっているんだよ」
「アタシは……」
 そう言って俯いた陽菜に僕は畳みかけるように、
「死にたいよ、すごく死にたいよ、でも陽菜と一緒ならつらくないかもしれない。前よりは死にたいと思う気持ちが減ったかもしれない。きっと死ねる……なんて死を肯定している時点で死ねないんだけどさ、何だか僕も良い方向に変化できたような気がするんだ。それ
は絶対に陽菜のおかげだよ」
「そんな……」
「そんな、じゃなくて。やっぱり変化するには、この空間を変化させるには自分が変わらないといけないと思うんだ。この空間は自殺室にやって来た人によって変わる、僕たちにとってはいわばリアクション型の世界だけども、それを越えて、超えて、変えるなら、この死ねないという運命を変えるなら、自分で変わらないといけないと思うんだ。そして僕は変わったんだ。陽菜が来てくれたことによって、好転したんだ」
 すると溝渕さんもゆっくりと喋り出して、
「僕も、信太くんが来たことによって、そして陽菜さんが来たことによって、徐々に掴めてきたモノがあるよ。二人には感謝しているよ。本当に。だからこそ陽菜さんにはまた元気に喋ってもらいたい。結局は俺のエゴイズムだ。陽菜さんが元気に喋ってくれると俺にとって良いことが起きるんだ。深部は勿論、表層的に、単純に面白いからな。信太くんと陽菜さんの会話は」
 それに対して、ピクンと耳を動かすように反応した陽菜は顔を上げて、僕と溝渕さんのほうを見渡してから、
「何で信太も弥勒さんもそんなに優しいの……?」
 と言ったので、僕はハッキリと、
「それはおあいこさまだよ、陽菜だって優しいじゃないか。何も知らなかったとは言え、自殺室にやって来た人が死なないように動こうとしたり、陽菜が一番優しいんじゃないかな。僕が最初にここへ来た時はもう悟った風で溝渕さんの言われた通りだったよ」
「そんな、アタシなんて優しくないよ、ただ自分が快適に生活できればそれでいいだけで」
 何か言いたそうな顔で生唾を飲み込んだ陽菜は、続けて喋り始めた。
「でもこの高校にいる限り、アタシの快適って無いなと思って。アタシはアタシの快適なためトップになりたかっただけなのに、こんな周りの死が苦しいなんて思わなかった。もっとアタシは非情だと思っていた。もっと非情だと思い込みたかった。だからアタシはこの自殺室で生きることになった時、信太を振り回しても別に良い存在だと思って喋りまくった。弥勒さんのことはお客さんだと思って関わらなくてもいいと思った。全部全部アタシのため。それなのにそれを肯定するなんて、どういうこと……?」
「結果論なのかどうかは分からないけども、僕は陽菜の喋り、好きだよってもう一回伝えとくよ。何なら何度でも言おうか? 大事なところだからね」
 溝渕さんも口を開き、
「俺も観客になったおかげで、客観的になれたよ。陽菜さんのおかげなんだよ。だから元気を出してほしい。これからも信太くんと喋ってほしい。まあ話したければ俺と会話してもいいけどな」
 陽菜はまた俯いて、うなだれて、そして泣き始めた。
 泣く声が真っ白い空間に響き渡った。
 僕は優しく陽菜の背中をさすった。
 こんなどうしようもない空間だし、ずっと死にたいだけなんだけども、一緒にいる限り僕たちは同志だと思う。
 変わるには、いや変えるなら何か正していかなければならない。
 陽菜とも、溝渕さんとも、何かを変えていけば、きっとその先に何か待ってるかもしれないから。


・【川】

 あれから僕と陽菜は暇さえあれば、ずっと会話している。
 不思議なモノで、今のところ会話が尽きそうには無い。
 別に自殺室の話は一切していないのに。
 そう、一切していないのに。
 僕は勿論、陽菜も自殺室の話はあまりしてこない。
 しても楽しくないからだ。
 共通の話題だけども、これだけは議題に上げてはいけないタブーのように。
 でも別にそれでいいんだ。
 それ以外の話が楽しいから。
 空間はずっと真っ白い空間で、時間感覚は皆無。
 しかし睡眠を取りたいと思う気持ちだけは出てくる。
 何も食べなくても大丈夫だけども、睡眠の欲求だけは出てくる。
 だからって、ずっと起きていても病気になることは無いと思う。
 病死、みたいなことには絶対ならないと思う。
 でも人間は眠くなると寝たくなる。
 だからそうなると、僕も陽菜も眠る。
 話していると、ちょうど僕も陽菜も同じタイミングで眠たくなり、そして眠るんだ。
 きっと同じように”何か”を消費しているんだろう。平等に会話しているから。
 溝渕さんは相変わらず、こっちを見て笑って、時折何か考えている顔を浮かべて。
 でも時折、陽菜は溝渕さんとも会話するようになっていった。
 時には客いじりのように、時にはトリオ漫才師として。
 そんな都合の良い扱いで大丈夫かなと思っているけども、溝渕さんも前よりもっと楽しそうな感じだからいいに違いない。
 そんなことを考えていると陽菜がふと僕に向かって、こう言った。
《信太、そう言えば信太のさ、学校に入る前ってどうだったの?》
 陽菜からなんとなしに聞かれた言葉。
 まあ確かにそろそろ過去の話になる頃だと思っていたけども。
 僕は意図的に会話から光莉との話を除外している。
 光莉のことは考えるだけで胸が苦しくなるからだ。
 でも、今なら、今の気持ちなら、もしかしたら光莉のことも話せるかもしれないと思って、意を決したその時だった。
 自殺室に一人の男子生徒が入ってきた。
 光景が一瞬にして変わった。
 そこは小さな橋の上。
 その下には轟音を立てて流れる川があった。
 川の流れは急で、崖や岩に当たった川の水が不規則に渦を巻いていた。
 そしてジメジメとした雨の香り。
 妙に湿度は高くて蒸れたアスファルトの香りが鼻につく。
 瞬間、その男子生徒は言った。
「何でここに……」
 それを聞いた陽菜はすぐさま、
《記憶の中の場所じゃ、絶対嫌なヤツ確定じゃん! 最悪!》
 と、イライラと唇を噛みしめるように言った。
 でも
《一応様子を見よう。そうじゃないかもしれないし》
《いや絶対悪いヤツだよ! きっと橋から下に飛び込ませたんだよ!》
 確かに今までの流れから言えば、そうかもしれない。
 でも何か違和感を抱く。
 そんな僕の思考をつんざくように陽菜は大きな声で捲し立てる。
《それか野良猫を投げ捨てていたとか! 大切なモノを投げ込んだとか! だってそうじゃん! こういう時は!》
 その時、僕は一つの仮定が浮かんだので、そのことを陽菜に言うことにした。
《いや、入ってきた男子生徒は怯えているんだ。もしそういう自分にとって楽しいことをしていた人間なら、この前の人みたいに最初から怯むことは無いと思うんだ》
 冷静に言う僕に、少し落ち着いたのか、トーンダウンした陽菜は、
《う~ん、まあ確かにこの男子が恐怖しているって感じだけどもさ。それは自分がここに飛び込まないといけないってすぐ分かったからじゃない? 勘が良いというかそういうことじゃないの?》
《その線もありえるか……》
 逆に僕がトーンダウンしてしまった。
 まあ今は様子を見守るしかないかな、と思って見ていると、男子生徒の彼は、
「何でここなんだ……嫌だ……死にたくない……ここだけ嫌だ……こんな悔いの残る死は嫌だ……」
 そう言ってその場にしゃがみ込んでしまった。
 頭を抱えてぶるぶる震える彼。
 理由は分からないが、どう考えてもこの川に飛び込むことが死の条件だと思う。
 だからこうやってうずくまってしまったら、どうにもならないので、僕は出ることにした。
 念じて表舞台に立って、そしてそのあとに続くように陽菜も出てきたので、僕は
「陽菜も姿を現すのか?」
「現すよ! というか前回やっぱりアタシがいろいろ言ってやれば良かった! あの女に! 信太は正直ぬるいんだよ! ちゃんと反省させないとダメだ! アタシはもうガンガンいくよ!」
 ガンガンいくか、あんまりガンガンいかれてもとは思うけども陽菜が元気なこと自体は嬉しい。
 ただ反省とか促してもどうしようもないような気もするけども、確かに安全に自殺させるには反省させたほうがいいのかもしれない。
 いや安全に自殺させるなんて言葉、存在しないけども。
 僕と陽菜の喋り声に対して、彼はおそるおそる、こう言った。
「誰ですか、誰ですか……」
 しかし顔は上げずに、ずっと顔を足の間に隠している彼。
 それに対して陽菜が、
「顔を見せろ! 自殺室は一番死にたくない方法で! 最も屈辱的な方法で死ぬ場所なんだよ! この場所に思い出があるんだろ! ということは大体分かっているんだろ! そうやって死ぬんだよ!」
 彼は震えながら顔を上げると、すぐさまこう言った。
「深山陽菜さんと田中信太さん、ですよね、何で君たちがここにいるんだ……」
 僕のことも陽菜のことも知っている生徒だった。
 その場合はこの説明もすぐにしないといけないな。
「この自殺室は生きていたい人は死に、死にたい人は生きる部屋なんだ。僕と陽菜は死にたくてこの部屋に入った結果、未だに死ねていない。逆に君のような生きていたい人が入ってくると、死ぬための部屋に変化するんだ」
 しゃがんでいた彼はその場に尻もちをつき、座って朧げに天を見ながら、
「どんな部屋だよ……何なんだよ……ねぇ、陽菜さんに信太さん、どっちでもいいからボクのことを殴って殺してほしい……この川に飛び込むことだけは嫌なんだ……」
 それに対して陽菜は怒りながら、
「ダメだ! そもそもアタシたちは多分オマエに触れることができない! この自殺室は屈辱的な死に方をしなければいけない部屋なんだ! 今まで全員そうだったんだ! 諦めろ! オマエは自分のしたことを胸に手を当てて考えろ! まあもう答えは出ていると思うがな!」
 言われた彼はぶるぶると大きく体を震わせ、瞳に涙を溜めて、ずっと天を見ている。
 できるだけ川のほうを見ようとしていないらしい。
 僕は陽菜のほうをチラリと見た。
 陽菜は顔を真っ赤にして激高している。
 今までの陽菜が来てからの流れを考えれば、確かにそうなのかもしれないけども、陽菜の話に一つ間違いがあるとしたら、実際、必ず全員屈辱的な死に方をしたわけではない。その説明もしたんだけども、やっぱり説明だけでは深層心理には届かないといった感じだ。
 具体的に自分の心の中で反芻すれば、祥子さんはそうではなかった。
 いや僕に看取られながら死ぬことが屈辱的ならば、そうなのかもしれないけども、やっぱりそれは違ったと思いたい。
 祥子さんは”最期に好きな人に看取られて嬉しい”みたいなことを言っていたから。
 でもその話を今からすると、ややこしくなるので、僕はそのまま黙っていた。
 祥子さんの話を陽菜に事前にしていれば深層心理に届くほどに理解してくれたかもしれないけども、何だか僕は自分から祥子さんの話をしづらくて。
 いやそんな心の中の反芻は今どうでもいい。今はこの彼のことだ。
 彼はずっと天を見て、ついには涙をボロボロとこぼし始めた。
 そんな彼に痺れを切らした陽菜はさらに追い込む。
「この川に! 落としたんだろ! 人の大切な何かを! それか人自体を! 涙なんて落とす資格なんてないんだろ! オマエには!」
「確かに……ね……」
 そう呟いてから、小さく俯いて、彼は語り出した。
「資格なんてないよね……お見通しなんだね……落としたんだ……ここで命を落としたんだ……」
 首を小さく横に振った彼は、まだ何か喋りそうだったので、ここは陽菜もそれに気付いて静かにしている。
 彼は続ける。
「でも、この屈辱はボクの屈辱じゃない……いやそれともボクへの冒涜か……」
 この言葉に陽菜は大きく反応し、
「オマエの冒涜ってなんだよ! オマエが命を冒涜していたんだろ!」
 彼は顔を上げ、陽菜のほうを見ながら、真剣な瞳でこう言った。
「命を冒涜していたのは橋本たちだ! ボクは……ボクとユースケは……ユースケは……うぅっ!」
 歯を食いしばりながら、また強くうなだれた彼。
 明らかにおかしい。
 どう考えても陽菜の論は間違えている。
 そう、
「陽菜、きっと彼はここで友達を亡くしたんじゃないか」
 その言葉に陽菜はビクンと体を波打たたせた。
 ゆっくりと僕のほうを見た陽菜。
 僕は静かに頷くと、陽菜が勢いよく頭を下げながら、
「ゴメン! 勘違いしていた! オマエが誰かをこの橋の下に落としたんだと思っていたっ!」
 彼はゆっくり顔を上げ、まだ頭を下げている陽菜のほうを見ながら、
「大丈夫。多分そうだとちょっと思ったから。うん、やっぱり分かんないよね、これはボクの思い出だから」
 意外と、というのもおかしいけども、冷静そうな彼で安心した。
 僕は意を決してこのことを喋りだした。
「君、どういう思い出なのか教えてくれないかな。もしかしたらそこから本当の自殺方法が分かるかもしれないから」
 彼は唇を噛みしめながら、下を向いて考えている。
 分かっている。
 自殺したくないんだよね。
 死にたくないんだよね。
 でも。
 でもなんだ。
 ここに来たらもう死ぬしかないんだ。
 だから、
「無理だったらいいんだけども、教えてほしいんだ。僕たちは君が楽に死ねるように案内する存在として、今はここにいるんだ」
 彼は深呼吸を一回してから、その場で立ち上がって、こう言った。
「分かった……話すよ……ボクの過去を……でも、何か……途中で泣いちゃっても気にしないでね」
 そう言って少し照れ臭そうに笑った彼。
 全て言うことを決めた彼の瞳は、強い意志の炎が宿っていた。
 僕も陽菜も頷いて、そして彼は語り出した。
「まず結論から言うと、イジメられていたボクを庇う形で、ボクの親友が代わりに飛び込み、この川で命を落としたんだ」
 ある意味僕の想像通りの結末だったが、陽菜は胸のあたりを強く握った。
 どうやらこういう人だということを想像できていなかったらしい。
 陽菜は申し訳無さそうな表情を浮かべながら、その場で小さく俯いた。
 彼は続ける。
「ボクは非力だった。何もできない人間だった。ユースケが死んでも橋本たちのイジメが無くなることは無くて。なんなら必ずこの橋の上でイジメられるくらいだった。逃げたくなったら川の中に飛び込んで逃げ出せよ、と言われて。悔しかった。つらかった。でも何もできなかったんだ」
 聞いている陽菜は何だか瞳にうっすら涙を浮かべていた。
 陽菜は良くも悪くも感情的で、感受性も高い。
 だから死にたいと思ってしまったんだ。
 陽菜は自分のことを非情と言っていたが、全然そんなことは無くて。
 この学校の仕組みに、周りの人間に、瘴気を当てられて死にたくなったんだ。
 自称独善的なのに、繊細で、実際に楽しいことは大好きだけども、暗闇がすぐ近くにあって。
 陽菜はきっと今も死にたい。
 なんなら彼の話を聞いて、なお死にたくなっているだろう。
 僕も死にたい。
 彼の話は死にたくなる話だ。
 でも聞いたのは僕だ。
 僕は感情的にならず、話を聞いていこう。
 彼は言う。
「ボクはイジメが横行する世界を変えたかった。でも正規ルートではダメだと思った。だからいっぱい勉強した。そしてこの学校に入学することができた。でも、でも、やっぱりダメだった。ボクの成績は上がらなかった。ずっとドベのほうで。正直よく耐えたほうだと思うよ。下位に落ちるとイジメが勃発する。ボクは、正直、イジメられ慣れていたし、そこは大丈夫だったんだけども……やっぱり大丈夫じゃなかったのかな、心身を蝕んできていたのかな……もう終わりなんだ……多分、話しても自殺するためのヒントは無いと思うよ。でも信太さんが聞いてくれたから話しただけ。最後くらい自分の気持ちを叫びたくて話しました。どうもありがとうございました。ボクはこの川に飛び込んで死ぬしかないんだと思う。死にたくないけども、この世を変えたかったけども、ボクには無理だったんだ……だから……だから……本当は……本当は、ですよ……」
 そう段々喋るペースが遅く、溜めるようになってきた彼。
 何か言いづらいことがあるみたいだ。
 でも
「何でも言いたいことがあったら言って下さい。僕たちは聞きますから」
 すると彼は僕の目をしっかり見ながら、こう言った。
「ボクみたいなもんは、成績の低いボクみたいなもんには世界は変えられないので、信太さんのような優秀な人に、世界を変えてほしかったです」
 聞きます、と言った。
 でも。
 これほど効く言葉は無くて。
 後頭部を鈍器で殴られたような感覚。
 そうだ。
 そうなんだ。
 成績上位だった僕が、変えるべきだったんだ。
 僕のやるべきことはこれだった。
 光莉の後追いなんかじゃなかった。
 光莉のことも忘れて邁進していたくせに、光莉のことを思い出したら、今さら追いかけて。
 光莉のような人間を二度と出さないために、僕は頑張るべきだったんだ。
 申し訳無い。
 申し訳無いのは僕だ。
 隣で陽菜が間違いに悶えているが、僕がそうなんだ。
 僕が間違っていたんだ。
 正直言葉が出ない。
 彼も言葉を出切ったから何も出ない。
 川の流れる音だけが空間に響く。
 その空間を切り裂いたのは、陽菜だった。
「何で、死なないとダメなんだよ……こんな素晴らしい考えの人間が死ぬべきじゃないじゃん……自殺室って何なんだよ……訳分かんないよ……」
 ベソを掻きながら、ボロボロと涙をこぼし始めた陽菜。
 それに彼は、
「成績が悪かったからですね。競争本能をけしかけるために自殺室があるんですよね」
 僕はやっぱり、自殺室は見世物小屋だと思っている。
 誰かがこの空間を監視していて、ネチャネチャとした笑顔を浮かべながら見ているんだと思う。
 悔しいけども、悲しいけども、そういった空間なんだろうな、と思っている。
 だからこうやって悩むことは、見ている人間の思うツボなんだろうけども、考えずにはいられない。
 一体どうすればいいんだろうか、そんな不毛なことを考えてしまうんだ。
 そう考えていると、陽菜が徐々に語気を強めながら、喋りだした。
「おかしいよ……おかしいんだよ! この自殺室も! この学校も! 成績だけで決めて! 生徒の態度は全シカト! イジメが横行していても何も言わず! 落ちる人間が悪いんだというような態度! どうなっているんだよ! 蠱毒かよ! それともただの孤独かぁっ? 意味分かんねぇよ!」
「ちょっと、落ち着いてよ。陽菜。さすがにそんな叫ぶことでは・・・」
「叫ぶことだろうよ! もしかすると誰か見てんのか! 見てんなら反応しろよ! バカにしてんじゃねぇよ!」
 陽菜は橋の上で暴れ出した。
 小さな橋の上なので、橋が少し揺れている。
 でもそれ以上に揺れているのは僕の心だ。
 確かに本当に一体何なんだ。
 自殺室を見て笑っている人間がいるのならば、完全に狂っている。
 まだ報いを受ける人間を断罪するという、暴走した正義感を持っているのならば、まだ分かる。
 でも何も悪いことをしていない人に対しても、屈辱的な死に方をさせるなんて間違っている。
 目的が分からない。
 いや分かる。
 見て楽しんでいるんだ。
 そう考えれば全て通じる。
 なんて卑しい人間がいるんだ。
 同じ人間とは思えない鬼畜の所業だ。
 僕のその考えをここで言ってみるか。
 いやそうすると、もっと陽菜が暴れてしまう。
 ここは冷静な気持ちでいくか。
 と、思ったところで溝渕さんが出現し、
「まあ考えても仕方ないんだ。君がここで川に飛び込んで死ぬしか方法は無い。もし自ら自殺しようとしなければ、苦しんで死ぬことになるんだ。もし自らすぐに飛び込めば、すんなり死ねるかもしれない。でも自ら手を下せなかった場合、ずっと溺れた状態で生き、それから死ぬかもしれない。さぁ、早く飛び込むんだ」
 溝渕さんの意見はもっともな意見だ。
 でもそんなもっともな意見をすぐに受け入れる状態の陽菜じゃなくて、
「弥勒さん! そういう話じゃないんだよ! これは!」
 溝渕さんは溜息をついてから、
「そういう話なんだよ。あっ、俺はもう一人の案内人だ。まあその目は分かっていると思うが。さて、陽菜。正直に言えば今、オマエは邪魔だ。黙れ。オマエに時間を使っている暇は無い。大切なのは彼だ。違うか?」
 その言葉に怯んだ陽菜に対して、溝渕さんはもう一押し掛ける。
「こうなった以上、受け入れるしかないんだ。余計なことを考えても、苦しんで死ぬ可能性が高くなるだけだ。それよりも今は、意識があるうちに、自分の気持ちで動けるうちに死ぬこと促すことがよっぽど有意義なんだよ」
 陽菜は完全に沈黙した。
 そしてそのまま溝渕さんは彼に話し掛ける。
「君の人生は俺も聞いていた。俺は君のような清い人間を忘れはしない。君はここで死んでしまうが、俺たちは生きている限り、君のことを思い出す。君だけじゃない、君の友達のユースケくんのこともだ。誰かのことを庇うことなんてできそうで到底できることではない。高みを目指した君も素晴らしいし、庇う心を持ったユースケくんも素晴らしい。願わくば天国で仲良く笑っていてほしい」
 何だか彼は吹っ切れたような表情をした。
 そして全てを受け入れたように思えた。
 溝渕さんは大人だ。
 いや確かに大人なんだけども、そうか、そういう説得もあるのか。
 いや大人だから説得力があったのかな。
 彼は橋のヘリに立ち、最後にこう言った。
「ありがとう、ボクのためにいろいろ話を聞いてくれて。やっぱり君たちは死ぬべきじゃないよ。生きる価値があるからこうやってここで生きているんじゃないかな」
 そして彼は飛び降りた。
 陽菜は見ていられなかったが、僕と溝渕さんは落ちていく彼を見ていた。
 しかし、そこで僕は思わぬ変化を見た。
 それは彼が入水する直前に風化したからだった。
 もしかしたら彼は空中でショック死したのかもしれない。
 でも苦しむ前に終わらせたのであれば、この自殺室はただの見世物小屋ではないのか?
 なんだか変な優しさを感じてしまった。
 そうだ。
 あれに似ている。
 この優しさはまるで、光莉だ。


・【回想】

 僕は孤児院でいつも一人だった。
 誰とも会話が合わなくて、多分僕は大人びていたんだと思う。
 ずっとこの世界に絶望していて、楽しいことは何一つ無かった。
 そんなある日、この孤児院にやって来た女の子。
 それが光莉だった。
 光莉は他の子供たちに比べて、特に子供だった。
 バカみたいに鼻を垂らしながら丘を走っていた。
 綺麗な花を見つければ、すぐに摘んで、それを握って走り、飽きたらポイと捨てていた。
 あんなヤツとは会話のレベルからして合わないだろうな、と思っていたが、そんな光莉が僕の一番の親友になっていった。
 キッカケは正直覚えていない。
 ただただ光莉が僕に付きまとっていただけだから。
 多分何か好みの顔とか、そういうことだったんだろう。
 子供の頃なんてそんなもんだろ。
 とか思って……好みの顔ならば僕が光莉に対してそう思っていたのかもしれない。
 いつも鼻を垂らして汚いなとは思っていたが、澄んだ瞳に整った鼻と口、パーツは全体的に大きくて、顔からおおらかな性格が滲み出ていた。
 快活に笑って、僕に無視されすぎると泣いて、困って構っていると、すぐにまた笑顔になって。
 逃げる僕を追いかけて。
 運動神経は光莉のほうが良くて、ずっと僕は追いかけ回されていた。
 もうダメだと思って座れば、その隣に座ってくる。
 一個しかない椅子に座れば、僕の膝の上に座ろうとしてくるので、仕方なくベンチに座っていた。
 孤児院での勉強はハッキリ言ってハードだった。
 正直この学校のレベルと感覚的に変わらないレベルだったと思う。
 孤児院に入った子供にこそ、良い教育を受けさせて、この負の連鎖を断ち切る、そんな想いが込められていたんだと思う。
 僕はいつも楽々こなしていたが、後から入ってきた光莉は四苦八苦していた。
 いつも居残り勉強をさせられて、何回か逃げ出していたと思う。
 まあその度に先生たちに捕まって、より長く勉強させられていたけども。
 いつしか光莉は僕に勉強を教えてほしいと言うようになっていた。
 正直意味無く追いかけ回されるより楽なので、僕は光莉に勉強を教えていった。
 そして出来ないなりに、それなりに出来るようになった光莉。
 僕はいつもの通り、勉強を誰よりも早く終わらせて、図書室で本を読んでいると、そこで孤児院の院長から話をされた。
 それはこの世界のこと、そしてこの学校のことだった。
 この学校に入れば世界を仕組みから変えられる、と。
 成績トップになれば世界の中枢に入り込むことができる、と。
 僕は胸が躍った。
 孤児院に入ってくる子供たちの境遇は知っていた。
 何故なら僕もそうだったから。
 この世界を変えるため、僕はさらに猛勉強をした。
 そしてここで一つ、間違いを起こす。
 それは、そのことを僕はつい、光莉に言ってしまったこと。
 それを聞いた光莉は、
「アタシも信太くんについていく!」
 そう言って猛勉強を重ねた。
 その結果、光莉はその孤児院で二番目の成績になり、晴れて僕と光莉は全寮制の小学校に通うことになった。
 勿論、この学校の下部組織だ。
 そしてエレベーター式に中学、高校と上がった。
 しかしこの高校で光莉は成績を落とし始めていた。
 でもまだ中位だった。
 だから大丈夫だと思っていた。
 その結果だけを見て、光莉との対話がおろそかになって、自分のことに集中しすぎた結果、光莉は自殺室の目の前で自殺したらしい。
 遺書も何も残されていなかったみたいだ。
 さらに僕は光莉の遺体すら見ることもできず、光莉は忽然とこの世からいなくなってしまった。
 未だに思い出すのは、光莉との孤児院での会話だ。
「信太くん! 勉強教えて! 忍法! 教えての術!」
 そう言って僕の座っている体のお腹目掛けて、頭をぐりぐり押しつけてきた光莉。
 僕は軽く光莉の頭を叩いて、
「大切な頭部を攻撃に使うな」
「大切な頭部を叩かないでよ!」
「これくらい全然何にもなんないレベルだから」
「何かなったら今日の晩御飯、全部ちょうだいね!」
 そう言ってニカッと笑いながら僕の隣の席に座った光莉。
 教科書とノートを広げて、二人の肩が当たりそうな距離で勉強をし始める。
 何だか近いような気がするけども、光莉はいつもこのくらいの距離の人間だった。
 光莉は僕のほうをチラリと見ながら、
「勉強って楽しいね、おやつみたい」
「全然違うでしょ、楽しいの種類が」
「鉛筆はカリントウ」
「意外と太さも違うよ、色は結構違うし」
 僕が普通にそうツッコむと、光莉はムスッとした顔をしてから、
「ノリが悪いなぁ。そこは鉛筆をかじりながら『カリントウになりてぇ』でしょ」
「いやもう全然意味が分からないよ、整合性がまるで無いよ」
「でもカリントウになりたい気持ちくらいはあるでしょ」
「全然無いよ。なりたいモノおやつだけ部門でも、カリントウは下位のほうだよ」
 すると光莉は首をゆっくり横に振って、
「そんな。信太はこう思っているはず。僕は光莉のカリントウになりたい、って」
「そんな意味の分からない告白みたいなこと思っていないよ」
「じゃあ意味の分かる告白をするのっ?」
 そう言って、いたずらっぽく笑った光莉。
 僕は一瞬ドギマギしてしまい、口ごもっていると、光莉は僕の手を優しく叩きながら、
「いつでもいいよ! 待ってる! ただし! 発音は良く、カリントゥって言ってね!」
「いやだから『光莉のカリントウになりたい』とは言わないし、それはきっと発音良くないよ。そんなことより勉強しよう、勉強」
 そんな感じでたまに会話して、そしてまた勉強しての繰り返し。
 それが僕はすごく楽しかった。
 ただ勉強するよりも効率は悪いんだけども、光莉と勉強したほうが何だか捗ったような気がした。
 光莉とまた一緒に勉強したかったな。
 でももうそれは叶わない。
 僕は死ぬだけしかできないから。
 いや死ねるのか?
 溝渕さんのように、ずっと死ねずにこのまま残るんじゃないか。
 また死にたい気持ちが増幅してきた。
 止めよう。
 昔のことを考えたって、虚しくなるだけだ、と思ったその時だった。
 僕の頬に突然何かが当たった。
 ビックリして目を開けると、そこには陽菜が不満げにいた。
 すぐさま陽菜は口を開いて、
「ビンタだよ! ビンタ!」
 そうか、ビンタされたのか、いや、
「何で?」
「だって信太が急に目を瞑って寝ようとしたんだもん! アタシは今全然眠くないぞ!」
「いや眠りにつこうとしたんじゃなくて、少し考え事をしていたんだよ」
「考え事って……ちょっとぉ! アタシのことぉっ? 参ったなぁ!」
 そう言って照れた陽菜。
 いやいや、
「全然陽菜のことじゃないけども」
「そんな! アタシ以外に考えることはもう無いだろ!」
「いろいろ考えたりするよ、時間が腐るほどあるからね」
 僕がそう言うと、また唇を尖らせて陽菜は、
「誰か入ってきた時以外はもうアタシと会話すること以外、考えるなよ! 考えるなビーム!」
 そう言いながら僕の頬を右手の人差し指で押してきた陽菜。
 子供すぎる行動に呆れてしまったが、同時に懐かしさも感じた。
 あっ、これ、光莉の”教えての術”だ。
 そうだ、陽菜って何だか光莉みたいだ。
 というかまんま光莉だ。
 バカみたいな会話に元気なところ、でもどこかちゃんと考えていて。
「ほらまた何か上の空になってるー! 何も考えるなビームだ!」
 さらに左手の人差し指で僕の頬を押してきた陽菜に、僕は、
「いやさすがに指二本はやられている感が半端無いから」
 そう言って指を払うと、陽菜は満足げに息を漏らし、
「攻撃が効いたみたいだぁ」
「いや効いたわけじゃないけども、全然効いたわけじゃないけども」
「いや効いただろ、考えるなのツボを押したから」
「いやいや、考えるなという思考のツボは無いでしょ」
 そんな”いや”を連発する会話をしていると、陽菜がふとこんなことを言った。
「似てるよな」
 急な”似ている”という言葉にドキッとした。
 まるで陽菜と光莉が似ていると考えていたことが見透かされたみたいで。
 いやでもそんなはずは無いと思っていると陽菜が、
「アタシと信太って似てるよな」
 何だ、僕と陽菜という話か。
 それならじゃあ、
「そうだね、どこか似てるかもね。というか似てるからこそ死ねないんじゃないのかな?」
「確かにそうか。そう考えればそうだな」
「まあ死にたい同士、一緒に生きていくしかないね。陽菜」
「死にたいのになっ」
 と、陽菜が笑ったその時、思いがけないことが起きた。
 それは、なんと、溝渕さんが急に苦しみ出したのであった。
「溝渕さんっ! 一体どうしたんですか!」
 僕は立ち上がって、体育座りしている溝渕さんのほうへ駆け寄り、陽菜は焦って立ち上がれず、這いつくばるように溝渕さんのほうへ行き、
「おい! 弥勒さん! どうしたんだよっ!」
 と叫んだ。
 それに対して溝渕さんは砂になりながら、
「……そうか、そういうことだったのか……ヒントの一つでも残したいところだが、そのままでいいんだろうな……信太くん、一緒に……」
 そう言い残し、溝渕さんは姿を消した。
 まるで自殺室に入ってきた生徒が死ぬように、消えていった。
 僕は体、というか心臓を震わせながら言う。
「溝渕さん……急に、急に生きたいって、思った、の……どうして? どうしてなんですかっ!」
 溝渕さんがいたはずの場所へ叫ぶ僕に、陽菜はなんとか立ち上がり、僕の肩を叩き、
「いや、もう、弥勒さんはいないんだ、信太……でも、良かったな……」
 良かった。
 確かに溝渕さんは良かったと思う。
 そうだ、良かったんだ、これで良かったんだ。
「良かったね、溝渕さん」
 僕もそう言って、その場に手を合わせた。
 でも一体急に何故。
 それに、
「溝渕さんが最後に言った”そのままでいいんだろうな”ってどういう意味なんだろうか、そのままってこのまま自殺室にいることは良いことではないのに」
「確かに、弥勒さんは最後だから何か混乱していたのかな?」
「でも溝渕さんは冷静で錯乱するような人でも無いけども。あと信太くん、一緒に、も何なんだろうか」
「う~ん、それは分かるよ」
 そう言った陽菜に僕は目を丸くするほどに驚いた。
 一体陽菜はこのあとになんという言葉を言うのだろうか。
 固唾を飲んで見守っていると、
「弥勒さんはね、きっと信太と一緒に死にたかったんだよ。結構信太のこと好きだったんじゃない? モテる男はつらいねぇ~」
 そう言って僕の頬をグイグイ押してきた。ビームのように。いやビームじゃないけども。
 でも、
「そんな、いなくなったそばから茶化さないでよ」
「でも実際弥勒さんは同じ男性として信太のこと案じていたんじゃないの? 信太はアタシと似ているけども、信太は弥勒さんにも似ていたからね。誰か生徒が来た時なんて特にそう。二人とも冷静だよね」
「そういうことなのかな……でも何か違和感があるというか……」
「じゃあ他の解釈浮かぶ?」
 と言われて僕は黙ってしまった。
 何も浮かばなかったから。
 『そのままでいい』と『一緒に』は正直相対する言葉だと思う。
 もし僕と一緒に死にたかったらそのままじゃダメなはず。
 ヒントの一つでも残したいとか言っていたけども、疑問点が増えただけだ。
 果たしてこれは考えたら分かるようなことなのだろうか。
 本当に分からないんだ。僕は何も。
 でも。
 でも。
 何がどうか分からないけども、心が絞られて、少しつらくなるんだ。
 それと同時にどこか心が温まって。
 真逆の感覚が僕を襲ってくる。
 一体何なんだ。
 溝渕さんも、陽菜も。
 そして僕も、何なんだろうか。


・【樹海】

 溝渕さんがいなくなってから、もう十人以上の生徒が入ってきた。
 もう溝渕さんのいない日々のほうが日常だ。
 溝渕さんがいなくなっても、僕と陽菜の関係が変わることは無く……いやでもより距離が近くなったような気がする。
 それは心も物理的にも。
 陽菜はやけにベタベタ僕にくっつくようになってきた。
 まるで本当に光莉みたいに。
 それに対して、僕も正直全然嫌じゃない。
 そういう距離で会話することは光莉で慣れていたし、特にそれで何か考えるようなことも無かった。
 いや、でも、どこか、何かが引っかかる思いは感じている。
 それは棘とかじゃなくて、何だか不思議と温かいモノだった。
 そんなことを時折考えながら、この自殺室で暮らしていったある時、また男子生徒が入ってきた。
 また空間は一変し、樹海のように木々が生い茂る空間になった。
 そしてこれ見よがしに空間の中央には首吊り用の縄に、台が置かれた。
 今回は導くにしても簡単だし、そんなに苦しんでいるところを見なくてもいいかもしれない。
 男子生徒の彼は呟く。
「何なんだ、ここは……こんな虫がいそうなところ……汚らしい……」
 それに対して陽菜が言う。
《虫が苦手なんだな、コイツは》
《まあ基本みんな好きじゃないけどね》
《アタシは結構好きだけどな、カッコイイし》
 そう言いながら腕を組んで頷いた陽菜。
 まあ確かに
《カブトムシとかクワガタはカッコイイかもしれないけども》
 僕がそう相槌を打つと、陽菜は首を横に振って、
《いや蚊》
 と言い切ったので、僕は驚いてしまい、生返事のオウム返しをし、
《蚊ぁっ?》
 と語尾も何だか妙に上げてしまった。
 ちょっと恥ずかしい声になっちゃったな、と思っていたけども、陽菜はそんなこと気にせず、喋る。
《血を吸うとか、かなりイカしてるじゃん。しかもバレずに吸っておいて、最後は痒みで吸ったことバラすって。仕事は冷静、でも最後の勝負は正々堂々と情熱みたいな》
《いや痒みは別に正々堂々勝負したいからじゃないよ、痒みのある液を体内に流し込むことによって血液の凝固を防いでいるだけで》
《だからって痒みのある液にする必要無いじゃん、やっぱりあえて痒みのある成分を入れて流し込んでいるとしか思えないね、カッコイイよ、蚊は》
《そうかなぁ》
 独特な感性だなと思いつつも、それがまあ陽菜かと思って納得した。
 男子生徒の彼は周りの様子を見て叫び声を上げる。
「どうせならもっと都会で死にてぇよ! こんな虫、虫! 虫ぃっ!」
 僕は分析をする。
《この彼の死にたくない状況って、虫が多い状況ということなのかもしれないね》
 それに対して陽菜は小首を傾げながら、
《虫なんて天国の一種じゃん》
《天国の一種ではないと思うけども》
 そんなどうでもいいやり取りをしたところで、陽菜は首を回しながら、こう言った。
《というわけで、そろそろ姿を現すかなぁ。あんまり発展しそうにないもんなぁ》
《陽菜って入ってきた生徒を助けようとするよね、最近特にまた》
《それは信太だって一緒だろ? アタシは悪いヤツ以外は全員助けたいんだよ! というか変えたいんだよ、きっとアタシたちはこの人たちの運命を変えるためにいるんだよ》
《そう言って助けられた試しはまだ一度も無いけどね》
 そう一度も。
 あれから幾度となく自殺室に生徒が入ってきたが、ことごとく生徒を助けられたことはない。
《でも今度こそやってやるんだからな! まあいいヤツならだけどな!》
 そう言って、陽菜は姿を現した。
 僕も頃合いを見て、出ることにしよう。
 姿を現した陽菜を見て、彼は戦々恐々しながらこう言った。
「……オマエ、深山陽菜か……何故こんなところに……」
「アンタがいいヤツなら助けてやるぜ!」
 陽菜は今日、一段と気合いが入っているような気がした。
 いや、陽菜は日に日に意気込みが増していっている。
 普通こんな空間にいたら、どんどん気持ちが落ち込んでいきそうだけども、陽菜はどんどん上昇していく。
 特に、あの川の一件から陽菜は変わった。
 より明るくなったと思う。
 陽菜が言うところの独善的な明るさから、本当に全てを助けたい、喜ばせたいといったような明るさ。
 どんどん周りを、というか特に僕を鼓舞していくようになった。
 とはいえ、やって来た生徒を助けられた例なんて一個も無いし、極悪と言ってもいい所業をやらかしていた生徒には陽菜の気持ちが反転して、そういう生徒と喧嘩になったこともあるんだけども。
 この気合いの入りすぎが、悪いほうにいかなきゃいいんだけど。
 要は入ってきた生徒と喧嘩しないでほしい。
 そうなると無駄に長引いてしまうから。
 入ってきた彼は手を合わせて喜びながら、
「マジかっ! ありがとう!」
 と言った。
 いやいや、と思いながら、
「陽菜、あんまり期待するようなことを言っちゃダメだから。今まで助けられた生徒なんていないんだからさ……」
 そう言いながら僕も姿を現すと、この彼は陽菜の時と違い、体を硬直させた。
 いやでも僕にはこの彼には見覚えが無い。
 しかしこの彼は明らかに、僕に怯えている。
 どういうことだ?
 そしてその彼はポツリと呟いた。
「木島光莉の……」
 それこそ僕が硬直した。
 木島光莉。
 それは、僕の幼馴染の光莉のフルネームだ。
 まさか。
 コイツが。
 光莉を……!
「死ねぇぇぇええええええ!」
 我を失うってこういうことだと、この彼を殴った時に気付いた。
 いやこの彼に触れることはできなかったから、殴れなかったんだけども。
 そんな僕に陽菜は慌てながら、
「ちょっ! 信太! 急にどうしたんだよぉっ!」
 僕は呼吸を整えた。
 否、整わない。
 どんどん息が荒くなる。
 許せない。
 許せない。
 光莉は、光莉は、こんなヤツに……、
「オマエか……オマエがっ! 光莉のことをイジメていたのはっ!」
 僕がそう叫ぶと、彼はぶるぶると震えながら、
「……いや……オレは……最初は、止めようとして……」
「最初は? じゃあイジメに加担していたということだなぁっ!」
「いや……まあ……なんというか……えっ、それが原因? オマエが自殺室に行ったのっ?」
 それ?
 光莉のイジメが、それ?
 何だその言い方。
 馬鹿にしてんのか。
 光莉のことを馬鹿にしてんのか! クソっ!
「あぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああ!」
 と僕が叫んだところで、僕の目の前で猫だましをした陽菜。
 僕はつい目を閉じた瞬間、ハッとなんとか気を取り戻した。
 でもまたすぐこうなるだろう。
 だって光莉を、光莉をあんな目に遭わせた張本人が……と思ったところで、陽菜が僕の肩を掴んで、
「らしくなぁっい! らしくないぞ! 信太! 叫ぶのはアタシの役目だろうがぁっ!」
 僕よりもデカい声を上げた陽菜は続ける。
「信太! 何があったか簡潔に話してほしい! それで決めるから!」
 別に陽菜に何がどうか決めてほしいわけではないけども、話さずにはいられなかった。
「木島光莉は僕の幼馴染で、僕が好きだった女性だ……一緒に入学した光莉は、元々は上位だったんだけども、このシステムにどんどん憂鬱になり、徐々に成績を落としていった……そして中位になると、精神的なダメージを与えてもっと順位を下げようとしてくれる連中からイジメられるようになり……成績的にはまだ大丈夫だったんだけど、自殺室のドアの前で自殺した……という話……」
「……という話?」
「そう……僕は全てそれらの話をあとから聞いたんだ……光莉が死んだあとに、ね……光莉がそんな状況になっていることに気付いていなくて、僕は自分のことでずっと必死で」
 陽菜は真剣な瞳で小さく頷く。
 僕は続ける。
「光莉ともっと密にコミュニケーションをとっていれば……自分の順位ならイジメだって止めさせることができたはずなのに……貼りだされた成績を見れば、卒業まで自殺室に行くことは無かった成績だし……もっと心のケアを自分がすることができれば……あと」
「あと?」
「光莉を失って初めて好きだったということにも気付いたんだ……ダメだよね、全然ダメだよね、僕……こんなヤツ、死ねばいいんだよ、早く死ねばいいんだよ……死にたい……死にたいよ……」
「つまり、じゃあ、コイツが、信太の仇というわけね……おい! オマエ! さっさと死ねぇぇ! ……えっ?」
 と彼のほうを見た陽菜は何かに驚愕した。
 一体何なんだろうと思いながら彼がいたはずの方向を見ると、そこに彼はいなくて、じゃあどこだと思って首吊り台のほうを見ると、既に自殺を試みていた。
 その彼は多分、僕が喋っている間に台の上にあがったみたいだ。
 僕と同じ空間にいることが、つらすぎたようで。
 しかし、まだ死ねていない。
 ずっと足がバタバタと空を切り、口から泡を吹き出し、目玉が飛び出そうになりながら、ずっと、ずっと首を吊られた状態で苦しんでいた。
 普通、今までなら、こういう死の時になったら、彼自身は砂状になり、空間も風化していくのに、全然変わらない。
「ふぬぬぬぬぅぬぬぬぬぅぬぬぬぬぬぬぅぅぅううう!」
 声にならない声が空間をこだましている。
 彼は一向に変わらないが、空間の様子は少しずつ変貌していった。
 樹海にいた虫たちが彼の死臭を感じ取り、どんどん彼の体に張り付いていった。
 中には彼の口の中に入っていく虫もいて、何なら虫で窒息するくらいの勢いだ。
「あががががががががぁぁぁぁぁああああああああああああああああああぅぅうううううううう!」
 彼の断末魔は終わらない。
 どういうことだ。
 僕は呆然としながら、ただただその彼のことを見ていると、陽菜は囁いた。
「死にたくなったから死ねないんだ……信太の言葉を聞いて死にたくなったから、死ねないんだ……」
 ゾワァッとした。
 ということはこの男子生徒はこの状況でずっと生き続けるということか?
 死ぬような思いをしながら、ずっと死ねずに、このままで。
 僕はたまらず声を出した。
「生きたいと思え! そうすれば生きられるんだ! 実は! だって生きたいだろ! こんな状況でいたくないだろ! 本心だ! 本心を心の中で叫べ! こんなところにいないで楽しく生活していたいって! 生きたいって思うんだよ!」
 その言葉が届いたのか、男子生徒は悶え苦しむことをやめ、体が砂状になり、そして空間が風化し、元の真っ白い空間に戻った。
 どうやらちゃんと死ねたらしい。
 生きたいと思えば死ねる空間だから。
 僕は胸をなで下ろしていると、陽菜が聞いてきた。
「ねぇ、信太、仇なんでしょ? 何で楽になるようなことを言ったの?」
「だって……あんなのつらいじゃないか……」
 そう言って僕は俯くと、それ以上に暗そうな声で陽菜が、
「そんな……信太のほうがつらいじゃん……仇討ちじゃん……あんなヤツに同情する余地無いじゃん……」
「いやいいんだよ、もう」
 そう言って僕は顔を上げて、陽菜のほうをしっかり見た。
 陽菜は一息ついてから、
「……まあいいだったら、もういいけどなぁ」
 そう言ってその場に座り込んだので、僕も隣に座った。
 僕は一つ浮かんだ言葉がある。
 だから、
「一つ思ったことがあるんだけど、聞いていい?」
「何? アタシで良ければ何でも聞くけどっ」
「陽菜は今も、死にたいんだよね。だから死ねないで今もここにいるんだよね」
「うん、ハッキリ言えば死にてぇ、それだけ」
 そう少し面倒臭そうに言った陽菜。
 僕は続ける。
「でも入ってきた生徒の運命を変えたいとは今、思うんだね」
「そりゃ思う。まあ大体はもうクズばっかで、運命変えなくていいかなって途中で思うんだけどな」
「入ってきた生徒の運命を変えるために生きていたい、とは、思わないんだね」
「いやそれは思わないな、そんなことよりは死にてぇ。でもそれも叶わないなら、せめて助けたいだけ。結局ただの暇潰しかもな。勝手だよな、アタシって。やっぱり独善的なままだよな」
 そう言って切なげに笑った陽菜。
 そんな陽菜に追い打ちをかけるようで悪いんだけども、僕は自分の聞きたい言葉を優先させた。
「何で自殺室に来たの?」
 少し空いた間。
 陽菜は絞り出すように喋りだした。
「……似たようなもんだと思うよ、その光莉って人とね。もうこのシステムで生きることが嫌なんだ。だからいっそのこと死にたい。それだけ。でも自分では死ねず、自殺室に助けを求めたってわけ。その結果、自殺室に死なせてもらえていないだけ」
「じゃあやっぱり似た者同士だね、僕たち」
「そうだな、何だかんだで全くの一緒、一致しているのかもな」
 一致。
 全くの一致。
 何だか。
 何だか。
 同じなら。
 と、深く思考しようとしたその時だった。
「なぁ、信太、せっかくだからしりとりでもしようぜ!」
 そう言って明朗に笑った陽菜。
「いや何で急にしりとりをするの」
「いいじゃん! とにかくまずは、しりとりの”か”な!」
「しりとりには”か”は勿論、か行すら無いよ」
 僕はとりあえず普通にツッコミを入れた。
 それに対して陽菜は嬉しそうに、
「カニ食べ放題で貝ばっかり食う! はい!」
「いや禁じ手の文章を早くも使ってる。どういうこと」
「どういうこととか、そういうのいいだろ! とにかく、しりとりするんだよ!」
 何だか陽菜は、どこか少し焦っているような気がした。
 何でこのタイミングで、とかは思ったけども、僕は改めて言うことにした。
「陽菜、僕は相変わらず死にたいから、すぐには死なないよ。一人ぼっちで寂しくはならないから大丈夫だよ」
「別に急に寂しくなったわけじゃないから! ただ遊びたいだけだから!」
 もしかしたら陽菜は一瞬、溝渕さんのことを考えてしまったのかもしれない。
 それを紛らわすために、こんな突発的に言い出したのかもしれない。
 僕もいろいろなことを考えるし、陽菜も様々なことを考えるだろうし。
 まあそういうことだろう。
 いや待て。
 それともさっきの樹海で気落ちしていると思われる僕への配慮か。
 とにかく、
「今は遊びたい気分じゃないんだ。もう休むよ、僕」
 それに対して陽菜はムスっとしながら、
「……何で遊んでくれないんだよぉ……もー……」
「逆に何でそんなに遊びたいの? 今はもう休もうよ、疲れたよ」
「だって、アタシ、信太のこと……」
 と言ったところで黙って俯いた陽菜。
 僕は本当に今すぐ休みたかったので、早く会話を終わらせようと、ちょっと冷徹な感じで、
「何?」
 と言うと、陽菜は急に大きな声を上げた。
「やめた! やめた! 回りくどいことやめた! アタシらしくねぇわ!」
「何か企んでいたわけだ、何を企んでいたの?」
 と僕は少々イライラしながら、そう言うと、陽菜は僕の顔をじっと見ながら、
「じゃあ言うわ。アタシは信太と一緒に死にたい! 今すぐに信太と一緒に死にたい!」
「……何で僕と一緒なの? そんなに寂しいのっ?」
「違う! アタシは信太のことが好きになったから!」
 一瞬僕の何かが揺れ動いたような気がした。
 陽菜は軽快に続ける。
「いつも冷静にアタシのこと思ってくれたり! アタシのボケにもちゃんとツッコんでくれたり!」
 僕の頭の中は徐々に真っ白になっていく。
 まるでこの空間のように。
「冷静なのは冷めているだけだし、ボケとかは流れ上、処理するしかないじゃん」
 いや。
 いやいや。
 陽菜が、僕のことを、好き……?
 そんなこと、考えもしなかった。
 ただの友達だと思っていたから。
 いやむしろ、僕が……あっ。
 ダメだ。
 僕。
 死ぬわ。
 いや死んでいいんだけど。
 死んでいいだけどもダメなんだ。
 あぁ、そういうことか……溝渕さんは、僕たちを見て、気付いたのか。
 溝渕さんは僕たちを見て、僕よりも前にいた人との関係を思い出し、そして気付いたのか。
 客観的に見れて感謝って、僕と陽菜の関係を見て、自分がこうだったんだと気付いたんだ。
 『そのままでいい』は余計なことを言って今の関係を邪魔しないため、何も言わないようにして、あの『一緒に』は俺みたいに一人で相方のような存在を死なせるな、一緒に死ねということか……あぁ、言わないと。
 最期に言わないと。
「……僕も、好きだよ、陽菜」
「えぇっ! 本当にっ? よっしゃぁぁぁああああああ!」
 そう言ってガッツポーズをした陽菜。
 いや、
「情緒が無いな。いやでもそれが陽菜か……陽菜、君は何だか、僕にとっての光だよ」
「光莉って、信太の好きだった女性のこと? それくらい好きってこと? いやそれは複雑だなぁ」
「そうじゃなくて、闇とか光のほうの、光だよ」
「あぁ、そっちねぇ」
 そう言ってホッとしたような表情をした陽菜。
 僕は続ける。
「君が来て、僕の心は照らされたんだ。熱くて陽射しが痛い時もあるけども、君の言葉が僕を焦がすんだ」
「何それ、詩人?」
「死びと、かもね」
「えっ、死ぬの? ちょっ! 何で! 死にたいんじゃないのっ! というかアタシと一緒に死のうよ! 信太!」
 陽菜が僕の手を握る。
 でも僕の手は徐々に砂状になっていくので、陽菜はもっと、手首のほうを握る。
 僕は言う。
「ううん、違う、陽菜……」
「……何……」
「僕、陽菜と一緒に生きたいんだ、ずっとずっと生きたいんだ」
「……あっ」
 僕はどんどん砂になっていく。
 その最中に見えた。
 陽菜も砂になっていくところが。
 生きたかった。
 もっと陽菜と、ずっと生きたかった。
 こんな自殺室という空間でもいいから、ずっと陽菜と生きたかった。
 でもそれも、もう、叶わないんだなぁ。








・【再】

 目が覚めると、僕はベッドの上にいた……いや! 目が覚めるって何っ?
 僕は砂になって死んだはず……とりあえずこの、普通のホテルみたいな部屋から出ないとっ!
 と、腕を動かした時、何かに当たった。
「イタイ……」
 眠そうな目をこする陽菜が、僕の寝ていたベッドの上で一緒にいた。
 僕はつい驚いてしまい、声を上げた。
「陽菜!」
「わっ! 何っ! 信太! おっきな声出して! ……って! えぇぇぇええええええっ?」
 陽菜も驚いている。
 ということは、この陽菜はやっぱり、僕と一緒に自殺室にいた陽菜だ。
 とりあえず僕は陽菜と状況の確認をした。
 まず一緒に自殺室にいた陽菜と信太ということ。
 自殺室ではこんなことがあったという話の擦り合わせ。
 さらに死ぬ間際、それぞれが砂になる姿を見たという話。
 完璧だ。
 この目の前にいる陽菜は、陽菜だ。
 一体どういうことだ、僕たちは確かに死んだはず。
 でも。
 と、僕は何か言おうとしたタイミングで陽菜が、
「そもそもあの自殺室が異質なモノだったから、死ななくても何か不思議じゃないという感覚もある」
「確かにそうかもしれないね」
 そう言いながら僕たちは二人で部屋のドアを開けて、外に出ると、そこには一人の少女がいて、ニッコリ微笑みながらこう言った。
「目覚めましたね、先生」
 いや、
「先生って、どういうこと、ですか?」
 僕がそう聞くと、それに同調しながら陽菜が、
「アタシたちが先生って何? 何か実験をしている教授とかだったのっ?」
 と言うと、その少女は少し慌てながら、
「あっ、そうそうっ、先生はこれからですねっ、先生。じゃあこっちへ来て下さい」
 そう言って僕たちを手招きし、長い廊下をずっとついていくと、その奥に、一つの部屋があった。
 その部屋に入ると、そこにはこの少女と同じくらいの年齢の子供たちがいっぱいいた。
 そして少女は淡々と述べた。
「今日からここで先生をしてもらいます。一度死んだ身として、きっと大切な授業ができると思います」
 その言葉に僕も陽菜も驚いた。
 すぐさま僕と陽菜がそれぞれ、
「僕たちが死んだことを知っているんですか!」
「ちょっと、一体どういうことよぉっ! ちゃんと説明してぇっ!」
 それに対して少女は一回溜息をつき、こう言った。
「いずれは一人一人先生をしてもらいますが、今日は初めてだし、まあ一週間くらいは二人で先生をしてもらいましょうかっ」
 全くこっちの話を聞いていない。通じていないというか。
 一体何なんだと思っていると、部屋の中から聞き覚えのある声が聞こえた。
 その声の正体は溝渕さんだった。
 教科書を持った溝渕さんがこちらを見ながら、
「今は俺が授業しているから大丈夫だ。終わったら俺が説明しておくから。その二人にはまた部屋で休んでてもらうといい」
 少女は手を合わせて嬉しそうに、
「やっぱり大人は話が早くていいわぁ」
 そう言って少女は溝渕さんのいる部屋の中へ走っていった。
 溝渕さんはこっちに軽く手を振ると、すぐに少年少女のほうを向いて、多分授業を再開した。
 僕と陽菜はどうしたらいいか分からず、出入り口から授業の様子をじっと見ていると、後ろから誰かの声がした。
「君たちが新しく入った先生だね、よろしく」
 その人は女性で、少し年上な感じだった。
 僕も陽菜もまたそれぞれ、
「あの! 先生ってどういうことですかっ!」
「アタシ! 全然飲みこめないんですけども!」
 それに対してその女性は少し頭を抱えるような仕草をしながら、
「あーぁ、あの子は本当に説明足らずで……弥勒が授業しているから、今はもういいのに。あっ、一応私は直子、岩田直子ね。よろしく」
 直子……あっ、溝渕さんの話に出てきた直子さんだ。
「もしかすると、溝渕さんと同じ自殺室にいた直子さんですか?」
「あら彼ったら、私の話をしていたのね、そう、その通りよ。彼は私の好きだった人……まあ今も好きですけどね、あっ、これは秘密ねっ!」
 そう笑った女性。
 僕は驚愕しながら、
「えっ? 貴方もっ? じゃあ自殺室で死んでも死なないんですかっ?」
 それに対しては、あっけらかんと女性が、
「うん、死なないわよ」
「「えぇぇぇえええええ!」」
 僕と陽菜の声はシンクロした。
 そう大きな声を出すと、授業をしていた少年少女たちが皆、バッとこっちを見た。
 溝渕さんは「こっち」「こっち」と少年少女たちを授業に向けさせようとしている。
「ここで立ち話もあれなので、まず私の部屋に来て下さい」
 そう直子さんに言われ、僕と陽菜はついていった。
 そこで僕たちは理解した。
 自殺室で死んでも死なないこと。
 死んだ人は、一度地獄を経験した人として、新たな人材になり、ここで先生をしたり、また一般企業に就職したりするらしい。
 でも自殺室ですぐに死ねなかった人は、大体ここで先生をすることを、勧められるそうだ。
 一度地獄を経験した人は強くなれる。
 しかし地獄を経験させることはなかなかできない。
 そこで自殺室という仮想空間を作り、そのシステムを導入した学校を作り出した、らしい。
 それを聞いて僕はすぐ思ったことがあって
「光莉は! 光莉はいるんですかっ!」
 直子さんは申し訳無さそうに俯いて、
「……木島光莉さんのことね……自殺室で死ななきゃダメなの……だから、いないわ……」
「そ、そうです、か……」
 つい肩を落としてしまった僕に、陽菜が、
「落ち込むなよ! 信太! 大丈夫! アタシがいるから! 信太! ねっ!」
「……やっぱり、陽菜は、僕にとっての、光だ」
「光と言うと分かりづらいから日光と言え! 東照宮!」
「いやいや別の日光が入ってきてるからっ……」
 ――僕と陽菜は一旦、自分たちがいた部屋に戻った。
 あとで詳しい説明を受けるらしい。
 ……あれ? 僕、ずっと陽菜と同じ部屋っ?
「何だ信太? アタシのことをいやらしい目で見てぇっ」
「いや見てないから! そういうのやめてって!」
 これから僕は新たな日常を重ねていくだろう。
 願わくば、快活に笑える未来であれ。


●【エピローグ】


・【時間差攻撃 ~岩田直子視点~】

 信太くんと陽菜ちゃんへの説明も終わり、一段落ついて、職員室でオヤツでも食べていると、特別室の彼女に呼び出された。
 大体理由は分かっている。
 だから酷く面倒に感じているんだ。
 あーぁ、オヤツ食いてぇ。
 信太くんと陽菜ちゃんの目の前で、しっかりお姉さんをやった分、今は子供のようにオヤツを食べてぇ。
 仕方ない。
 授業が終わった弥勒の前で子供っぽく振る舞って、いっぱい甘えてやろう、っと。
 私は重い足取りをなんとか進ませ、特別室で待つ、あのアホへ会いに行った。
 顔を見合わせて、開口一番、私は言ってやった。
「本当にいいんですか? あの学校に入学した人間は皆、監視下に入り、死を感知するとこちらの場所に飛ばされる仕組みのことを話さなくて。というか今度、自殺室以外で死んだ人がやって来たら、どう説明する気ですか?」
「いいんだ、いいんだ、信太くんに彼女ができたから、いいんだ、それで」
「……そんな顔して……いいんだじゃなくてっ」
「まだ我慢できる」
 このアホはそう言って唇を噛んだ。
 いやいやもう、
「まだ我慢って、言い方がもう決壊寸前じゃないですかぁ」
 何でこのアホは私の上司なんだろうか。
 全然年下だし、元々の成績だって私より低かったのに。
 まあほっとけない何かがあるんだけどね。
 簡単な言葉で表すならカリスマ性ってヤツだ。
 でもこのアホは自分に言い聞かすように呟くだけで。
「……いいんだ、いいんだ……」
「というかいずれ会うんじゃないんですか、この学校の中にいれば。変装するとか言ってましたけども、多分バレますよ」
「まあ、その時は、その時だなっ」
 そう言ってニッコリ微笑んだアホ。
 いや、
「何希望ある顔しているんですか、それならもうすぐ言いなさいよ」
「いいんだって!」
「……正直になったほうがいいと思うんですけどね……光莉さん」
 何か変な修羅場に巻き込まれそうな気がするんだよな、あーぁ、面倒臭い。
 私と弥勒は修羅場にならないように、ずっと私が好意の弾丸を打ち続けようっと。


・【掃き溜めのズル ~林田健太視点~】

 どえらい目に遭った。
 それがオレの正直な感想だ。
 オレは今、地元に戻って土木作業員になっている。
 まあ普通に勉強して、簡単な高校を卒業して、簡単な東大ってところへ入学してもいいんだけども、今は勉強ということから逃げたい気持ちでいっぱいで。
 今は休暇って感じだ。
 そんなテンションで生活している。
 基本的にあの学校に関わってしまった人間は、死ぬまで監視下に置かれるらしい。
 だから多分もう悪いことはできないだろう。
 悪いことすると楽しいし、楽だから、本当は悪いことを今後もたくさんやっていきたいと思っていたのだが、そういう前向きな気持ちでいたのだが、あんな経験させられたらもう嫌だな。
 マジで地獄だった。
 便器に顔突っ込んで死ぬなんて、苦しすぎた。
 今思い出してもサブイボが出てくる。
 まあこっからは真面目に生きていくしかねぇんだろうな。
 真面目に生きていくって、いつか板につくのかぁ?
 いやそんな自分、全然想像できねぇわ。
 悪いことせず生きていくって、難しすぎじゃねぇ?
 でもやらないといけないんだろうな。
 やらないとヤバイことが起きるんだろうな。
 だって既にあんなヤバイことが起きたんだから、多分もっと、それ以上だろ。
 まあ悪いことはしないけども、ズルくらいならいいだろう。
 そういう何か、ギリギリのラインを図っていこうと思っている。


・【鏡よ鏡 ~成田慎吾視点~】

 復讐だ。
 このオレをあんな目に遭わせた連中に復讐しなければ。
 でもそれは正攻法だ。
 もう誰かの足を引っ張るやり方はしない。
 オレが実力で頂点を獲ってやる。
 めちゃくちゃ金を稼いで、地位と名誉も手に入れて、オレに見合う女も手に入れて、完璧な人生を送ってやる。
 オレは今、別の高校に転校し、世界一の大学へ行くと決心した。
 日本なんて小さい規模の国で収まるオレじゃないから。
 あの屈辱を晴らすまで、オレは死ねない。
 そしていつか、あの学校に、オレのことが必要だと言わせてやるんだ。
 それを思い切り断ってやる! それが今の一番の目標だ!
 鏡は磨くと光るが、鏡に映る人間が汚ければ意味が無い。
 オレは清廉潔白で、美しく、可憐な人間になるんだ。
 鏡よ鏡、今まで偽物でゴメン。
 でももう、オレは、あの頃のオレじゃない。
 変わったんだ。
 生まれ変わったんだ。
 あの日のオレはバラバラに砕け散った。
 さぁ、手に入れよう。
 新しい輝きを。


・【きっと君は幻だ ~菅野祥子視点~】

 私はこの学校で先生をするために、また新たに勉強を始めた。
 自殺室でそのまま死んだ人間は、すぐにあの学校で先生になれるのは稀で、私はまだ勉強をしないといけないという話になった。
 きっといつか、信太くんがあの学校にやって来て先生をするから、私はそこで待っていられるように……と思っていたら、信太くんはもう私より先に学校で、先生をやっているということを耳にした。
 さらには何だか彼女がいるみたいで、それを知った時、正直愕然とした。
 幻だと思いたかった。
 しかし事実のようで、私は三日三晩泣きはらした。
 一つ、目標は欠けてしまった。
 でも私は先生になると決めた。
 自分の経験を伝えるような、慕われるような先生になりたい、と。
 もしかしたらそれはあの、信太くんのいる学校じゃないかもしれないけども、私はどの学校でも良い先生として人生を全うしたい。
 これはきっと信太くんへの恩返しだ。
 直接信太くんへ恩返しはできないみたいだけども、私が頑張って生きることが恩返しになると信じている。
 ありがとう、信太くん。
 君のおかげで今、私は生きています。
 もし先生になれた暁には、信太くんへ手紙を書こうと思っている、とか思っていた矢先、信太くんから手紙が届いた。
 私のことを気に掛けていたらしい。
 嘘だと思った。
 幻だと思った。
 でもその手紙は間違いなく私の目の前にあって。
 返信は結局すぐしてしまった。
 待たせるのは良くないと思っちゃって。
 少し未練のある文章になっていたことに、保存していたメモ帳を見た時に気付いたけども、まあいいか。
 それで心が動いてくれれば、なんて、淡い期待。
 分かってる。
 そんなことは無いって。
 もうこれでおしまい。
 全ては幻だった。
 それでいい。
 私はこの幻だけで生きていけるから。
 

・【スクランブル交差点 ~篠塚琢磨視点~】

 別の高校へ転校したボクは、今、その高校で生物委員会を担当している。
 高校で飼っている生物の世話をするため、休日は高校に出掛ける。
 友達が「よくやるねぇ」と笑っているが、罪滅ぼしじゃないけども、ボクは積極的に世話をしている。
 最初はボクのことに怯えていたウサギだったけども、今は手渡ししたニンジンを食べてくれるようになった。
 金魚も何だかボクのことを認識してくれているようで、何だか嬉しい。
 そんなある日、ボクと同じ生物委員会の女子が、休日もやって来るようになった。
 基本的に生物委員会で稼働しているのは、ボクだけだったので、やって来てくれるだけで正直驚いてしまった。
 さらには(当たり前だけども)一緒に世話を手伝ってくれて、ウサギ小屋の掃除も面倒がらずにやってくれて。
 そこからボクはその子と仲良くなった。
 ボクが人間と、いや生物と仲良くするなんて思ってもいなかった。
 ボクはずっと一人で、それを見返すためにあの学校へ入学して、それでも一人で。
 だから野良猫に爆竹を投げつけ遊んでいた。
 全てはただの憂さ晴らしだ。
 そんな遊びをしていれば徳も下がるし、勉強の成績も下がるわけで。
 遊び惚けていたボクは結局自殺室行きとなった。
 そこで出会った深山陽菜と田中信太に、ボクは心を動かされた。
 二人の会話を聞いて目覚めたんだ。
 もしただ自殺室で自殺するだけなら、ボクは多分変われていなかったと思う。
 世界に戻ってきても、腐って、また同じようなことを繰り返していたと思う。
 でもボクは変わった。
 いや、変わらせてもらったんだ。
 だからこの命を大切に、出来ればこの命が誰かの命になれるように。
 ウサギを可愛がりながら、その子と二人で他愛も無い会話をする。
 こんな日々が一生続くといいな。
 いや願望じゃない。
 続かせるんだ。
 それにはボクの努力が必要だ。
 ボクは前進し続ける。


・【甘い甘い香水 ~赤井颯来視点~】

 ぶっちゃけ全部嘘だし。
 全部全部嘘で、狂いたくなるくらいの嘘で、反吐が出る。
 私はすぐに地元へ戻った。
 クソだったと言いふらして、今はまたあの頃の仲間と一緒に遊んでいる。
 そんなある日、仲間の中の一人である橋本が「また蹂躙プレイしよう」と言い出した。
 一瞬ゾッとしたし、止めようと思ったけども、全部嘘だということを思い出した。
 あんな学校自体も嘘みたいなもんだし、自殺室も嘘だったし、そしてきっと私のことをずっと監視しているというのも嘘だ。
 だってそんな労力、いなくなった人間にまで掛けるはずないから。
 だから私たちはまた”蹂躙プレイ”を始めることにした。
 まず誰を狙うか。
 ターゲットを捕まえるのは勿論私の役目。
 何故なら私だけ成功率がパないから。
 仲間たちも別に容姿が悪いわけじゃないんだけども、結局私ほどじゃない。
 私ほど頭も回らないし、機転が利かないし、こういうことがちゃんとデキるのは私。
 中央通りで品定めする。
 やっぱり陰キャが面白い。
 記念すべき再開一発目なので、爆笑したい。
 というわけで良い陰キャを見つけたので、話し掛けると最初は逃げ腰、でもだんだん私の魅力にハマっていったみたいで、ついてくる流れに。
 楽しい。
 やっぱこれめっちゃ楽しい。
 誘いこんでバカやる遊びは最高の娯楽。
 そう思いながら、アパートの一室の前まで来た時、何か違和感を抱いた。
 何だか部屋の中からやけに甘い香りがする。
 でもまあ仲間がアロマの準備でもしてんのかな、と思いつつ、玄関の扉を開き、中に入ると、誘い込んだはずの陰キャは中に入ってこないで、扉が閉まった。
 ギリギリで逃げやがったのか、と思いながら、玄関の扉を開き、追いかけようとしたんだけども、玄関の扉が全然開かない。
 まるで錠が閉まったように。
 何なんだと思いながら振り返ると、私の目の前には、あの時の、目玉と腕の無いゾンビのような人間たちが立っていた。
 私は背筋が凍った、否、凍っている場合じゃない、早く外に出ないと、でも玄関の扉は一向に開かない。
 それなら窓から外に出ないと。
 そう思ってそのゾンビのような人間たちをかわして、部屋の中に入ると、そこには既にそのゾンビのような人間たちに舐め尽くされた仲間たちが倒れていた。
 硫酸でただれた皮膚、それなのに何故か香りだけは甘くて。
 この瞬間、私はとあることに気付いた。
 あっ、私、ここで本当に死ぬんだ。


・【飛び込み台 ~福村俊太視点~】

 ユースケは学校関係無いので帰ってこない。
 でもボクは戻ってきた。
 ユースケに、もらった命は、また戻ってきたのだ。
 あの時ボクは、着水する直前に何だか天国に登るような気持ちになったことを覚えている。
 苦しいことなんて何も無くて、むしろ全てから解放されたような高揚感。
 気付いたらボクはベッドの上で寝ていて。
 全てが無かったことになっていた。
 このままユースケのこともなかったことになっていればと思ったけども、それはやっぱりダメで。
 いや、ユースケのことをなかったことにしてはいけないんだ。
 そういうことがあったということを肝に銘じて、ボクは生きていかなければいけない。
 もしあの時、ボクが橋本たちに強く出ていられれば。
 ユースケに心配されないボクでいれたら。
 もうボクは、誰にも心配されないように生きていくことを誓った。
 自分で何でもできるようになって、誰の迷惑も掛けずに。
 そしてできればボクは誰かを助けるような人間になりたい。
 だからこそボクは、飛び込むんだ。
 人間の渦に飛び込んで、闘おうと思うんだ。
 もう逃げてばかりの自分はいらない。
 目線は常に未来を据えて、闘志むき出しで走り続けるんだ。
 昔のボクのように困っている人を助けたい。
 だからこそボクはこの学校で先生をしないかという打診を断って、一般的な人間の渦へ行く。
 そこで地域レベルから変えていきたいんだ。
 この学校での生活は嫌なことばかりで、結局自殺室なんて経験をしてしまったけども……いやその経験があったからこそ、自殺室であの二人と逢えたからこそ。
 その全てを糧に、僕は歩み続けるんだ。
 

・【無視できなくて ~楠田大輔視点~】

 終わってみれば助長した立場。
 主犯じゃないけども、当事者からしたら関係無い話で。
 オレはその後、木島光莉と対面した。
 そこで木島光莉からは許された。
 許されてしまった。
 許されないほうが楽だったかもしれない。
 いや、楽なほうに逃げてどうするんだ。
 罪は消えたわけではないけども、表面上は確かに無くなって、何も無くなったオレは新たなオレを構築しなければなくなった。
 新しいオレはもうイジメに流されるような人間にはなりたくない。
 簡単に周りに流されるような人間にはなりたくない。
 悪いことは悪いこととして、止められるような、そんな強い人間になりたい。
 オレは今、この学校の下部組織で働いている。
 自殺室を経験すれば、もうこれ以上の勉強は先生になる以外なら大体しなくていいらしい。
 元々この学校に入学できただけで、日本一の大学を卒業したと同じくらいの学力があるから。
 でもオレは勉強をやめなかった。
 もっと知識がほしい。
 もっと正しい知識がほしい。
 多分オレは勉強をやめない。
 勉強はオレのライフワークだ。
 能力を上げられるのならば、オレは全ての能力をマックスにしたい。
 マックスにしたところで、本当に大切な、優しい人間の項目はマイナスだろうけども、それがプラスになるような何かを、できれば成し遂げたい。
 仕事の関係上、たまに木島光莉を見かけることがある。
 その度に負い目を感じるが、その負い目を感じる気持ちが重要だと思う。
 その気持ちがあるからこそ、オレはまだまだ頑張れると思う。
 悔いを忘れず、オレは今日も生きていく。


・【動き出した古時計 ~溝渕弥勒視点~】

 最近、直子がウザい。
 いやまあそんなハッキリと人に対してウザいと考えちゃダメなんだけども。
 自殺室で一緒にいた時もまあまあその節はあったけども、この学校で先生をし始めてから特にだ。
 でも正直理由は分かっているつもりだ。
 信太と陽菜の関係を見てちゃんと気付いた。
 直子は俺のことが好きなんだ。
 だからなにかと絡んでくるんだ。
 じゃあ俺はどうだろうか。
 直子のことは、別に嫌いじゃないし、むしろ、だ。
 というかこのまま気付かないフリをしている大人もダサいと思う。
 直子はウザいし、俺はダサい。
 よくよく考えれば、これ以上お似合いのカップルはいないな。
 仕方ない。
 今日のランチで、ディナーでも誘うか。
 その時にハッキリと言うべきかもしれない。
 ……いや何か俺が追いかけているみたいになるのは癪だな。
 と、こじらせているところが俺のダメなところなんだろうな。
 あぁ、もういい、こんな自分はもううんざりだ。
 俺だって変わってやるんだ。
 俺から直子に言ってやるんだ。
 信太と陽菜を見ていると、何だかこっちのほうもやる気が出てくる。
 アイツらはちょっとイチャつきすぎだからな。
 大人もイチャつくんだぞ、ということを見せてやらなければならないな。
 いや俺ちょっと変なテンションになってるな。
 らしくないかもしれないな。
 いやいや、らしいとからしくないとか考える年齢じゃないだろ。
 俺はもうやってやるんだ、言ってやるんだ。
 直子、待たせてゴメンって。


・【いつも最高な日々 ~深山陽菜視点~】

 上司の狩谷日向さんがアタシは結構苦手。
 アタシ自身は何かされるわけじゃないんだけども、信太が日向さんからちょっかい出されていて、正直ヤキモチする。
 信太は信太でまんざらでもないというか、何だか不思議みたいな顔をして、こっちに関してはイライラする。
 いや狩谷日向さんにも正直もうイライラが止まらない!
 何なのアイツ!
 何でいっつも特別室にいるのっ?
 アタシと年齢変わんないみたいだし、何であんな偉そうなのっ?
 それに信太には何か甘々だし! めちゃくちゃ怪しい!
 あー! まさかアタシが他人に嫉妬するなんてなぁ!
 そういうキャラじゃないと自分では思っていたのになぁ!
 でもそれはあの狩谷日向さんが悪い!
 いや違う!
 狩谷日向が悪い!
 よしっ! 心の中では呼び捨てでいく! 決定だ!
 クソ日向女!
 うんっ! これは言いすぎだ!
 いつかとっさに出そうだから、ここは狩谷日向程度でやめておく!
 いやでも!
 とっさに言いたい!
 というか! とっさだと思わせて言いたい!
 何なんだよ! 信太はアタシのモノなんだよ!
 急に現れたポッと出に信太をやらないんだからな!
 信太はずっとずっとアタシのモノなんだからなぁぁぁああああああああああああ!
 ……まあ別に信太と何しているわけじゃないけどもさ……信太は奥手すぎぃぃいいいいいいいいいいいい!
 もう襲っちゃおうかなぁっ! 襲っちゃってもいいのかなぁぁあぁああああああ!
 あぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!
 らしくない! らしくない!
 よしっ!
 襲う!
 襲うし、狩谷日向にはクソ日向女って言う!


・【陰と陽 ~狩谷日向視点~】

 狩谷さん?
 ……あぁ、私か、私だ、私。
 いっけない、自分から言い出した偽名なのに忘れそうになる。危なーい。
 木島光莉は死んで、狩谷日向になったんだった。
 バージョンアップしたんだった。
 ちゃんと自分の設定、自分で反芻しなきゃ。
 あー、それにしても、信太くんは可愛いなぁ、大好きだなぁ。
 でも多分陽菜さんといろいろしちゃっているんだろうなぁ……羨ましい……でもあれかな、あれなのかな。
 過去に悪いことした人はガッツリ監視されるらしいけども、私のような善良なほうだった人たちはそこまで監視していないらしいから、略奪愛くらいなら大丈夫かな?
 いやまあ学校内部でやったら、監視もクソも無いけども。
 でもよくよく考えたら略奪愛くらい、全然大丈夫では?
 信太くん、大好きだなぁ。
 私は信太くんのことが大好きだなぁ。
 どうしよう。
 もう自分で作った設定壊そうかな。
 狩谷日向なんていないし。
 そんなヤツいないし。
 木島光莉として再デビューしようかな。
 そうしたら信太くんが目を輝かせて私のこと見てくれるかも!
 うん!
 いいね!
 この作戦いいね!
 ……いやいや、ダメだ、ダメだ、私は信太くんが幸せであればそれでいいんだ……あんまり出過ぎた真似は良くない。
 私はもう狩谷日向として生きていくんだ。
 それでいい。
 それでいい。
 って、変わるべきなんじゃないかな。
 やっぱり私も変わるべきなんじゃないかな。
 結構みんな変わっていっているという情報も入ってきてるし、私だって変わるべきじゃないか。
 狩谷日向ってやっぱり改悪だったんじゃないの?
 もっと改善するべきなんじゃないの?
 う~、どうしよう、とりあえず直子さんに相談しようっと。


・【違和感 ~田中信太視点~】

 あれ?
 狩谷日向さんって、光莉?
 そう思うことが毎日あって。
 毎日あったら、もはやそうなのでは?
 違和感というか、正直確信と言うか。
 核心と言ってもいいと思う。
 でも何で別人のフリをしているのだろうか。
 そこは触れちゃいけないブラックボックスなのかな。
 触れちゃいけないブラックボックス。
 もしそこに、触れてしまったら僕はどうなるのだろうか。
 いや、また考え癖が出ている。
 良くない、良くない。
 そんなことより、今自分がすべきことをやる。
 ただそれだけだ。
 今は先生として邁進しなければ。
 正直陽菜との恋愛とかも後にして、今やるべきことをしなければ。
 せっかく生まれ変わるチャンスを与えてもらったんだから、僕はもっと変わるんだ。
 この世界をもっとより良くするため、僕はもっと上を見る……いや、横も気になるけども。

(了)