ちゃんと本が読めるようになってきた

ちゃんと本が読めるようになってきた。
最近は、予てから参加していた哲学のディスコサーバーでルソーの『社会契約論』の読書会に参加している。
いわゆる哲学系の本は、ここ1年ほどはストア哲学関連の書籍しか読まないようにしていた。(なぜなら、ストア哲学以外の本を読むと、心身に違和感があったからだ)

精神分析の本は読まないようにしていたし、下手に欲を出して新しい分野の思想書など読まない方がよいと、体で実感していたのだ。
それでも、少し手を伸ばしてみようかと思ったら、図書館に行き、図書館だけで読むようにしていた。
それは、図書館と自室をゾーニングするためだ。図書館でどんな感情になっても、自室の僕は脅かされないのだ。

1月の中旬ごろ、『ゼロから始めるジャック・ラカン―疾風怒濤精神分析入門』を購入した。(これは以前から読みたいと思っていた本が文庫化されたのだった)
恐る恐る読み進めてみると、気持ち悪いぐらいに「よくわかって」、気持ち悪いぐらいだ。

以前の記事でも記したが、「ワクワク」や「楽しむ」という感情は、不確実性を許容できるかという問題だと、思っている。
つまり、不確実性を許容できるというのは、多少予想外であったり(これは予想を裏切られるということだ)、自己のある程度が破壊されても(揺らいでしまっても)、構わないという、平たく言えば「余裕」があるということだ。

だから、僕たちは「スリル」を味わうために、わざわざ危険の伴うジェットコースターやバンジージャンプに勤しんで、確かだと思っていることを破壊されてゆく様を楽しんでいるのだ。

そう、今回文章を書こうと思ったきっかけは何だったか。
それは僕の中にある、「怒り」「やるせなさ」「理不尽さ」のような感情なのかもしれない。

僕は常々言っているように、平場で言えば気狂いめいているということを避けるために、自らゾーニングをして、好きな場所に好きなことを書いているだけなのだ。

その感情とは、どのようなものか。
他人のエピソードを借用してみる。

先日記した、棋士の先崎学さんの「うつ病九段」にこのようなエピソードがある。(うろ覚えなのはご了承いただきたい)
彼が棋士界の祝賀会に参加し、若手の棋士と話をしていた。
そこに記者が現れて写真を撮りたいと言われたが、背筋の凍るような暗黙の了解のもと、彼はその写真に映らない場所に移動しなくてはならなく、若手だけのショットを記者は収めることになるのだ。
その後、彼は、作中で何度も繰り返すように、自宅で酷く怒りに任せて暴れていた。

この本を読んでいた時の僕は、いささかクールで、
自分の精神的な事情や、社会的なスティグマなどどうにもならないのだから、
そんなつまらないことで怒っても仕方ないと、そう思った。

しかし、その一方で彼のその怒りの感情は、非常に生々しいもので、共感が伴うものだった。
ストア哲学を鑑みれば、僕たちは泣いてもいいが、心の底から泣いてはいけないのだ。
それは、泣きたくなるような表象であっても、その表象に同意を与えるのは、我々次第だからだ。
つまり、誤った同意とは、理性の誤った使用方法であって、人間の本性(自然)は理性を働かせ、社会的な行動をすることにあるということだ。(誤った同意は人の本性に反するということだ)

だとしても、我々のうちに感情が働くことを否定するものでない。(ストア哲学は無情念を勧めているわけではないので)
だから、僕たちは怒ってもいいが、心の底から怒ってはいけないということだ。

また、暇になることがある種の健康の兆候であると同じく、怒りが湧くというのもある種の健康の兆候、だということだろうか。

では、僕は何に対して、そのような「怒り」「やるせなさ」「理不尽さ」を覚えたのか。
僕が言いたいのは、ある種イメージされるような直線的な怒りであったり、憎しみ、ということではなく、
もう少し、ニヒリズム(虚無的)な感覚の伴う、誤解を恐れずにそのまま言えば、「物事のどうでも良さ」を覚えている。

平易な例を出せば、「こんなに勉強したのに、全然成果が出なかった!」という感覚に近しいものだろうか。(もちろん、このような例に対しては、僕自身色々と反論を付け加えることができる)

つまり、僕が徐々に好ましくなり、「俺って健康になったんだな」と思える時間が増えれば増えるほど、好ましさの裏には、虚しさが付き纏ってくるのだ。
尾崎豊の歌詞を借りるなら『一体何だったんだ こんな暮らし こんなリズム 一体なんだったんだ』となる。

もう少し例を出せば、
激しい天災があって、生命のやり取りのような極限の中で、選びたくない選択肢を選ばせ続けてきた人が、ふとその天災があった地域から離れて、他の地域に降り立つ。
そんな時に、他の人が従来通りの生活をしていて、自分たちがこれまでいた場所が、まるで別世界だと思わされてしまう、その感覚に近いのかもしれない。(余談だか、最近は、吉田千亜著『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』と小西聖子著『新版 トラウマの心理学 心の傷と向き合う方法』という本を読んだ)

自分の感情の出どころなど対して興味はないのだけれども、(つまり、この感情は他人から借りてきた可能性があるということだ。「無意識」という概念を借りれば、僕が抑圧していたところのものかもしれない)何にせよ、僕がそう思ったというそれだけで、文章を書くのには十分過ぎるのだ。

とはいえ、自分が日々やることなど常に明確になっている。
それは「常に平常心を保つ」ということで、「自分の自然と義務に適い続けろ」ということだ。

俺はエピクテトスがいうように、クリュシッポスの論文を読んだからということを話したいのではなくて、君がもし何かに不平を抱くとするならば、君が何かストア哲学の学説について能書を垂れるなら、そんなことをする前に君自身がそうすればいいことなのではないか、と。僕は概ねエピクテトスに同意している。

「平常心を保つこと」と言えば、僕は先日、友人と東京に出かけたのだけれども、
イベントの終盤では、少し疲れてしまったなという体の感覚は得ていたものの(最も、疲れるのは当たり前のことで、僕にとっては疲れている自己を認識できていることに意義を見出している)、概ね平常心であったのではないかと思っている。

つまり、知らない土地に行く、知らない人に会うというのは「不確か」で「未知」だということだ。
こう連日連日、知らない土地に行って、人と話し、時にはスリルさと肉薄しながらも、平常心であった自己意識を了承した。
そのような習慣的なものから一時離れ、また習慣的なものに帰属するとき、日常的なものの見え方が陳腐さを伴うというのは、多分これはよくあることだ。(僕たちはインド旅行から帰ってきた人たちが、よく「人生観が変わった」と言う、あるあるを受け入れている)

話題は変わるけれど(書くテーマは通底している)、
今日は友人と、協力型のゲームで遊び、そのあとは外食をし、カードゲームをした。
ああ、思えばどうだろうか!

俺は2年前は(まだなのか、もうなのか)、「人間は仕事だけをし過ぎるとダメになんるだな」と体と心全体で体現していた。
漫然としたまま、「とにかくストレスを解消しなくてはならない」と躍起になり、楽しいこと(昔は楽しいと感じていたもの)に必死に縋っては、何も得られなかった。
友人と会って、俺のどうしようもなさだけを感じる時間を過ごして、矢継ぎ早にあった大学の同期とは、「今日、ここで意識がなくなるなら、それはそれでそうでもいいことなのか」と逃げるように思いながら、明け方までどうしようもなく酒を飲んでいた。

二日酔いの中で俺は、人は積み上げた行動の連綿の過ぎないと、浴槽に浮かぶ肉の塊を見て、そう思ったのだ。
外見だけ着飾った革ジャンと、座っても歩いてもいてもたってもいられない焦燥感と不安感と他者の視線に怯えながら、うわ滑りしていくマイケル・サンデルをカフェで齧り付くように凝視していた。

ここ半年の自身心身の変移を、『PTSD』の寛解のモデルケースを見て、勝手に納得するようになった。(それは「事象の発生」→「不安や怒りといった感情が過敏になる時期」→「抑うつ的な時期」→「緩やかな回復期」というモデルだ。ネットでは同じものが見つからなかった)

PTSDの書籍を読んでいて(こういった類の情報は書籍で仕入れるのが好ましい)、治療に効果的なのが「認知行動療法」と「規則正しい生活を送る」ということと書いてあり、非常に安心した思い出がある。

しかし、なんてこうバカバカしい気分になるのだろうか!
だけど、『今日の僕は運がいい それぞれにあるわけの中 たった一言でも君に 傷つかずにいるなんて(尾崎豊 街角の風の中)』

それでも、俺は生きづらさに執着するわけではないけれど(また、それを無視し続けるのは非常にダサいし、俺の自然に反すると思っている)、そういう風に生きること以外、まだ正直興味が持てないのだ。

平たくいうなら、俺はまだ、色々なことをどうでもいいことだと思っている。
俺にとって必要なことだけし続けられるのであれば、他の一切は、もう、どうでもいい。

みんなは一体、何を求めて、そんなにごちゃごちゃと過ごすのだろうか。
また、僕も人から見れば、同じようなものか。
なぜなら、『人はそれぞれの地獄を持っている』のだから!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?