思考の整理学

抽象的なことばかり書いて非常に満足をしていたのだが、具体的なことを書きたい気分になったので書くことにした。
まとまった文章(大体3000文字ぐらいだ)は、別の媒体で書いていたりする。

しかし、その書く時には、発信元で求められることを考慮するし、文章構成や、言葉遣いも人に読んでもらうために、脚色している。
こんな言い訳めいたことを毎回書いている気がするけれど、これもどこかの誰かに向けて書いているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

最近、読んでいる本がちらついているのかわからないけれど、ある種の「自由連想」風味な要素が、こうやって書く文章には含まれているような気がする。
ふと、頭に浮かんでいるものを、とりあえずキーボードに打ち込んでみる。(もちろん、本当の自由連想とは違って、個人情報に近しいものは抽象化するし、社会的倫理的に大きく外れるようなものは、無意識のうちに取り除いているはずだ)

だから、気の向くままに文章を書くというのは、ある程度制御のされたマインドフルのような営みのようだ。
また、最近読了した外山滋比古著「思考の整理学」にも書いてあったような気がするが、文章を起こす時、考えをまとめる時というのは、ある程度の「スピード」が伴わなければいけないということなのだと思う。
却って、「ちゃんと書こう」とか「考えがまとまったら書き出そう」などと考えているうちは、文章が書けないような気がする。

もちろん、経験則として、このようなことは文章以外のことにも適応できそうだけれど。

最近は、「とりあえず、外出すれば、1日が勝利している」と感じる。
これも、今日一日でこんなことをしてやろうと、無闇に企んでしまうと、却ってうまくいかない。
「課題はバカバカしいほど小さくしろ」と繰り返す、啓発本もあったが、それは実にその通りだということになる。
その本の著者も「30分の筋トレができるようになるとは、夢にも思わなかった」のようなことがエピソードとして語られていた。

そのエピソードを援用させてもらうならば、今の僕がPFCバランスと摂取カロリーを完璧にコントロールする食生活を送っていることや、筋トレをするためのにジムにいれば1時間ぐらいは歯磨きかのように行ってしまうこと、何より数日散歩をしないだけでこんなにも歩くことを欲するなんて思わなかった。

これは色々と勉強してきたことや、本で読んできたこと何かを考えると、「脳の仕組みがこうなっているよ」とか、教育分野で使う「スモールステップ」のテクニックを自分に使っているだけな気がする。

「課題をバカバカしいほど小さくする」のは、仕事術においても用いられる「課題を分解」するということで、小さいことを、達成できる範疇で分解して、一つ一つクリアしていく。そうすると、行動の報酬として、クリアしたという事実が与えられるから、行動すると楽しいような気分になるのではなかろうか。

しかし、クリアすることを報酬とすると、いくらステップを細かくしようが、達成がすぐには難しいステップにぶつかることもある。
その本の著者は「間違っても、小さくした課題は、大きく設定するな」と説いていたが、クリアすることはあくまで副次的なものなのかもしれない。

だから、よく歯磨きをかのように何かをすると言われるように、何かに対して「これは努力ではなくて、今までの自分にとって何も変化を起こさない、いつも通りの行動なんだ」と暗示をかけることが必要なんだと思う。
そうすると(ある程度の多くの人にとって)歯磨きを頑張ることがないように、また何かの行動が歯磨きかのようになる、のかもしれない。

こうやって、「思う」やら「かもしれない」と語尾をつけるたびに、『思考の整理学』の一節の内容を思い出してしまうのだ。

よく、人生において幸福感を得たいのなら、親しい人と日光を浴びて散歩をしろと言われる。
これは、人が幸福感を得るというのを医学的な側面で捉えたのだとは思う。
もちろん、こんなことを書くのも、最近読んでいる「ゼロから始めるジャック・ラカン」の内容がちらついてくるからだ。

最近の趣味は何ですかと、言われれば「市の図書館に行って、地元で開催されているイベントのチラシを収集することだ」と答えるだろう。
「居場所」とか「コミュニティ」という言葉が適当だろうけど、何にせよ人は人と関わることで得ることが多くある。
もちろん、そんなことは1年前だって半年前だって重々承知していたのだけれども。



マルクス・アウレリウスとエピクテトスと筋トレをしながら会話をする。
10月から始めたパートの仕事をすれば、昔の記憶がそそくさとやってきて、色々と整理をする。
「君の精神が平穏にならないのは、呼吸と姿勢が好ましくないからだ」とか「今といざとを分けるな」とか、言い聞かせながら淡々と呼吸をする。

筋トレで体型が変わったのが目に見えるようにわかるように、何かの成果や変化が目に見えるようには、それぞれに閾値があるのだと思う。
例えば、朝起きた時の第一声が違うとか、ふとした時に暇だと感じるとか、会話の声音が違うとか、些細な変化が僕には起きている。

人と話すと、頭の前方あたり(おでこの辺り)が熱くなるというのは、脳の機能なのだろうか。
これは今まで似たような人を見たことがあるからだけれど、感情が動くと頭が痛くなったりする。

普段しない勉強をすると、頭の普段使わない部分が疲労するのを感じることがあるように、人と話すことで使う脳の領域がきっとあるんだろうなと思う。

ちょっと前までの僕は、そういう感覚になると夜に寝れなくなるからイマイチなので、無理にそういう負荷をかけないようにしてきた。
最近は、知らない場所で知らない人と話すぐらいが、負荷としてちょうどいいかなと感じているので、図書館でチラシを探して人と話に行くのだ。

何にせよ、これも些細な変化の一つだが、夏頃は気の置けない友人と、ただ遊ぶだけでも気持ちを盛り上げないと、社会的に振る舞えないような感覚を得ていた。
しかし、先日友人と遊んだ際は、いわゆる普通に・自然に振る舞っても、ある程度の社会性が担保されたものだなと感じた。

場慣れしたとか、慣れといわれると、陳腐な気もして仕方ないのだけれども、何にせよバカバカしいほど小さな負荷を、段階的に自分に課し続けた結果として、徐々に好ましさが得られているのかもしれない。

ワクワクすることとは「不確かなで未知」なことである。
これは最近、自分の中で大切にしているフレーズだ。

僕はかねて哲学や心理療法、古典文学を読んでいるときは、うまく読めなくてもワクワクしていた。
それはもちろん、ある種の背伸びだったりが伴っていることは認めるのだけれども、それでいて、その領域には自分の知り得ていない何かがある。
そう思うことが案外、いい刺激になるのだと思う。

ことわざで「隣の芝は青い」といわれるように、案外それを知ってしまえば大したことがなかったなと落胆を伴うことも、またそんなもんなんだと思う。

レヴィナスの入門書を図書館で少しだけ読んで、「他者は無限に開かれている」のようなフレーズが残っている。
そのレヴィナスの入門書は、読んでいると自分が今は触れたくない「無意識」のようなものを刺激してくるので、読むのを諦めた。
とても面白そうな本であったが、本を読むことで自分のバランスを崩すことは許容できなかった。

そうなると、僕は何かを知ることを選択的に選んでいる。
つまり、見たくないものを見ないでいるような選択が、とても上手ということだ。

これは人から聞いた言葉なので、本当に正確なのかはわからないのだが気に入っている言葉がある。
ラカンが「夢は現実で、現実は夢だ」というようなことを言っていたらしい。
これを聞いたときは実にもっともだと思った。

夢は僕が見ないようにしているものを、見せてくる。
そういう意味では、自分の無意識は、僕にとっては本当は見たくない場所で、それを見せられてしまう夢の方が、いわゆる現実よりも、よっぽど現実だ!
そうなると、僕は朝目が覚めた時に、「僕は夢の中にいれる」と思い、エピクテトスが説くように選択意志を用いて、現れる表象に対処することができるのだ。

最近はよく夢を見る。
何か鮮明さを保っていて、夜中に目が覚めるたびに「こんなこともあったな」「こんな人もいたな」と思い出す。(しかし、僕は幸運にも毎日8時間寝ることができている)

睡眠の質なのか、寝室の環境なのか、その要因はよくわからないけれど、この変化は外部のコミュニティに参加し始めた時ぐらいからの変化に思える。

脳みそがきっと何かの整理をしているのだと思いながら、僕は毎日寝るたびに、昨日よりもより好ましくなれると思い、就寝するのだ。
夜中に目が覚めて半分だけ覚醒した意識の中で、自分が夢の内言を引きずるのを感じ、それを観察する。

しかし、大抵は僕が好きなvtuberの「名取さな」の雑談配信を、iPadで流すことでまた睡眠に沈んでいくのだ。

図書館で知らない棚から、感覚的に本を手に取り読むように。
知らない場所で知らない人と話すように。
かつて、漠然と憧れていた何かを捨てずにしまっておきながら。

自分が知らない、外に無限に広がっている「未知で不確かな」ものを取り入れつつ、
エピクテトスやアウレリウスが説くように「われわれの力が及ぶものと及ばないもの」を分別しつつ、徹底的に現在への回帰と行為への集中に身を任せているのだ。

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