一撃でわかる、ということ。

とりあえず、アウトプットをしようと思う。
こういうことは、書く内容を意識で選別せずに記すのが、好ましい。

最近は、いろいろなことをしている。
数ヶ月前と比べてみれば、どうだ。
本を読むようになった。人と会うようになった。
そのどちらもよりよく生きる(ウェルビーイング)にとって、不可欠なものだ。

その分、最近はインプット的な要素が多くなっており、いわゆる自他の情報の整理の必要を感じている。
母校ではない大学の図書館で「ブルシットジョブの謎」という本で読書会をしている。
そこでも話題に上がったが、消費者の欲求は、何かによって造られたものなのか、そうでないのか。それをどうやって判別するのか、ということだ。

常々思っているが、本を読むというのは自分で考えない、ということだ。
正確にいえば、自分だけで考えない、ということだ。

最近読んでいる、ルソーの「社会契約論」を読んでいるときなんか、特にそれを感じる。
社会契約論は、哲学のディスコードサーバで読書会をしていて、毎回10ページ弱ほどのペースで進行している。
だから、私がしている通常の読書よりも、精読している。

つまり、精読をするということは、ルソーの論理を丁寧になぞるということで、
曖昧に自分の思い込みで、解釈しないで進むということだ。
だから、これは僕の感覚では、ある種の傾聴のようなものだと思う。

人の話を聞く、ということは、傾聴するということだ。
傾聴する、ということは、相手の話を受け入れることで、自分の先入観を排除する、ということだ。

そんなことを最近は大切にしている。
自分の判断基準でスパッと判断してしまうことも、場所と時間においては重要性を増していくが、両方できることに越したことはない。
この考えは、マークレウラウ「習慣が変われば人生が変わる」という本をパラパラ読んでいて、気に入った箇所だ。(余談だが、最近は習慣というフレーズが好きなので、つい手に取ってしまう)

この本はいわゆる自己啓発本で、書かれていることはいわゆる当たり前のことが多い。
しかし、言うのは簡単で行うのは難しい、と言われるように、
当たり前のことを当たり前に積み重ねていくことが、何より大切なのだろうと感じる。

アウレリウスも「自省録」で繰り返し書いているように、相手の指導理性に入り込む、ことが非常に大切だ。
つまり、相手がなぜそのようなことを言うのか、振る舞いをするのか、それにはその相手のこれが「善いことだ」という(誤った)同意があるからだ、となる。
それは、ソクラテス的な無知の現れであって、訂正されうる同意は常に無知さを含んでいるということだ。

その無知さは同様に自分の考えにも現れるのであって、
安易に相手の言葉、振る舞いを判断してしまうのは、誤った同意になりかねない。
人の話を聞くときに、自分の考えを入れず、この後何を喋ろうかなどと考えずに、聞くということは、そういう過ちを避けることができるだろうと思う。

それと対比して、傾聴を重ねなくても「一撃で理解できる」ということもある。
一撃で理解できる、というのはある種の知性(洞察力)なものだけれど、
そういう時には、ある種の当事者性が含まれていることも多い。

例えば、これは例になるかはわからないが、
僕が労基系の相談窓口に飛び込んだ際のことだ。(この窓口は僕が転職活動をしているときにもお世話になっていたところだった)

予約もせずに「事情があって携帯や財布、家の鍵、身分証明書がないのだけれど、まずは相談したいことがあって、相談するならそういう専門性のあるところだと思って」と、ストレスと恐怖心と悲壮感を、なんとか隠しながら平静を装いながら、言葉を選ぶように話した。(なぜなら、人は自分が被害を受けたと大っぴらいうことによって、却ってその正当性ではなく、不信感を募らせてしまうものだから…。つまり、そのような被害に遭うのは、君にも…という論理を与えてしまう。だから、こういう時のベストな振る舞いは、平静で毅然と、論理的に振る舞うことで、協力が得られると考えた。なぜなら、自分に害が及びそうなことに、無関係の人間は関与しないから!)

その時、受付にいた50代ぐらいの男性の方が、すぐに察してくれたのがわかった。
でも、どうやら20代ぐらいの女性の方には、ここまで話しても伝わらなかったようだ。

このように事情をすぐにわかってもらえるという、ダイレクトさは時にはとてもありがたいと思った。
つまり、こういうダイレクトさは、いわゆる傾聴的なものとは一線を画していて、「とにかく刺さって、効果があるけれど、全員には共通するものではない」という性質を備えている。
細かい理屈抜きで、とにかく、驚くほどに効果的なもの。これが「一撃で理解できる」ということだ。

人は外見や振る舞いで、人を判断するものだ。(それはもちろん、僕もそうなのだろう)
だから、僕は人と会う時はジャケットを着ているし、髪は整える。
なんだかんだ続けている筋トレも、外見は好ましい方に傾くし、漠然としっかりとした印象を与えている。

僕は他人にしっかりした印象を貰いたくて、仮言的にその行動をしているわけではないとは思う。
素直な自分の声に従えば、その方が自分にしっくり来るから、とは思うが、
自意識が自己だけで成立することがないように、きっと他者が影響していることは避けられない。(だから、ある程度は仮言的なのかもしれない)

だから、外見が様になればなるほど、俺は他人から理解されない。
人前で従来通りに振る舞うことができるようになればなるほど、だ。

だから、俺が本当に孤独に思っていること、俺が本当に虚しいと思っていることは、
こうやって言葉を尽くしたり(最も言葉を尽くしても伝わらないことも多いけど…)、何回も関係を丁寧に重ねていかないと理解してもらえない。(最も、そういう相互理解をする過程に意義はある)

それでも、俺はこうやって、ある程度自分が抱えているものを言語化できる能力に恵まれているので、なんとか慰めながら生きている。

でも、それでも、たまに僕に対して、「一撃で理解」してもらえる体験をしてしまうと、嬉しくなってしまう。
もちろん、自分が言語化できている「本当に」は、すでに「本当に」ではないのだけれども、日々を過ごしていく中で、「本当に」は見えないところに行ってしまう。

なぜなら、「本当に」は、誰に話しても理解してもらえないのだから…!
俺は、俺が孤独だということを、一撃で理解してもらえる、つまり共感を伴ってもらえるのであれば、なんてそれだけで十分なんだろうと思った。

前に「俺はまだ、色々なことをどうでもいいことだと思っている」と書いた。
それはつまり、そういうことなんだ。
俺はまだ、どこかちゃんと現実を生きていない、現実は夢のようで、夢心地だ。

どこかで「習慣で誤魔化している」と書いたが、そこから何も変わりはしない。
もちろん、僕の身体的な変化はあれど、周囲の好ましい変化はあれど、まだきっと誤魔化している。

それは、まだ見えないところに「本当に」が潜んでいるからだろうか。

俺の一番古くて一番新しいものは、何を欲求しているのだろうか。
ああ、筋トレでもしよう。

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