言葉にするとは、自分のルールを変えることだ

何事においても動き始めというのが肝心で、最初さえしてしまえば、あとは流れるように色々なことがうまくいく。
それはバーベルスクワットでラックアップするようなものだ。
しかし、無闇にラックアップすればうまくいくというわけではなくて、フォームの意識、呼吸を整えるといった要素を無視してしまえば、きっと潰れてしまうだろう。

そう、これはいつも通り、文章を書き始める前の言い訳なのだ。

では、なぜ、私は文章を書こうと思ったのか。
それは「僕の周りには、ありがたいことに信頼できる人がいる」ということを言語化したかったからだ。

それはつまり、僕の周りからは信頼していた人が過ぎ去った、ということを経験しているからこそ、それを感じるわけだ。
ストア派を見れば、エピクテトスは「最愛の人とキスをするときに、その人が死んだ時のことを考えよ」という。

つまり、感謝とは、今あるものに対しての再確認であり、
満足とは、今あるもので満ち足りているという欲求の解消だということだ。

そう、何にせよ何かを書かなくてはいけないような気がしている。
それは綺麗な文章を作り上げることではないし、誰かからブックマークをもらうわけでもなく、書くということで自分の中で眠っている何かが解れそうだ、という期待を持っている。

何にせよ、そうだ。
こんなにも早く、どうでもよくなってしまうものなのか。
僕が十三の時に学校に行けなかったことは、十数年も知らず知らずのうちに抱えていたというのに!

この場合のどうでもいい、というのは、言い換えれば執着しないという意味合いだ。
無意識は言語で構成されていて、精神の病とは言語の病なのだ。
これはラカンの入門書でかじったことだけど、僕はとても同意する。

だから、書く。書くことで、僕は僕の潜んでいる何かに対して、抵抗したり、言い換えたり、上書きしたりできる。
書き続けることで、きっと何もかも、どうでもよくなっていくはずだから!

アウレリウスの表現を借りれば、
君はこれから、無礼な人、配慮のない人、迷い戸惑う人、独善的な人、未熟な人に出会うだろう。
「世の中にそのような人がいるのは、至って当たり前のことだ。君は今更、何に戸惑っているんだ。まさか、世の中には善良な人しかいないとでも思い込んでいたのか。」

そして、僕は出会うだろう。自分と感性の合う人間、経験を共にする人間、信念が近しい人間に。

臨床心理系の漫画で書いてあった、気に入ったフレーズがある。
「人は人によって傷つけられ、人は人によって癒やされていく」のだから。

そう、本当は、前に書いた文章は、違うことに区切りをつけようと思っていたんだ。
それはこの半年間への決別のつもりだったのに、僕が本当に決別するものが勝手に出てきてしまったんだ。

BUMP OF CHICKENの『分別奮闘記』にもあるように、この粗大ゴミをどうするのかと考えていた。
エピクテトスは「君が持っていたものが失くなったとしても、それは返したに過ぎない」と言っていた。

でも、もしかしたら、返したものがまた巡ってくることもあるかもしれない。
粗大ゴミだってどうしようもなければ捨てるしかないけれど、保管しておけるならしておいても罰はあたらないだろう。
それに、粗大ゴミを捨てたくたって、捨てる気力や体力がない時だってあるのだから!

だけれども、粗大ゴミを保管しておきやすいように余分なものを削っておくんだ。
だって、その粗大ゴミにまとわりついているものは、放っておくといつか腐敗していって、僕を飲み込んじゃうから。

つまり、『星の王子さま』でも言っているように、火山のすすは落としておかなきゃ。
だって、そうしないと、もし火山が本当に煮えたぎってきたり、噴火しそうな時に、迷惑になってしまうから!

最近は本を読んでいる。それも知的好奇心からだ。
平常心を確保するためでもなく、雑念をやり過ごすためでもなく、意図的に好奇心に慣らすためでもなく、ただの知的好奇心からだ。

これは僕にとって大きな変化だ。
しかし、ただ、忘れてはいけない。
本当に大切なものは何なのかと。

新しく色々なものを買って、所有することは容易い。
しかし、まだ、うまく言えないけれど、それではダメなんだ。

言語は反復する。
『まだ先のことなんか 何も見えやしないから やっぱり今日も同じこと 繰り返してしまうのだろう』(尾崎豊『風の迷路』)

まあ、また反復するにしても、今度はもうちょっとうまくやるさ。

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