僕はゆるやかに好ましくなっている。

僕はゆるやかに好ましくなっている。
「好ましくなる」とは、自己同定できる自己を取り戻すことである。

大体、半年が経った。
今、この現実に存在しないものは、全て緩やかに解されていく。

もしかしたら、大体2年が経ったのかもしれない。
僕は食事、運動、瞑想、適切な睡眠時間、ありとあらゆる日常の選択肢の排除、を生活に導入することで、ゆるやかに好ましくなるウェーブを作り出した。
僕は正直に言うと、そういうことをせずに、日常を送れる人たちが随分と羨ましいと思っていた。

過去は想起され、好ましいフィードバックを送り返すことで刺々しさがなくなっていく。
昔の苦々しそうなものだと思っていたのだけれど、なんだかんだでそれが僕をできるようにさせている。
一つ一つの現実的に対処する出来事が、俺の昔のことに繋がっていき、結局それがあったからなんだかんだ上手くやらせている。

突然の減衰。
最近、先崎学棋士のエッセイ本を読んだ。
「僕が七手詰めを速やかに解けないのは、数学者が算数を解けないようなものだ」

ピークアウト。
最近、ウマ娘3期のアニメを観ている。
「私が最後に粘り切れないのは、能力がピークに達しているからだ」

できたはずのことが、できなくなっていることに気が付く。
できると思っていたことが、できなくなっていくことに気が付く。

イメージしている能力値と身体が発揮できる能力値に差があることに気が付くことはとても残念だ。
しかし、こういう認知からは焦りが生じる。
常に焦らずに、できることだけしていればいい。
その結果、どうにもならんのであれば、それはもう僕にはどうしようもないことだ。



説明する気も、分かりやすく書くつもりもないのだから、こういう文章になる。
最近は別の媒体で、分かりやすい文章を書いて投稿している。
それは、ある一定の求められる基準があるから、それを満たすように構成するし、文体も整えている。
でも、こういう変な文章に面白みを感じてしまうのは、僕だけだろうか。

書く理由など微塵も正当なものはないのだけれども、書くからにはこう格好つけてやろうと思うと、文章がまったく面白くない。
かといって、自分の思考に任せて殴り書きしたのでは、それもそれで味気ない。
何かきっと、僕の中での塩梅がきっとある。

書く内容は選んでいないようで、選別している。
まだ頭の中で考えておきたいなと思うことは、書きださない。
逆にこれはどうでもいいなと思うことこそ、却って書き出してしまう。

きっと、書いてしまうと、大事なことでもどうでもいいことだなと思わせてしまうメカニズムがあるのだろう。

何にせよ、僕はこれほどまでもなく、緩やかに好ましくなっている。
僕はふとした瞬間に自分が好ましくなっていることを自覚するのだ。

例えば、少し変に思われるだろうけど、1.5ℓのゼロカロリーコーラを買った時なんかはそんな気分だった。

僕は特定のスーパーで何を買うかをほとんど固定している。
それは、人間は疲労状態だと、いくら正しい知識があろうが誤った選択をする傾向があるからだ。

つまり、買い物の固定化は僕にとっての防波堤であって、セーフティネットということだ。
しかしまあ、決まったものを破壊するというのも、時には面白い。

だけれども、それは一個ぐらい防波堤がなくなったって大丈夫だという自負に依っている。
結局は元通り、買うものは固定されることになるが、これは破ってしまったも平気なんだという気づきというわけだ。

こう、接続詞が連続すると、文章として綺麗じゃないなあと思ってしまう。

なんかこう、たまに、「俺ってこれできるんだな」という事実に気が付いて嬉しくなるのだ。



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