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先生が気にする「厳しさ」の正体

おはようございます。
22時に就寝して、24時に起床したヒミツキチ森学園のあおです。
#なんとかしてこの月に2回ぐらいの現象
#朝7時なのにもう7時間起きてる

さて、今日は「先生が気にする厳しさの正体」というお話をさせてください。

先日、ある先生と対話する中で、出てきた話題についてです。この話題は多くの先生が悩んでいるところなのかも‥と思い、具体的な内容は伏せつつも、書いてみることにします。


厳しくない先生



ボクも教員の頃、たまーに「厳しくない」と言われてきた。
「なんかゆるい」そんな言われ方をベテランの先生にされたもんだ。
#口答えもしてないけど
#心の中ではちげーしと思ってた

世間の求める厳しさと、先生の求める厳しさにはどんな違いがあるんだろう。

前回のnoteにもあげたこの図を見ている。



ちなみにこの図はもっと改良されて、もっと意味のあるものになっている。今回出せるのはここまで。


さて、
「先生、もっと厳しくしてください!」
ボクもよく言われてた。
「え、厳しいと思いますよ」
「いや、怒らないって言ってます。母ちゃんと違ってって」
「無闇に怒らないだけですよ、必要な時は言います」
「なんか失礼ですね」

なんてキャッチボールをしていたもんだ。


ここが大事なんだけど、保護者が求める厳しさについては、上の図で言うとどの部分だろう
まさしく、「コトバ」や「タイド」の部分じゃないだろうか。

わかりやすく子どもたちに伝わる厳しさ、萎縮してしまう厳しさだ。
命の危険がある時や、「そりゃいくらなんでも人の心傷つけすぎだろ」って時はいまだに言ったり、止めたりする。

でも、滅多にない。

スクロールするのが大変なので再度載せる。

厳しさを右側から左側にシフトしてみよう。


「カンケイ」が厳しいとはどう言うことだろうか。

それは、友達ではなく先生という線引きができていることだと思う。
それが良いか悪いかは、今あなたが置かれている環境によると思う。
ボクのようなオルタナティブスクールは総じて、「友達のように」を推奨されている
#かもしれない

でも学校の中では、そしてボクの場合オルタナティブスクールでも、ここの線引きは割とする。優しいけど、甘やかしてはいない…
まぁ、「なんかぬるい」先生が狙うのはそこのラインだろう。


さらに左に動かしてみると、「リカイ」が待っている。
子どもたちへの理解だ。
理解が厳しいとはどういうことだろう。
それは見つめる眼差しを鍛えている感じだ。

つまり、私の知っていることなんて一部で、見えていないところもたくさんある。子どもたちは私の理解(手のひら)の外で育っていく。それでも、相手を理解しようとし続ける、そんな厳しさだ。


どうだろう、左に行くにつれて、自分自身に寄っていくため、厳しさの対象は「相手に」から「自分に」に変容していくのがわかってもらえると思う

ボクはどちらかといえば、左側の方に厳しさが必要だと、年々思っていくようになった。


怒鳴れなかった1シーン



ある年の運動会練習の時、子どもたちの観客席がざわついていた。
どうも高学年が運動会練習中であっても落ち着かないのだ。
「ガツンと言ってやってください」
と後輩に言われて、壇上に立つ。
一応体育主任をしていたので。
#運動会の責任者


でも、次の言葉が出てこないのだ。


なぜだろう。
昔は言えていたのに。


あぁ、これから言おうとしている言葉を、ボクは言いたくないんだということに気づいた。


公立小学校3校目では、一人ひとりとのやり取りから、クラスを作っていく、集団ができていくことがよくわかった。



大きな失敗から見直したときに、試してみた毎日全員と2回ずつ話すことは、本当に価値が高かった。


だから、あの時、壇上でボクが怒鳴る言葉によって、何かが変わるとは思えなかった。
一応、責任者なので、厳しいことを言った。
でも、自分の言葉と身体はバラバラになりそうだった。


環境に厳しさを



同じようなことを感じている先生はいないだろうか。
言葉の暴力を浴びせたことで、できるようになることに何の価値があるのだろうと。

じゃあどうすればいいのか。

答えではないけど、ヒントになることがある。
それが環境に厳しさを求めることだ。

よく体育では、「場で追い込む」という表現をする。
1・2年生のマットでは、忍者になって修行しよう!みたいな単元があるが、1・2年生が忍者になって動く様は壮大だ。
#いつか先輩が研究授業で本当に忍者の服を着ていた

すごく楽しいんだけど、マットを置いてある一つ一つの場は厳しい。できないものもある。
でもちょっとの難しさだったら、子どもたちは超えていく。
楽しかったり、仲間がいたり、スモールステップがあったりすると。
特に低学年は、繰り返しやることを好む。何度も何度もできるを味わって、気持ちよさに浸っていることが多い。

場によって追い込まれて、どんどんマットが上手くなっている。
つまり厳しさは、子どもに直接ではなく、場という環境に間接的に向ければいいのだ


学園でやっているキッズヨガも、場は厳しい。難しいポーズは楽しいけど、辛い。でもなんか笑顔なんだ。

よくうちの子達も言っている。
「いや、あおちゃんさ、俺らにこんなことやらせて、レベルが鬼なのよ、集客なんてやったことないじゃん」
「そうだよね、わかるわかる、ボクもやったことないし。じゃ一緒にやってみよー、手伝うからさ」
そんな言葉が4・5・6年生の教室には溢れている。

「厳しんだよなぁ、全く」
っていう子どもの目は笑っている。


そう、環境へのアプローチだったら、先生はいくらでも味方になれるのだ。


それぞれが持つ厳しさを



まとめに入る。
厳しさには、何が厳しいのかという観点が忘れられている

「あの先生厳しいよ」「あの先生は甘いよね」
は、何が厳しいのだろうか、何が甘いのだろうか。

元々日本語としても、人が厳しいというのはおかしいのではないか。
厳しいのは言動のはずだ。

すぐに子どもたちが動き結果が出る、「コトバ」や「カカワリ」は手っ取り早い。でもその手っ取り早さが、大人になった時にどう出てくるかはわからない。

ボクは時間がかかっても、コトバやカカワリは柔らかくいたいなぁと思う。
それがボクが先生をやる意味なんだと思っている。


そしてこの「厳しさ」のズレは、子どもたちは日常で、保護者には懇談会などで、少しずつ擦り合わせていくことができる。
ボクの考えが全てではない。

でもこんな厳しさを持っています。
そう言ったら、保護者も納得してくれるんじゃないだろうか。


どう思います?


今日も読んでいただきありがとうございました。
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