冬道麻子歌集『梅花藻』

冬道麻子さんの新歌集『梅花藻』について、ある会で話をしました。
だいたいの内容を記録しておきます。

冬道麻子さんは、20代の頃から、筋ジストロフィーという難病のために、ずっと病床から動けない生活を送られてきました。33歳のときに第一歌集『遠きはばたき』(1984年)を出され、『梅花藻』が第5歌集になります。
歌の題材は、自分の部屋のまわりにあるものが中心になります。
作品を読んでいきましょう。

こそばゆき顔のあたりよ雉鳩が歩みおるらん仰臥の屋根を

屋根の上を雉鳩が歩く、かすかな音が聞こえるのですね。寝たままで、それを顔の皮膚で感じて「こそばゆき」ととらえているのが新鮮です。後で他の歌も取り上げますが、聴覚や触覚が非常に鋭敏な歌が多いです。

戦記には蛍の木みし父がおりゆったり時間(とき)のながるる頁

父親は太平洋戦争のとき、東南アジアに出征されたらしい。「蛍の木」の写真を見たことがあります。1つの木に、非常にたくさんの蛍が集まって、木全体が黄緑色に光っている、とても神秘的な風景です。それを父親は、戦争の合間に見たことがあったのでしょう。苦しく悲惨な戦争の様子が書かれている本なのでしょうが、蛍の木を見たことが書かれたページだけは、別の時間が流れているようだったのです。蛍の木を見たことが、戦争の中で、父にとって大きな救いだったのでしょう。「父がおり」がいい表現で、本の中に入っていって、自分もいっしょに蛍の木を見ているような感覚があります。

水呑みて上げたるおもて雉鳩の嘴ぬれておりぬつやつや

水を飲んでいてふと顔を上げた雉鳩と目が合ったのでしょう。「くちばしぬれて/おりぬつやつや」という下の句の軽やかなリズムが良く、鳥の生命感が伝わってくる気がします。

インターホンに通され雨の石段を登れる医師のその先のわれ

門にインターホンがあり、そこから石段を上ったところに玄関がある家なのでしょう。「医師のその先のわれ」と、自分の位置を、医師の目になって確かめている歌です。一見何でもないような歌ですが、動けない自分を外側から見ているような、不思議な感覚があります。

白と黒碁石ふたつの手触りの違いが微熱のいまを鮮やか

高級な碁石の白はハマグリ、黒は那智の黒石で作られます。とても微妙な差なんでしょうが、自分の体に熱があるので、触ったときの冷たさなどが、敏感に肌に伝わってきたのではないでしょうか。熱があるときに感じられる手触りの差、というのは、何となく分かる気がします。「いまを」の「を」もよく効いていて、〈今〉という時間が、ありありと感じられる。

十枚の湿布をベッドに並べつつこれがわたしの背中の広さ

これはおもしろい歌ですね。病床での生活が歌われていますが、明るい歌も多い。それで読者は、あまり気構えずに、自然に歌集の中の世界に入っていける。

窓外は今おそろしき脚立にて剪定を為す九十歳の父

これも大変な状況なのですが、「窓外は今おそろしき脚立」という入り方がユニークで、ちょっと笑ってしまう。「九十歳の父」がゆらゆらと脚立に上って、木の枝を切り落としている様子が目に浮かんできます。

藤棚と黒き大地の空間のあやうき距離を歩む人影

広大な闇の中に、ぼんやりと藤の花が灯っている、不思議な詠草が見えてくる歌ですね。人が「空間」に吸い込まれるような危うさがあるのでしょう。夢の中の風景のような、不気味な予感めいたものが感じられる一首です。

朝摘みのツルムラサキがわが部屋をよぎるよ母の小籠と共に

ツルムラサキは、野菜の一つなのだそうです。庭に植えてあって、朝に母が摘んだのではないでしょうか。母の持つ小籠に入っているのですが、そのようには歌わず、ツルムラサキ自体が部屋をよぎる、というふうに視点を変えて歌われている。それが表現の妙味です。ツルムラサキが家の中を歩き回っているような、奇妙な印象が生まれてきます。

    着床前診断
森深く捨てられし子の思いなり対象となる病を病みて

着床前診断とは、受精卵の段階で遺伝子や染色体を分析する医療技術で、産後に病気になる可能性が強いことが分かった場合、人工中絶されることがあり、倫理的に非常に難しい問題になっています。筋ジストロフィーもその対象になっているそうです。もし、着床前診断が行われる時代だったら、自分も生まれる前に命を消されていたかもしれない。そう思うと、自分の存在が揺らぐような恐ろしさが湧き上がってくる。「森深く捨てられし子」という表現には、グリム童話のようなイメージがあります。人の目に見えない場所に排除されてしまう悲しみと不安。生命を選別できるようになってしまった医療技術について、深く考えさせられる歌です。

筋ジスの最後の患者になるは誰 一人残るはいつの時代か

筋ジストロフィーは現在、有効な治療法はないらしいのですが、いつかは治療法も確立されるのではないか、と想像しています。ただ、そのとき最後の患者になってしまった人は、非常につらい孤独感を味わうのではないか、と思いやっています。確かにそうかもしれません。自分以外に、誰も同じ病気の人がいない、と分かったら、心を慰めるすべを失ってしまう気がします。これも人間への深い洞察が感じられる歌です。

今日のわれ七歩歩きぬケータイの歩数表示の誤作動うれし

今のケータイには、万歩計の機能が付いているものがあります。たまたま揺れたために、7歩あるいたと表示されたのでしょう。哀しいユーモアの歌です。「七歩」という数字が印象に残ります。

救急車夜のしじまにサイレンを投げ縄の輪をまわすごと来ぬ

サイレンの音を投げ縄をくるくると回す様子にたとえているところがとてもおもしろい。ここにも、独特の聴覚による空間把握が表れています。映像としてイメージすると、すごく楽しいです。

廊下より自分のベッドがみゆるなり我の姿のなくて真白な

自分のベッドから別の場所に移されたときに、自分のいないベッドが見えた。そのとき、どうしても自分が存在しない世界を考えてしまう。さりげない作りの中に、存在の不安のようなものが感じられます。「真白な」という終わり方がよく、静かな余韻が残ります。

治療法なきゆえ診療すぐ終わり主治医とながむる庭の紫陽花

上の句、淡々としていますが、どうしようもない虚しさが滲んでいます。医師と二人で、茫然と紫陽花を眺めている姿が、心に沁みます。

跪きわれのベッドに顔伏せて母はしずかに「疲れた」と言う

初句は「ひざまずき」です。母がずっと介護をしてくれたのですが、高齢になり、もう限界になってきている。母の姿が、痛々しく描かれています。「しずかに」に、もうどうにもできない諦念と悲しみがこもっていると思います。

父帰る白木の箱に納まりてベッドのわが手にあたたかくあり

父も亡くなってしまいます。病気のため、葬儀に行くこともできない。家に帰ってきた父の遺骨の入った箱を抱いて、火葬の余熱を感じることで、父を偲んでいる。「あたたかくあり」に万感の思いがこめられています。

ヘルパーの来ぬ真夜一度寝返りをうたせてくれる人の手を乞う

ずっと介護をしてきた母が、もうできなくなったために、ヘルパーに介護を頼むことになります。ヘルパーさんもしっかりやってくれているのでしょうが、やはり母とは違い、他人なので、いろいろと齟齬を感じることも増えてきます。それをリアルに詠んだ歌も多いです。その中からこの一首を選んでみました。母ならば、すぐに呼んで寝返りを手伝ってくれるのに、ヘルパーさんは急には来られないので、寝返りのできない苦しさに、一晩中耐えるしかない。結句の「乞う」がつらい一首です。

歌集の前半からは、病臥しつつも、父母とともに暮らす幸福感が伝わってくるのですが、両親が老いて衰えていき、しだいに現実の厳しさに浸蝕されてゆきます。「医療費の削減の波の第一波消炎剤が半量となる」という歌もありました。近年の、病人に対する社会的な冷たさも背景にあるのかもしれません。病気の苦しみを、言葉によって透明な美しさに変えていく人間の力を感じる歌集でした。しかし、それでもどうにもならない厳しさが存在することも教えられたように思います。

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