島田修三『秋隣小曲集』

島田修三さんの『秋隣小曲集』について、ある会で話しました。以下はその概要です。ブックガイドになれば幸いです。

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ほの暗き厨の壁の吊り棚に徳用マッチはずんと在りたりき

昭和のころには、存在感の豊かな物が多くありました。「徳用マッチ」の大きな箱や、そのざらざらした側面が思い出されます。
しかし今は、着火マンなどができて、不用な物になってしまいました。だから、どこか寂しい。
こうした懐かしい物、忘れがたい物を描いて、歌の中にそっと残しておくことも、大事なことじゃないかと思うのです。

多様性といはず壇上にダイバーシティと俺はいふなり涙ぐましも

「ダイバーシティ」なんて流行りの言葉を使うのは、昔気質の人間には、とても恥ずかしいわけです。
「多様性」と言えばいいじゃないか、と内心思っている。
けれども、壇上に立つという公的な立場にあるために、そんな洒落た言葉を使わざるをえない。
その情けなさを率直に歌っていて、よく分かる一首です。
島田さんは「俺」という一人称を歌で使いますが、この歌ではそれがよく効いています。

FMにジャニス・ジョプリンの嗚咽流れ俺は暮れゆく橋越えむとす

ジャニス・ジョプリンも、かつての時代を象徴する懐かしい存在と言えるでしょう(私が聴いたのは、彼女の死後でしたが)
こうした固有名詞を使うのも、歌を作る楽しみの一つなのですが、ただ人名を入れるだけでは駄目で、
「嗚咽流れ」のように、その人の特徴をとらえた表現が、どこかにあることが大切です。
「サマータイム」でしょうか、ほんとうに嗚咽のような声で歌っていました。
たぶん、車のFMで流れてきて、それを聞きながら橋を渡っていったのでしょう。夕暮れの情景も、いい感じです。

かなしみの間歇泉をもてる身はひとつ話題を避けむとぞ居(を)る

この歌集は、妻の急な死が背景にあるのですが、それを直接に歌った作はむしろ少ない。
むしろ、それを抑え込むように歌っています(長歌「富岡海岸」という作も含まれていて、そこでは素直に悲しみが吐露されているように思います。短歌と長歌の違いでしょうか)
「間歇泉」は、ときどき湯が噴出する温泉ですね。そのように、ときどき抑えきれずに涙が出てしまうので、なるべく妻に関係する話題に触れないようにしている。
「間歇泉」という暗喩が巧みな歌ですが、つい泣いてしまう自分が情けないという思いも籠もった、切ない一首だと思います。

たれ流しの温泉に来よいたづく身養へと優し 嗚呼たれ流し

本当は「かけ流しの温泉」ですね。知人が優しく、病気の保養のために「温泉に行こうよ」と誘ってくれたのですが、つい間違えて「たれながしの温泉」と言ったわけです。
笑ってしまうような、ちょっと哀しいような歌で、結句の「嗚呼たれ流し」が何とも言えず可笑しい。
知人の優しさにまっすぐ感謝するのではなく、ちょっとひねったような感じで歌っている。素直に言えない、照れのようなものがありますね。

桜鯛の可愛ゆき一尾をあがなひて妻待つごとき夕闇にまぎる

この一首だけで読むと「妻待つごとき夕闇」は、何でもない感じにも読めます。
けれども、妻の死を背後に置くと、深い奥行きのある悲哀が伝わってくる。
「桜鯛」ですから、春ですね。温かな春の闇に、体を包まれていく感じ。
きれいな桜鯛を買って帰っても、喜んでくれる人はいない。食べる楽しみを共有する人がいない、ということは、本当に寂しいことなのだと思います。

どの棟に集中治療室(アイ・シー・ユー)はあつたつけ忘れたかりけむ忘れ果てにき

妻が入っていた集中治療室の場所を忘れてしまった、というのです。
とても重要なことなのに、あまりにつらいことだったので、無意識のうちに忘れようとして、記憶が消えてしまったのでしょう。
自分の精神を守るために、悲しい記憶を忘れさせてしまった心の機能の不思議さに、驚いている歌でもあるでしょう。
「あつたつけ」という口語と、「忘れ果てにき」の鋭い文語が混じり合い、二つに分離した自分が、問いと答えを繰り返しているような、印象深い歌になっています。

権太呂のうどんすきにぞ煮えてゐる鱧喰ふ 癌に殺されざりし身は

権太呂はうどんすきが有名な京都の店です(行ったことないけど)。
上の句が、いかにも美味しそうで、歌で食べ物をうまそうに表現するのは、やはり言葉の技が必要ですね。
下の句の「癌に殺されざりし身は」が強烈。普通は「癌に死なざりし身は」という表現になるんですが、それでは平凡になってしまう。
それから「鱧喰ふ/癌に」と句割れするリズムも、印象を強めていますね。

みづからの極道面(ごくだうづら)に変はれるを習近平(シージンピン)の歎く朝もあらむ

習近平は、何を考えているか分からないような、凄みのある顔をしていますが、それを「極道面(ごくだうづら)」と呼んでいるところに、黒い笑いがある。
シージンピンというルビには、人名がくっきりと見える効果もあります。
ただ、彼もたぶん若い頃は、さわやかな顔をしていた時期もあったはずで、権力闘争を繰り返すことで、あんな面構えになっていったのでしょう。
彼も、朝の鏡を見るとき、「俺も昔はもっと優しい顔だったのに」と嘆くこともあるのではないか、と想像している。
ユニークな発想で、強圧的な権力者の内面を照らし出そうとしています。こんな歌はあまり見たことがなく、独特な歌だと思います。

赤チンは無色マキロンと闘ひて敗れしとぞ聞くさらば赤チン

赤チンも、昭和を思い出させる懐かしい物の一つですね。あれを塗ると、赤色が目立って、痛々しい感じがしました。ですから、無色の塗り薬のほうが売れるようになっていく。
「赤チン」が、敗れ去ってゆく老いたボクサーみたいに見えてきますね。「さらば赤チン」という大仰な結句が、なんとも可笑しく、ちょっと哀しい。

妻が行き連れ立ちて行きひとり行くクリーニング店より燕の巣消ゆ

上の句に、妻が亡くなるまでの時間の経過があらわれています。そして、燕の巣も消えてしまったという結句が、虚しく響きます。
感情を抑えて、淡々と詠んでいますが、静かな寂しさが滲んでいる歌です。「クリーニング店」という日常的な場面がよく生きています。

百閒の戦後日記に記されし「武道酒(ぶだうしゆ)」おもへば妖しきものを

内田百閒の日記に、「葡萄酒」を「武道酒」と書いた一節があるらしい。他の歌によると、「不味きこと名状しがたき」ものだったようです。
戦後まもないことなので、いかがわしいものが売られていたのでしょうね。「武道酒」という表記が無茶苦茶で、おもしろい。
「妖しきものを」という感想もよく分かる感じです。
こうした、本から得た知識を詠む、というのも、短歌の一つの手法としてあると思います。
ただ、その本を読んでいない人にも分かるように簡潔に伝える、という技量が必要になりますね。それが意外に難しい。
この歌は、それがうまくいっていると思います。

鉛筆のやうなる味のアール・グレイ熱きをすすり愉しまずをり

アール・グレイは紅茶ですが、よく飲む紅茶とはだいぶ違う味がしますね。あ、飲んだことないですか。一度飲んでみてください。
それを「鉛筆のやうなる味」という比喩で捉えたところ、とても巧いし、なるほどなあ、という感じがします。
「熱きをすすり」あたりもさりげないですが、巧い表現です。
結句で、不機嫌な自分が出てきて、ここで歌に重みが出た感があります。
若い世代では、自分をなるべく消す、という方向性が強くなっていますが、それとは逆に、自分を出そうとする歌の作り方です。

頭(かうべ)より大きく嘴(はし)を開けながら餌を乞ふなり童部(わらんべ)つばくろ

ツバメの子どもを詠んでいます。頭よりくちばしを大きく開いている、という描写がおもしろく、確かにツバメの子はこんな感じですね。
よく観察して、それを言葉で適確に捉えている。
結句の「童部つばくろ」も、かなり目立つ表現で、これにより歌の印象を強めています。

ピーラーもて鯵三枚におろさむと気負へる俺ぞ亡き人は見よ

ピーラーで鯵をおろす、というのが変な状況ですね。包丁がなかったのでしょうか。
まあ、おかしなことをしているという自覚があって、もし、亡くなった妻が見たら、笑ってくれるだろうな、と思っている。
面白いことをしても、楽しく反応してくれる人がこの世にいない、というのは、とても空しく、わびしいものです。
それでも、自分を見ていてほしい、と死者に呼びかけている。笑いの中に悲しみがあり、心に沁みる一首です。

鳥にしあらねば此処にとどまりてあしたを会議しゆふべを会議す

これは、山上憶良の貧窮問答歌のパロディですね。「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」が本歌です。
ずっと会議ばかり続いている生活を、万葉集の表現を借りながら、ユーモラスに描いている。
結句も、万葉調で、ゆったりと歌っています。現代的な「本歌取り」として、とても巧みな作品であります。
こういう歌を見ると、自分も作ってみたくなりますね。そういうふうに、〈読者にも作ってみたいと思わせる〉ということも、良い歌の一つの効能なのではないでしょうか。

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