俵万智『未来のサイズ』

俵万智さんの『未来のサイズ』について、ある会で話しました。
以下は、だいたいの内容です。

手洗いを丁寧にする歌多し泡いっぱいの新聞歌壇

コロナ禍に関する歌が、新聞歌壇に数多く投稿されるようになり、選歌する立場で歌われている一首と言えるでしょう。実際に掲載されるときには、同じような発想の歌は落とされることになるのですが、応募の段階では、非常にたくさんの手洗いの歌が集まっているのだと思います。多少うんざりする気持ちもあるんじゃないかと推察するのですが、「泡いっぱいの」と明るく歌っているところに、時代の変化を積極的にとらえる姿勢があらわれています。

タコを突く長き棒持ち巡礼のごとしも沖へ進む人たち

石垣島で生活していたときの歌。遠浅の海なので、沖のほうまでずっと歩いていけるのだと思います。タコを捕る漁の、どこか不思議で、敬虔な感じもある情景が、「巡礼のごとしも」という比喩で、映像のように目に浮かんできます。

足元のヤドカリたちが動き出す私の気配が消えたしるしに

以前沖縄に行ったとき、まさにこんな体験をしました。とても分かりやすい言葉で歌われていますが、ヤドカリの生命感がくっきりと伝わってきます。「私の気配」を感じ取っているヤドカリ。人間と自然の交感が描かれていて、それがとても快い。

君の死を知らせるメールそれを見る前の自分が思い出せない

人の死を知ることで、世界の色彩のようなものがまったく変わってしまう、ということを経験することがあります。知る前の世界には決して戻ることはできないわけです。これもシンプルに歌われていますが、結句の「思い出せない」から深い嘆声が感じられます。

ふいにくる死者のまなざしあの海とつながっている今ここの海

沈没し、多くの若者が亡くなったセウォル号事件を詠んでいます。沖縄の海を見ているのですが、海は一つながりであり、死者から見つめられているように思われたのです。「あの海」「今ここの海」と畳みかけるリズムにより、死が非常に身近に迫って来るように感じられます。

殺人の婉曲表現「人災」は自然のせいにできないときの

これもセウォル号事件を詠んでいますが、他のさまざまな事件でも同じことがいえるでしょう。厳しい歌で、下の句が鋭く本質を言い当てています。ともすれば「自然のせい」にして責任を逃れようとする人々への怒りが込められています。「できないときの」という「の」で終わる結句からも、やり場のない悲しみが感じられます。

六階の窓に海藻を貼りつけて気がすんだかい台風コーニー

石垣島の台風のすさまじさが、六階の窓に海藻が貼りつく、という具体的な描写からなまなましく伝わります。「コーニー」は白鳥のことらしく、韓国が命名したものだそうです。そんな台風に「気がすんだかい」と呼びかけたところがおもしろい。台風が過ぎたあとの空の明るさも感じられるでしょう。

右は雨、左は晴れの水平線 片降(かたぶい)という語が島にある

「かたぶい」という島言葉の音の響きが印象的ですね。まさに片方だけが降っている、という情景を見て、昔から伝わってきた言葉が、島の風土を確かに捉えていることに感動したわけです。対句的な表現が簡潔で、情景がくっきり見えてきますね。

次に来るときは旅人 サトウキビ積み過ぎている車追い越す

石垣島から引っ越しするときの歌。上の句は、やや歌謡的なフレーズなんです。それに、どのような下の句を組み合わせるかが、歌を大きく変えるわけですが、この歌では、具体的な島の車の描写を合わせたところがとてもいい。見慣れたサトウキビを運ぶ車も、島から去っていくときには、とても悲しく感じられる。「旅人の目のあるうちに見ておかん朝ごと変わる海の青あお」(俵万智『オレがマリオ』)という歌も思い出されます。

「このマークの服が欲しい」と描く子よ母にはそれがシャネルに見える

思わず笑ってしまった一首。子どもはシャネルのことを知らずに、純粋にかっこいいなあ、と思って言っているのでしょうが、そんな、あんたが着るなんてまだまだ早い、と母親は内心叫んでいる。「シャネルに見える」というとぼけた結句もおもしろい。

軽トラの荷台でコケコケはしゃぎおりまだ食べ物に見えぬ鶏たち
首斬られなおも激しく動く脚 命はどこにあるのか脚か
熱いうち羽をむしればなんとなく見たことのある鶏肉になる

鶏を殺して食べる、という体験を詠んだ一連より。生きていた鶏が、しだいに食物に見えてくる、という認識の変化が、とても奇妙で怖いし、それを見せないように現代社会がつくられていることを、改めて考えさせられます。2首目が特にインパクトがありますね。「どこにあるのか/脚か」というリズムが強く、この言葉の勢いによって、命の凄さを実感してしまいます。

子の髪に焚火の匂い新調のダウンジャケット焦がして戻る

新しく買ったダウンジャケットを焦がしてしまう子ども。やれやれですが、焚火がとても楽しかったのだろうな、と思い返します。今は焚火も珍しくなっていますね。焚火に当たったというのは、子どもにとってとても大切な体験になっただろうな、と思っているのです。「焚火の匂い」を、子どもから感じ取っているところも、敏感ですね。密着した母子関係が感じられます。「給食で何を食べたかスプーンの匂い嗅ぐなり母というもの」(『オレがマリオ』)という歌もありました。

お見舞いの後に立ち寄るイオンにはありふれたもの並ぶ眩しく

かなり重い病人に会ったあとに、イオンに立ち寄った場面でしょう。イオンにはたくさんの「ありふれたもの」が並んでいます。でもそれは、健康な人のためのものであって、重病になると、もう使うこともできなくなってしまう。いつもは当たり前のように見ていたものが、とても哀しく感じられたのでしょう。「並ぶ/眩しく」という結句の倒置がとても効いていて、この屈折したリズムによって、一首が非常に切実に感じられます。試みに「眩しく並ぶ」とすると、歌の生命感は失われてしまいます。同じことを詠んでいても、リズムによって印象は全く変わってくることがよく分かります。

「死ぬまでの待合室」と父が言う老人ホーム見学に行く

父親の言葉がとても哀しく心に残ります。短歌は、他人が言った印象的な言葉を、記録していくという役割もあるのではないでしょうか。相手が何げなく言った詩的な言葉は、そのままでは消えてしまいます。それを残しておく、ということも大切であるように思うのです。


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