書散裸#26 10代の振り返り 10~12歳

もうすぐ10代が終わる。

アンケート調査の統計でみかける10代って実際は18、19歳などに限られてるんだろうな~などと思っていた10代。
それがもうすぐ終わってしまう。

10代ってくくりは凄く雑だなと思っていた。
一個人の人格形成、「私」を確立(10代で終わるものではないと思うし果たして終わるものなのか)する時期を一括りで把握していいものか。


歴史の破局を救済する

ベンヤミンという思想家を研究してみようと思っている。
彼は未来よりも過去に視点を向ける。歴史という語られるもの中に埋もれてしまった声。その瓦礫を丁寧に取り除き救済することこそが現実の問題に対するアプローチになると。
これから迎える20代。その時間はどうなるかわからない。
ゆえにこそ、10代を振り返ることが20代の自分の在り方を基礎づけるかもしれない。
鮮烈に残っている記憶を断片的に書き出してみようと思う。


10歳。小学4年生。

学校とサッカーが全てだった。
まだ「10代入ったな~俺」とかは思ってなかったような気がする。
水泳もやっていたが、クロールと平泳ぎを習得するためだったので2年目のこの年にやめた。背泳ぎを経由する意味がわからなかった。バタフライはいまだに溺れる。

サッカー少年団

所属していたサッカー少年団の人数が増え、この頃からAチームとBチーム、ようは一軍と二軍。そのレギュラー争いが苛烈になっていく。この時期は周りより短距離走も足が速くて、8人制サッカー(小学生限定ルール。ガチ)のMFでレギュラーだった。糞みたいにリフティング練習してたのもこの頃か。公園で父親が休みの時は一緒にやってもらってた。一人でもただノルマ達成のため頑張っていた。サッカーが初めて楽しくない時期だった気がする。

お勉強さん

自主学習ノートみたいな試みがあって、その冊数でずっとクラス1位だった。よく勉強している子だった。そのノートを埋めて冊数増えるのが楽しかったし、わかりやすく母に褒められるのが嬉しかったのでしょう。

持久走大会

持久走大会で2年連続の1位に。これは後々も関わってくるRとの一騎打ちが成立せずに勝った年だった気がする。1年生は4位、2年生は2位、3年生は1位。ここで同じサッカー少年団に所属し、今後同じフォワードというポジションでレギュラー争いをするRと一騎打ちし続けることになる。しかしこの年はRが骨折して走っていなかった。
この持久走大会はかなり自我の形成、特に成功体験の蓄積として効いてくるよう思う。


11歳。小学5年生。

学校とサッカーは継続。

サッカー少年の苦悩

この辺からサッカーでAチームとBチームを往来する時期がある。レギュラー争いがしんどかった。ポジションが転々とした結果、持久走で争ってた先に書いたライバルとサッカーでもポジション争いをする羽目に。俺はスタミナを活かしてよく走ってスペースを作るタイプのフォワードで個の技術が弱かった。一方ライバルのRは個の技術に長けていて真ん中でどっしり勝負するタイプ。棲み分けはできているが、8人制というルールとチームの戦略上、フォワードは1枠であることが多かった。Rに言われて今でも覚えている言葉がある。スタメンに俺が選ばれた時、

「つっちーが前半走って敵疲れさせて後半俺が点取ればいいってことでしょ」

結構えぐかった。少年土田の心には来るものがあったが、実際その試合はそういう展開になったんだと思う。あまり良く覚えていないが悔しさとやるせなさで苦しかった。それは間違いない。だってこの言葉を覚えているから。

全然サッカーとは関係ないが、「のんのん」という地元の広場でずっと遊んでいた。サッカーしたり鬼ごっこしたりゲーム(妖怪ウォッチ)したりバディファイトしたり。マジで楽しかった。女の子ありの鬼ごっこマジで忘れてない。男友達とひたすら遊んでた。本当にずっと遊んでて最高だった。Hっていうわりと放任主義な家庭のやつの家にも入り浸っていて、「弱虫ペダル」はそこで知った。これもまた楽しかったね。

持久走大会、バチバチ

持久走大会でまた1位に。パチパチ。
ライバルRと一年ぶりにバトル。この1年サッカーのプレイスタイルのためにも馬鹿みたいに走ってた。大会前の期間に毎日昼休みに皆グラウンド走らされるやつも結構走った。よく誰かと走るとペースが上がるという。確かに自分も上がる実感はあったが、それは自分が前にいるときだった。ようは一位をキープしているときにグングン速度を上げることができた。結果的にRを突き放した。前日のシーフドピザが当たってお腹痛くなったから失速したらしい。嘘だろ。絶対「勝てない」って思ったから身体にガタが来ただけだと思うぜ。あの時期寒すぎて肺ずっと痛いし。


12歳。小学6年生。


サッカー少年団、ラストイヤー

よりサッカー。とてもサッカー。
少年団のAチームに選ばれた。チームから与えられたユニフォームは9番。Rは10番。糞が。って思っても声に出して言えるような性格じゃなかった。今と比べたら内向的な性格だった。
いつだか、公式戦じゃないけどハットトリックした試合があった。フォワードなのにあんまり点を取れない俺にとって、点数っていうのはずっとコンプレックスだった。その日は明らかに調子が良くて、そこまで格下というわけではない相手に点数を決められた。雄たけびを上げた。公式戦でもないのに、と周りは冷ややかな反応だった。けどどうでもよかった。俺は点を取れるってことさえ証明できればそれでよかったように思う。

卒団式、秦基博の「ひまわりの約束」を全員で歌った。凄く練習したから覚えている。それぞれの夢を一言発表するみたいな場面で、「海外のクラブで活躍するサッカー選手になる」といったような記憶がある。県大会の本選ですぐに負ける有様だったが、Aチームにいたやつはそんなことを言わなきゃいけない空気がちょっとあった。12歳ながら、流石に違うなとは思っていたけれど。かといって嘘を言っているわけでもなかった。他に何もなかったから。

持久走大会、ラストイヤー

最後の持久走大会。Rとの対決。正直まわりは眼中にない。去年の雪辱を果たすためか、Rは想像以上に早かった。「勝てないかも」そう思った途端息がうまく吸えない。お腹が痛くなる。去年のRと一緒だった。俺も負けたと思った瞬間に折れたのだった。涙がこぼれてしょうがなかった。最後の大会で勝てないこともそうだが、Rと毎週のように少年団でしのぎを削らされる日々のなかで、一年間で唯一ここだけが支えだったのだろう。ここで勝つことで完敗していないと思いたかった。Rはモテたしね。悔しくてしんどくて大号泣。2位だった順位もゴール前ではどんどん後続に追いつかれ抜き去られ10位でフィニッシュ。仲良くしてくれていた土田派閥(Rと一騎打ちは周知の事実だった故)の女子は、泣きながら抜かされる俺に阿鼻叫喚だったらしい。そこだけはちょっと嬉しくもあったけど、情けなさが勝った。10位以内がもらえる賞状も屈辱でしかなかったけど、でも俺はそれを破れはしなかった。そこまでやさぐれることもできない自分にやさぐれた。

初彼女


初めて彼女ができた。誕生日に告白されて。あんまりよくわからなかったけどOKした。純粋に付き合うってことに興味があった。でも実際付き合ったら全然喋らなくなって退屈だった。


以上、10代前半小学生編。この頃も10代でくくるのかよ、と思ったけど、今の自分に繋がる土壌は確かにここにもあった。そういう意味で10代初期もくくりの中にあってよかったのかもしれない。

次は中学生の頃を中心に書こうかなと思う。


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