caramel.3.夜半の月

「……ねっむ」
 歯磨きを済ませ、風呂に入って髪を乾かして麦茶を飲む。だんだん、夜が更けていく。
 白銀の月。
 灰色のカーテンの隙間から、満月が覗く。こんなにも美しいなら月見でもしようか、と、私は家中の照明を切った。
 カーテンを開けると、うさぎの表情まで見えるのではないかと思われるほどの大きな月が鼻の毛穴を照らした。
 そうだ、写真撮って宇海くんに送ろう。
『宇海くん、月見てる?すごく綺麗だよ』
 私はまずこんなメッセージを送信した。
 すぐに既読が付いた。
『さっき家に帰るときに見たよ』『そうだ、いま電話できる?月を見るにも、こんな下向いて話すより月を見上げながらのほうが粋でいいと思わない?』
 宇海くんはどうやら色を知っているらしく、ますます好感が持てるな、と思った。
『ええ、喜んで』
 私はLINEの通話ボタンを押した。

「こんばんわ」
「こんばんわ、天野さん。昼間はあんまり話せなくてごめんね」
「ううんいいのいいの。今話しましょ」
 月が綺麗だね、その言葉の意味を彼は知っているのかな。月を見上げながら聞く彼の声は、甘くて優しくて。普段話さないようなことも洗いざらい話してしまいたくなる。
 まず口を開いたのは宇海くんだった。

「天野さんはさ、月、好き?」 
「うん、好き。ビルの間から顔を出す赤くて大きな月も、空の渡し船のような三日月も、青空に雲のふりして浮かぶ下弦の月も。でもね私は満月が1番好き」
「……うん、ぼくも好き。というか、好きになりそう」
「……好きになりそう?」
 引っかかる言葉だな、と疑問に思った。満月の日は海が満ちる、とはいうけれど。
「こんなに、綺麗だとは知らなくて。雨音さんの声を聞けるなら満月も良いなぁって思い始めてる」
「は、恥ずかしいこと言うね?」
 たしかに、こんな街中ではなかなか月を見る機会もないのかもしれない。高いビルに排気ガス、街灯。都会の夜空はLEDの方が美しい。

「……あのね、雨音。僕は今、とても幸せなんだ。雨音が僕のことを気にかけてくれるから」
「……」
「僕のこと、どう思ってくれてるのか、僕は、あんまりわからない、けど、でも」
「……」
「僕は雨音のことが好きで、好きで堪らない」

 張り詰めた弦を弾いたような声。

 月の光が、寝巻きの膝を照らす。
 扇風機の音だけが響く。
 静けさを、鼓動が、る。
 私の声帯が、舌が、破る。

「……せっかく満月なのに! あははは!」
「あ、ああ、ほんとだ。月が綺麗だね!」
 私は耳も頬も真っ赤になっているのを見られていないから、と、なんとなく予想していたその熱っぽい言葉を受け流そうとした。したけど。
「……ありがと」
 ──その声はなんだか、震えていた。
 ──きっと私の心は漏れている。
 今考えれば、納得もいくのだ。宇海くんはひと目見た私のことを、誰よりもわかっている。熱っぽいのに冷静な視線が、ゆっくりと落ち着いた言葉が、優しくて指先まで温かい手が、私の動き、言動、全てにしっとりと寄り添っていた。それだから私は柄にもなく心を許しているんだ。
 だからきっと私より、この気持ちをよくわかっている。わざわざ言う必要もない。
 でも、でも。

「……あのね宇海」
「ん?なぁに?」
 昼間と同じ、春の昼下がりのような声。

「私もあなたのことが好き」

 震える声で言った。月が揺れている。

「……うん、ずっと待ってた」
 もしも今、二人が隣にいたならば。

「ぼくね、今、雨音を抱きしめたい。LINEじゃ、できないね」
 素直な彼の言葉に抱かれて、私は身も心も全て彼に持っていかれてしまう。

「……明日、会いましょうか」
「……はい」
 ──どきどきして、身体が言うこと聞かなくなって。
 ──ねえ、これが、恋なの。

「……疲れちゃった」

 夜の寒さに耐えられないみたいに、彼は震える声で言った。
 同感だ。

「じゃ、おやすみ」「うん」
 カーテンを開けたまま、手元のスマホの光を落とした。
 心がいたくて、頭がぼんやりして、それがどうにも心地よくて、なぜか涙があふれる。
 戻れないところまで来てしまった、彼の大きな体にいだかれて、安心したい自分がいる。
 優しいあの声で話しかけられるのをまた期待している自分がいる。

「どうしよう」
 ベッドに上がり、実家から持ってきたクッションに顔を押し付ける。
 実家の、線香の匂い。
 月はより南中に近く。

 懐かしさと心地よさの中、眠りに落ちていった。

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