caramel.2-2 古本と浮力

 よく見る夢がある。途中まで夢だと気づかないのに、でも必ず夢だと気付く。でも内心気付きたくないとさえ思う、そんな酷い夢。ねえ、行かないで、死なないで、僕をおいてどこへいくの。
 睡眠薬を盛られたらしい僕は動けなくて、いわゆる幽体離脱ゆうたいりだつをして、折れそうな体の女の人を追う。
 もし、あのとき僕が何かしてあげられたら、あなたは死ななかったの? ねぇ、お願い行かないで!
 僕たちは海に飛び込んで、深く深く落ちていく。
 必死で追いかけたところで、いきなり葬式がはじまる。畳の上で僕は長い黒髪の女性の写真を見る。僕は彼女と一緒に火葬されて、火の中で笑い合う。気付けば僕は、見知らぬ大人たちと一緒に、骨を壺に入れていた。あまりにも断片的なその現実が、そもそも存在しないその記憶が、現実でないのをはっきり示す。そして夢だと気づくのだ。

「……今日は夢、見なかった」
 目を覚ました机の上。二冊の本を枕に、自分でも驚くほどぐっすり寝られた。
 女の子と一緒にいる時以外はこんなにぐっすり眠ったことはなかったな。
「……あのね宇海、わたしは葬式なんてされないの」
 記憶の中の不確かなその像に自分の心を重ね合わせ、高く、優しく言い聞かす声を真似た。俺は、いや僕は、確かな記憶をやっと思い出した。あの夢は現実の断片なんかじゃない。
 やけにスッキリしたので時計を見る。一限はとっくに終わっていた。南無三、俺の一限必修。
「うわーーなんで起こしてくれなかったんだよリクの馬鹿ーー!!」
 兄が自分を起こしてくれなかったことに憤る。完全に八つ当たりだ。わかってる。あいつが俺を起こしにくるのは俺がうなされてる時だけだから、起こしに来ないのも当然だ。
「まあ今日は久しぶりにデートだしぃ」
 浮かれたふりして心は揺れていた。

 水を一杯飲み、シャワーを浴びる。身体中の汗や皮脂が流されて、体臭が抜けて石鹸の清潔な香りが体に染み込む瞬間はなにものにも代えられない良さがある。ついでに風呂も清めておこう。
 昨日は百貨店でハンカチを買い、本の二冊を買い揃え、そして美容院へ行った。そのあと血まみれのハンカチを洗い、雨音ちゃんに連絡して、本の二冊を夜更けまで読み、そのまま寝落ち。そして今に至る。昨日いいことがあったから夢を見なかったのかな。
「よかったなぁ、あの作品」
 だいぶギリギリだったけど、カバーを外して作品名を見る時間があって助かった。収穫は多かったのだ。
「ん〜、雨音ちゃんの分析は結局終わってないけど……でも類型となれば、初めて付き合ったあの子に近いかなぁ。もっと詳しく調べなきゃいけないけど無難なところを探っていくしか……おっと独り言が大きい。悪い癖だぞ宮野宇海」
 俺は自分に言い聞かせる。
 一瞬見た限り、天野雨音あまのあめねは清楚で優しく女性的、かつ落ち着いた性格。俺に対して惚れた素振りはしないのに、手を触れるとやや困惑、動揺を見せる。そして、素の話し方はぶっきらぼうで、やや男性的。LINEのやり取りは慣れていない。真面目で勤勉。下宿暮らし。小説の趣向は一方は男女の大人なラブロマンス、もう一方は家族もの。
 予想としては、兄か弟、性格的には弟かと思われるけれども、雰囲気からしておそらくは兄がいて、彼女は末の子。男性に対してあまり期待はしていないか、もしくは付き合ったことがなく、男に慣れず苦手意識があるが、本音はまた別。クソ真面目で勉強ばかりしてきたような雰囲気ふんいきなのでおそらく処女。下手したら、女の子が恋愛対象かもしれないと思った瞬間もあったが、変に勘違いされたくない、との発言からは図りかねる。小説の古本の方、つまりラブロマンスの方の趣向からして男性も恋愛対象に入るはずだ。
 つまるところ、彼女が好きなタイプは、女の子ならば天真爛漫てんしんらんまんなふわふわした可愛い子。あの手の子がコンプレックスを抱いている相手は大抵このパターン。そして男ならば、おそらくは。
「劇でやった王子様のイメージに混ぜていこう」
 思い当たる節があった。部活で初めて演った劇で、ハマり役すぎる、といきなり絶賛されたあの役。無難なところはこれだろう。
 彼女はぼくのプリンセス。無意識か、虫干ししたい本の虫。
「待っててね天野さん」
 ぼくは息巻いてシャワーを置いた。
 着る服は決まっていた。地味な長袖のカジュアルシャツに細めのズボン。俳優のオフのような雰囲気を醸し出すお洒落な服装。
 スキンケアを一通り終わらせて、着替えて髪をセットして、変身完了。
 そういえば、お腹すいたな。
 女の子とお食事、という浮かれたイベントにもかかわらずぼくは食事メニューばかり考えていた。相当お腹すいてるな、ぼく。よだれ出てきた。

 中央食堂の一階に着くと、天野さんは昨日とはおそらく別の、もしかすると今日買ったのかもしれない本を読んでいた。そういえばさっきLINE入ってたっけ。本屋で待つって言ってたね。

「おまたせ」
 天野さんはおずおずとこちらを見、一瞬戸惑いの表情を浮かべる。まるでテレビか何かの有名人に道端で出会ったみたいな顔。昨日とぼくの服装やらなんやらが違うから、それも仕方ないかな、と思うけど。
「う、みくん?」
 大正解! ぼく、君のこと信じてたよ。
「そう! ご飯食べよ!」
 お腹すいた!
「……イメチェンした?」
 そうだよ色々変わったでしょ髪とか服とか眉毛とか。そう言いたいのは山々だけど、早くご飯食べたいので控えめに発言する。
「うん、髪切った。早くしないと混んじゃうからさ、ほら行こ」
 うん、今日はいいことあったしカツ丼とか甘いのとか食べたいな。あとは、麻婆豆腐!
「好きなもの頼んでね! ぼくが払うから!」
「ああ、うん。とびきり豪華なの頼ませていただきます」
「え、やめてぼく金欠」
 まあ嘘です。全然お金あります。でも学生っぽくないのはキャラ崩れるからだめ。
「じゃあなんで誘ったんですか〜?」
 天野さんを堕とすためです。……なんて言えるはずもなく。というか、食堂のいい匂いで正直なにも考えられず。ああ、でも天野さんの好きなものは知っておきたいからまだ見ない、取らない、頼まない。我慢我慢。
「よし、せっかく人のお金で食べられる訳だしね、バスクチーズケーキ頼んじゃおっと」
「や〜め〜て〜よぉ〜!」
 ぼくはノリで軽口を叩く。天野さんが笑う。うん、これで正解みたいだね。笑顔可愛いなぁ。
 さてぼくも好きなもの取っちゃお。
「カツ丼大盛り、あと麻婆豆腐ください」
「は〜い、カツ丼大盛りね〜」
 おばちゃんがぼくが頼んだものを渡してくれる。やばー、おいしそー! わあ、塩パンと蜂蜜パン売ってるじゃん! 大学芋も! ヨーグルトも売り切れてない!
 えへへ、ほしいの全部取っちゃった。
 天野さんがぼくの方を見ている気がしたので横を向くと、社会の不条理に限界迎えて上司の顔面にバッテンしたい若者みたいな顔、とまでは行かないけど、いかにも『はぁ?』と言う感じの顔でぼくのトレー2枚を見、そしてぼくの顔を見た。わ、かわいい。
「お金ないんじゃなかったん?」
「だってお腹すいたんだもん」
 心底呆れた、みたいな顔でぼくを見る天野さん。可愛いね。ぼく君も食べちゃいたいくらい好き。なんでもしてあげるから食べちゃいたい……はっ、いけないいけない。食欲と性欲は取り違えちゃいけないんです。
「レジ行こ」
 天野さんと一緒にレジへ行って、会計する。もちろん全部ぼくが払ったんだけど、案外安くて安心した。卵焼きとお味噌汁とご飯とケーキ。天野さん加減してくれてるな。遠慮しなくていいのに、こんなことなら金欠なんて言わなきゃよかったかな。優しいなぁ。
 「席取っておきましたよ〜」と、天野さんが言うのでそこで食べることにした。

「「いただきます」」
 味は知ってるけど、好きな料理ってあるよね。何度食べても同じ味なのに、でも安心する料理。たまに味が崩れたりするのもご愛嬌で、当たり前のようで当たり前じゃないの。
 ぼくは夢中でカツ丼をかきこんだ。ご飯は炊き立て、あつあつでもちもちでおいしい。ソースが濃くてカツはちゃちくて薄くてフツーなのがおいしい。キャベツが甘くておいしい。これらのハーモニーが最高に最高なんだよな。朝ごはん食べる時間なかったし、というか忘れてたし、その分も食べようと思ったらめっちゃ頼んじゃったけど! 麻婆豆腐は辛味と豆腐の舌触りと喉越しがいい。幸せってさ、こういうのでいいんだよこういうので! パン食べよパン。うわぁ〜さくさくふわふわもちもちじゃんうめぇ〜〜!!
「……で、なんで今日私を誘ったの?」

好きな料理を前にして理性が飛びかけていたぼくは天野さんの一言でハッと我に帰った。
なんか、ペットを見つめる飼い主みたいな笑顔でこっち見てるし。うわ恥ずかし。
 さっと取り繕って笑顔を浮かべる。

「ハンカチ返すのと、あと昨日も言ったけど恩返ししたいなと思って」
 そうだったそうだった。口に出すまで完全に忘れてた。

「ハンカチ……ああ、あれ? いいよ、全然、大丈夫」
 そう言われるのがわかっていたぼくは、鞄の中から既にハンカチを取り出していた。

「いや、そう言わずにさ。ほらこれ。昨日せっかく買ってきたから受け取って」

「あ、ありがとう」
 昨日買ってきたばかりのハンカチを渡すと、彼女は少し困ったような笑顔を浮かべる。

「昨日貸してくれたやつはなかなかシミが抜けなくてさ。ごめんね」
 ぼくはいかにも困ったな、という仕草で言った。困っているのは本当だし、でも本当は天野さんの私物が欲しいだけだったりもするんだけど。
「あ、いやこんないいもの頂いちゃって本当に……」
 強情で可愛いね。でもさぁ。
「いいって言ってるじゃん。貰えるもんは貰っとかなきゃ損するぞぉ〜?」
 ぼくはここぞとばかりに強調する。めいいっぱいの嘘の悪戯っ子の笑顔で、甘ったるい声で。ぼくのハンカチを使って欲しいんだ、手を洗うたび、汗を拭うたび、ぼくのこといつも思い出して。
 僕が生まれた場所で名産のハンカチだった。半面がガーゼ、半面がタオル地。オレンジの刺繍がされた、かわいらしいハンカチ。
 お姫様は、何か昔の亡霊でもみたかのような顔で顔を赤らめて、「じゃ、大切にします」と言う。今、君は僕を見なかったね。
「あれ、顔真っ赤だよ大丈夫? ケーキ食べちゃうよ〜?」
「それは私のです」
 天野さんはケーキを食べ始めた。
 そういえば昔、僕にケーキを買ってくれる人がいたな。彼女はことあるごとに僕にだけいろんなケーキをくれた。自分は食べずに、幸せそうな顔で僕を見てる。
「宇海くん?」
 目の前の女の子が顔を上げてこちらを見た。食べ終わったんだ、雨音ちゃん。
「あ、ああ、ぼーっとしてた。あんまりにも君が綺麗なものだから」
 ぼくはニコニコして取り繕った。一体何を、誰を思い出していたんだろう。
「お、おおおお、お世辞はいいよ、うん。おまえのほうがずっと……あ、あの、宇海くんの方が美人だし、ほら、ね?? 鏡見て?」
 ああ、男の子みたいな話し方になる君が好き。ぼくは君を見てたんだっけ。……ああ、人が多くなる。醜聞が立つ前にここを発とう。
「……人いっぱい来たよ。あと時間も時間だしさ。ね、それ美味しかった?」
「うん、とても美味しかった」
 彼女は気まずそうな笑顔を浮かべているようにも見えた。
「「ごちそうさま」」

「また後で連絡するね」
「うん」
 ぼくたちは食堂を出てすぐ分かれて別々の方向へ向かっていった。
 急に、冬の北風が心に刺さったような、そんな感覚に襲われた。冷たい冷たい海の底から、誰かが僕を呼んでいるんだ。

 歌のレッスンが終わって、俺は帰路についていた。レッスンビデオを音声のみ再生し、片耳に聞く。先生曰く先週と人が変わったのかと思った、とのことで、まあ当然だよな、というかなんというか。レッスン中にゲップするのはやめろ、と言われたので暴飲暴食したことを心底反省した。
「はぁ〜、難儀なんぎじゃの〜う……」
 俺何言ってんだろうな、まあいいか。
 俺は独り言を言いつつ、家の鍵を開けた。
「おかえり〜」
「ただいま〜。あ、かあさん帰ってたんだ」
 うちはいつもバラや百合、カーネーションの香りがする。かあさんが持って帰ってくる花束の香りだ。今日もピアノの演奏をしてきたんだ、今夜は家に居るのかな。
 リビングに行くと、ふくらはぎのマッサージ器に足を委ねながらお菓子の箱を開ける母がいた。
「今日はカフェでの演奏を頼まれててね。ああそうだ、今度あなたも一緒に出ない? イケメンの歌うアーリア歌曲なんてそれだけで売れるわよ」
「……うん、考えとく」
「もー、そんな疲れた顔しないの! ほら宇海のすきなケーキ貰ってきたわよ」
「……うん、じゃ、チーズケーキちょうだい」
 あ、探してたのはこの人か。
 母は、宇海がそれ選ぶの珍しいわね。何かあったの? と笑いながら言う。俺の前にチーズケーキが置かれる。
 この人は俺のことをどれくらい知ってるんだろう。
「別に何も」
「女の子泣かせちゃダメよ」
「泣かせないよ」
 チーズケーキをちびちび切り取って口に運ぶ。重たいムースが口で溶けて、温くなっていく。口にまとわりつく発酵バターの風味が甘ったるくてしんどい。
「ご馳走様でした。ん、とても美味しかった」
「……無理しちゃダメよ」
 見透かしたような目。くるくると巻いている長い茶髪。筋肉の線が見える、健康的でたおやかな指先、腕、脚。本当にこの人だったっけ。
「あ、かあさん、今日の朝に風呂洗ってあるからお湯沸かしたら入れるよ」
「そういえば今日はシッターベビーシッターさん来ない日だったわね」
「うん。かあさんから入って。リクは女友達と遊んでるし、俺は課題出されてて忙しいからさ」
「またあの子は……。宇海、いつもありがとね。お言葉に甘えさせていただくわ」
 かあさんに背を向けて防音室の戸を閉めた。
 この人でもいいや、と思っていたのに。おこがましいにも程がある、なぜドーナツの穴は埋まらない?
 アカペラ伴奏なしの課題曲の譜面を開く。自分の音程に不安感を感じ始める。声が掠れて思うような声が出なかった。
 子守唄、歌ったのは、誰?

 防音室の厚い壁越しに、聞こえない筈のシャワーの音が聞こえる。ゆっくり丁寧に発声練習を始めた。
 やわらかな疲れとドーナツの穴。ロングトーン長い息と酸欠。水底に沈む。甘い浮力。
 今朝の穏やかな眠りが想起され、古本の匂いが立ち込めた。
 思わず座り込んだもののこうしてはいられない、と俺はかろうじて立ち上がり、また譜面を開いた。練習曲5〜7が課題になっていた。

 胃がもたれるような甘いドルチェは僕の得意な声色。甘くて優しくてとろとろで、寂しくて。真っ白な海泥に腰を下ろすような、そんな瞬間を彷彿とさせる。さらさら、重く。叱られたことのない悲しさ。

 かあさんが俺を呼びにくるまで、夢中になって歌い続けた。



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