2. まずはお友達から。

 二十時三十一分。授業も終わり、バイトもようやく一区切りつき、帰宅の準備も済んだ。

「雨音ちゃん帰るの? この後カラオケ行こ〜よ〜」
「ごめん、明日予定があるから」
「男?」
「うーん……?」
 正直答えに困るな。うん。
 私が困惑している間に、カラオケに誘ってきた同期生は他のアルバイターに肩を叩かれた。
「アサヒちゃん、あの子数学質問あるって。教えたげて」
「ええ〜アサヒ、文系なんだけど!?」
「そこをなんとか」
 助かった。
「あははは、みなさんさよ〜ならぁ〜ははは……」
「逃げるな、あ〜め〜ね〜ええええ!」

 私はそそくさと逃げ帰った。

「アサヒ、正直怖えんだよなぁ……」

 仲良くしようとしてくれているのはわかるのだが、明らかに人選ミスってるんだよ。陽キャの不健康な遊びに付き合わせるな。

 バイト先から数分のスーパーでお勤め品を買い占め、しばらく道なりに歩けば自宅に着いた。
私は靴を脱ぐなりすべきことがあると思い出した。
「『今日一日お疲れ様です、お怪我は大丈夫ですか?』っと。」
 せっかくLINE交換したし、連絡はまめに取るべきだと考えた。
 というのも、一人暮らしが始まってからというもの、話し相手もろくにおらず。
 私の所属する場所、すなわち経済学部は兄の通う某大学ではパラダイス経済学部と言われるだけあって、キラキラ系と呼ばれる人種がやたらめったらに多いのだ。私はメイクやお洒落が趣味だったから見た目だけはそこそこ馴染んでいる、と思うのだが、本質的には根っからの陰の者、彼らに馴染めるはずもなく。正直、疲れる。入学から一ヶ月経った今も何故か隣の席に座ってくる東野アサヒと嫌々話す程度で、独り寂しく眠る長い夜に夜通し話せるような親しい友達は居なかった。ちなみにアサヒだが、半ば強引に始めさせられたSNSによると今日も夜通しカラオケをするつもりらしい。お前の体力は無限大か。勘弁してくれ。心底行かなくてよかった。

 しかしながら私と友好的に接してくれる人間というのは大変ありがたいもので。昼間の私はLINEを交換しようと持ちかけた人間がどの性別に属するものかは、ろくろく気にしておらず、そのためか。
「……男の子と、グループLINE以外でLINE交換しちゃった」
 自分でも驚くほどガードが甘くなってしまっていた。
 中高と恋愛ひとつせず、いいや、あれを恋愛と呼ぶのなら片思いを一回。思春期から拗らせた男性に対する免疫は積りに積もってある種のアレルギーのようなものになっている。
スマホを顔を隠す様にして掲げる。今更恥ずかしがっても無駄だろうに。 

 不味いと評判のやっすいカップラーメンにお湯を注ぐ。三分待つ。くそ不味い。

 思い返せば昼間の彼は私より半頭身ほど身長が高く顔も整っていて、いわゆるイケメンに属する人間だった。特に身長に関して、私の身長は女性の中ではかなり高い方で男性の平均と同じ程度だから、彼は相当の高身長ということになる。金曜夜の地下鉄でも息がしやすいに違いない。私の手首を掴んだ手、大きくて暖かかった。兄以外の男性の手に触れたのは、何年ぶりだろう。案外怖くはなかったな、と呆気なく感じた。
 そうこうしているうちに、『怪我はもう痛くないよ、大丈夫。心配してくれてありがとう』とメッセージが返ってきた。『明日の昼12:00ごろ、中央食堂で会おうね。』と追記されたので、私はLINEの画面を開いた。
「『承知しました』……でいいかな、うん」
 無難なスタンプを送る。
 誠実でまめな人だな、と思った。
 私はすっかり浮かれていて、明日が楽しみなような、少し怖いような気持ちがした。

 翌日、私はいつも通り六時半きっかりに起きて、朝食を作り、学校の予習をして、着替えた。この時点で十時十四分前になっていた。
 今日は初めてデートのようなことをするんだと思うと、なんだかアレだった。アレというと正直よくわからない。自分の気持ちがわからない。

「おちつけ雨音。お互い学部とか学年とかしかよく知らないのにデートもクソもなかろうに。ただの食事だろ」
 口をとんがらして兄の口調を真似、言い聞かせた。
 そうだろ、あいつは別に彼女になってくれとか付き合ってくれとか、そういうことは一言も言ってない。おまえはいつも気にしすぎなんだよ。

 でも、やっぱり気にしちゃうんだよ。でも、気にしすぎだというのに異論はない。

「まずは、お互いよく知らなきゃ、お友達にもなれやしないだろうが」
 正直なところも、建前も、それに尽きる。そう思うことにした。


 流行りのワンピにネックレス。余裕を持って始めたメイクはここ数年で1番上手くいって、良い気分で家を出た。

 ところで、今家を出たものの、中央食堂は下宿先から徒歩十分圏内にある。つまり正午の待ち合わせには早すぎる。
 なぜこんなにも早く家を出たのか。それには如何にも正当な理由があった。中央食堂は二階建ての大学生協の上の階にあるのだが、一階には本屋があるのだ。今日は私が好きな作家さんの新作の発売日、つまりはそういうことだった。
 私は宇海くんに『おはようございます、今日は日も高いことですし、1階本屋の入口で待ち合わせしましょう』と連絡して、小説コーナーに移動した。
「あった……!」
 私は感無量で本を持って、レジで会計を済ませた。カバーもかけていただいた。

 夢中で本を読んでいると、あっという間に時間が経っていた。
「おまたせ」
 どこかで聞いた声がして、影が私を包み込む。ふと顔を上げると、男が微笑んでいた。長袖のカジュアルシャツに細身の長ズボンを綺麗に着こなした彼は舞台俳優か何かのように見えた。浮世離れしたルックスだなぁ、と思ったその時にやっと気がついた。約束。

「う、みくん?」
「そう! ご飯食べよ!」
「……イメチェンした?」
「うん、髪切った。早くしないと混んじゃうからさ、ほら行こ」

 きらきらした笑顔でそう言って彼は私の手を引いた。それだけじゃないような、と私は思ったけど、でもたしかにあの寝癖だらけの癖っ毛を切って整えれば雰囲気も大きく変わるか、と妙に納得した。彼の後ろ姿は石鹸の香りがする。

「好きなもの頼んでね! ぼくが払うから!」
「ああ、うん。とびきり豪華なの頼ませていただきます」
「え、やめてぼく金欠」
「じゃあなんで誘ったんですか?」
 思わず笑みがこぼれる。なんか、昨日より話しやすくなったなこの人。でもそれもそうか。昨日初対面だもんなぁ。
「よし、せっかく人のお金で食べられる訳だしね、バスクチーズケーキ頼んじゃおっと」
「や~め~て~よぉ~!」
「あははは」
 私は小ライスに味噌汁、卵焼きと小さなケーキを頼んで、連れの方を見た。

 ━━大盛りのカツ丼と麻婆豆腐とヨーグルトと大学芋とパン数個を2つのトレーに乗せていた。……はぁ?
「お金ないんじゃなかったん?」
「だってお腹すいたんだもん」
 うん。やべえなこいつ。体格からしてたしかに入る場所はありそうだけど。まあいいか。払うのこの人だし。
 2人分の食事を持ってレジへ向かう。
 1580円です、と職員さんが言った。

「「いただきます」」
昼食を食べ始めた。一言で言えば、壮観だ。凄い勢いで目の前の料理が平らげられていく。
「よ、よく食べるんですねぇ……?」
「ん? あ、うん。朝ごはん食べるの忘れてたからその分も食べちゃおうかなと思って〜」
 太陽みたいな笑顔で麻婆豆腐を飲む宇海くん。なお、比喩とかではなく、本当に飲んでいる。その姿はなんとも、大型犬がご飯を食べてるみたいに見えて、なんだか癒された。
 よっぽど麻婆豆腐好きなんだなこの人、と思っていたら次はパンを頬張っている。パンは逃げねえから落ち着け。

「……で、なんで今日私を誘ったの?」
 そう聞くと、彼は一瞬キョトン、と少年のような顔を向け、パンと一緒に言葉も飲み込んだような顔をして、そして菩薩の微笑を浮かべて言った。

「ハンカチ返すのと、あと昨日も言ったけど恩返ししたいなと思って」
「ハンカチ……ああ、あれ?いいよ、全然、大丈夫」
「いや、そう言わずにさ。ほらこれ。昨日せっかく買ってきたから受け取って」
「あ、ありがとう」
 手渡されたのは手触りのいいガーゼハンカチだった。
「昨日貸してくれたやつはなかなかシミが抜けなくてさ。ごめんね」
 彼は節目がちにそう言って、すぐにいかにも困ったねぇ、というような顔をした。

 押し付けられたハンカチはオレンジの果実を模した刺繍がされており、上質なハンカチであることがなんとなくわかった。
「あ、いやこんないいもの頂いちゃって本当に……」

「いいって言ってるじゃん。貰えるもんは貰っとかなきゃ損するぞぉ~?」

 ハッとした。悪戯っぽく笑うその顔は、すごく見覚えがあって。

「……じゃ、大切にします」
「あれ、顔真っ赤だよ大丈夫?ケーキ食べちゃうよ~?」
「それは私のです」
 私は最後の一品を食べ始めた。

 食べ終わってふと顔を上げると目があった。一瞬寂しげな子供の顔に見えて、心がくすぐられたような錯覚に陥る。
「宇海くん?」
「あ、ああ、ぼーっとしてた。あんまりにも君が綺麗なものだから」
「お、おおおお、お世辞はいいよ、うん。おまえのほうがずっと……あ、あの、宇海くんの方が美人だし、ほら、ね??鏡見て?」
「……人いっぱい来たよ。あと時間も時間だしさ。ね、それ美味しかった?」
 ごまかされたような照れ隠しのような言葉。
「うん、とても美味しかった」
 触れてはならないものを触れてしまったようなむず痒さ。
 手を合わせ、海に、大地に、生き物に、農家に、配送者に、料理人に、いや、考えればキリがないのだ、全てに感謝しよう。もちろん宇海くんにも感謝する。
「「ご馳走様でした」」

「あとでまた連絡するね」
「うん」
 私たちは食堂を出て、めいめいの授業に向かった。しばらく歩いて、彼の足音が聞こえなくなったところで気が抜けた。


「……一瞬、熊木先輩くまぎせんぱいかと思った」
 独り言を言う。頬が、耳が、熱い。
 昨日はそんなことなかったのにな、なんでだろう。熊木先輩は私の初恋の人。年齢も境遇も性別も何もかも違うのに、なんであんなにもそっくりな笑顔を浮かべるんだろう。なぜあんなにも甘い言葉を囁くのだろう。
 なんにせよひどく惹かれている自分に気がついていた。気がついていたけれど、私は蓋していたかった。


 今はまだ、お友達のままで。
 臆病な私はこんな崖っぷちに立ってもなお、そんな生温い考えを捨てきれる気がしないのだ。


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