caramel1. 落馬の王子様
世界が反転した。
耳元で自転車チェーンの音。気付いたら太陽が網膜に刺さってた。
反射で受け止めた肘、膝、腕に鈍い衝撃と痛みが走る。
耳にペダルが擦れ、何事か、と頭が回り出す。
「……だ、だだ、大丈夫ですか!? あ、えとこれ、見といてください。すぐ戻りますから!」
肘に当てろ、と差し出された白いハンカチ。
駆けていく足音。
女物のスニーカー。
足元には見慣れない白い鞄。
俺は起き上がった。
「あだッ!」
足が当たって鞄を倒してしまって中身が溢れた。
どうやら俺は自転車に乗っていて転けたらしい。
──もし、これまでこんなもんだと思ってきたものが、相手の身勝手なもんだと思って流してきたものが、ただテキトーにお互い一瞬気持ち良くなれればいっか、くらいだったものが、そうたとえば恋愛とかそういう、
そういう概念的なやつらがパッと全部塗り変わる出会いをしたとしたら──
……渡されたのは重い肩下げ鞄、ちらりと見える中身は文庫本サイズの古本、そしてカバーのかけられた新作の小説。
誰も見ていないのをこれ幸いと、鞄をあさる。
古本からは栞がわりの学生証。天野雨音、経済学部、一年生。ノートの紙面は几帳面、最低限の色とデザイン。ポケットには無造作に放り込まれた昨晩のレシート。
遠くからスニーカーの足音がして取り繕った。
緩やかになびく綺麗な長髪、白くて滑らかな肌、乱れた息。
コンビニのビニル袋、ペットボトルの水、消毒液、絆創膏。
「すみません待たせてしまって」
「……ありがとう」
「怪我、きれいにして絆創膏貼りますから、じっとしててください」
「あっ痛!」
「あっごめんなさい、我慢してくださいね」
俺は鞄の中身を見てしまった。
罪悪感は感じなかった。
生きている彼女は学生証の止まった姿よりもずっと美しい。
細い指、柔らかな肌、落ち着く声、良い匂いの髪、整えた眉、長いまつ毛、切長の目、こなれた二重メイク。
ぱちぱち、瞬きするたび、目を奪われる。
「はい、もう大丈夫。お大事に」
「ありがとう」
「どういたしまして。あ、いや、困ってる人を助けるのは当然です。じゃあ」
──きっとこんな出会いだろうか!
胸が高鳴っていた。自分が自分でなくなる感覚を必死に抑え込んで、でもどうせ、溢れる。恋。
「……っ、あ、あの、連絡先、交換しませんか。こんなによくしてもらって、そのままってのはどうかと思うから」
俺は人生の中で1番じゃないかってくらい焦って言った。
ああ今俺、超ダサい。過去一ダサいけど、でも……嫌だ、ねえお願い離れないで!
気づけば手を握っていた。細い手首に冷たい手。
彼女の顔を見つめると、困惑したように見えたその一瞬、憐憫、そして綻び、口を開く。
「良いですよ」
俺はホッとした。もっと押せるな。調子付いてそばに寄る。
「やった! うーん、LINEでいい?」
「あ、LINEですね。ええと、はい。これ、私のQRです」
俺の手と大きさを比べる。背が高くて華奢な彼女の手は小さい。
「追加したよ、ほらこれ、『うみ』ってのが……」
「自撮り上手いすね。えと、これで良いですかね。はい。追加しました」
「ありがとう!」
自転車で転けて、それで助けられて、その恩人がどうしても欲しくなってしまうだなんて。
そんなのダサいし『俺』らしくはないんだけど。
でも。
「あ、同じとこ通ってるんですね」
「そう、K K大声楽科」
「わたしはK K大経済すね」
「同期じゃん」
「私もあなたも1年生ですね……」
「……」
あ……、ダメだ間がもたない。雨音はなんとなく話を辞めたそうな表情してる。
だめだよ、名前知りたいんだから。知ってるけど。
「ねえ、なんて呼べば良い? 自分は『宇海』って呼んでくれたら嬉しいんだけどなぁ」
「自分は雨音……いや、わたしのことは『天野』って呼んでください、変に勘違いされるのも困りますし」
「これ本名フルネームだよね。珍しいね?」
「あんま……あんまりこういう、SNSやらないので」
可愛い名前。奥手で清楚。文明の利器についていけない。
同い年なのに子守唄を錯覚させる落ち着き様。名は体を表すとはこのことか、女神かと錯覚しさえする。
膝と肘と腕の擦り傷の痛みはどこかへ飛んでいった。
この人なら、もしかしたら。俺は俄然、この女性に入れ込みたいと思い始めた。
もっと一緒にいるためには。同じ釜の飯を突いて、話せばいい。
「明日、授業ある?」
「あ、はい、昼に。ええと、3限から」
「お昼、一緒に食べに行かない?」
「良いですよ。学食なら」
「じゃあまた後で連絡するね。今日も授業あるんでしょ?」
「ええ、まあ、20分後に4限がありますね」
「え、総合棟までだいぶかかるじゃん、乗せてくよ。ほら、後ろ乗って」
「転けそうだから嫌です。走れば間に合いますから。じゃ、また明日」
「あ、うん……。また明日ね」
足速いなぁ。てか俺、信用ない。ダサすぎる。
でもきっとこれが恋だ。胸の奥がむずかしくて、不安で。
「……天野雨音、18歳、経済学部、努力家、清楚、美人、手癖は雑、女っぽくない喋り方、おそらく下宿、……あ」
悪い癖が出た、と思った。
人を見るとどんな人なのかひどく気になって詮索してしまう。
まるで生まれたての赤ん坊みたいに。
でもさ、俺にはこれしかないんだよ。
「あの子の好きなタイプってどんな感じなんだろう」
少なくとも今の俺じゃない。髪型も眉毛も、喋り方も、服装も、ぜったい違う。
でも何が正解か?
どの姿形なら愛される?
行動、見た目、話し方、本のタイトル、ノートの紙面、レシートのゴミ、専攻学科。
ヒントは幾らでもある。
俺は血液のついたハンカチと自分のリュックを持って立ち上がった。
「OKGoogle、古本屋」
ここに永らく住んできて、古本屋の場所も知らなかった。同じ本があるかどうかはわからないけど、でもこれくらいのきっかけは欲しい。
「いや、その前に百貨店か」
ハンカチのシミはなかなか拗らせそうだった。
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