caramel.6 かんちがいクライシス
決して広くはないが狭くもない教室に、黒板をかつかつと叩き崩れるチョークの音、そして霞のような柔らかく高い声が響く。または、かすかに咳払い、貧乏ゆすりの衣擦れ、少女と言って差し支えない幼げな女の寝息が、その殺風景な空間を満たしている。
「アサヒ、起きなさい」
艶のある黒い長髪の女学生が少女の肩を叩く。
がたり、と音を立てて、静寂と夢は崩れ去った。
「……わ、わわ」
がしゃあん!
「あーあ」
目を覚ました少女、東野朝日が、おどろいて椅子から転げ落ちたのだった。短いスカートの裾から、お気持ちばかりの黒スパッツが覗いた。
驚いたのは彼女だけではなく、他の居眠りしかけていた人間たち、そして教壇に立つ教師も然り、である。
「……大丈夫ですか?」
女教師は壇上から、あいも変わらず霞のかかったような声で、心配そうに言った。
「ご、ごめんなさぁい」
焦った寝起き顔で謝罪をする少女に、自分の授業はさぞ眠かろう、といった様子、いや自嘲でもするかのように、へらりと笑って見せる。
少女は申し訳なさそうなそぶりでペンを握り、教壇を真っ直ぐ見、ノートを取り始めた。
さっきの分はあとで見せてやるから、と、隣の女が耳打ちをした。
しばらくしてチャイムがなり、教壇からは誰もいなくなった。
長い髪を携えた女は隣を見、そしてため息をついた。少女はまたもや、ペンを握ったまま眠りについていた。
「ほらアサヒ終わったぞ、授業」
「んん……アメネ?」
「田中先生の授業、眠いよね」
「んー、うん、声が眠い」
「授業ノートは私がちゃんととってるから」
「アメネ愛してるぅ……ノート100円で写させて」
「お金なんていらないよ」
長く美しく手入れされた黒髪を携えたいかにも大学生の風貌を装う女、天野雨音は、ため息混じりに微笑んで佇んでいた。
「次は寝るなよ」
彼らは校門で別れて、それぞれ帰路に着いた。
そういえば薬飲んでなかった、と、少女はふと気づいたようにつぶやいた。
しばらく歩いて、行きつけのカラオケ屋の前に行くと、見慣れた栗毛の長身の男と、捻ったようなパーマの黒髪の男とが仲睦まじく出店のものを食べている様子が見えた。少女は、はっとした。
男と目があった。
「お、宇海、あれ例の彼女?」
「えっ、あ、いや、あはは」
「違うん?」
「違うというか、うん、なんというか」
栗毛と黒髪の青年ふたりが軽口を叩き合うのを見つつ、少女は言うべきことがある、と思い出した。
「あ、あの、ウミくん、先週はありがとう!」
顔をやや赤らめて、叫ぶように言った。
「ん!? あ、ああ、先週ね」
「迷惑かけちゃったからさ、お礼言わなくちゃって思ってたの、会えて良かった!」
「いやぁ、別に、気にしなくっていいのに」
「よかったら今日もカラオケしない? 一人カラオケしようと思ってたんだけど、2人用の部屋取れたみたいだし……」
少女が捲し立てるようにそう言うと、
「ごめんねぇお嬢ちゃん。宇海くんは今日、オレとデートなんだわ」
「ちょ、理玖ぅ! 誤解を招く表現やめろ!」
「ぁんだよ、つれねえなぁ。オレのたこ焼きが食えねえってか〜、てかさ、このあと2人でラーメン食うんじゃねえのかよ」
黒髪の男がニヤニヤしながらそう言うと、もう1人の男は骨張った手を口元に当てて頬を赤らめた。
その様子に、少女は“ただならぬ雰囲気”を感じ取っていた。
「お二人は仲が宜しいんですね……?」
なかば、そうでないと応えてほしいとさえ願いつつ、彼女は問いかけた。
「あの、ね、ねえりっくん、やめて? あらぬ噂が……」
「んふ、そォだよ、宇海くんとオレはラブラブなの♡」
「り、理玖おまえ、ちょ……」
その答えは願い虚しく、確信的なものだった。
「……ラブラブなんですね?」
「んー? そうだが?」
「……ウミくんにお似合いです! すっっごく! お幸せに!」
少女は耐えられない! とばかりに、逃げ出した。当然のことであった。彼女は今、失恋したのだから。
「ああああああああ待ってマジで! ちが、違……あの、東野さん、誤解を……足速いね!?」
「追いかけんなって」
「……理玖、お前なぁ」
スパイラルパーマをかけた黒髪の男、すなわち宮野理玖は、静かに口を開いた。
「あいつに惚れられたら困るんじゃないのか?」
ウミ、こと宮野宇海──理玖の弟、は、兄に見透かされたことに驚きつつ、静かに言った。
「あいつが雨音に訳分からんこと言ったらどうするんだよ。アサヒは口軽いぞ」
「ふーん、アメネちゃんって言うんだ、カノジョ。覚えとくぜ」
「あ、謀ったなおまえ!」
「しらねェなあ、宇海が言っただけだろ?勝手に」
こういうとき、兄は見逃してはくれない。
弟は、敵わないな、と照れた仕草で、ボソボソと言葉をつなぐ。
「てかさ、今の、俺の彼女があいつだったらとんでもねえ修羅場だったろ」
「ん、だってさ、宇海がああいうやつに惚れるとは思えねえもん。声でけえやつ苦手だろ」
オレぁ知ってんだ、弟のことならなんでも。そうとでも言いたげなしたり顔で兄は言った。
かなわないなァ、とばかりにため息をついて、弟は微笑んだ。
「ラーメン屋、連れてってよ、そろそろ」
「あいよ」
お腹すいたなぁ、ばか言えさっきたこやき食っただろ、と、へらへらしながら兄弟は商店街へ入って行った。
ふたりは、その足跡を追うひとつの影に、気づいていなかった。
あれが理玖君の弟君か、と、その人は呟いた。
「んで、あめねちゃんとはどこまで行ったわけ?」
理玖は両目の焦点を宇海の両目に合わせて問いかけた。
「……んー、昨日カラオケに行ったとこまで」
宇海はそう答えて、シメのカツ丼を一口頬張った。まるで尋問である。
「カラオケ……ってことは、キスはしたのか」
「耳にはしたよ」
そこまで聞いて、理玖はぱしぱしと目を瞬いた。
「え、おまえ、急に真面目ちゃんになったな?」
「──いや、僕は真面目なんだけど」
彼は丼の底に残った米を箸でつまんで、唇を尖らせて言った。
「あのさ、おめぇ、悩み事……」
「ないよ別に。子供の頃じゃああるまいし」
ふふ、と愛嬌たっぷりに笑いながら丼ごと持ち上げ、米をかきこんだ。
「ん、ごちそーさま」
「相変わらず気持ちいい食べ方しよんね」
「あは、田舎者」
「お前もだろうがよぉ!」
「いっ」
言葉遣いを笑われた理玖は、軽く宇海をこづいた。
店主に「うまかったです」と伝え、2人は店を出た。
一方、東野朝日は息と涙を切らしていた。
「まさか……彼氏がいたなんて……うぅ……」
彼女は姉に泣きついていた。
「はぁ、あんたねぇ。あの男はやめとけって言ったでしょ?」
「なぁんでよぉ」
姉、東野茜は、ため息混じりに言った。
「いい噂がないからよ」
茜の言うところによると、宮野ウミという男は、中学のころから女を取っ替え引っ替えしてきた悪者らしい。近づけば妊娠するという噂さえ立てられたこともあったという。朝日は、そんな人には見えないけどなぁ、と首を傾げたが、姉によれば、そういう悪い奴ほど良い子の皮を被っているということらしい。
「あいつ、女だけじゃなくて男もやってたのね」
「なんか恨みでもあるの?」
「──あんたには、まだ早いわよ」
姉は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
たいして朝日はというと、これはさてはアメネも危険だ、あの男の正体を暴いてやらなきゃ、と、妙な決意を漲らせていた。
お姉ちゃんありがとね、アサヒ、気をつけるから! と彼女は言って、自室へとかけた。
ドアを閉めるやいなや、彼女はスマホの電源を入れる。
『あのね、すっごく大ニュースがあるんだけど聞いて❗️』
朝日は隣の席のクラスメイトにメッセージを送った。返信は、返ってくる気配さえない。
「はやくアメネに教えてあげなきゃ……アメネが妊娠しちゃう……」
少女は友達思いだった。
しばらくして、雨音から返信が返ってきた。
『ほんとの大ニュースなら聞く』
『メチャクチャ大ニュースだよ❗️この前カラオケ🎤行ったでしょ、あの時海くんっていたじゃん』
『宇海がどうかしたの』
そこまで返信が返ってきて、最後の返信が取消された。
『宮野くんがどうかしたの』
代わりにこんなメッセージが送られてきた。
「まさかアメネ……いやいやそんなはずは」
でも、なんでわざわざ言い直すんだろう、と、朝日はいつになく考え巡らしていた。
もしも、魔の手が伸びていたとしたら。
『海くんね、彼氏いるんだって。昔は彼女取っ替え引っ替えしてたんだって』
もし、手遅れだとしたら。
既読がついてから、数分が経過した。
『で、どうしたの。それが大ニュースなら聞いて損したわ』
「──は?」
ごとり。
朝日は呆気に取られてスマホを落とした。
拾い上げ、割れていない、と胸を撫で下ろし、急いで返信した。
『え、損って…え、あめね、あの人と仲良しなんじゃ…』
既読がついたまま、返ってこない。ウミくんとアメネは仲良くて、ウミくんは女癖が悪くて、今は男と付き合ってるけど、きっと悪いヤツで、雨音はそれを知らずにカラオケなんかにお誘いされて手を出されて──、と、一通り考えて、彼女は一つ懸念事項にたどり着いた。
『あめね、先週の金曜の夜、何もされてないよね❓』
それは、少女が考えうる最悪の想定であった。
『されてない。宮野さんがそんなことする人に見えるの?』
雨音の答えは、あの男への信頼を持って書かれたものだった。朝日は、想定が外れたことへの安堵感と、どうも拭えない違和感に胸騒ぎがしていた。
『…でも海くん彼氏いるって』
『そもそも宇海は私と付き合ってるの。彼氏がいるわけないでしょう。』
『え』
朝日はスマホをまた落とした。椅子の角にあたり、保護ガラスが割れる。
拾い上げたその画面には、はっきりと彼への信頼の言葉が綴られていた。
『本人が何か言ったわけ?』
朝日は、目の前が暗くなり、頭のてっぺんからつま先まで、痺れるように力が抜けるのを感じた。
──え、いや、え❓あめね、え❓なんで❓昨日言ってくれなかったじゃん──
友達だと思っていたのに、自分だけが弄ばれていた、そんなとき、人はどう思うのか。
ガタン、と大きな物音を立てて、朝日は眠りに吸い込まれていった。
「アサヒ!」と、姉が叫び、妹の部屋にやってきた。頭を打ったらしい朝日の羽のように軽い体をベッドに寝かすと、つきっぱなしのスマホの表示を見た。
『私は宇海のことを信じるよ』
数分の時間を経て書かれたらしいその言葉は、カノジョのもの、らしかった。
姉は、あいつも少しやり方を変えたのかね、と、ため息をついた。
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