小野田さん。🌟心に響く名言7選。🌟

2023年05月15日 初回記録

つぶやきで流れてきた動画です。

名前は知っていましたが、こんかいみるまでは興味はありませんでした。
ですが、今回、初めてこの動画を見て、すぐにRTしました。

動画は、当時の年齢の姿から始まりますが、その後の穏やかな表情のお姿も写っていました。名言7選を聞くと、なるほど、体験したものだけが言える言葉だろうと思いました。

もう、食糧危機はやってこないと思いますが、頭の片隅に置いておきたいと思いました。

本当に、DSがこの世に居なかったら、戦争もなかっただろうし、小野田さんだってもっと別の人生があったと思いました。

ツイッターをしていると、これまで興味を持たなかった事柄でも、今では向き合って見られる自分がいて、それと同時に、古い過去の情報を改めてツイートされる方がいることと、日本人の”凄さ”、”強さ” 、”精神的な強靭さ” なんかを知らされてしまいます。本当に凄い人がいたものだと。

今回自分からウィキペディアを検索して、どんな方だったのか読んでみました。「任務を追行する」という事に、これほどの持久力、忍耐力が、今の人たちに出来るだろうか。。と考えてしまいました。

この事を書くまでは、どうだろうかと思っていましたが、書いてみると、
私たちなら・・できる。と思いました。ありがたいです。(合掌・感謝)


https://twitter.com/80syaku/status/1650331396270075905?s=20
@80syaku
https://instagram.com/p/CrE7zjoOzXP/
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午前11:50 · 2023年4月24日

残留日本兵
小野田寛郎が残した 心に響く名言 7選。


30年間戦い続けた男 
小野田寛郎

・恐怖の大半は「自分」が作り出している。

・疲れている時、怪我をしている時は、弱気になってしまう。
 満腹な時、体調の良い時は、油断をする。

・私は 行方不明者でも 遭難者でもなかった。
 私はただ 任務を追行していただけ。

・過去は捨てることは出来ない。
 現在は止める事が出来ない。
しかし、未来は決める事ができる。

・道具は正しく使ってこそ道具。
 間違うと凶器になる。

・今日は食べられなくても
 明日も食べられなくても
 明後日には何とかなる。
 死にはしない。

・戦いは相手次第。
生き方は自分次第。
最後は
自分で判断し、
行動しなければなりません。

・・・





instagram.com/p/CrE7zjoOzXP/



以下は、ウィキペディアより一部ピックアップです。

1944年12月フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣

1944年12月31日フィリピンルバング島に着任。

マニラのあるルソン島に上陸しようとする米軍を阻止するため、小野田はマニラから南西約150kmにあるルバング島の飛行場の破壊などの命令を受けて島に渡った。

1945年2月27日に海兵隊50名の先行上陸が行われ、
翌2月28日アメリカ軍約1個大隊1000名の上陸後、
日本陸軍の各隊は、アメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破され3日間の戦闘の後、総指揮官・月井大尉の命令で組織的戦闘は終了して各隊個別行動に移行する。小野田はマニラ出発時に受けていた『飛行場と桟橋を爆破せよ』という師団命令を果たせぬまま、ルバング島の山間部に逃げ込んだ。

圧倒的な軍事力を誇る米軍にフィリピン全域を制圧され、小野田、赤津勇一、島田庄一、小塚金七の4人は終戦後もルバング島に取り残された。

日本敗戦後

1945年8月の終戦後もアメリカ軍の敗戦通告と投降の呼びかけに応じず、一等兵赤津勇一(1950年7月投降)、伍長島田庄一(1954年5月7日没)、上等兵小塚金七(1972年10月19日没[12])らと共にルバング島に残った[4]。4人は作戦を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。

日本では1945年9月戦死公報が出されたが、1950年に赤津が投降し、保護された地元警察でこれまでの島での生活を証言したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。


1974年に、23歳の謎の自称冒険家・鈴木紀夫[注 2]が単独でルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで小野田との接触に成功する。

日の丸を掲げてテントを張っていた鈴木は小野田に急襲され、銃を突きつけられた。

鈴木が「僕は単なる日本人旅行者です。あなたは小野田少尉殿でありますか?。長い間ご苦労さまでした。戦争は終わっています。僕と一緒に日本へ帰っていただけませんか?」と伝えた。

小野田は鈴木と話して夜を明かし、小野田は上官の命令解除があれば任務を離れることを了承した。この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。

その後3月4日に、鈴木とともに小野田の元上官谷口義美(元陸軍少佐)がルバング島に渡り、3月9日に小野田は2人の前に姿を現し、谷口による任務解除命令を受けて投降した。

この際、谷口が任務解除の命令(「尚武集団作戦命令」と「参謀部別班命令」)を小野田に伝達した。小野田は戦争が続いていると思っていたため、最初その命令も偽装や偽情報ではないかと疑い、しばらくしてやっと任務が解除されたことに納得したと後に回想した。

投降式に出席する小野田とマルコス

3月10日の夜、小野田は軍刀を持ってフィリピン軍レーダー基地に移動し、ホセ・ランクード司令官に対して投降式を行った[17]。徒歩で移動する間、小野田を憎む住民らに小野田らが襲撃されることを予防するため、フィリピン空軍将校2名が同行した[19]。司令官が小野田から軍刀を受け取り、小野田に返却するという儀式の後、記者会見が開かれた[17]

“約30年間”にも渡る小野田にとっての大東亜戦争が終わり、1974年昭和49年)3月12日日本航空の特別機で日本の羽田空港へ帰国を果たした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E







お読みくださり、ありがとうございます♪

AOR@白玉城より。


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