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(小説)交響曲第五番(一・一)

林屋の紀ちゃんへ。
 なぜ自分があなたとは一緒に生きられなかったか、こんな自分を好いてくれたあなたにだけは告げておかねばならない、そんな思いに駆られ、止むに止まれずされど恥ずかしながら、こうして告白する次第です。

(一・一)第一ラウンド

 留萌は、北の寂れた港町だった。まだ白黒TVのリングの上で力石徹と矢吹丈が闘っていた頃、波音すらも侘しい北の寂れた港町に、十軒程が軒を連ねる名もなき風俗街があった。
 潮風が吹き荒ぶ留萌は年中塩っ辛く、時化た漁港でしかない留萌港には、北極海の果てからでも押し寄せて来たよな荒っぽい波が絶えず寄せていた。そんな波音すらも途絶えた内地に、ネオンの灯りも仄暗くその花街はひっそりと夜の波間に咲いていた。更にその十軒程の端っこに、店の名を泪橋と付された特殊浴場があった。
 泪橋は年中無休で、「寂しい殿方、いつでもお待ちしてまっせ」が口癖の店主は女で、還暦を過ぎて尚元気だった。夕刻から夜の帳が降りる頃、泪橋は既に書き入れ時で、週末の夜ともなれば尚更のこと。日々十人の泡姫が出勤していたが、フル稼働でも待合室にはまだ五、六人の客が待機しているという有様。にゃおーーーっ、と餌を探して路地裏を徘徊する、そいつが雌猫でもあったならば、正に猫の手も借りたい程の忙しさという訳だった。
 泡姫たちから「ママ」と呼ばれ慕われていた泪橋の女店主の名は、お峰。書き入れ時、お峰はいつも店の奥に位置する事務室兼オーナー室に控えていた。かと言って事務作業などこなしている訳でもなく、黒革のソファにどっしりとその巨体を預け、熱心にTVに見入っているのが常だった。そしてその隣りでお利口さんをして座っていたのが、まだ六歳の自分だった。
 お峰と自分が見詰めていた三十型ブラウン管のTVはまだ白黒で、その白黒画面の中ではいつも矢吹丈が闘っていた。留萌では当時、あしたのジョーのアニメは土曜日の夜に放映されていた。なぜ特殊浴場の店主と並んでTVなど見ていたかと言えば、彼女の孫だった訳では決してなく、泪橋で働く泡姫のひとりが自分の母親だったからだ。
 泡姫の由雪(ゆき)は、母親の源氏名であり、本名が雪結(ゆきむすび)幸子二十六歳で、自分は彼女の長男、保雄だった。由雪は泪橋一番の売れっ子で、彼女が働いている間、こうしてお峰が自分の世話をしていてくれたのだ。勿論他の泡姫たちの子どもも同様だった。お陰で事務室はいつも、託児所の様相を呈していた。
 自分は生まれつき大人しく、いるのか、いないのか分からないような子どもだった。比べて幸子という女は、陽気でお喋り。ならば自分の無口さは父親譲りかとも思えるのだが、生憎その父親が誰なのか分からなかった。何しろ幸子は無類の男好きで、男前の客と避妊なしで行為に及ぶことも多々あった。おまけに恋多き女でもあり、付き合って泣かせた男、捨てた男の数たるや、二十六歳の若さでありながら、既に十人は下らなかった。
「保雄ちゃん、あしたのジョーみたいに強うならんとあかんで。お利口さんばっかしとっても詰まらん。仕舞いにゃ女からも舐められてまうで、ほんま」
 お峰の言葉に、自分は困惑した顔で頷くしかなかった。若い頃神戸から流れて来たお峰はその為関西弁がしみついており、自身泡姫としてせっせと身を粉にして金を稼いでは貯め、五十代で遂に念願の自身の店を持つに至ったのだ。
 お峰が自分に言ったことは至極まっ当で、自分としても内心は強くなりたかった。が残念ながら身の周りに、手本となる強い男がいなかった。詰まりは父親の不在。その代わりと言うのでもないが、あしたのジョーに熱狂的に憧れていた。正に自分にとって矢吹丈とは、ヒーロー以外の何者でもなかった。

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