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(小説)宇宙ステーション・救世主編(一・一)

(一・一)イヴ
 ここは夜、夜の世界。夜でなければ或いは罪悪を犯さねば存在し得ない街、今日そして嘗て吉原と呼ばれた、あたかも丸でひとつの村か集落の如き夜の華。
 世界は夜、未だ世界は夜の闇に覆われたまま、ここ吉原のネオンが夜の巷に妖しく瞬き続く間、世界は夜によって支配され、いつ果てるともない魔物の呼吸を営み、その積み重ねたる人類の罪の清算をば為すこともなく、日々この夜の世界のひとつの宇宙駅(ステーション)として、あたかも魔物の心臓の鼓動の如くここ吉原のネオンは瞬き続け、瞬き続くことが何よりこの世が夜であることの証明であり、従って夜と共にこの瞬きもやがて訪れる世界の夜明けの前に、滅亡し夢の如く潰えることは、宇宙全体の必定である。

 十二月二十四日言わずと知れたるクリスマスイヴのその正にイヴの入り口即ち夕暮れ時、粉雪の降り始めたるここ吉原の地に、何故かその重き荷ともいうべき吉原滅亡の使命を背負いて、今ひとりの少女が降臨する。故に少女は絶世美少女であらねばならず、また事実そうである。少女は胸に真紅の薔薇の花束をいだき、湿ったアスファルトに響く履き慣れぬハイヒールの靴音に今にも転げそうな危うさを秘めながらも、派手なネオンの華咲く中心区画から遠く離れた場末にひっそりと身を置く一棟の細長い古びた雑居ビルの前に辿り着く。
 そのビルの四階に位置する一軒のソープランドこそが、少女が救世主の裁きをば待つ待合室である。店の看板に点るネオンの文字は『エデンの東』、僅か昨日まで確かに『エデンの園』であった店名、ネオン看板の文字を急遽『園』から『東』に変更したるは、ふたつの理由からである。
 ひとつは、既に七十幾歳という高齢の老婆である店主お節の悲嘆から。一体如何なる悲嘆であるか、その訳は今ビルの前に佇む少女にある。この少女、実はお節の一人娘であると共に、今宵よりエデンの東にて働き出す新入りのソープ嬢でもある。誰とて手塩に掛け育て上げた愛しき娘が売春婦になるなど、これ程耐え難きものはあるまい。たとえ自らが若い頃よりソープ嬢として各地を転々とした末、ここ吉原の片隅に店を構えて幾数十年今日まで細々と営んできた、ソープランド一筋のお節とて同様である。
 加えてもうひとつ改名の理由、それはエデンの東という名称になすことを少女が深く熱望したからである。されどその理由を少女は明かさない。
「えでんのひがし」
 降り続く粉雪の白さに濡れながら、看板のネオンの文字をしみじみと見上げる少女の息が白く凍り付き、ネオン街の夜気へと上昇し消えてゆく。お節は苦そうに吸い込んだハイライトの煙を丸でため息の如くふうっと吐き出しながら、店のガラス窓の曇りをその手で大きく拭き消すと、ビルの前に突っ立っている我が娘に気付く。
「何してんの雪、風邪引くでえ」
 がばっーと店のサッシを開けるや顔を下に向け、怒鳴るように少女を呼ぶ。
 雪。少女の名である、しかし本名ではない。雪の本名を知る者は誰もいない、雪本人も母親であるお節でさえも。それどころか嘗てほんの一瞬でも、雪に本名が付されたことがあったかどうかすら定かではない。十八歳、一週間前まで名門私立ゴルゴダの丘高校の可憐なブレザーの制服に身を包む女子高生だった雪は、自らの意志により中途退学を果たしここエデンの東にて働くことを決意した。
「ほな、またな。お雪さん」
 雪は名残惜しそうに粉雪に別れを告げると、窓辺のお節に手を振りながらビルの中へと入ってゆく。お雪さんとは、雪が、降る雪に向かって語り掛ける呼び方である。自分の名が雪である故、区別するようにそう名付け呼んでいる。口癖であり、雪の秘密のひとつでもある。
 雪はビルのエレベータに乗り、お節の待つエデンの東の玄関へ。宵の入り口、まだ客はない。
「ママ」
 幼さすら残る声を発し、雪はお節と抱擁する。
「ま、兎に角事務所行こ、な」
 お節は雪の肩に腕を置いたまま、自らの常駐する室へと連れてゆく。
「何や、その薔薇」
 雪が胸にいだく花束。
「この店地味やろ、玄関に飾ったらええ思て」
「何言うてんの、飾るて花瓶もないのに」
 仕方なさそうに花束を受け取るお節。
「そんなことより、先ずあんた名前どうすんの」
 源氏名を問うお節。
「雪、でええよ」
 事務所の窓辺に佇む雪、ブラインドの隙間から見える外はまだ粉雪。
「雪、でええて、んなあほな」
 べっとりと塗った口紅が歪む、苦笑いのお節。
「ま、あんたが言うならしゃないな」
 案外容易く引き下がる。
「それからな、ママ」
「何やの」
「雪はな、一晩にお客さん一人でええねん」
 またも仰天するお節。
「何のこっちゃ、たった一人かいな」
 頷く雪。
「そんなん、商売にならへん。幾ら自分の娘いうても、甘やかす訳いかへんで」
「分かってる。その代わりな」
「その代わり何やねん」
「料金たこ目にすんねん」
「なんぼや」
 雪を見詰めるお節、答える雪。
「百万」
「ひゃあくまん」
 聴いて吃驚、我が耳を疑うというか鼻でせせら笑うお節、そやから小娘は困んねな、まったく世間知らずいうか、このあほ。
「あんた、この商売舐めてんの」
「けど雪のこと、一晩中好きにしてえんやで」
 はあ、まだ言うてんの。
「そら、そんだけ大金出すなら、殿方も一晩中楽しませてもらわな、元取れんわな」
 しかしお節、ここで内心しめしめとほくそ笑む。未だに雪をソープ嬢になどしたくないお節としては願ったり叶ったり。確かに美少女なのは認める、けど自分に一晩百万もの値が付くなど本気で思っているならお目出度い。そんな奇特な客など百年経っても現れる筈なかろうから、実質ソープ嬢ではない。そのうち、ちっとも客来いへんなあ、なんかあほらし、止ーめた、と堅気に戻ってくれたらしめたもの。
「ま、あんたが言うなら、好きにしたらええわ」
 これまたあっさりと認めてしまうお節。
「有難う、ママ」
 思いのほか簡単に希望叶って雪はにっこり、母親のお節でさえぞくっとする程の笑みを零す。ほんまええ女になったな、とても十八とは思えん、この天使みたいな清純さと大人の色気を兼ね備えた絶世美少女振り、正に魔性の女や、たまらんわ。まさか冗談抜きで、ほんま客付いたりせんやろな。そやかて百万円やろ、まさかまさかとは思うけど。一抹の不安を覚えないでもないお節ではある。
 エデンの東には、今二人のいる事務所の隣りにソープ嬢たちの控え室、その隣りに客の待合室がある。後は商売用の個室が九つ並び、女に飢えた寂しき殿方の訪れをば夜毎今か今かと待ち侘びている。改めて店内を見渡すと、雪が指摘した如く確かに地味、辛気臭い。早速お節は知り合いに頼んで豪華絢爛たる花瓶を取り寄せ、玄関に真紅の薔薇を飾る。その後もお節は花を絶やさぬようにと、定期的に季節の花を玄関に飾るようになり、いつしか花を愛でる喜びを知る。
「ほな、雪、今から商売始めるで」
「何処行くの」
「控え室に決まってるやない」
 おっ、そりゃそうや。
「待って」
 焦って雪を止めるお節。大事な娘が店のソープ嬢たちにまみれ、俗っぽさなんぞうつされては敵わん、どないしょ。悩んだお節は仕方なく、個室のひとつを雪専用の部屋にすることに。どうせ客なんぞ来いへんやろ、ちょっとの間の辛抱や。そこで雪は玄関から一番奥に位置する九番目の個室を選び、そこを自らの仕事場兼控え室とする。更に雪はその部屋を密かに『宇宙駅』と名付ける。こうして一晩百万円するソープ嬢雪と、雪の宇宙駅の誕生である。
 その夜から早速雪は宇宙駅にてただひたすら待ち侘びる、一晩百万円という法外な料金を支払う奇特な客を、待って待って待ち続ける。クリスマスの二十五日、その後の二十六日、二十七日と日は流れ、結局誰一人客のないまま宇宙駅は大晦日を迎える。雪は宇宙駅がすっかり気に入って、とうとう自宅へも帰らず宇宙駅で暮らすようになる。こうして雪は、二十四時間宇宙駅で待ち続ける。唯一の愛読書である新約聖書を片手に、この罪深き吉原の地へと降臨する救世主と最後の審判とを人知れず待ち望みながら。
 さて大晦日除夜の鐘の鳴りし頃、トントンと宇宙駅のドアをノックする者有り。こんな時間に一体誰や、うたた寝に漂いし雪は飛び起きて、ドアを開けるとそこにはお節。
「何や、ママかいな、驚かさんといて」
「ママで悪かったな、あんた何してんの。はよう家帰ろや、正月やで」
 あっさり従うかと思えば然にあらず、雪はかぶりを振る。
「御免なママ、雪もうこっから離れられへん」
「何でえ」
「実はな、ある御方と約束してん。ここで待ってますさかい、いつでもお越し下さいて」
 ある御方、はて誰やろ、まさかお客とちゃうやろな。心配のお節は雪を問い詰める。
「いつでもて、誰やそれ、男か」
「ま、そんなとこ」
「そんなとこて、もしかして客か」
 恐る恐る確かめるお節、けど、
「ちゃう、ちゃう」
「なら、ボーイフレンドか」
「ん、まあそんなとこやな」
「ほお、ええ男か」
「分からん」
「分からんて。でもま、それならしゃないな」
 ここでもお節はあっさりと引き下がり、
「なあ、気付けてな」
 雪をひとり残し、エデンの東を後にする。

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