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(小説)交響曲第五番(一・二)

(一・二)第一ラウンド・1分

 母、幸子の勤めが終わるのはいつも日付けが変わった深夜で、自分は既に事務室にて熟睡していた。そこを揺り起こされて、幸子とふたりでハイヤーで泪橋から帰宅した。住んでいたのは福寿荘というオンボロ安アパートで、帰っても部屋はまっ暗。他に家族はなく、母子ふたり切りで細々と暮らしており、部屋には電話も引いていなかった。
 幸子は仕事と男疲れで、いつも昼過ぎまで寝ていた。従って港町保育園と言う保育園に通わねばならなかった自分は、朝ひとりで目を覚ますと身支度をして、幸子を起こさぬようそっと部屋を出た。福寿荘の前に送迎バスが停車するから、それに乗り込み保育園へと向かった。
「お母さん、まだ寝てるの」
 保育園のお姉さんの問いに、いつも無言で頷いた。
「偉いね、保雄ちゃんは。いつもひとりで何でも出来て」
 照れ臭かった。顔をまっ赤にして俯くしかなかった。しかしバスが発車すると、直ぐに目を輝かせて顔を上げた。なぜなら福寿荘と港町保育園とを結ぶ送迎バスの中だけが、その頃の自分にとって唯一安らげる空間だったからだ。
 必ず窓側の席に腰を下ろし、車窓を流れる留萌の街を夢中で眺めた。園児全員を拾うと送迎バスは、後は保育園までノンストップ。港沿いをひた走るバスのガラス窓を、潮風が激しく叩いていった。自分は窓越しに、いつも港に話し掛けた。きらきらと朝の陽に煌めく水平線が、それは眩しくてならなかった。
「ぼくも何処か遠くへ行きたい、ジョーみたいに……」
 けれど留萌の港は何も答えることなく、ただ遠い潮騒の音だけが、幽かに耳の奥底に響いていた。
 港町保育園は緩やかな坂を上った、港を見下ろす小高い丘の上にあり、そこから留萌港が一望出来た。保育園時代にはまだ誰も、幸子が特殊浴場で働くなどということを悪く言う者はいなかった。従って園内での自分の平穏は保たれ、何処にもいる少年の如く溌剌とした日々を送っていた。園長の真田響子はお峰と同い年だったけれど実に熱心なキリスト教徒で、折りに触れ園児たちに聖書の中の物語を語って聞かせた。
 マグダラのマリアについても同様で、園児たちにやさしく微笑み掛けながら、こう話してくれたものだった。
「イエス様はね、どんなに罪深い人でもお許しになり、どんな人をも救って下さるのよ。なんて有難いことでしょう」
 この言葉は幼い自分の胸の奥に刻まれ、今でも忘れることが出来ないでいる。
 留萌港の波止場には、休業中の幾艘もの漁船がつながれ、荒波に絶えず揺さぶられていた。遠くに見える水平線はぼんやりと霞み、空には痩せ細った流れ雲が漂い、時より視界を海鳥たちの翼がよぎっていった。哀愁帯びたウミネコの鳴き声が、この港には似合い過ぎていた。
 港町保育園での一日が終わると、再び送迎バスに揺られ、福寿荘に戻った。バスから見る昼下がりの海岸線は日暮れ前の侘しさが漂っており、いつまでもただ黙って遥かに遠い水平線を見ていたい、そんな気持ちにさせた。しかし福寿荘の前でバスから降りると留萌港の風景も、木造安アパートの色褪せた日常の中に埋没し、嫌でも現実の暮らしへと引き戻されてしまうのだった。
「だれっ」
 呼び鈴などない福寿荘の部屋のドアを叩くと、幾等なんでももういい加減目覚めた幸子が、不機嫌そうな色気など微塵もない声で反応した。
「ぼくっ」
 自分の声に安心した幸子は、古びたドアを面倒臭そうに開けた。
 幸子の準備が整ったら、今度は泪橋へと向かう。職業柄幸子のシフトは、二日働いて一日の休み。けれど非番の日でさえ幸子は、泪橋へと出掛けた。なぜかと言うと自分をお峰に預ける為だ。そうしておいて幸子は、ちゃっかり男とデートしていた。お峰もお人好しではない。
 あんた、ちゃっと舐めてんちゃう。などと苦言のひとつも零したいところだけれど、相手は店一番の稼ぎ頭。それにほったらかしにされる子どもが不憫でならなかった。
「ま、しゃないな」
 その一言でお峰はいつも、幸子の背中を見送るのみだった。
 お峰に預けられている間、やっていることと言えば、お峰が作った晩御飯を食べることと、TVを見ること位だった。しかし土曜日の夜のあしたのジョーを除いて、見たいと思う番組は他になかった。そんな時はいつも港のことばかりを頭に浮かべていた。
 錆び付いた漁船が並ぶ、侘しい波止場。塩辛い波の飛沫、ウミネコの鳴き声、際限なく打ち寄せる波また波と潮のざわめき、ぼんやりと霞んだまんまの水平線……。そしてつい港の景色へと、話し掛けずにはいられなかった。保育園のバスの中から、ガラス窓越しにそうしたように。
「遠くへ行きたい、ジョーみたいに……」
 ならば、こっちへおいで。そんなふうに港が自分を誘っているような気がしてならなかった。そう言えばまだ一度として、夜の港を見たことはなかった。
 夜の港に行ってみたい。そう思い始めてから、ある晩のこと。お峰が事務室から出ていった隙に、自分は思い切ってこっそりと店を抜け出した。
 それは十二月初めの土曜日の夜、あしたのジョーが終わったばかりの時刻だった。どきどき、どきどき緊張する心臓の鼓動を抑えながら外へ出ると、泪橋を始めとする風俗店の看板の、ネオンの文字がそれは色鮮やかに瞬いていた。しかしそれにも増して寒かった。ふーっと吐く息が白く、それはまっ直ぐに上昇し、凍えた大気の中へと吸い込まれていった。目映いネオンの通りを背中丸めひとりぼっちで歩く男たちに紛れながら、さっさと逃げるように留萌港へと急いだ。
 花街の外れに差し掛かった所で、足元に何かが絡み付いて来た。
「うわーっ」
 吃驚しながら立ち止まり下を見ると、そこには一匹の猫がいた。野良猫なのかどうかすら分からない。風俗嬢の中に、親身に世話する者もいたからだ。猫は自分の顔をじっと黙って見上げていた。
「おいで、一緒に行こう」
 港へと誘ったけれど、猫はじっとしていて付いて来そうになかった。諦めてひとりで歩き出した。
 夜の花街を抜けると、道は急に薄暗くなった。目も眩むようなネオンライトの炎が遠ざかってしまったから。道に迷いはしないか不安を覚えながら、ひたすら港を目指して歩き続けた。少しでも港に近付いたならば、波の音と塩辛さとで分かる筈だと。やがてそれら港の気配がして来て、遂に無事、港へと辿り着いた。
 しかし留萌港に着いても、良いことは何もなかった。夜の港に人影はなく、海はまっ暗で、空は灰色に曇り水平線との区別すらなかった。そして何よりも寒かった。吹き荒れる潮風が氷のナイフのように突き刺さり、体も歯もガタガタと震えた。このままでは冗談でなく凍え死んでしまう。震えながらなんとか暗い海を見詰めていると、空から何かが落ちて来た。
 白い。掌につかまえると、しゅっと融けた。それは、雪だった。
 もう帰りたい。暖かい場所へ、泪橋のお峰の所へ。凍死への恐怖が引き返す決心をさせるのに、五分とかからなかった。駆け足で息を切らし猛スピードで花街に戻り、泪橋に帰り着いた。
「あらま。何してたん、保雄ちゃん」
 事務室に入ると、自分を見るなりお峰は吃驚。しかし何事もなかったように自分を迎え入れ、ソファに座らせた。後は幸子が迎えに来るまでいつものようにTVを見、眠くなったらソファで寝た。

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