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#02 交通手段のあれこれ

基本的に死を予感させる、というか死ぬ可能性が高まることは苦手なので避ける。
とはいえ生活のインフラとか必須行動において、そうは言っていられない。
そして死へのイメージを抜きにしても、全ての移動手段にそれなりのストレスがある。

先月くらいまで、大概の移動は電車を使っていた。生命を脅かすリスクとしては低いように思えて(慣れかもしれない)安心感があった。しかし、最近は物騒な事件も増え、感染リスクも無視できるものではなく、その定説も覆されようとしている。加えてある程度自身のテリトリーが確保できないと辛いので、満員電車もかなりしんどい。ましてや全然止まらない特急なんて‥。とストレス源としての要素が揃ってしまっている。
現在教えている大学が自宅から遠く、それらのリスクを詰め込んだ「J R中央線」を使用しなければならない、ということもあり精神的なリスクが大きい。実際に帰宅後に何もできないほどの疲労感があるので、身体に合っていないのだろう。

だから仕事での移動を主として車を購入した。来年からはもう少し遠出の稼働が増えそうなことと、業務外のストレス軽減を目的としている。実際に前の職場で大学の常勤教員だった頃、業務で精神的なストレスも多く、移動でもとなると限界を越えそうだったのでカーシェアリングを多用していた。実際にとんでもない額を使用していたと思う。

一見、車は死のリスクが高いように思えるが、同じ移動手段でも誰かに命を預ける選択肢よりはマシという判断である。テリトリーは確実に確保できるし、歌も歌える。ラジオも聞ける。疲れた時に一休みできるなど、そのリスクへのストレスを軽減できるくらいの快適さがある。そして自分で運転していること。これがとても重要。死への道筋をしっかりと確かめたいのだ。

その死への道筋は、移動中の睡眠を阻害する。例え16時間半越えという長時間のフライトや、仕事終わりで疲労困憊な状態のまま新幹線に乗り込み車内販売のビールを流し込んでも、眠ることができないのだ。
起きたら死への10秒前だったとして、覚悟は決まるだろうか。死を納得できるだろうか。遺品は誰に、どのように処分して欲しいか。少ない貯金の行き場をどこにしようか‥。などなど、巡る思考で頭がいっぱいになってしまう。
そんなことをチクチクやっているから、気絶するほどの疲労感がない限り移動中の睡眠が叶わない。

そういう意味でも自身で車を運転するのは合っていて、今のところの最適解な気がする。購入後はフットワークがだいぶ軽くなって嬉しい。



仕事に置き換えて考える。
個展は目的も運転も自分でする、ドライバーの感覚。
企画展やグループ展はそのキュレーターの助手席に乗っている感覚。
そう、この後者の方が僕はとても苦手だった。
わざわざ展示台を特注で設計したり、破損などを気にかけたり、理解してもらえるか不安だから無闇に在廊したりとか、誰かに完全に委ねることができなかった。それはそれで良いことももちろんあるが、実際は多分作品という生命を誰かに委ね切ることができなかったのだと思う。

なぜ過去形かというと、そうではない機会をいくつかこなしているうちに、その偏屈さがほぐれてきたような感覚があるからだ。
作品そのものが空間にとって、同乗者やパートナーとして良いものとなるとか、見る人にとって、見ることへの快適性を生む起点となるとか。そのためにキュレーションと作品のマッチングを高めるための装飾、脚色を受け入れるとか。
書いてくと当たり前すぎて恥ずかしいくらいのことを、理解はしていたけど精神的に受容できていなかった。その辺りに自分の偏屈さが垣間見える。
こちらがきちんと説明を求めて、アンサーをしてくれる相手であればそれは容易いことだ。もちろん、してくれない人もいるけどね。
コミュニケーションの努力であったり、そもそも助手席に座って同じ目的地に進むためのマナーがわかっていなかったんだと自省する。

でも個展(運転者でいること)の方が気質に合ってることも否定しない。
これから先に起こる経験のために、その感覚を言語化しておくことで、もっと深い相互理解が生まれる気がしている。

20231024

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