またひとつ時が通り過ぎていく

私たちは、直面している問題の一部である
私たちは、解決に貢献する大きな力をもっている
私たちは、人生の途中で多くを学ぶことができ、それによって個として成長する

ステファン・アインホルン「やさしさという技術」


自宅療養85日目。3:20起床。世間話の入口が天気の話になりがちなように、起きてまず気にするのは天気だ。まだ暗がりなのでわからないが、窓を開けると中途半端にぬるい風を感じる。おそらく今日も灼熱だろう。今日は家から出ない日なので心配は無い。エアコンはもう一週間つけっぱなしだ。

昨日に続き、選挙の結果に関した動画を見る。新しい感想があればそれも咀嚼したいと思ってメモしたりする。何の意味があるのだろうと思えど、それをやめられない。バカでかい人間の欲望、歓喜、絶望、見せ物、罵詈雑言、他人事、自分勝手な意見、いや当事者だろ、若者はサイコパスに投票したことをどう思うのだ?等々。万華鏡の中に放り込まれた様々な色のついた紙切れが重なり合い離れる。その時に見えるキラキラした瞬間。聖も俗も一緒くたになって現実世界は成り立っている。小さな穴越しに覗き見る感覚に似ているだろうか。

昼にパスタを茹でる。冷蔵庫には賞味期限間近の豆腐がいる。合わない事はわかっているが、捨てるよりはな、、、とネギと茗荷を刻む。鰹節をふって胡麻を散らして。薬味を食べるための豆腐は、ドレッシングを味わいたいがための生野菜サラダと同じ。で、見事に合わない。ポモドーロ、トマトの酸味とニンニクの香りが豊かで真っ直ぐに食欲を刺激するのに、薬味どっさりの醤油がかかった豆腐が鬼怒川温泉の廃ホテルみたいな存在感で鎮座している。赤いトマトソースの上に散らされたパセリの軽やかさから一番遠い、安藤忠雄の建築みたいな四角い300gの塊。でも美味しくいただく。

リハビリもきちんと。ふくらはぎはヒラメみたいに元通りに近づいている。まだ左足だけでのつま先立ちができない。これができないとスムーズな歩行は無理だ。とにかく少しづつ負荷をかけて、耐えさせる。体を傾けて体重をかける調整をするより、お尻の位置を変えた方がやりやすいよ!という言葉を唐突に思い出す。リハビリの先生から教えてもらった事はたくさんあるはずで、聞いているその時は納得してスマートに脳に格納してるのに、ファイルがあること自体を忘れてしまう。短期記憶が所定の位置に格納されず、風に吹き上げられているコンビニ袋みたいに、軌道も行く先も曖昧なまま漂っているみたい。

今日もただ流れていっただけになってしまった。毎日の毎時間、毎分に、自分から点を打っていかないと物事が始まらないのだがわかってるの君は?と別視点の自分が言う。そんなのわかりすぎるくらいわかってる。でも体が動かないんだよね。のっそり立ち上がりトイレに行き、ゆっくり起き上がり冷蔵庫に炭酸水を取りに行き、あぁ体が重い。心に石油みたいな油がこびりついていてそれが重力を2割増しにしてるみたいなんだよね。何かするぞ!という目的と体調がシンクロしないと歩くことすら難しいみたいな。リハビリと料理は軽やかにできるのだけど、、、。それ鬱入ってね?と言われるが、そこまでじゃない気がするんだよな。鬱ならもっと長時間、横になって何もできないよ。じっとマイナスの考えに耐えてるうちに8時間とか経ってるのよ。少なくとも自分は動画観てきゃっきゃと喜んでるじゃん。じゃあ擬態鬱か?ならその原因探ってみ、わかった時点で解決じゃん。

まあそんな感じで一日が終わる。寝る前にアシッドマンを聴いてチョコレートを一箱食べる。【誰もが涙を隠している】ならその涙が寝てる間に流れる総量で悪の巣窟とか洗い流せないだろうか。



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