ストロングゼロ

アディクションとは、本人(行為の主体)にとっては問題解決行動の一つなのである。苦しみや痛み、不安などを感じなくできれば、そのあいだだけなんとか息をつき生き延びることができる。医療の枠組みからは「自己治療」と呼ぶこともある。しかし他者(家族・友人)にとってそれは迷惑であり、苦しみを与えられる。このようにアディクションにおいては、行動の主体の認識と、影響を受ける他者の認識とのあいだには大きな落差とずれが生じるのである。

信田さよ子「カウンセラーは何を見ているか」


自宅療養89日目。7:45起床。昨日の晩御飯を16時過ぎに食べたおかげか朝はスッキリ。人体の不思議さと論理的な思考。わかっているのにそれができない感じ。ニュートラルと感情優先の弊害。しっかり、くっきりと日時をコントロールすること。難しいしやるつもりもないけど、体は正直だと知る朝。

ウエルベック『滅ぼす』を読み始める。大好きな作家だ。過去の作品は評論以外は読んでいる。中年の行き詰まり、明け透けな性、差別と諦念、少しのファンタジーが混然一体となって迫りくる作風に魅了され続けている。今作も思いっきりダウナーな書き出しで期待値は上がる。

十一月末か十二月初めの月曜日ともなると、独り身ならとりわけ、自分が死への通路にいるような気がしてくる。夏のバカンスなどとうに忘れたし、新年はまだ先。いつになく虚無が身近に感じられる。

午前中の自由な時間の流れの中で掃除。毎日毎日、よくこんなにチリや埃が積もるものだと疑問に思うが、勝手に無くなるわけではなく。プラスティックのちりとりだと埃が電子で吸着してしまう。昔の道具って優れてたんだと再確認。ノスタルジーやレトロ礼賛的な感覚は自分には無いが、ブリキのちりとりを買った方がいいかなと思う。

午後、食料の買い出しへ。結局酒を買ってしまう。一人で時間を持て余すと、その時間は2倍にも3倍にもなる。目的や目標があれば別なんだろうけど、いまの自分はリハビリのことしか考えられない。結果、それ以外の時間は退屈の埃が堆積していくだけだ。

この日記を書き始めて思ったことは、『ママー!これ面白いねー!』を言いたいだけだということ。母親が自分を捨てて家を出たのは自分が一歳の頃だったらしい。1番甘えたい時期に母親がおらず、祖母からはお前たちは捨てられてかわいそうだねと言われて育ったから、そのないものねだりをしているだけだ。本来なら幼い時期に報告してリアクションを得られたことを、いまの歳になっても完遂できてない。この世界の不思議と発見と体験を全力でアピールして、それを笑顔で受け止めてもらうこと。そんな当たり前ができない副作用。フロイト先生がほくそ笑んでいるようだ。

間違えてストロングゼロ9%を買ってしまった。この甘ったるい飲み物は現在のドラッグみたいなもんか。金原ひとみの小説にも、同じタイトルの小説があったな。絶望から始まる小説は普段は見えないけど、そこかしこにあるちょっとヤバくない?のメッセージだったりして。

いい感じに酔ってくると音楽に浸りたくなる。今日は桑田佳祐だ。膨大な過去作を横断して、なぜこんな歌詞が書けるのかとか、最高のメロディだよなとか、動画サイトで見る過去の映像に懐かしいな、あの時代は息吹だったなとか、記憶の扉が大解放する。それにしても窓際にぶら下がっている3つのポトスと1つのブラジル、その佇まいが完璧すぎて美しい。ブラジルとポトスの間からAUとヨドバシカメラのロゴが見える。グリーンのライン、横浜線が平行に視界を横切る。これは現実。ストロングゼロは様々を好意的に感じさせる。カプセルやタブレットを口に放り込まなくとも。にしても桑田佳祐の豊富な音楽的バリエーションは素晴らしい。BANg BANg BANgと空砲を打つが、相手の姿が見えないのは墓場にいるからだろうか。ストロングゼロ恐ろしや。




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