固さ、でないと無理

記憶の光景は小さな結晶した核のようなものをかたちづくる。それを後から実地の検証などで修正しないほうがいい。"現在"の粗放な手で、微妙な過去の秘密に触れてはならない。手つかずの過去がおのずから蘇るに任せなければならない。

鈴村和成「ヴェネツィアでプルーストを読む」


自宅療養101日目。3:30起床。相変わらず睡眠の質も時間もバラバラで心もとない。寝具が悪いせいもあるだろう。きちんとしたマットレスと枕ならまた違うのかもしれない。変わり者なのは十分わかっているが、自分の場合は元々、固い床に寝たいという思いがある。前のパートナーと暮らしている時はヨガマットに寝ていた。寝て一畳起きて半畳。そんな高尚な考えからではなく、ただ単に柔らかいのが苦手だからだ。

30代の頃はよく出張に行っていたが、ビジネスホテルのベッドが柔らかいとガッカリしていた。眠れないことは無いのだが、何となく落ち着かず、右左と体制を変え、寝入るまで少し時間がかかる。普段ならサッと5分で寝てしまうのに。

今は100均で売っている厚さ1cmの連結できるマットの上に、厚み5cmマットレスを乗せて使っている。これがヘタってきたので捨てようかどうか迷っている。1cmの上に直接寝ればいい。さすがにフローリング直は痛いのと汚いので無理だが。

初めて同棲した年上の彼女は無印のマットレスを買った。確かダブルサイズだったと思う。分厚くてスプリングで地上20cmの楽園で20代の前半と後半のカップルが睦み合う。まあよくある話だ。その時はもちろんベッドで寝ていたが、歳をとるごとに、だんだんと床に接近していく。1人だったりつがいだったり。その歳によって環境は様々だったが、仕事と愛欲が、ない混ぜ等価で若者のナチュラルな馬力で進んでいる頃は一緒のベッドで時世がめちゃくちゃだな。

幼い頃の貧乏暮らし、煎餅布団、押入れが寝床。この記憶が残ってるんだろうね。だから柔らかさではなく固さを記憶が求めていて、肉体が主導権を握るトピックだから今もそのまんまなのだろうか。

かなりいびつだな自分、と思うが、残念ながらまだ生きている。つまりは人間性と野性のミックスが遠吠えしながら現実をサバイブしているだけだ。理性にアクセスしながら野性の目覚めを待つような。別に意味はない。耳元で宇多田のオートマが鳴っているだけだ。



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