刹那的に生きる

ただ、おれの思いこみかもしれないけど、ああいうフォークロアな音楽っていうのは、しかるべき隘路をたどった人の心に棲みつくんであって、年がら年じゅう全国でかかってるとさ、その道に行きつく前に耳に抗体ができて心が受けつけなくなる気がするんだよね。

三品輝起「雑貨の終わり」


自宅療養88日目。3:30起床。夜にカツ丼とうどんを食べたせいか、全体的にもっさりしている。カッと眼を開き、ズサっと頭を上げて、すっくと立つ。トータルでシャキーン!みたいな目覚めがベストだがそうはいかない。

パスタを茹でる。朝から重いけどこれしか用意できないからやむを得ず。やはり冷蔵庫は買い替えるべきか。これまでホテル用の小さなものでやりくりしてきたが、ストックするスペースが無いのでまめに買い物に行かなければならず不便だ。飾りの冷凍庫はまともに機能してないから邪魔なだけだし。丁寧な暮らしにはある程度の手作り感が必要で、その筆頭は料理だ。ならば思う存分それを目指すためにも冷蔵庫は最優先ではないか。もう一度ミニマリストたちの食事情をチェックし直そう。

引き続き、舞城王太郎『短篇七芒星』を読む。残りは4篇。どの短篇も面白くて引き込まれる。現実ではありえない物語ばかりだが、チャーミングな会話や人物たちは、その設定の中では有効でバチっとハマっている。物語の中の現実味にリアリティがある。舞城王太郎の小説は、ずっと飽きないし古びない。同い年なので彼も50を過ぎているが、この瑞々しさはどうだ。

ふと引っ越しの計画を立ててみる。仕事を抜きにして、どこに住んでどう遊びたいか、それだけを考えて。ひとまず近場で検索する。前から住んでみたい街が横浜の関内エリア。遊びでは何度も訪れているが、住んだら楽しそうだ。物件をバシバシお気に入りに入れていく。

お洒落な湾岸エリアと裏の猥雑なエリア。線路で真っ二つに割れているが、棲み分けはなく自由に行き来できる。もちろん猥雑なエリアに居を構えたい。雑多、雑踏、雑貨、雑誌、雑味、雑草。雑がつく言葉が好きで、そこに人間味を感じる。一筋縄ではいかない、はみ出した感覚。常に異物が混入して構成されている小さな集合感覚。やはり自分は理路整然とかマジョリティを代表するものが好きではないんだな。

自分にとっては贅沢な金額で見積もってみる。家賃は12万あれば満足できる部屋がある。徒歩30分まで伸ばして近隣の駅も含めて検索すればさらに下がる。8万でも全然可能だ。食費も多めに計算して、外食含めて7万とする。固定費を2万として、税金関係を6万としてみる。とすれば手取り30万で住めてしまう。もちろん他に出ていくお金はあるが、住む、食うを優先すればこれで余裕に賄えるということだ。途端に現実味を帯びてくる。

いま住んでいる町田も住みやすいし何の不便も無いのだが、前職の仕事関係で引っ越してきたことが引っかかっている。真面目に考えてみようか。もう一度くらい刹那的に生きてもいいような気がするのは、普段から心の叫びを押し殺してるからだろうか。

自分が変われば世界が変わる、なんてよく聞くが、その逆もしかり。環境の変化が自分を変えていく。そこに差し込まれる、変わらない豊かさを。変化を高速で繰り返す様はラットの回すハムスターホイール。そこに杭を打ち込んだら「∅」になる。集合を構成する要素がないempty set。結局コアだけが残るということか。



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