絶え間ない焦燥に

自宅療養54日目。4:50起床。今朝も足の調子がいい。起きがけにマッサージなどせずにトイレに立ったが、痛みは想像の範疇だった。調子がいいと外に出たくなる。ただ外に出ると何か余計なものを買ってしまうだろう。お茶の一杯も飲みたくなるし。なので今日は我慢して室内で過ごす。

野菜の値段も多少下がってきたので、本当ならスーパーに行きたいところ。麺類と肉でごまかしているが、優しい味のポトフとか作りたい。調味料系も切れている。もう2.3日経てばさらに歩きやすくなってると思うので、その時はスーパーをハシゴしていろいろと揃えたい。ケアにも様々あるが、きちんと料理をする、それを味わうことはセルフケアの基本だ。ただ生きるために食べる、のひとつ上。

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若い頃は自分が変わる可能性を信じられるから、たくさんの刺激を求める。
年を経て、刺激が充満し、どこで何をしても自分が自分でしかいられないことがわかると、繰り返しに親しめるようになるのかも。

佐々木典士さんのTwitterより。佐々木さんの『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』を読んで人生が変わったと言っても大げさではなく、勝手に感謝している。

『どこで何をしても自分が自分でしかいられないことがわかる』これほど残酷な言葉があるだろうか。自分を好きではない、自分の感性が信じられない、自分に退屈してしまう。こんなネガティブな考えを持っている人には辛いメッセージ。自分にもまだ少しは残っている。

自分を受け入れることは諦めだろうか。それとも納得のいく融合か。自分はまだ答えが出ていない。ここでいい、これでいい、このまま続けばいい。それに反していたいという気持ちがある。

だが『繰り返しに親しめる』という感覚は歳を重ねるにつれ強くなっている。それは『何もない一日だったけど、何となくの休日も悪くない。』という感覚に近い。

以前はもっと『何もなさ』を憎んでいたと思う。それがだんだん薄れてきた。薄めて薄めて、気にならなくなって、刺激の無さに慣れていく。

若いこと
経験を積んで歳を重ねること
刺激を求めること
繰り返しに親しむこと

結局のところ加齢によるソフトランディングかと思うが、この『繰り返し』の内容をいかにクリエイティブに過ごすかということなのかな。意識して想起しないと時間だけ流れてしまう。『加齢と抵抗』についてはもっと頻繁に考えていきたい。

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本ばかり読んでいるのに、いざ書こうとすると言葉が出てこない。やはり部屋にずっといて刺激が無いからだろうか。リハビリをしていて思うのは、動かす=刺激を与えることがとても大切だということ。やはり毎日外に出るべきか。日をダイレクトに浴びたり、どちらを買おうか迷ったり、道ゆく人々のカラフルな衣装にときめいたりすること。

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足の痛みが和らいでくると、できなかったことができるようになっても感動が薄れてくる。すぐに慣れてしまう。椅子無しで入浴できることも、もっと感極まるほどの喜びがあってもいいのにそうではなかった。人は忘れる。それが生き延びる為に大切なことだとしても、少し悲しい。

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何か今日はダメな日だな。全くまとまらない。心が枯れていることが理由だとして、水に値するものは何だろう。うーん。


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