波がくる、恩寵が差す、まれびとと出逢う。

自宅療養52日目。4:30起床。足の痛みもだいぶ落ち着いてきた。まだ怪我した左足一本で立つことは難しいが、一瞬ならいけた。ズボンの脱ぎ履きが立ったままできるのは嬉しい。とはいえ油断すると痛みが戻りそうで怖い。風邪などと違い物理的に骨が2つに折れたのだ。もう融合しているから心配の必要はない。それでも、いったん折れたものが元と同じ強度で復元した、ということが信じられないのだ。単なる不安症かも知れない。

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自分を救えるのは自分だけ、というのは、半分正しくて半分正しくない。

自分を救う決心は、自分にしかできない。病んだままを選ぶ自由も人にはある。両方ある中で、自分を救うという決心だけは、自分にしかできない。

そしてなんとしても自分で自分を救おうと決めたあと、自分でできることは、案外ない。大切なのは、自分にできることをしながら、待つこと。待てるということ。波が来るのを、恩寵が差すのを、あるいはまれびとと出逢うのを。それは外からしか、やってこない。

赤坂真理「安全に狂う方法」を読む。待ち望んでいた新刊。依存性について、自身の経験をもとに、かなり大胆な告白と緻密な表現方法で迫る。

足の骨折でもう3ヶ月近く、全てが停止している。初期の不安は相当なものだったが、時間が経つごとに『待つ』ことしか選択肢がない事がわかってくる。どう足掻いても治癒までの期間を短縮することはできない。自分にできることをしてただ待つ。たった一つの選択肢しかないということは、不安を覚えることの無意味さを教えてくれる。

波がくる
恩寵が差す
まれびとと出逢う

何か霊的な書きぶりだが、『救い』である。どん底からの救出、それは苦難に溺れている自分をレスキューすることだ。神でも出さなきゃ釣り合わない。そう思うと不思議な気持ちになる。無神論者の自分でも、神が何か特別なシンクロを起こして、自分に救いの手が差し伸べられるのかもしれないと思えてくる。

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また3日間風呂に入っていない。洗濯物が減るとか外に出ないからOKじゃない?とかそういう問題ではない。その分蔑ろにされているのだ、自分は。怠けはネグレクトである。この言葉をいつもすぐに取り出せるよう準備しなければならない。

自分は、

清潔なシーツで寝るべき存在である
きれいな台所で料理をするべき存在である
磨かれた床に光が反射して心地よく在るべき存在である
青々と繁った植物に癒されるべき存在である

そんな状況を用意するのもまた自分だ。自分を救うための一歩として、待つことの補完として、恩寵を受け取る準備として、快適に過ごせるよう自分が自分のケアをすること。

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「季節のない街」最終話を観た。素晴らしい作品だった。悲劇と喜劇が混じり合った人間讃歌。喜びも悲しみも、苦楽も、無理解も、連帯も、閉鎖的な心が解放していく様も、猜疑心も、うしろ指も、隣人愛も、全てが等しく描かれていた。もちろん怒りも。各エピソードに出てくる人たちを愛おしく思う。

立ち退きを迫られてもう後がなくなったとき池松壮亮は言う。

大人しく出ていくか、やかましく出ていくかだ!!

結局、火事が起こり、ショベルカーが誤運転され、めちゃくちゃになって殴り合いのドタバタになる。やかましく出ていくことになったワンシーンで一瞬、池松壮亮が思いっきりドロップキックを炸裂させていた。このマジなキックが住民たちの怒りに見えて快哉を叫んだ。

どうにもならない事の狭間で人間は、とても愚かでかつ愛おしい。人の数だけ物語があり、乱降下しながら、墜落したり軟着陸したりする。かすり傷も重症も何でもありだ。神の物語に退屈という言葉は無さそうだ。



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