余計な装飾

自宅療養42日目。8:07起床。寝ぐるしい季節になってきた。夜中に何度も目が覚めて悪夢の一時停止をする。また夢の続きを見る。そしてまた起きる。その繰り返し。夢に出てくる名前も知らない誰か。この人たちは現実に存在するのだろうか。それとも自分が作り上げた新しい人間なのか。『怠けはネグレクト。ニュートラルポジションに戻せ。』この言葉を胸に快晴の一日を始めよう。

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窓を開ける。玄関のドアも開く。室内に風の通り道を作って滞留している空気を入れ替える。洗濯機を回す。枕カバーとシーツを洗う。まだ正式にしゃがむことができない。片膝をついて何とか剥がす。今日こそは洗いたいの一心で。ゴミとペットボトルを玄関先に出す。後で下まで持っていく。3か月ぶりにクイックルワイパーも。スピーカーを起動させ音楽を流す。フランス語が音符になって窓際から玄関に流れていく。軽やかさ。基本的な事を面倒がらずに、自分の心地よさのために。ニュートラルポジション。

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今日は買い出し。いつものドラッグストアでサクッと済ませるか、それともスーパーデビューするか迷うところ。さっきクイックルワイパーを使ったとき、思いのほか腰が痛んだ。やはり全身の筋肉が衰えている。回復に向かっている嬉しさが、治癒の状況、その見積もりを甘くしている。広いスーパーを回遊できるだけの体力はあるのか。まだ時間はある。考えろ。

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神々のおかげでわたしは現実の人生を生きられた。と畜場や工場での仕事を終えて部屋に戻り、不本意な詩を書くのは、わたしにとっては困難極まることだった。しかも不本意な詩を書く者は山ほどいる。わたしも今でもたまにはそんな詩を書いてしまう。厳しい人生を生きているからこそ厳しい一行が生み出されるのであり、厳しい一行、すなわち真実の一行は余計な装飾などを、まったく必要とはしないのだ。

『英雄なんかどこにもいない』(チャールズ・ブコウスキー)を読む。20代の頃の我がヒーロー。開けっぴろげで、露骨にエロで、叫びたりの老詩人。そのタブーの無さから繰り出される膨大な言葉の数々にときおり顔を出す真実。キワモノのカッコ良さ。

いろいろ付け足して飾り立てているが、人生においても真実はシンプルで、余計なものは必要ない。厳しくも、心の底から湧き上がる叫びのような一刀がいとも簡単に嘘っぱちを切りつける。それは他人にだけではなく自分をも切りつけてくる。何度も切られても不本意な詩をかかずにはいられない。神々のメッセージは辛辣だ。

ブコウスキーの書くものを読んでいると、苦悩の果てに搾り出される言葉に感動する。それが例え『もうあんたのモノをしゃぶるのは飽きたよ』という一行でも、そこには真実があり、ただ手慰みで書いているのではないことがわかる。諦念と呪詛と本能。赤ワインと嘔吐。だからこそ見えてくる世界。汚くて美しい世界。

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ドラマ『滅相もない』第7話を観る。今回は中嶋朋子の回。自分と同じ年齢の好きな役者さん。ずいぶん歳をとったなと画面を見ながら思う。しかしそれは自分へのメッセージ。人が歳をとる姿を見て、経った年月の長さを思い、自分の加齢を実感する。

相変わらず不思議なエピソードで、これがラストへとどうつながっていくのか全く予想できない。そのまま尻すぼみで着地する可能性もあるが、それもいいかなと思える。少し不思議な日常が展開しているが、ギリギリありえそうな設定にリアリティを感じる。

世界中にあるたくさんの日常。それは人の数だけ存在する。側から見てインパクトのないありふれた日でも、誰かにとっては一生を左右する劇的な日かもしれない。このドラマがどこを目指しているのか考えも及ばないが、そんな誰かの、無数の日常に想いを馳せるきっかけにはなっている。

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水拭きした床が光を反射する。これがあるべき姿。枕カバーもきれいになったので、枕にアロマを数滴染み込ませてみる。カバーをかけて顔を埋めると、ほのかにいい香りがする。室内を整えることは自分の五感がいつでも発揮できるよう準備することだ。

退院してから煙草も紙巻きにしていた。吸った感じが色濃く出るのと、入院中は全く吸えず、その分を巻き返そうと思っていたから。しかしそんなことにこだわり、あっという間に習慣化していたのだ。

習慣の力は恐ろしい。意識しないと気づかない。午前中に空気の入れ替えをした時に、煙草の臭いが気になったのだ。すぐに電子煙草に切り替える。気づいたらすぐ動く。整った室内にそぐわないモノは退場していただき、本質に目を向けよう。今日だけでなく、明日も同じように。



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