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君を象った恋

タイトル未定『栞』に寄せて

 今、この歌の主人公である私は、君に恋をしているのだと思う。そしてそれは本当の恋だと確信している。恋人ではないと歌いつつ、特別で仕方ないもの。それを恋と名づけるべきなのか、わからずにいるけれども。

 そして、「君を象った」恋とは、君との恋ではない。
 それは君との恋ではなくて、君の似像との恋なのか、あるいは君との恋の似像であるのか。
 それはわからないけれど、いずれにしても君との恋、今している本当の恋ではない。

 そのはずなのに。「いつか」、今ではなくいつか。「君を象った恋」が本当の恋としてあらわれることを私は知っている。または予感している。

 それが本当の恋だとすれば、今の恋は本当の恋ではないのだろうか。そんなことはないと確信しつつ、そんな予感があふれているのも確かなのだ。

 どちらが本当の恋なのか。それがここで明かされることはない。しかし、確かなのはそのような予感があること。

 そしてもう一つ確かなのは、そのいつか訪れる恋は、今、君との恋があるから訪れるものであること。
 それは君との恋、今の本当の恋(そう思い込んでいるだけかも知れないけれども)ではないけれども、でも、そのいつか訪れる恋が本当の恋だと気づけるのは、それが君を象った恋だから。
 君と出会うことがなければ、そのとき、それを本当の恋だと気づくことはなかったのだろう、そう知るためにある、今の君との恋。

 そのとき、自分が栞を持っていたことに気づくのだろう。
 忘れたことさえも忘れてしまうように、持っていたことに気づかなくとも、そのとき、これまでもらっていた光を栞として、片時も離れることなく持っていたのだと。栞を、そして、君の面影を。

 それにしても君を象った恋とはなんだろう。

 どんな恋も、何かの真似事ではないはずだ。たしかに人によって、結果として同じようなことは起こるだろう。けれど真似事とわかりながらする恋などあるものだろうか。(実際にはあることは知っているけれども。)

 しかし、ここで一度、現実の恋を離れてみてはどうだろう。
 上で「象る」に対して「似像」という言葉を使ったけれど、これは「神の似像」のように使われてきた言葉でもある。つまり、神のように人間には通例把握できないものについて、いったん認識するためには人間が把握できる姿(似像)をもってしようというようなことだ。
 また、プラトンのイデアにあるように、そのものの本質である理想的な姿は触れられるところにはなく、現実に見られるのはその似像であるとする考え方もある。

 似像は神そのものではもちろんないが、そこに積極的な意味を見出す立場もあるし、それは神自体をむしろ遠ざけるものとして、偶像崇拝を戒める立場もある。

 そのように「君を象った恋」とは、通例人間の感覚では把握できないほどの、いわば神の領域にあるような恋、イデアとしての理想的な恋が原型としてあるとしてみてはどうだろう。
 現実には得難いと思いつつも、ひたすらにそれに憧れてしまうような恋。そのような恋の存在を信じられるというのは理想に傾きすぎているだろうか。

 そしてまた、似像を表す言葉のひとつである「偶像」は、アイドルを表す言葉でもある。

 アイドルという、現実に実在しつつも、その本質であるもの(例えば「美」)は、実在するアイドルの姿を超えたところにあって、おそらくその端っこしか人間の感覚では把握できない。群盲象をなでるという言葉があるが、それぞれが見ているアイドルは、見ている人自身の受け止められる力に応じて、受け取っている姿であるのかもしれない。
 ましてやアイドルとの恋など、人智の及ぶところではない。(アイドルではなくなった人間とであれば、いくらでもできるけれども。)

 そのような恋があるとすれば、いつか、この現実界でする恋は「君を象った恋」として本当の恋と言えるかもしれない。

 「栞」は難解な曲だと思う。
 それは小難しい理屈をこねているというような難しさではなく、普段づかいの言葉を重ねながらどこかで安易な理解を峻拒するような難しさ。
 だが、詩とはそもそもそのようなものなのかもしれない。

 詩は、通例の人間には感知できないようなもの(例えば真とか美とか)を、言葉の力をもって開示するものでもあって。
 その表すものは、だから通常の論理などでははかり知れないものであったりする。

 詩が開示してくれるものは、通常の意味や論理の網では捉えられない魚のようなもので、それはおそらく誤読によってしかたどり着けないもの。
 そうした誤読を創造的誤読と言ったりすることもあるけれど、「誤読」は実はとても個性的なこと。誰でも同じように誤読することはできず、その人にしかできないことであって、さらに、その人が誤読することで、はじめてその詩が自らの姿を見せてくれる、そんなものでもある。
(日本語教室とかで、「正しい意味」を聞いたらふーんと思うけれど、果敢に創造的誤読に挑む人は素晴らしいな(本人にそのつもりはなくとも)といつも思います。)

 その詩や言葉が書かれたときには誰も気づかなかったこと、または忘れ去られたようなことが、幾世紀を経てはじめて「わかる」ことは歴史上もよくあること。
 人生は有限なのでそこまで時間はかけられないけれど、それぞれの人生のどこかで、あ、これって「栞」だ、と気づくことがもしあったなら、その経験はとても大切なことだと思うし、そういう風に自分だけの「栞」に出会えることができたなら、それを幸せと呼べるかはわからないけれど、大切な出会いであろうと思う。

 そのとき、はじめて、これまでもらった光に気づけるのかもしれないし、そのときが来るまでは理解という門を閉ざして待っていてくれている。

 「栞」とはそんな曲である気がする。

(歌詞は「型取る」となっていて、それはそれで意味があるけれど、ここでは「象る」の字を使っています。)

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