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お茶の上で(その1)

映画『街の上で』における再生

 令和3年4月9日に公開された今泉力哉監督の映画『街の上で』は、日常あるような光景が描かれ、大きな出来事が起きるわけではないと言われる。実際、そのとおりなのだが、ではなぜこの映画がこれだけ人を惹きつけるのか。それは私たちの日常の何気ない生活の中にも気づかぬうちに大きな出来事は生まれていて、この映画はそれをすくい上げているからではないか、と思う。そのことを、この映画の白眉である荒川青(若葉竜也)と城定イハ(中田青渚)のシーンから読み解いてみたい。
 以下はネタバレを含みますので、ご承知おきください。

1 イハの部屋

 映画の撮影に参加した後、飲み会に誘われるがままに(幾分かの期待を持って)ついていった青は、完全にアウェイのまま一次会を終え、二次会に向かおうとする皆に一応の挨拶をして帰ろうとする。一次会の途中に隣に座りにきて話しかけてくれた衣装スタッフ・イハから「ああいう場、苦手ですか?」と問われ、「完全にアウェイだから」と答えた青に、イハはまだ時間があるか尋ね、「ホーム」につきあってくれるよう誘う。
 このホームはアウェイの反対語ではなく、文字通りのイハの家(ホーム)であった。先ほどまでいた控室に、今度はイハの部屋のリビングとして訪れることとなる。
 控室は青にとって、期待と緊張の場であり、とまどいや邂逅の場であり、そして失望と落胆の場でもあった。しかし、それは昼の時間であって、夜には夜の魔法があること。同じ部屋で繰り広げられる故に、この夜の時間が特別なものであることが引き立つ劇的効果が生まれている。
(この映画では青とイハの長回しが注目されるが、実際には昼の控室も長回しである。青が入ってから鷲田とのやりとり、渡された衣装や着替えを意に介さない女優へのとまどい、そして間宮とのやりとりまでほぼ固定で回している。そういう意味でも、同一の条件でこれほど違う印象が生まれることには目を瞠らされる。)

2 青と広げる

 向かい合ってお茶を飲むとすぐに、イハは青に頼み事をする。一緒に布を持ってもらえないかと。
 布を持つことは台本にはなく、イハが青を招く理由があった方がいいと現場で思いついたアイデアとのことだが(イハを演じた中田青渚は「青を招くことに意味があると考えなくていいんだなと思った」と語っている)、それだけなら布である必要はない。けれど、この布を広げることがイハの部屋を特別な場所へと変える魔法だと言えるだろう。
 白い大きな布は映画のスクリーンも連想させるが、水平に広げられ、しかも「実際もお茶の上」に広がっている布は、地上にはない。その上に顔を出しているイハと青は、ここから天上の空間に移っている。『街の上で』の標題ともなったシャガールの絵のように。
「大丈夫そうですね」とイハが確認するとき(「女優ライト」を浴びたイハはとても美しく、それだけでも白い布を広げた意味はある)、二人はもと居たイハの部屋ではない天上への部屋への移行が完了している。そうすれば、この布はいらなくなる。雑にまるめて放り投げたのは演出されたものではなく、イハを演じる中田青渚がつけた芝居だそうだが、彼女の勘が活きている。
(関西弁は、普通にしゃべると恋愛に傾きすぎかねないので、イハの関西弁は一生懸命、雑に投げていたと中田は話しており、これらの「雑」には共通の意味があるのかも知れない。)

3 イハが言葉を造りだす

 青とイハの会話では、イハの関西弁が作りだすリズムと声音の心地よさが重要なことは言うまでもなかろう。今泉監督が書いた台詞をもとに、関西弁ネイティブの中田青渚が今どき女子の言葉に直したとのことであり、青との絶妙な距離感を保ちつつ転がしてゆくリズムの流れは中田青渚の言語感覚によるところが大きい。
 それに加えて、会話の流れを見てみると、イハが流れをつくって青がそれについていく構造が中心となっている。会話のなかで、イハが生み出したり拾い上げたりする言葉が、その後、青によって反復されることでこの場の会話は流れていく。

 恋バナの初っ端から「そういうことになったとき」の話をする青も青だが、雪に言われた「勉強してください」をイハが拾い上げ、「勉強したん?」と返すところでこの夜の会話の全体的トーンが決定され、後述する青のモノローグにつながってゆく。
 そして、イハの「彼女とか何人もおったことありそう」に反応して青は「そっちは?」と返し、イハの「聞きますよ、恋バナ」をそのままお返しすることでイハの恋バナがはじまる。
 関取とつきあっていたというイハに、青はとんでもない連想をしてイハにある質問をするのだが(中田青渚の「何ゆうてんねん」を引き出したのはGJ)、イハの「エロッッ」に対して「エロじゃないよ」と返し、イハが少し冷えた空気を感じて「なんで私がしょうもないことゆうたみたいに」に対して「しょうもなかった」と返していく。このように二人の会話が生みだす形のないものに、イハは的確に言葉を与えていく。
 イハの本領は、異性として意識しているとも受け取れる言葉に対する鋭敏な感性であり、はじめて会った女の人の家にあがることは初めて、という青に「そうなんや」と純粋に嬉しそうにニコニコしているイハだが、ここでも同じ質問を返してくる青が「城定さんは」と名字で呼んでくることに鋭く反応する。せっかく何でも話せる場が「なんか壊れた」とむくれると、青は「ごめん」と言いつつ「だってかわいいから(そんなことあるのかな)」と言った瞬間にイハは「はっ??」と詰問する(この反応の早さはとても好きだ)。女性にかわいいと言ってみたのに、逆に秒で詰められ、「ごめん、今のはわざと」と青は撤退するも、イハは「最悪」「完全に壊れた」「最悪や」と、この会話の場が途絶えたことを宣告する。
 しかし、こうして青に言葉を叩きつけつつ、ここでイハはもう一度、場を立ち上げることを諦めない。「お茶いるっ?」と立ち上がり、それにより場を変えてしまう。イハは喉が渇いていたわけではなく、持ってきたポットから自らのカップにはほんの少し、申し訳程度にお茶を注いだだけである。(青にはがっつり注いでいた。)
 そして、ここでイハは一つの発明を行う。「友達」。青との関係を「友達になってほしいかも」と一つの関係性の言葉を作り出し、青もそれを受け入れる。イハのいう「友達」は、映画では詳しく語られることはないが、世間的な友達とはおそらくかなり異なり、イハにとって重要な概念なのだろうと思う。そして「わたし友達おらんし」というとおり、イハの友達基準に合格できる人にはこれまで出会ったことはなかったのだろう。映画の終わり間際に、この「友達」は再出する。そこではイハの発した「友達」という言葉に冬子はむしろギョッとしたような驚きを示す。イハの「友達」の概念が冬子には伝わり、その特異さに驚いたのではないか。それは冬子が希求しつつも得られないものであるかも知れない。

 このように、城定イハ(その発する言葉を造ったのは脚本の今泉力哉監督と大橋裕之であり、演じたのは中田青渚である存在)は天才であって、対話のファンタジスタと言える。しかし、そこから出されたボールを受け取り、巧みにパスを返していく青の瞬発力も見事なもの。この二人の生み出す流れが相まって、この素晴らしい場面になっていると言える。

お茶の上で(その2)に続く。

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