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タイトル未定が響くところ

 タイトル未定前人未踏ツアー東京公演の日、『溺れる』の演奏時刻に渋谷では豪雨警報が出たと阿部葉菜さんが書いていた。そして、その歌詞にある「突然降り出した雨」とは思わず零れてしまった涙だと実は思っているとも。
 楽曲にせよ何にせよ、表層的な意味に止まらず多層的な意味合いを持つことは当たり前のことだけれど、その曲に一番親しいところにいる歌い手がその一端をのぞかせてくれたのはうれしい。

 そして、作り手がどこまで意図しているかはともかく(作り手の意図は契機ではあれど決定的なものでないことはままあること)、タイトル未定の楽曲は青春の群像を描いているようで、それはモチーフに過ぎないと感じることが多い。その先に宇宙の深奥にある秘密をささやいてくれているような。
 たとえば改札口(『綺麗事』)。ずっと工事中だと思っていた改札口が新しくなったことは曲のなかでも象徴であることが明示されていて、「(少女から)大人になったから」とされているが、それに止まるものではない。おそらく生きること自体に関わること、何か大切なことがそこにあらわれている(それは聴く個々人によってもそのときによっても違うのかも知れない)。
 これが、楽曲が持つ力なのか、演者の力なのか、それはにわかにわからないけれども。

 そして、表層にとどまらないのは、タイトル未定の歌たちがライブで演じられるときに起こる、こころへの響き方にも言える、そのように思う。

 私たちは普段、表層意識の網に絡めとられて生きているから、ものごとを五感で感じ(そのように思い込み)、表層の世界、具象の世界で生きている。潜在意識を「意識」することはもちろんあるが、それもほとんどは表層を一枚めくった、その地点に過ぎない。実は、深奥からの声に動かされているのだが、それを「意識」で捉えることは訓練されていないとできない。
 しかし、表層意識のしたにはことばにならないイマージュに満ちた領域(井筒俊彦のいう意識のM領域)があって、そこではイマージュが生まれ、表層意識に浮かび上がるなかで言葉となる、その源となる領域がある。(東洋の哲人はこの領域を啓くことに専心してきた、その長い伝統の一端に私たちはいる。)
 通常、外からこの領域に直接働きかけることはなくて、表層意識が受けとめた具象がイマージュになって届いてゆくのだと思うけれど、その領域に直接届きうるものとして、映像や音楽(いずれもイマージュ)があるのだろうと思う。

 そして、タイトル未定のライブで感じるのは、表層的な意味や感覚とは別に、この深層意識(意識のM領域)に働きかけてくるものがあるということ。

 これは思い込みであってもよい。
 ただ、この心の震えは理性や知性の働きではないし、五感の領域を超えていて、更には感情の領分ですらない、けれど確かに自分のうちにある、そうであるとしか思えないものに出会っている。そんなことを感じるのだ。

 例えば、アコースティックツアーにおいても前人未踏ツアーにおいても、ライブの時間は流れていくが、それとは別物の瞬間、有限の存在である人間には通例触れ得ない永遠である瞬間に幾度も出会った気がした。そのことの多幸感は、おそらく感情のもたらすような幸せではない。それは美そのものに触れたとき、聖なるもの(ヌミノーゼ)に触れ得たときなどに感じうるもの。
 そういうことにアイドルのライブで出会うことはないと先入観で思いがちだけれども、例えば禅の伝統は、日常の何気ない行為のうちに悟りを得る契機があることを教えてくれる。それに、多くのライブで演者のなかに光が顕現することがあることを感じているのは私だけではないだろう、それとは気づかなくとも。

 こころのこうした領域は個人で切り分けられたものではなく、おそらくもっと外とつながっているもの(一つであるとまでは言わない)と感じる。だから届けられた歌がフロアの観客のなかで響きあって、再び演者に照り返す、そんなことも起こっているように思う。だから一回のライブはかけがえがないのだ。

 Spotify O-WESTで多くの人が溺れていたそのとき、渋谷で大雨が降ることはだから不思議ではない。TIFのメインステージではもっと大雨が降るのだろうか、それも見てみたい。

2022/06/16

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