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お茶の上で(その2)

 映画『街の上で』についての記事です。ネタばれを含みます。

4 青がしまっていたイメージ

 イハの部屋での長回しは恋バナと言われるが、実際の長回しはイハの恋バナから始まる。その前の青の恋バナは冒頭だけが描かれ、話のほとんどは青のモノローグになっている。モノローグは、この映画においてはもう一箇所、映画の冒頭のみに置かれているが(ある女性の声である)、モノローグは心の声を描き出す効果を持ち、ここでは青がイハに何も隠さず話をすることで、あることへの気づきをもたらす。

 青のモノローグに重なって映し出されるのは、これも映画の冒頭、タイトル後すぐの、雪との別れという本来の物語が始まる前に、無時間的に挿入された珉亭でラーメンをすする女性である。これは雪との交際をうまくいかせるための勉強の過程で青が出会った女性であった。風俗で働く彼女は、青に親身にアドバイスしてくれた女性であって、青に大きな影響を与える。そしてイハに雪とのことを語るなかで、彼女のことを雪と同じくらい気になっていたのかも知れない、と青は気づく。
 映画の冒頭で映し出されたラーメンの女は、青が自分でも気づかぬうちに大切にしまっていたイメージであり、冒頭で投げられたボールはここで青のなかで回収される。こうして、青が自分でも気づかなかった本当の思いに気づくことは、青のなかで青自身を変え始めていく。

 イハとの会話のなかで、青は嫉妬についても新しい考えを持つ。嫉妬することとは、愛している何よりの証拠である、と。イハはそんな青に「まあな」と相づちを打つものの、共感していないことは観客には明白であるが、だが青にはそう感じさせず、そんな青をそのまま受け入れることができるのはイハの長所であろう。ここで雪に対する青の思いは、それまでの執着から、嫉妬も含めての愛だと気づくことによって変化していったのではないか。
「相手に会わせろ」という男の執着を当たり前に否定する青にとって、自らの執着も望ましいものとは思っていなかった。だが、嫉妬が愛している証拠であり、嫉妬すること自体は悪いことではないとここで捉えられたこと、雪への愛を違った角度ですくい上げられたこと、これは映画の終盤に向けて大きな布石となる。

5 青の生み出すもの

 イハとの会話のなかで青が生み出した言葉は「女性が上なの?」。言いあぐねて口ごもり、だがイハから強く促されるなかで発した質問であるが、よく考えつくなあと今泉監督に感心しつつも、やはりとんでもない質問だろう。冬子にカワナベさんとの関係を聞いてしまうなど、普段、自らは話さないかに見える青が主体的に話そうとすると、奇妙なことが起こる。映画に出るとなるとガチガチに緊張するのも、その派生かも知れない。

 しかし、これは青が自らのイマジネーションを普段は抑圧し、せいぜい読書のなかで放出しているだけの目詰まりによるものではないかと思う。
 青のなかには豊かな世界があるけれど(そうでなければイハの対話にあれほど的確に反応できまいし、CCCにおけるマスターの言葉を受けて「街もすごい」という主題の提示もなされなかっただろう)、過去のトラウマから自らも知らぬうちに抑え込んでしまっている。どうしても止むに止まれず噴き出してくるディオニソス的な発言だけが口を突いて出てしまい、突飛な発言に繋がっているのではないか。(そうして失敗ばかり繰り返すことでますます閉じこもってしまう。)

 それを感じさせるのは青の音楽との関わりである。冬子からむかし音楽をやっていたのか聞かれただけで、それを不倫と同等のセンシティブなものとして捉えてしまう青は、自分の生み出す言葉や音楽がまったく受け入れてもらえなかった過去を持つのではないかと思う。大切な思いをこめて作った歌を「チーズケーキって」と苦笑され、まじめに作ったとは言えず青自身も冗談だと紛らわさざるを得なかった、そんな過去のトラウマがあったのではないか。(そんな時、一人の城定イハに出会えていればそれは救われたかも知れないことで、そのような出会いのないまま多くの「天才(の卵)」が閉じていってしまっているのだろう。)

6 城定イハにおける時間の概念

 青が泊まっていくこととなり、イハはおやすみの挨拶をして一旦出て行くが、青にタオルとタオルケットを渡すため一度戻ってくる。この二回目のイハが出て行くタイミングで、青は下北沢に長く住んでいるのか問いかける。青としては、このままイハが去っていくことを何とか引き止めようと投げかけた質問で、これまでの二人のやりとりからすると何ともしょうもない質問である。しかし、これによりイハから「長い、短い」とは「一番どうでもいい時間の概念」であり、「明日死ぬかもしれんしな」という命題が投げかけられる。

 これは今泉監督が何かをふくらませるきっかけとして仕込んだ台詞と感じるし、イハを理解するには考えずにいられない問題ではあるけれども、映画のなかでは未消化に終わった感が否めない。おそらく、ここに先立つ場面がこれほど成功していなければ、この台詞はもう少し注目されていて、幾らかの解釈を呼んでいただろう(例えば、例えばドストエフスキーの街の上で小説とも言える『白夜』にある言葉「至福なる完全な瞬間。それは人間の全人生と比べてすら短いと言えようか。」との類比など)。
 しかし、17分間の長回しが長い短いを超えた輝きを雄弁に語ってしまっている。このため、重要かも知れない主題が提示されながらふとやり過ごされてしまう台詞となってしまっている趣きがある。

 もちろん、この台詞は翌朝のイハの台詞につながっているし、イハにとってこの夜を通じて「友達」になった青とは、これ以降どれだけの時が経とうとも超えられることのない何かが通じ続けることになるのだろうが、それは別の物語なのかも知れない。

(ところで、このあと寝室に戻ったイハはすぐに眠ったのだろうか。それとももしかしたら、としばらくは布団のなかで目を覚ましていただろうか。そのどちらもイハらしく、ここは謎として残されている。)

お茶の上で(その3)に続く。

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