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ロベール・ブレッソンとドストエフスキー

ロベール・ブレッソンがドストエフスキーの小説を原作としたのは、長編13本のフィルモグラフィのなかで3本あり、『スリ』(原題:Pickpocket, 1959年)と『バルタザールどこへ行く』(原題:Au hasard Balthazar, 1966年)と『白夜』(原題:Quatre nuits d'un rêveur, 1971年)とのこと。

白 夜:白夜(1971年)
罪と罰:スリ(1959年)
白 痴:バルタザールどこへ行く(1966年)

小説の書かれた順番に並べかえた対応関係は上の通りであり、ドストエフスキー作品としては、初期の『白夜』よりも名作群の入り口となる『罪と罰』が、そして『罪と罰』よりも成熟期に描かれた『白痴』のほうが、より深い味わいとなっているのはブレッソン作品も同様に感じる。

もちろん、原作小説の優劣が、そのまま映画の優劣に結びつく訳ではなく、いずれの映画作品も、ドストエフスキーの小説作品をそのまま用いた訳でもない。そして、映像と音声の語りとしてふさわしいものへと、ブレッソン流に翻案されている。けれど、実際にブレッソン作品から受けとることになる感銘の深さは、僕の場合は、原作の深さと比例関係にあった。

あるいはこうした点にも、映画にとってのアポリア(原理的な難題)が表れているのかもしれない。

構図や動きや色彩などの映像としての美しさも、音楽や物音や声などの音響としての美しさも、純粋にそれ自身として機能するわけではない。象徴や暗喩へと向かう映画の深みを歩んでいくなかで、広義の意味での物語の深さや広さや質感といったものは、やはり問われることになるのだろうと思う。

罪と罰|フョードル・ドストエフスキー|工藤精一郎/訳|新潮文庫
Pickpocket|Robert Bresson|1959

14歳のときに『罪と罰』を初めて読み、心が焼かれるような思いがしたことを、今でもはっきりと覚えている。その体験が僕に告げたことは、つまりはその2つだった。人には心という領域が確かにあるということ。またそこでは「焼かれる」という現象が起きるということ。どこかしらムイシュキン的なところがある僕にとって、それは決定的な体験だった。

その『罪と罰』を原作とした『スリ』におけるロベール・ブレッソンの美しさは、『バルタザールどこへ行く』と比較してみた際に、原作の持つ深みの違いでしかないように思う。男の指を、こんなにもエロく撮った人を僕は他に知らない(エリック・ロメールが健康的なエロさなら、この人のエロさは病的)。男を見たときに、あの指でといけない想像をする女の気持ちが、少し分かるような気がする。

白痴|フョードル・ドストエフスキー|木村浩訳|新潮文庫
Au hasard Balthazar|Robert Bresson|1966

いっぽう、20歳の頃に読んだこの大恋愛小説は、その後(新装版を買い直したまま)読み返すこともなく今に至っている。なぜ読み返さなかったのかと言えば、僕自身がムイシュキン公爵のようだったからかもしれない。ここに描かれていることのすべてが、文芸作品としてではなく、リアルな実感として僕にはよく分かる。

そして、ロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』では、マリーはナスターシャとして、ロバはムイシュキン公爵として描かれる。ロゴージンのようなジェラールに陵辱され、酒屋の男に身を受け渡したあと、あれほど可愛がっていたバルタザール(ロバ)に、彼女は視線を注がなくなる。そのときの彼女のまなざしは、完全にブレッソンによって設計されており、ゾッとするような美しさが宿っている。

実体験として、女の見せるまなざしの、あの冷ややかさをよく知っている。また、それなりに深く関わった女たち(母親も含めて)が、例外なくそうであったことを思うとき、どこかムイシュキン(バルタザール)のように僕は生きていることを実感させられる。ブレッソンが用いた、シューベルトのピアノ・ソナタ第20番(イ長調 D.959 第2楽章)もまた、そうした種類の音楽だろうと思う。

そのため、ラストのロバの命運(ムイシュキンのその後)など、どうでもよろしいと思ってしまうのは、やはり僕が彼らのようだからであり、女たちの見せるあの冷ややかな美しさにこそ、僕の心はとどまる。

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