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美味しいものを食べるホワイトデーの話。

バレンタイン関係の続きのようなコバナシ。おなかすいてる方は、おやつを用意してからどうぞ。



1、
 バレンタインが終わった二月の下旬。
 日曜のその日は、昼過ぎから私的楽しい時間を満喫していた。
 クローズした店内のカウンターで、エプロンをつけたほづみくんを前に行儀良く座る。
 今日は、バータイムの新メニュー、料理とワインのマリアージュセットの試食なのだ。
 バレンタイン近くに、かづみさんのお供でモンブランを食べに行った日、夕飯で入った店がヒントになって、ほづみくんはずっとメニューを考え、ワインの仕入れリストと睨めっこしていた。
 常連さんたちに、「こんなのあったら頼む?」と聞いて回った反応も上々で、私は材料とワインの仕入れ値を元に、値段設定のために電卓を叩きまくった。
 甲斐あって、形になったから試食をしようということになったのだ。
「まずは白に合わせる料理から。この季節しか楽しめない、ホワイトアスパラガスのソテーです。ワインはロワールの白、サンセール・ブラン」
 説明と同時にテーブルに置かれた長方形の皿には、丸ごとの白アスパラガスが丸ごと二本。かかっているソースはオランデーズではない。
「いただきます」
 いつもなら、速攻でアスパラに齧りつくけど、今日はただ美味しいと言えばいいわけではないので、まずはグラスのワインから手をつける。
 香りはフルーティ、ひと口目は甘酸っぱさの中に豊富なミネラル感。んー、このワイン、好き。
 次にやわらかい穂先からアスパラを攻略していく。
 金褐色の透明なソースにたっぷり入っているケッパーも一緒にフォークに載せた。
 シャキシャキ食感に、ホワイトアスパラの言葉にし難い風味、加熱して出てきた甘味、まろやかな全体にケッパーの酸味がいい引き締め役。
「んーーーー美味しい!」
「やった。ワインは? ワインとの相性はどう?」
「んっと……お、これ、気持ちいいよ。ソースの油分はさーっと流しちゃうけど、後味はミネラルが残るからアスパラの風味が引き立つの」
 透明なソースは溶かしバターらしく、まったりと香りが良く、でも春野菜の味わいを損なう強引さはない。
「シンプルだけど、ワインとの相性のおかげか、贅沢なお味。でもさ、」
「うん」
 警戒するようにほづみくんの目元から笑いが消えた。
「これ、アスパラ二本で足りる?」
「あ、本番は四本にするつもりだから」
「なるほど。それならボリュームはありそう。あとさ、」
「はい」
「これ一皿でワイン一杯はちょうどいいと思うんだけど、これ一皿で満足できるかってゆーと微妙かも」
「…無理っぽい?」
「てか、メイン頼むの前提の一皿?」
「く…っ…ダイエットをお考えの方に最適な一皿です…!」
「だから、これ一皿じゃ肉っけなくて物足りないかもって話だって」
 話してる間に、平らげてしまった。
「ソース食べたいから、パン欲しいです」
「たんとお食べ」
 準備よく、籠盛りのバゲットがドンッと出てきた。
「さすが! いただきまーす」
 硬い皮をむしって、ソースに浸す。
 じわっと染み込むのが楽しい。
 カリッとした皮とソースが染みたところのじゅんわりした食感を堪能している間に、ほづみくんは「とりあえず、次行くね」と準備を始める。
 皿が猫が舐めたよりピカピカになるタイミングで、いい匂いがしてきた。
「お待たせー。次はロゼね。縮緬キャベツのロールキャベツみたいなもんなんだけど、中身はホタテとエビのすり身。ソースはクリーム系」
「おお〜美味しそう。日本人、やっぱりエビカニ好きなひと、多いしね」
「だろ。ワインはランドック地方のレ・エクラ ロゼ」
 カウンターの上に、シンプルな白いラベルのボトルが載る。
「ありゃ。今回はあれじゃないんだね、ほづみくんが好きな…」
「ダルタニャン?」
「それ」
 コスパ良し、味良しで、我が家の冷蔵庫にも常備されているロゼが、ガスコーニュ地方のフルール・ド・ダルタニャン。ほづみくんのお気に入りだ。
「あれはあれでいいんだけど、今回の料理には軽すぎるかもなーって。飲み比べてみる?」
「ぜひ」
 手早くボトルを開けて、グラスふたつにロゼ二種類を注いでいく。
 こうやって見ると、同じロゼでも、かなり色が違うのがわかる。
 レ・エクラは赤ワインを薄めたような濃い色だけど、ダルタニャンは桜色と言ってもいいくらい淡いロゼだ。
「まずはライトなほうからってことで、ダルタニャンをどうぞ」
「いただきまーす。…ん、安定の美味しさ。軽すぎず、重すぎず、何にでも合う感じ」
「じゃあ、今度はレ・エクラ」
 香りは少しキレのいいフルーティさが強い。口に含むと、ミネラルの重さが舌の上で弾けるように感じられた。
「おお…すっきり辛口フルーティ。結構重い?」
「ミディアムボディだね。ダルタニャンはライトボディだから、飲み口からして違う。じゃあ、料理と一緒にどうぞ」
 さっと出された常温水で口の中を流して、ロールキャベツとロゼを味わう。
 しっかりした縮緬キャベツは、噛み締めるとほんのりと苦味が感じられる。でも、魚介の甘味とクリームソースが強いから、余韻も残らない。
 料理をワインで流すようにして味わい、なるほどと思った。
「ワインを楽しむなら、ダルタニャンは弱いんだね」
「だろ。何にでも合うってのは、大きな長所なんだけど、突出した個性が少ないってことだから。飲みつけてないひとなら、ダルタニャンのほうがウケると思うんだけど、今回はマリアージュ重視だしね。ワインの有無で料理の味わいが変わるのを楽しんで欲しいなーって」
 「僕も味見しよっと」と言いながら、グラスに濃いほうのロゼを注ぐ。
 小皿に取ってあったクリーム煮を口に運び、ワインに口をつけ、納得したように頷いている。
 私も皿に残ったソースをバゲットで拭いて、口に入れた。
「確かに。レ・エクラとこのロールキャベツ、すんごい組み合わせだよ。どういう仕組みかわかんないけど、ワインを口に含むと、縮緬キャベツの微かな苦味がミネラルでコーティングされるみたいに浮き上がって、ものすごいコクになる」
「さっすが桜子さん。苦味とミネラルって、好きずき別れる相性なんだけど、これはクリームがあるから、いい塩梅になるんだよね。レ・エクラって石灰質の土壌で作られてて、それがパンチのあるボディになるんだって」
「これ、私は好き。満足感あるし、ワインが活きるし」
「やった」
 にまっと笑って、エプロンのポケットからメモ帳とペンを出す。
「細かいとこで気になるのってない?」
「んー…ちょっとソースの酸味が強いかも。これはこれで美味しいけど、このロゼに合わせるなら、もうちょいまろやかでもいいかな」
「酸味がないと、飽きてこない?」
「どうだろう…料理だけなら飽きるかもだけど、ワインと一緒の前提だからねえ」
「そっか。そこがいつもとは違うんだよね」
 ペンの尻で頭を掻いて、ふんふんと頷く。
「うちのお客さん、アルコール飲めないひともバータイムに来てくれるからなあ」
「だよね。クリスマス以降、料理食べたいってひとが増えた」
 おかげで、ノンアルコールのスパークリングワインをまとまった量で仕入れることにしたのだ。
 美樹子さんみたいに、酒の味は好きなのに量が飲めないってひと向けに、中途半端なものじゃなく、美味しいやつを提供できるようにとスプリッツァーのちゃんとしたレシピと作り方も研究中。
 今回のメニューは、料理だけの単品提供も考えているから、ワインが飲めなくても楽しんでもらうことはできるけど、その分調整が難しい。
 いろいろと書き込んで、「よし」と頷いた。
「今のとこ、微調整だけで済みそう」
「アスパラはあれだけでいくの?」
「うん。桜子さん、味については合格出してくれたし。動物性タンパクをポーチドエッグで補おうかなーくらいは考えてるけど」
「ああ、それいいかも。黄身ゆるゆるじゃなくて、ちょい硬めなら食べ応えありそう」
「それか、グリュイエールチーズ混ぜ込んだとろとろスクランブルエッグとかね」
「えっ、何それ。絶対美味しいじゃん」
「やっぱもう一回、試食いるか…」
 ほづみくんが呟いたときだった。
 どこかで電子音がする。
 顔を見合わせて、各々自分のスマホを確認すると、私のほうだった。
 ディスプレイに表示されている名前は、美樹子さん。
 噂をすれば影…てか、思い浮かべただけなんだけど。
 珍しくメッセージではなく電話なので、何か急ぎの用かと画面をタップした。
「もしもしー?」
『あ、桜子さんっ。助けて〜』
 いつも落ち着いている声が、珍しく揺れている。
 なんだろう、また大量廃棄寸前の桃とか届いたのかな。
「どうかしました? 食材関係のことなら、今、ほづみくんもいるのでスピーカーにしますけど」
『あ、助かります。最終的に、御厨さんにお願いできたらって話で』
 ならばとスピーカーにしたスマホをテーブルに置いた。
 日曜のこんな時間に連絡来たことってなかったんじゃないかなーと呑気に考えながら、グラスに残っていたワインを飲み干した。


 
2、
「うっそでしょ…」
 タブレットの画面に表示されているのは、「完売」の文字。
 の、行列。
 思わず画面隅の時刻表示を確認してしまう。
 間違いない。今日だ。

 久しぶりに土日が休みになった週末、私はリビングのソファでネットショッピングと洒落込んでいた。
 圭吾と樹は、近所のスーパーに買い物に出ている。
 日曜限定で、ワゴン車販売のクリームパンがスーパーの駐車場にやってくるので、それが目当てだ。
 「おいしーあっつあつくりーむぱん、まっててね!」と鼻息荒く、圭吾を引っ張っていった樹の顔を思い出しつつ、目当てのサイトにアクセスし……硬直したわけだ。
 どれだけ見ても、「完売」の文字は変わらない。
「え、どういうこと? 今日から販売のはず…」
 慌てて、スマホから玲奈に電話をかける。
『もしもーし』
「玲奈っ、今サイト見たら、全部売り切れてるんだけど!」
『ありゃ。マジかー』
「どうしよう、クッキー…」
 バレンタインに圭吾からチョコレートをもらった。
 そのお返しに、逆だけどもホワイトデーに何か贈ろうと考えて、時間を見つけてネットで調べていた。
 いろいろ見ているうちに、最近塩サブレとか塩クッキーなんてものが流行っていると知り、これなら圭吾もワインのつまみに楽しめそうだと思ったのだ。
 でも、相変わらず、医療従事者は迂闊に人出が多い場所には行けない。
 だから、必然的に通販を利用することになる。
 この手の情報に詳しい玲奈と美奈にも相談して、デパートの通販サイトで販売することがわかった。
 ふたり曰く、「速攻で売り切れると思うから、当日のできるだけ早い時間に見なよ」。
 だから、圭吾たちが上手いこと出かけてくれた直後にアクセスしたのだ。
「販売開始から、まだ十五分も経ってないのに…」
『去年からそのデパートのクッキー特集、評判高かったからねえ。ちょっと待って……うお、ほんっとに何も残ってないな!』
「びっくりよ…。これ、もう買うチャンスないってことか」
『いや、美樹、トップページの下のほう、スクロールして見てみ』
 言われた通り、ページを移動してページ下を見ると、「各ブランド、店頭販売を行います。限定五十」と書いてある。
「店頭販売って……私ら、無理だな」
『だな。すまん』
「や、いいよ。私も狼狽えてた」
『誰か、代わりに買い物してくれるアテとかないの?』
「ないねえ。そもそも、今の交友関係、殆どが同業……あ」
 パッと浮かんだ顔に、一瞬血迷った。
「いや、ダメ。絶対すごい人混みだろうし、それで感染したら取り返しがつかない」
『そりゃそうか。…ねえ、美樹が考えてたのって、御厨さんたちでしょ。なら、いっそ、塩サブレお願いしてみるとかは?』
「え?」
『私、あの店のバータイムに行ったことあるんだわ。そのときに、塩サブレ出してたよ』
 その手があったかという気持ちと、さすがに図々しいのではと遠慮する気持ちがガッとぶつかり合う。
 私の葛藤を見越したように、玲奈が続ける。
『全くないものを一から作ってくれっていうんじゃないし、受注生産というか、買い取りというか、そんな感じでお願いするんならどうよ』
「…それなら」
 お願いするだけしてみて、都合がつかないなら潔く諦めよう。
 限定品じゃなければ、デパートの通販で買えるものはたくさんあるし。
「訊くだけ訊いてみる」
『おう。作ってもらえることになったら、うちの分もお願いして』
「おい」
『だってさー、ゴルゴンゾーラのサブレとトマトのサブレ、すんごい美味しかったのよ。私、あれとワインがあったら夕飯いらん』
「…わかったわよ」
 相談に乗ってもらったし、休みの日に狼狽えて電話しちゃったし、御厨さんが引き受けてくれたら大林家のも頼もう。
 電話を切り、ひとつ息をついて、別の番号を呼び出す。
 数回コールする前に出てくれた桜子さんに、我ながら情けない声で泣きついたのだった。

『…というわけで、そちらの塩サブレ、注文できないかと』
 粗方の事情を聞き終わり、ほづみくんと顔を見合わせた。
 なるほどなあ。医療者だと、ネットで買えなかったから、じゃあデパートでとはいかないか。
 本当に大変だ。
「美樹子さん、うちは全く構わないんですけど、買おうと思ってたのってどこのデパートのですか」
 ほづみくんが訊ねると、うちからも乗り換えなしで行ける高級百貨店の名前が返ってきた。
 なんか、最近別のとこでも聞いた気がする、と思う横で、ほづみくんが「ああ」と頷いた。
「もしよければ、店頭販売、行ってみますよ」
『え!?』
「実は、僕もそこで売ってる商品、狙ってるんです。ただ、通販はなしで店頭のみで」
 その言葉で思い出した。
 この間、ネットチラシ見てたやつだ。
「限定数少なめなんで、買える保証はないですし、ダメ元なんですけどね」
『え、じゃあ…』
「頼まれる前から行く気だったんで、気にしないでください。もし、店頭でも買えなければ、うちのサブレの詰め合わせでもいいですか」
『全く問題ないっていうか、義妹…友人…要は圭吾の妹で元々友人なんですけど、彼女からそちらの塩サブレ、かなり美味しいって聞いてまして。頼むなら、自分の分もって言われてるくらいですから』
 頭に、リアル極妻な美女と醤油顔イケメンのカップルが浮かぶ。
 いつからか、ひょいとご夫婦で来ては、一切小松崎の関係者とは名乗らず、ワインと食事を楽しんで帰っていくのだ。
 樹くんたちが迷子になったときに顔を合わせていなかったら、関係者だとは全く思わなかっただろう。
 何度もお礼を繰り返す美樹子さんとの通話を切り、ほづみくんを見上げた。
「狙ってるのって、塩サブレだよね? こないだ、チラシ見てたやつ」
「うん。美樹子さんのとは違う店のだけど。関西の店だから、気軽に買いに行けないんだよ。直通販も、結構競争率高くて」
「今、流行りなのかなあ」
「んー、かも? ここ何年か、缶入りクッキーが人気で、焼き菓子に注目集まってる感じだとは思う」
「あー、いろんな店が出してるよね。可愛くて、気になるのが多い」
「そうそう。見た目に楽しいのが増えて人気が出て、最近はそこから素材と味重視で売り出してるのがじわじわ頭角表してるっぽい」
「なるほど。だから、研究したいのね」
「うちも、塩サブレ出してるし、毎月の焼き菓子に入れて欲しいってリクエスト、増えてるからねー」
 バータイム限定のメニューで、レシピはほづみくんの気まぐれで決まる。
 オーソドックスなトマトとチーズに始まり、黒胡椒とチーズ、アーモンドとオリーブ、オリーブオイルとアンチョビ、みたいな完全に酒のつまみだ。
 始まりが、うさ耳パーカー着た私に実物大の人参クッキー食べさせたかった、という他人様には聞かせられないブツだが、おかげさまで評判は上々です。
「なら、当日は二手に分かれようか。美樹子さんの分、私が頑張るよ」
「……そうだね。去年の評判聞いてると、一日ひとつで限界かも。開店一時間前から並んでるひとたちもいるみたいだし、それでも三十分以上は待つって」
「本気の戦争だね…」
 これだけ感染症広がってても、バレンタインフェアも結構な人出だったみたいだから、楽観はしないほうが良さそうだ。
 ばっちり感染予防して、気合い入れていこう。
 そんなふうに思ったものの、このときは、まだどこかで舐めていた。
 そして、すぐに後悔することになったのだ。


「か…買えたっ…」
 精算を済ませて、紙袋を受け取った瞬間、つい声が出た。
 ヨロヨロとレジから離れて、会場の隅に移動する。
 周りは、ひと・ヒト・人。
 ホモサピエンスがいっぱい。
 デパートの広い催事場とは言え、こんなに人間がいて、クラスターとか起きないのかと自分を棚上げして不安になる。
 もっとも、人口密度のわりに、全体的に静かだ。
 ひとり客が多く、複数人のグループでも、一部の例外を除いて、ほとんど喋らないから。
 腕時計を確認して、思わずため息をついた。
 例のクッキーイベント会場に入ってから、もう二時間が経過しているが、手に入ったのは一ブランドの商品だけ。美樹子さんのお買い物だ。
 開店と同時に来たのに、これはマズイと思ったのは間違っていなかった。
 走らないよう、必死の早足でふたりで会場にたどり着き、「じゃ、後で!」と別れて各々目当ての店舗ブースを目指したが、既に恐ろしいほどの長蛇の列ができていた。
 美樹子さんに頼まれたクッキー缶は、単価が高いやつだから、そうすぐには売り切れないだろう…という予想を裏切るように、次々に「完売しましたー」の声が上がっていく。
 列は短くなるどころか、私の後ろにも続々と伸びていくし、でも商品は減っていくし、途中から胃がキリキリし始め、やっとショーケースが見えるようになるころには、大半が売り切れて、冷や汗が浮かんでいた。
 それでも、美樹子さんに頼まれたものはしぶとく残っていたから、祈るような気持ちで自分の番を待ち続け、あとひとつで売り切れ、というまさにギリギリのところで買うことができたのだ。
 こんなにドキドキハラハラしたの、院入試の合否待ち以来かもしれん…。
 それにしても…と、無事ゲットできたクッキー缶が入った紙袋を眺めて、肩を落とす。
 つい勢いで、自分の分も買っちゃった……。
 だって、目の前でどんどん売れていくし、見てるとやっぱ美味しそうだし、明日来たとしても買えるかわかんないし。
 いや、でも大丈夫。美樹子さんのやつほど、お高くない。
 これも、実は最後の一個だったチーズ塩サブレの詰め合わせ。
 なんせ、頼まれたやつ、諭吉さん一人分だからね! 金の粉じゃなくて、黒いダイヤ入りだってよ!
 さすがセレブだ…クッキーひとつとっても、次元が違う。
 身体以外の疲労でげっそりしつつ、ほづみくんはどうしているだろうとスマホを出して確認する。
 珍しく、メッセージも着信もない。
 ありゃ、どうしたのかな。
 念のために、「無事に買えたよー」とメッセージを送り、待つこと数秒。
 コールが鳴り始めたので出ると、「桜子さん?」と聞こえてきた。
「ほづみくん、今、どこ?」
『ごめん、ちょい疲労困憊して同じフロアのカフェにいるんだ』
「あ、なら、そっち行くよ。私も休憩したい」
 すぐに移動して、お高めチェーン店のカフェに移動した。
 入り口から見える席にいたほづみくんと合流して、椅子に倒れ込むように座って、アイスコーヒーのたっぷりサイズを頼む。
「はー、疲れた」
「お疲れ。ごめんねー、先に休憩して」
「大丈夫、私が買えたの、本当にさっきだもん。ほづみくんのほうはどうだったの」
「並んだ時間は大したことなかったんだけどさ。目の前で次々に売り切れてくのを見てて、メンタル削られた」
「一緒だ…。あれ、ほんっと胃に悪いよね」
「予約販売のありがたさ、よくわかったよ。まあ、なんとか買えたからいいんだけど。で、桜子さんのほう見に行ったら、すんごい列だし、こりゃ時間かかると思って他のブース見に行ったんだけど、どこも似たようなもんでさ」
「だろうねえ」
「メインの缶入りがはけたとこは行列解消してたから、個別売りのやつをいくつか見繕ったけどね」
 確かに、ほづみくんの横の椅子には、いくつか紙袋が置いてある。
 てことは、私が並んだところが特にひとが多かったってことか。
「桜子さんも買えたんだろ」
「うん。正真正銘のラストワン。会計した瞬間、完売でーすって声がして、後ろからめちゃくちゃ視線が突き刺さった」
「わからなくもない」
「でも、すごい世の中だよね。クッキーにいちまえん…」
「トリュフ使ってりゃ、そうなるだろうけど。そこのトリュフサブレ、シャンパンとの相性最高らしいよ」
「死ぬまでに一枚くらいは食べてみたいね…」
 視線が遠くなったとき、コーヒーがやってきたので、一旦口を噤んでマスクを外した。
 問答無用でフレッシュとシロップを放り込み、ズゾゾゾーっと半分一気飲み。
「はー、美味しい」
 またマスクをつけて、ため息をつく私の前で、ほづみくんもカップを煽った。
「ダメだ、甘いもの欲しい」
 空のカップを置いて、手を挙げる。
 キャラメルハニーラテという糖分の塊のようなものを注文したから、本当に疲れてるんだと思う。
「お昼ごはん、どうする?」
「僕、肉食べたい」
「お肉かあ……焼肉、ハンバーグ、ステーキ辺り?」
「焼肉行こう、焼肉。牛肉食らって、脳から幸せ物質搾り出そう」
 決意のようなものを滲ませながら言われると、特に希望のない人間は頷くしかない。
 しっかり糖分を補給したほづみくんに手を引かれるまま、卸業者直営という焼肉屋でいい肉を堪能したのだった。


3、
 ホワイトデー当日の日曜日。
 樹を寝かしつけた後で、圭吾にサブレを渡した。
「これ、バレンタインのお礼」
「え」
 真顔で目を瞬かせているから、本当に予想していなかったらしい。
 バレンタインはあんなに拘るのになあとおかしく思いながら、桜子さんが手に入れてくれた金色の缶を押しつける。
 夜勤明けに引き取りに行ったとき、「美樹子さん、あんなとこ、行かなくて正解ですよ」と視線が遠かったのが気になるが、同じ店の別商品がかなり美味しかったとも言っていた。
「ありがとう。これ、買いに行ったのか」
「まさか。本当は通販する気だったんだけど、他人様との物欲戦争に完敗したから、よそ様にお願いして買ってきてもらったの」
「…もしかして、サイト見たら完売とか?」
「そうよ。よくわかったわね」
「あー」
 なぜか、気まずげにも見える顔で、「実は」とバレンタインのときの話を始めた。
 驚いたことに、圭吾も通販では手に入れられず、御厨さんを頼ったという。
「俺の場合は、完全に出遅れただけなんだけど」
「なるほど…まさか、夫婦で同じことしてるとは」
「同じことって……もしかして、これも?」
「そ。はじめは、代行お願いしたんじゃないんだけど」
 簡単に説明すると、苦笑いでため息をつく。
「御厨さんちに足向けて寝られないな」
「本当よ」
 それに、圭吾のことを黙っていてくれた。たまたまかもしれないけど、あのふたりなら、余計なことは言うまいと気遣ってくれた可能性のほうが高い気がする。
 実際、桜子さんは私と比べるのも烏滸がましいほど、気が回るのだ。
「ちょっとそれ開けて待ってて」
「うん?」
 腰を上げて、野菜室の奥に隠しておいた瓶を取り出し、グラスを用意する。
 トレイを持ってリビングに戻ると、圭吾が蓋を開けた缶を膝に乗せて考え込んでいた。
「お待たせー」
「おー…ってワイン?」
「そのサブレ受け取りに行ったとき、よかったらって勧めてもらったのよ」
 白地に金箔でロゴのようなものが捺されたラベルで、普段飲まない私では抜栓できないので、そこは圭吾に任せる。
 私のグラスには二口程度の量で、乾杯した。
 匂いを嗅ぐようにして、少し舐めるとガツンとした味が口中に広がった。
「わ…なんか重い?」
「うん。フルボディだな。白でこれだけしっかりしてるの、あんま飲んだことない」
 ボトルを持ち上げてラベルを見る圭吾に、御厨さんにもらったメモのことを思い出した。
「えーと…アルザス地方の、リースリング? だって」
「リースリング? これが?」
 何に驚いているのか良くわからないが、ブドウ品種のことなんてろくに知らないから、間違えようがない。
「珍しいの?」
「珍しいっていうか、リースリングって結構フレッシュな味になると思ってたから、意外」
「へー」
「でも、これなら黒トリュフにでも合うだろうなあ」
 言いながら、丸いサブレを一枚取った。
「いただきます。……すげ」
「どう?」
「いや、すんごいトリュフの味っていうか、香りがする」
 口を動かしながら、鼻が詰まったときのようにすんすんさせる。
 どれ、と私も一枚お相伴。
 一口目は、濃いバターの香りで、噛み締めると不思議な匂いが追ってきて、濃くなる。
「なんか……新鮮な、森?」
「森?」
「土とか落ち葉とか……そんな感じなんだけど、不思議と美味しい」
「なるほど」
 ちょびっとワインを口に含むと、ふわーっと葡萄の香りが森の匂いを包んで甘くなる。
 おお、すごい。
 圭吾もワインとサブレを交互に口にして、ご満悦のようだ。
「すんごい美味い。美樹、なんでこれにしようと思ったんだ?」
「ん? …確か、最初は普通に甘いお菓子探してたんだけど、塩サブレってのがあるのがわかって……あ、クチコミでワインに合うって書いてるひとがいたの。それで、圭吾、そこまで甘いもの食べるわけじゃないし、こっちのほうがいいかなーって」
「なるほど。や、本当に美味いわ、これ」
 言いながら、二枚目に手を伸ばす。
 体重を気にして、夜の間食は殆どしないのに珍しい。
「お気に召したようでよかったわ」
「召した召した。これ、うっかり樹に見つからないようにしないと」
「…さすがに、これは大丈夫じゃない?」
 いくらあの子が美味いもん食いとは言え、子どもの味覚に合うとは思えない。
 だけど、圭吾は眉を寄せて首を振った。
「舐めると痛い目を見るぞ。あの歳でフォアグラやらイクラやら松前漬けやら、俺と争奪戦するんだから」
「まあ、ね」
 完全なる酒の肴に比べたら、しっかりお菓子である分、リスクはあるか。
「こういうの、常備できるといいよな」
「あー、でも期間限定品なのよ。他の店なら、レギュラー商品で作ってるところあるんだけど」
「へえ。ちょっと調べてみるか」
 空になったグラスに手酌で注ごうとするから、手で止めた。
「ホワイトデーくらい、お酌したげるわ」
「ありがとうございます」
「なんで改まってるの」
「いや、なんか研修医時代の指導医に同じことされたときにも似た緊張感が」
「…あんたとはいっぺんちゃんと話したほうがいいこと、まだまだありそうね?」
 嫌味も込めて、たっぷり注いでやるとしょっぱそうな顔で「だってさあ」と唸る。
「一応弁解しておくと、俺、女性全般に酌されるの苦手だから」
「そうなの?」
「進んでする女は大抵肉食系でろくな目に遭ってこなかったってのと、若いころからお袋に『他人様に酒注いでもらえるほどたいそうな人間なのか、常に自問自答しろ』って言われ続けてきたから」
「すんごい納得したわ」
 一気に同情した。
「まあ、家の中で私が自主的にするときくらい、気兼ねせずに飲みなさいな」
「うん…」
 結婚してから、わりと「こいつ、これでよく下半身バカな人生送ってこられたな」と思うことがある。
 タラレバだけど、最初に妙な女に捕まってなかったら、真っ当に生きてたのかもなあ。
 今だから冷静に振り返ることができるけど、同居を始めたころから、ドン引きするようなこともなかったし、金銭感覚がズレてるのは氏育ちの問題だろうし、旦那としても、これといった不満はない。
 むしろ、圭吾との生活は快適…と言うと即物的すぎるか、心地いい? 楽しい? 平穏?
 とりあえず、全く後悔することはない。
 チラッと見ると、「なに?」と首をかしげる。
「いやいや」
「なんだよ」
「なんでもないって」
「その顔は、絶対なんかある」
「気のせいだってー」
 笑いながら、ワインを口に含む。
 圭吾が、「飲みすぎるなよ」と眉を寄せた。
「もともと下戸だし、疲れてるときは強くても回るの早くなるから」
「うん。我ながら、好きなのに飲めないって難儀だわー」
「全く受け付けないんなら、別だったのかもなあ」
 ワインを楽しみながら、他愛ないことを話して笑う。
 アルコールが回って来たのか、頬がポカポカしてきた。
「美樹、顔赤くなってるけど大丈夫か。水…」
「だいじょうぶー。楽しいだけだから」
「顔が赤いのと楽しいのとは関係ないと思うぞ。やっぱ水持ってくるから」
 腰を上げようとする圭吾の腕を掴む。
「へーきだってば。ここにいなさい」
「…本当に大丈夫なのか」
「だいじょぶー」
 掴んだ腕を抱え込むと、妙に楽しい。
 ため息をついて腰に腕を回してきた圭吾にもたれかかると、「ほれ」と鼻先にサブレを差し出された。
 素直に口に入れて噛み砕き、少しだけワインを舐めるとやっぱり美味しい。
「おいしー」
「そりゃよかった」
「でも、これ、けーごのプレゼントなのに」
「俺も楽しんでるし、サブレ以上にいいもんもらってるから、気にするな」
「そお?」
「そうそう」
 サブレ以上にいいもんってなんだろう。
 よくわからないけど、圭吾が笑ってるからいいか。
 「御厨さん、まさかここまで見越してたのか…」と、これまたよくわからない呟きが聞こえたけど、髪を撫でられ、額にキスもされて、気持ちいい。
 今度、桜子さんにお礼しなきゃ、と思いつつ、楽しさのまま、頬を緩めた。

 翌朝、目が覚めると、なぜかベッドの中だった。
 記憶と服がないことに狼狽え、思わず隣で寝ている圭吾を叩き起こしてしまったが、不機嫌になるどころか、怖いくらいの上機嫌で、起こしたことを後悔することになった。

 
 


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