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おいしいホワイトデー。

2019年に公開した「おいしい問題。」ホワイトデー話。オチとかストーリーとかなく、ひたすらに美味しいものを食べてるだけです。


 三月も半ばになって、少しずつ暖かい日が増えてきた。
 私もほづみくんも花粉症じゃないから平和だけど、周りはマスクに箱ティッシュ、ゴーグルみたいな眼鏡で重装備、みたいなひとも多い。
 今朝も、布団からすんなり出られるくらいの気温だ。
 だけど、過保護な旦那さんは、「朝はあったかいもの食べないと、身体に悪いんだよ。特に女のひとは」と言って、野菜のゆるゆるポタージュとチーズがとろーり糸を引くパニーニを作ってくれた。
「桜子さん、今日って授業だけだよね?」
「うん。昼過ぎには帰ってきて、お店手伝うよ」
 外はカリカリ、中はもっちりなパニーニにかぶりつく。
 トマトの酸味とベーコンの塩気、チーズのコクに、クセになりそうな美味しさのソースが絶妙なバランス。
「おいしーっ。このマヨっぽいソース、好き」
「それねえ、シーザーサラダに使うドレッシングの粉チーズ、結構多めに入れたやつなんだよ」
「それでまったり感あるんだね。火が通ってるからか、トマトにもよく絡んでていい感じ」
 朝ごはんはいつもリビングだから、テーブルの角を挟んで向かいに座ったほづみくんの顔が近い。
 寝起きでも見目麗しい旦那さんは、嬉しそうに笑った。朝っぱらから毎日眼福。
「あのドレッシング、桜子さんが美味しいって言ってたから、他にも使えないかなーって考えてみたんだよね。気に入ったみたいでよかった」
「ん、さすがフレンチ畑のひとっていうか、ドレッシングとかソース、ほづみくんの手作りのほうが市販のよりずっと美味しいんだもん」
 おかげさまで、否応なく外食というか、コンビニ食が激減した。
 なんか、ほづみくんの思惑通りに味覚がカスタマイズされてる気がしないでもない。
 しかし、目指すところがどえらいとこにあるらしいダンナは、さらっと怖いことを言う。
「ありとあらゆる食べものが、僕のお手製じゃないと満足できないようになってもらうのが人生目標だから、もっとがんばるね」
「……災害とか起きたら大変だから、ほどほどにね」
「避難所でもライフライン死んだ家でもサバイブできる知識を詰め込んでるから。絶対大丈夫とは言えないけど、可能な限り、桜子さんにはどんな極限状態でも美味しいもの食べてもらうように最大限の努力してるから」
 笑顔で間髪入れず、朝っぱらから言うことじゃねえです。
 微妙な気分で、ヘタまで美味しいパニーニを口に押し込み、湯気が落ち着いてきたスープを啜る。
「ま、そのためにも桜子さんの好みのリサーチと、好きなもの増やすの、がんばらないとね」
「好みのリサーチはともかく、増やすのってがんばること?」
「そりゃ…あれ、桜子さん、時間……」
 ほづみくんの視線が、私の斜め後ろにある時計で動きを止める。
「え? うわ、ちょいやばい」
 腕時計を見ると、いつの間にか、身支度をしないと間に合わない時間になっていた。
 テレビとかつけないから、うっかりしちゃうんだよね。
 慌ててスープを飲み干して、空になった食器を重ねる。
「僕がやるから、準備しといでよ」
「うう、ありがと」
 お言葉に甘えて、あとを任せ、部屋に上がった。
 そういや、私の好きなものを増やすのがんばるって、結局どういう意味か聞けなかったな。



 来週から春休みに入るので、私にとっては今学期最後の授業を終え、無事に家に戻った。
 仲がいいクラスだと、来週辺り、飲み会の声がかかる時期だけど、私は大学院が忙しいという理由で断るのが常だ。
 学生と学校外で会うの、正直何かあったらと思うと、面倒以上に不安のほうが強くなるタチです。
 あまりにそういうものに行かないからか、この間、とうとうほづみくんに「桜子さん、無理してない? 僕のせいで外のつき合いできてないんじゃない?」と心配された。
 ヤンデレなダンナに気遣われるほどのひとづき合いのなさなのか、とちょっと視線が遠くなった。
 ともかく、いつものように店に出て、平日の平和な客入りを捌き、営業終了。
 今日はバータイムはない日だから、夜にゆっくりできる。
 うちの夜営業、ほづみくんが私の予定最優先で決めちゃうようになっていて、不定期営業くさい。それで大丈夫なのかと心配していたら、常連の牧田さんに「The Kitchenのバータイム、レア度高いって評判ですよ」と言われた。
 基本的に週に二日、私に余裕があれば三日の週もあり、といういい加減さだけど、ほづみくんにとっては、そのくらいのほうが仕込みに時間をかけられていいらしい。
 確かに、料理のクオリティが上がってんなあとは思っていたけれども。
 うちの夜の定番兼オススメのパテ・ド・カンパーニュ、実は昼バージョンと夜バージョンで味が違う。
 夜に出しているのは、熟成期間が長くかかる分、ずっしりしっかり目に肉の旨みを凝縮したタイプで、ワインとの相性が抜群なのだ。
 本当は昼でも出したかったらしいけど、どうがんばっても重すぎるので、断念したんだとか。
 それが、お客が増えて、夜でも常連さんができて、ワインもほづみくんの目利きが確かだと思ってもらえるようになり、ワインとのマリアージュを考えたメニューに切り替えた。
 飲めないひとでも楽しめるように試行錯誤しているけれど、評判は上々だ。
 ただまあ、いつでも開いているわけではないので、レア度が上がると。でも、来ると確実に美味しいものが食べられるから、評判は幸い悪くない。
「ほづみくーん、掃除終わったよー」
 モップがけを終えて、道具を片付けつつ、厨房に声をかける。
 新作の試作でもしているのか、閉店近い時間になってから、籠りっぱなしなのだ。
 なーんかいい匂いもしてくるし……味見? 味見?
 期待しまくりで、もう一度声をかけようとしたところで、「すぐに行くから、カウンターに座って」と返ってきた。
 お、やっぱり味見だ! それにこれ、何かローストしてるっぽいから、豪華版だ!
 我ながら現金なくらいうきうきしながら、カウンターに座って待つこと数分。
「お待たせ〜」
 出てきたほづみくんは、大きなプレートを掲げていた。
 なんだかものすごく香ばしい匂いがぶわあああっと広がる。
 うわー、なんだこれ。
「いったい、今度の試作ってなに? すっごくいい匂い」
「試作じゃないんだ、実は」
 カウンター越しにプレートを置き、ほづみくんが少し照れたように笑う。
 真っ白な皿の真ん中に、綺麗な焼き目がついた鶏肉が……鶏肉?
「これ、なんのトリ?」
 何かの鳥の肉なのはたぶん間違いない。
 丸焼きにしたものの半身だと思う。これで、一人前ってことは、鶏より小さい。ウズラ……よりは大きい。ハトでもない。
 それに、その辺なら、実家時代に大概見ていたから、さすがにわかるはずだ。
 首をかしげる私の前に、「まずは食べてみて」とカトラリーを並べた。
 肉用のナイフの刃を入れると、すっと入っていく。
 見た感じ、焼く前にマリネされているみたいなので、ソースはつけず、ひと口頬張った。
 この独特のにおい、ジビエだ。
 でも、こんな美味しいの、食べたことがない。
 しっかり締まっている肉は、繊維と繊維の間に旨みが凝縮されて、噛めばほろほろとほどけて口中に広がっていく。
 野趣あふれる、と形容される野鳥の風味はしっかり残っているけれど、嫌な臭みはかけらもない。マリネに使っていたらしいハーブも香るけど、臭み消しじゃなくて、肉の香りを引き立てている。
 表面の皮は、きっと溶かしバターでローストしたんだろう、鳥の脂に程よくミルキーさが加わり、パリッとした食感がとても気持ちいい。
 ジビエの美味しいところといいところだけを集めて、最高に美味しく調理したら、きっとこうなる。
「…どう?」
 ひと口食べたきり、口以外動かさず、硬直している私をほづみくんが不安そうに覗き込んでくる。
 だけど、なにも言えない。
 こんな料理の感想、表せる言葉なんて、知らない。
 無言のまま、濃い色のソースをつけて、二口目を食べる。
「っ……!」
 なにこれなにこれなにこれなにこれ。
「桜子さん? あの、だいじょ」
「大丈夫じゃない」
「え…」
「こんな美味しいもの食べたら、死んじゃう」
 全くわからないけど、とにかく何かの旨みが凝縮されたソースは、ほんのりと甘酸っぱくて、肉の美味しさを何十倍、何百倍にも引き立てる。ソースだけ舐めても死ぬほど美味しいけど、この肉と一緒に食べると駄目だ。人間が駄目になる味だ。これを味わうためなら、ひとくらい殺せてしまう気がする。
「あー、なんだ。よかった。すっごい顔して食べてるから、口に合わないのかと思った」
「……これ、マズイっていう人間とは…………来世でも…………和睦しない」
「味わってくれてるの、よくわかったよ」
 話す間も惜しんでもぐもぐする私に笑って、ほづみくんは折りたたみのスツールを出して座る。
「それに合わせたワインもあるんだけど、飲む?」
「すっごく飲みたいんだけど、今は純粋に料理を味わいたいから我慢する」
「あのね、実はまだもう一回分、材料あるから、」
「次はワインも飲む」
 行儀が悪いと思いながらも、骨に残った肉ひと筋残したくなくて、手で掴んで骨ごとしゃぶる。
 犬の気持ち、今、めちゃくちゃわかる。むしろ、今の私、犬。わんわん。
 ソースも一滴残らず舐め尽くし、骨も犬が泣くくらい旨みをしゃぶり尽くして、満足の息をついた。
「はー、極楽浄土でした。ごちそうさま」
「お粗末様でした。やー、そんな一心不乱に食べてもらえるなんて、嬉しいなー」
 にこにこ全開の笑顔で言いながら、ほづみくんがお絞りを出してくれる。
 ビニール袋を破きながら、やっと少し冷静になってきた頭が動き出した。
「なんか、ほづみくんの本気を見たって感じの料理だった」
「いつも桜子さんと料理には本気だけど」
「ん、そうじゃなくて……本場の凄腕のフレンチシェフが、一切妥協せず、自分の持ってる知識と技術を出し切ったひと皿、みたいな」
 ほづみくんがいつも作る料理は、日本人の口に合うよう調整した味だ。
 濃い味のシチューやキッシュは本場のレシピだけど、あれだっていわゆる庶民の味に近い。
 でも、このひと、名前こそ「ビストロ」だけど、フランスの星付きの店でポジションについていたのだ。
「実家も、一応星がついた店だったでしょ。でも、このローストに比べたら、全然話になんないんだなって思った」
 ひと口で、食べた人間を夢見心地にさせられる料理。
 私は、たった今、初めて食べた。
「桜子さんにそこまで言ってもらえると、本当に嬉しい」
「いや、本当に。あのね、ほづみくんがこの店をしたくてやってるって十分わかってるつもりの人間だけど、それでも、こんな料理作れるのに、カフェでいいの? って思っちゃうよ」
「あ、それはいいんだよ。こんなの、毎日作ってたら、過労死するし、とんでもない高級店になっちゃうから」
 あっさり言って、「僕、気楽に行ける店で、すっごい美味しいねーって食べてもらえるのが理想だから」と笑う。
「でも、よかった」
「なにが」
「桜子さん、こういうジビエも美味しく食べられるひとで」
「んー…ジビエ自体は、そんな得意じゃないんだけど」
 実のところ、食べられるけど好きというわけじゃない。
 牛肉と鹿肉があったら、迷わず牛を選ぶ。
 だけど、ほづみくんは意外そうに目を見張った。
「そうなの? 今まで、結構出してたし、食べに行ったりしてたのに」
「あ、それは別。ほづみくんが料理してくれたのは本当に美味しいし、連れてってくれるお店もお代わりできる美味しさだから。たぶん、ほづみくんと出会うまでに食べてたジビエがイマイチだったんじゃないかな」
「なんだ…」
 ホッとしたように息をついて、「無理させてたのかと思った」と呟く。
「そういう我慢はしないよー。無理に食べてたの、あとでわかったら、ほづみくん傷つくでしょ」
「うん。よかった」
 ピッカピカの皿を眺めて、「よかった」と繰り返す。
「今日さ、ホワイトディだろ」
「え…あ、そうか」
 すっかり忘れていた。というか、気にしたことがなかった。
 そう言うと、「だと思った」と笑う。
「チョコのお礼、なににしよっかなーって悩んで、せっかくだから美味しいチョコのお礼は美味しいものでしようと思ったんだ」
「三倍返しどころじゃないんですけど」
 味も原価も違いすぎる。
 だけど、ほづみくんは笑って本気にしない。
「僕、桜子さんみたいなプロのチョコなんて作れないよ。だから、今の僕に作れる最高のひと皿をってね」
「ほんっとーに! 最高だった。語彙なくなったもん。そういや、あの肉ってなに?」
「Perdreau」
「ペルドローって…あ、ヤマウズラ?」
「の、生後一年未満のやつだね」
 ジビエの鳥類の中でも、一番か二番かというくらいにメジャーなヤマウズラ。
 ええ?
「うそ、私、ヤマウズラなら何度か食べたことあるけど、あんな味じゃなかったし、美味しくもなかった」
「たぶん、狩猟後の処理が違ったんじゃないかなあ。あれ、フザンダージュに三週間以上かけてるし」
「三週間!?」
 Faisandageは、フランス語で「熟成」を意味する言葉で、語源はジビエとしてポピュラーなキジ(Faisan)を熟成させることから来たと言われている。
 ジビエは獲った直後は、味がしない。死後、体温が下がるのを待ち、死後硬直、硬直融解を経て、初めてあの独特の風味が出るのだ。
 だけど、私が知っているフザンダージュは、せいぜいが一週間から十日程度。三週間なんて、肉がもつんだろうか。
「傷が最小限で、獲ったときの傷がない、濡れてないって条件がいくつかあるんだけどね。とにかく、状態が最高にいいやつを、湿度と温度に気をつけて寝かせるんだよ。上手くいくと、抜いた内臓も全然腐敗臭とかしない」
「はー…よくそんなヤマウズラ、手に入ったね」
「昔の職場のツテでね。最愛の奥さんに、最高に美味しいロースト食べてもらいたいんだって言ったら、仕入れたやつの一番いいの持ってけって。日本のジビエって二月までって年が多いから、間に合うかってヒヤヒヤしたけど」
「ん、本当に最高に美味しかった。ロースト自体もハーブでマリネされてて、ジビエとの香りの相性ばっちりだったけど、あのソース、凄かった。食べた瞬間、胃がぎゅわってなって、全身の神経が舌に集中したみたいになったもん」
「あ、嬉しい。あれねえ、師匠直伝のソースなんだ。フレンチでヤマウズラのローストするときの定番のひとつなんだけど、山葡萄が入ってるの」
「山葡萄かあ。あのソース、ものすっごい濃厚で、ちょっと塩梅間違えたらしつこいだけになりそうなのに、山葡萄の酸味でいい感じに調和してたんだね」
 思い出すだけで、ヨダレが出る。
「今朝も思ったことだけど、ほづみくん、本当にソース系天才」
「もう、そんなに褒めても何も出ないよって言いたいところなんだけど」
 意味深に言葉を切り、「実は」と、とんでもないことを言い出した。
「さっき桜子さんが食べた残りのヤマウズラが、半身残っています」
「え」
 あ、そういや、もう一回分あるって言ってたな。
「桜子さんのおなかに余裕があるなら、もう半分、バターソテーにして食べちゃう?」
「食べる!」
 ガタッと椅子を鳴らして腰を上げた。
 ほづみくんは、ニマッと笑って、ぴっと指を立てた。
「キノコと合わせたバターソテー」
「美味しそう」
「シャキシャキ野菜と合わせたオレンジソテー」
「え」
「贅沢にソテーをスライスして、山葡萄ソースとキノコソテーを挟んだトーストサンド」
「おお…」
「ムネ肉をポワレにして、モモはコンフィの二刀流」
「ええー」
「さ、どうする?」
「まって、頭の処理が追いつかない」
「ついでに、オススメワインもあるからね」
「えええええーーーー」
 どうしよう……一種類しか味わえないなんて……。
 軽く絶望する私に、ほづみくんはやたら機嫌がいい。
「そんなに悩んでくれるなんて、腕をふるった甲斐があったなあ」
「本気出し過ぎですよ、旦那さん…」
「あれくらいしなきゃ、桜子さんの好物にならないだろ」
「好物っていうか、私の人生史上最高の味よ……あ、もしかして、今朝言ってたのって、これ?」
 私の好きなものを増やすのがんばるって…。
 ほづみくんは、ものっすごい満足そうな顔で大きく頷いた。
「うん。桜子さん、なんでも美味しいって食べてくれるけど、絶対これじゃないと! ってのは少ないから。そういうのが増えると、きっと人生、もっと楽しくなるよ」
「確かに、食べてる間、地に足がついてなかったけども」
 あんな美味しいものを知ってしまったら、楽しくなる以前に、困るんじゃないかなあ。
「どんどん舌が肥える」
「いいじゃん。僕は、桜子さんじゃないとダメなことばっかりだから、桜子さんにもそうなってほしいなあって」
「何言ってんの。とっくにほづみくんのごはんじゃないと、ダメになってるのに」
「そう?」
 あ、こいつ、本気で疑ってるな。
 なんで、自分のことにはこんなに自信ないのかなー。
 疑り深い旦那さんの顔に手を伸ばし、カウンター越しにぐいっと引き寄せる。
「うおっ」
「おかげさまで、料理もちゅーも、ほづみくんじゃないと満足できない身体です」
 唇を重ねると、背中に腕が回った。
 軽く舌と唇を触れ合わせるキスをして、目を開けると、視線が合う。
「僕も」
「ふふ。今日は、ヤマウズラのお礼にいっぱいサービスしちゃう」
「楽しみ」
 ちょっとドキッとするような色気を滲ませて笑う。
 あ、このまま流されるとダメだ。
「その前に、残りの半身食べさせて」
「あ、はい」
 あんな美味しいもの放り出してベッドに行っても、絶対集中できない。
 腕を離し、「そんなに気に入ってもらえるとは」と苦笑いするダンナを、何を言う、と睨んだ。
「あんなもの作っておいて、認識が甘い。てかね、滅多に食べられない上に、そもそも今年はもう食べられないってこと自体、ちょっとほづみくんを恨みそう」
「え」
「知らなければ、こんなに苦しい思いをすることもなかったのに。……なんか、その辺の失恋ソングにありそう」
「そんなに!?」
「旦那さんのせいで、禁断の味を知ってしまった」
「なんかいかがわしい!」
「ともかく、残りの半身、どうやって料理してもらうか悩むから、ちょっと待っててね」
「…なんか、好きな子に自分の男友達紹介しちゃったような気分になってるの、なんでだ」
 眉間にシワを寄せつつ、諦めたようなため息をついて、カウンター下の冷蔵庫を開ける。
 緑のワインボトルを取り出し、カウンターに載せた。
 古地図みたいなラベルが可愛い赤ワインだ。
「本日のオススメ、ブルネッロ・ディ・モンタルチ-ノです」
「お、イタリアワイン?」
「フランスのマディランと悩んだんだけどねー。なんだかんだ言って、ジビエに負けず、引き立ててさらに美味しくなるっていうと、どうしてもタンニン多めのどっしりした大地のワインって感じになるから。これは、熟成に四、五年は必須って言われるトスカーナのワインなんだよ。ワイン自体、飲みつけてないとちょいしんどいかもだけど、桜子さんなら美味しく飲めるはず」
 不思議なことに栓は開いていてアルミホイルが口に被せてある。
 それを、普段は使わないデキャンタに移す。
「デキャンタージュ?」
「うん。これね、二〇〇八年ので、そこまで古くないから数時間前に栓抜いて、今やってるけど、もっと古いやつは八時間とか六時間前に抜けって言われるくらいなんだ」
 赤ワイン用のグラスでテイスティングして、納得したように頷いてから、私用のグラスに注いでくれた。
 見るからに濃く、ずっしりとした色合いだ。
 ひと口含むと、渋みになるギリギリのところのタンニンとミネラルを感じる。
 だけど、香りがとんでもなくいい。
「スパイシーなのにまったり甘い匂いだねえ」
 芳醇で複雑で、確かに、これはジビエ向きだ。
「だろ。あのソースにもぴったりなんだよ」
 どこか得意げなほづみくんが、なんとなく可愛い。
 んー……これは、やっぱアレだな。
「決めた」
「ん、どうする?」
「もっかい、同じローストがいいです」
「いいの?」
「だって、このワイン、あのロースト向きに選んでくれたんでしょ。なら、やっぱそれが最高のマリアージュだと思うんだよね」
 目を丸くしたほづみくんが、ふっと嬉しそうに笑う。
「それでね、もいっこリクエストなんだけど」
「うん」
「残りの半身は半分こして、一緒にこのワイン、楽しんで」
 ほづみくん、きっと作るだけ作って、ろくに食べてないはず。
 でも、私に全部食べさせたいって言うと思うんだ。
 だから、間髪入れずに続けた。
「でー、夜用のまったりパテと、ガーリックトーストとー、シーザーサラダで宴会したい」
 何か言いかけて開いていた口を閉じ、「かしこまりました」と頷いた。
「どうせなら、スパニッシュオムレツとか作ろうか」
「オリーブ入りがいいです」
「はいはい」
 笑いながら厨房に戻ろうとするのを、追いかける。
「どしたの」
「私も手伝う。ひとりで呑んでても楽しくないんだもん」
「そっか」
 私の腰に腕を回し、深く息をついた。
「あーもう、本当にしんどい」
「料理疲れ?」
「じゃなくて。僕の奥さん、かわいすぎてしんどい」
「お、ありがとう?」
「あんまりよくわかってないとこも、可愛い」
 おでこにちゅーして、ぎゅっと抱きしめてくる。
 私も広い背中に腕を回して、力を込めた。シャツに料理の匂いとほづみくんの匂いが染みついていて、ホッとする。
「美味しいお料理、ありがとう」
「僕も、あんなに夢中で食べてくれてありがとう。本当に嬉しかった」
 視線を合わせて、笑いあう。
 美味しくて、幸せ。
 や、美味しいし、幸せ、かな。
「来年のバレンタイン、期待しててね」
「楽しみだけど、気が早いね?」
「今年のトリュフでこんな絶品がお礼にもらえるんなら、来年は私の持てる技術、結集させた傑作作ろうと思って」
「…すっげえプレッシャーですよ、奥さん」
「ホワイトディ、楽しみ〜」
 きっと、毎年好きなものが増えていくんだと思う。
 毎日、美味しいものを私のために作ってくれているけれど。
 私のための「特別」を用意して、来年も、その次もと約束してくれるんだろうから。


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