見出し画像

正月なおいしい話。



 年明け三日。
 今年の年越しは、ほづみくんとふたりきりで二年参りとご来光見物で過ごし、二日もテレビを見ながら、ほづみくんお手製のつまみと秘蔵の日本酒を楽しみ、特に何をするわけでもなく、だらだらのんびりした。
 うち、旦那さんがどんどんおさんどんして、面倒見てくれるんで、本気で座敷豚になってしまうのではと危惧したものの、汲めど尽きぬ酒樽でも買ったのかと思う勢いで出てくる名酒と和洋中取り混ぜて飽きる余地のないつまみの群れの前に完全敗北した。
 これぞ、寝正月。
 …とリビングの床かソファと同化しそうな一日の、翌日。
 今日は、御厨のお家に年始の挨拶だ。
 とは言っても、感染症が蔓延しているご時世なので、晩ごはんをいただいて帰る日帰り予定。
 でも、ほづみくんは荷物が多い。
 それというのも、去年やった「焼き立てパイ食べ放題デー」の話を聞きつけたかづみさんがゴネまくったから。
 年明け早々にかけてきた電話で、ほづみくん相手にいったいどんな交渉をしたのか、さっぱりわからないけど、結果的に承諾させたんだから、何かしらの交換条件を出したのだろうと思う。
 ともかく、御厨の家に着くなり、かづみさんたちが夜食を作ったり、コーヒーを淹れたりするのに使っているという小さい台所に連行された。
 家から持ってきた材料でパイを大量錬成する旦那を尻目に、曉子さんとお義兄さんに挟まれてお喋りに興じた、二時間後。
 私はなぜか、お手伝いの五月さんと曉子さんに寄ってたかって、晴れ着を着付けられていた。


「あらー、やっぱり桜子ちゃん、華やかな柄が似合うわー」
「本当に。この紅白梅の柄、普通は華やかすぎて難しいんですけど、さすがお嬢様」
 五月さん、何がさすがなのか、わっかんないです。
 …とは言い出せない雰囲気だ。
 パイを堪能した曉子さんに、「よっしゃ、そろそろやるか」とお屋敷の奥に引っ張り込まれて、三十分。
 初めて見る和室をもの珍しく眺めているうちに、服を剥かれ、タオルを巻かれと下準備をして、あっという間に立派な帯まで結ばれてしまった。
 でも、どうにも気になって仕方ないことがひとつ。
「あのう…これ、振袖では」
 うっすら全体的に金を帯びた白の地に、枝を伸ばした紅白梅と熨斗のめでたい柄だけど、畳につきそうな袖なのだ。
 私、一応既婚者なんだけども。
 だけど、五月さんはあっさりと笑う。
「独身じゃなくても、振袖って着ていいんですよ」
「え!? そうなんですか?」
 初耳もいいところってか、日本語教師だけど知らなかった。
「若い未婚女性のものになったのは、江戸時代くらいだそうで、それまでは男女の区別すらなかったそうですから。最近は、年齢や既婚未婚関係なく楽しまれる方も増えてるって言いますよ」
「へー…」
 着物って、もっと堅苦しくて決まりが絶対なのかと思ってたんだけど、そうでもないのかな。
 確かに、ハイネックシャツやブーツと合わせてるひと、見るようになったけど。
 しげしげと長い袖を眺める私に、曉子さんが横から付け足した。
「まあ、既婚者や年齢高めの独身が結婚式に着ていったら、いまだに顰蹙買うんだろうけど。今日は身内だけだし、何より桜子ちゃんの旦那を喜ばせるためだから」
「ほづみくん、ですか?」
「そ。パイ食べさせてくれたら、晴れ着姿の桜子ちゃん、見せてやるぞーって。ちょっとゴネてたみたいだけど、わりとあっさり了解したわ」
「もしかして、かづみさんが電話してきたとき、聞いてました?」
「もちろん」
 満面の笑みで頷く。
 そらーほづみくん、勝てるはずないわ。
「さ、次は髪を結いましょうね」
 五月さんが私の肩にバスタオルをかけて、部屋の隅の鏡台へと誘導する。
 曉子さんと二人がかりで、髪を編み、まとめ、ピンで留めていくのを、鏡越しに不思議な気持ちで眺めていた。
 ほづみくん以外のひとに、こんなふうに髪をセットしてもらうの、初めてじゃないかなあ。いづみさんにしてもらうのは、なんか違う気がするし。
 曉子さんが、楽しそうに髪を編み込んでいく。
「桜子ちゃんの髪、ツヤッツヤのサラッサラねえ」
「本当に。こんなに綺麗な黒髪のお嬢様、見たことないですよ」
 ふたりにベタ褒めされて、くすぐったい。
「毎日、ほづみくんが手入れしてくれるおかげです」
「あー…嫁を磨くことに心血注ぐ血筋だからねえ」
「お亡くなりになった旦那様も、毎日奥様のお手入れに余念がなかったですもんねえ」
 「奥様のお手入れ」って地味にパワーワードだな。
 しかし、五月さんのなじみっぷりよ…。
 話す間にも、どんどん髪の形が変わっていき、自分では何がどうなっているのかわからなくなってきたころ。 
「さ、これでいいわ」
 曉子さんが満足げに頷いて、櫛を置いた。
「あ、奥様、せっかくですからお化粧も」
「そうね。…桜子ちゃんなら、紅だけでいいかな」
 鏡台の引き出しから、曉子さんが取り出したのは貝紅だ。
 つい、かぶりつきで見つめてしまう。
「初めて見ました」
「ほんと? なら、おもしろいかも」
 水を含ませた紅筆で玉虫色の紅を溶かすと、端から落ち着いているのに鮮やかな赤に変わっていく。
「この色に見える理屈は知ってるんですけど、不思議」
「江戸時代の花魁なんかは、唇が玉虫色になるまで重ね塗りしたって言うんだけどね。はい、こっち向いて」
 何度も紅が唇をなぞり、曉子さんと五月さんが目を細めて確認する。
 それほど何を見ているのかと思ったら、重ね塗りの度合いで色の濃さが変わるのだという。
「んー……このくらい?」
「そうですねえ……着物の地色が淡い分、紅は濃くてもいいと思うんですけど」
「確かに。桜子ちゃん、色白だし、パッと目を引くほうがいいか」
 さらに数回重ねて、納得したように筆を置いた。
「よし、今度こそ完成」
「はい、手鏡で見てくださいな」
 五月さんが、鎌倉彫が見事な鏡を出してくれる。
 赤く染まった唇は、見たことがない赤さだけど、不思議と派手さはない。
 むしろ、顔色自体が血色良く見えるかも。
「あ、髪も見てね」
 鏡台に背中を向けて合わせ鏡で確認すると、綺麗に編み込んでまとめた髪につまみ細工の綺麗な髪飾りが挿してある。
 これも紅白梅の意匠で、花びらを象った飾りがさがっている。
 京都に住んでいたころ、時折すれ違う舞妓さんの髪や、四条通りの簪屋のショーウィンドウを憧れ混じりに眺めていたころの記憶が蘇った。
「可愛い…」
「でしょー。うんうん、桜子ちゃんにピッタリ」
 その言い方に引っかかるものがあったが、曉子さんに手を取られて、立ち上がった。
「さて、じゃあお披露目に行きましょうか。きっと、待ちかねてソワソワしてるから」
「はい。五月さんも、ありがとうございます」
「とんでもない。久しぶりの着付けで、楽しかったですよ」
「我が家、女子率低いものね。娘が欲しいって思ったことなかったんだけど、可愛い女子を着飾らせるのって楽しいわー」
 見るからにホクホクしている曉子さんの様子で、確信した。
 この髪飾り、たぶん元からあったものじゃなくて、私のために買っておいてくれたんだ。
 そうなると、パイが食べたいってほづみくんにゴネたのも、ただの食欲って単純な話じゃなさそうなんだけど。
「やっぱり可愛い娘がいると、家の中が華やかになっていいわね。正月はこうでなくっちゃ」
「奥様も晴れ着をお召しになればよろしいんですよ」
「ダメよう。龍輔さんが、私の和装は封印してって言い遺してるんだから」
「あらまあ。旦那様がお元気だったら、奥様とお嬢様とお揃いで誂えなんてなさってたかもしれませんねえ」
「絶対してたわね。それで、ほづみが悔しがるの」
 五月さんと一緒に楽しそうなのを見ていると、余計なことは言うまいと思う。
「ほづみくん、唐突に浴衣買ってきたりはしますけどね」
「あれ、あの子、着付けできたっけ」
「剣道してるから、自分のはあっさりしちゃいますね。私も、学生に頼まれて着せることがあるんで、最低限は」
「ああ、それで着付けてもらうのに慣れてらっしゃったんですね」
「そうよね。慣れてないひとに着付けるの、結構めんどいのに桜子ちゃんは楽だなーって思ったのよ」
 きゃいきゃい話しながら和室を出る。
 途中、厨房に戻る五月さんと別れて、リビングに向かった。
 暖まった室内は、加湿器で程よく空気が和らぎ、暖房が苦手な私でも過ごしやすい。ほづみくんとお義兄さんたちも移動していて、こたつでまったり寛ぎ中だった。
 いや、ほづみくんはぐったり天板に突っ伏してるけど。
「お待たせー。ほづみ、いつもより一層可愛い桜子ちゃんできたわよー」
「桜子さんはいつも……」
 身を起こして振り返り、凍りついたように硬直する。
 切長の目がまん丸になって、宇宙猫みたいになってるんだけど大丈夫か。
 足袋を履いた足でフローリングを踏んで、固まっているほづみくんの前に座る。
「どう?」
「…………」
「おーっ、華やか」
「やっぱ女子の晴れ着、いいよなあ」
 かづみさんが身を乗り出し、いづみさんが立ち上がって背後に回る。
 腰を屈めて、結った髪を見ているらしい。
「言ってくれたら、本職が本気でセットしたのに」
「駄目よ。今日は、『母が気合い入れて飾り立てた娘』がコンセプトなんだから」
 スパッと言って、曉子さんが私の肩越しにほづみくんを覗き込む。
「おーい、三男。感想くらい言いなさいな」
「……母さん」
「何よ」
「今度、肉持ってくるわ」
 私を凝視したまま、なんか言った。
「ほづみくん?」
「さいこう」
「えーと」
「今から初詣行く? 神社デートする?」
 大丈夫かなー。おかしい感じ、いつもと同じだとは思うんだけど。
「二年参りしたでしょ」
「何回行ってもいいんだよむしろ今すぐ行かないでいつ行くの」
 早口ノンブレスで言うと、「コート持ってくる」と立ち上がろうとする。
 だけど、曉子さんがガッと頭を掴んで押さえつけた。
「だっ」
「落ち着け、阿呆。まずは年始の挨拶からよ」
 言われて、思い至った。
 そういや、着いてすぐに台所でパイ祭りだったから、ろくに挨拶してないわ。
「何もかもすっ飛ばして台所に放り込んだの、誰だよ」
 ブツブツ言いながらも座り直したほづみくんの横に、私もきちんと正座する。
 いづみさんと曉子さんもこたつの定位置に収まったところで、ご挨拶が始まった。
「じゃあ、改めて。あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 きちんと頭を下げて、五人で挨拶を交わす。
 ちょっと気恥ずかしさもあるけど、家族でお正月って感じがして好きな瞬間だ。
 頭を上げて、顔を見合わせたところで、曉子さんがニンマリと笑った。
「さて、じゃあ正月のお楽しみね。はい、桜子ちゃん、お年玉」
 ずいっとこたつの上で差し出されたのは、リボンがかかった上質紙の袋だ。
「え、お年玉?」
「お金じゃないわよ。遠慮されるのわかってるから。ま、開けてみて」
 そこまで言われると、断りづらいし、正直好奇心もあって、手を伸ばした。
 ほづみくんも初耳らしく、訝しそうな顔ながら、一緒に袋を覗き込む。
 やたらずっしり重い袋の口を留めているシールを剥がすと、ほんのりよく知る匂いがした。
「チョコ…?」
 中身は、分厚い板チョコ数枚と、鈍い金色の紙箱だ。
 板チョコは透明なセロファンで包まれた上から、店のロゴらしい「B」の文字が印刷された厚紙で巻いてある。小さめのジュエリーボックスくらいの箱には、Bで始まるフランス語っぽい店名。
 私はイマイチ何かわからなかったけど、ほづみくんとかづみさんが声を上げた。
「あれ、このチョコって…」
「ベルナシオンじゃん!」
 腰を浮かせて目を丸くしているかづみさんをチラッと見て、ほづみくんが「ちょっとごめんね」と手を伸ばした。
 板チョコをひっくり返し、箱を持ち上げ、と一頻り観察して、軽く息をつく。
「母さん、これ、どうしたんだよ」
「個人輸入したの。今、フランス行けないんだもん」
「個人輸入って…日本じゃ売ってないんですか」
 完全に傍観態勢のいづみさんの横で、今にも立ち上がりそうなかづみさんがぶんぶんと首を縦に振った。
「フランスでも、最近やっとパリに支店ができたけど、それまではリヨンまで行かないと手に入らなかったんだよ。すんごい美味くて、チョコ好きの羨望の的でさ」
「へえ?」
「店の代名詞って言っていいのが、パレドールっていうコインサイズのガナッシュ入りチョコなんだけど……え、待て」
 熱弁を途中で止めて、私の前に置いた箱を凝視する。
「…桜子ちゃん」
「はい?」
「悪いんだけど、その箱、ちょっと開けてもらっていいか」
「え、はい」
 紙箱を開けると、中に一回り小さい同じ色の紙箱が入っている。
 随分と厳重だなと思いつつ、天井部分をパカっと開けると、店のロゴが印刷された透明フィルム越しに、ひと口サイズのチョコレートがぎっしり詰まっているのが見えた。
「もしかして、これがそのチョコ?」
「やっぱり!」
 興奮した様子で拳を握り、かづみさんは曉子さんに視線を向けた。
「これ、どうやって手に入れたんだよ」
「だから、個人輸入」
「じゃなくて! 冬季しか通販できないだろ。そんで、すんげー人気だから、この大容量ボックスはすぐ売り切れるんだ。俺も狙ってたのに、通販戦争負けたんだからな」
「そりゃあ、あんたより私の運が強かったってことでしょ」
 あっさり言って、曉子さんは私に視線を向けた。
「ぜーんぶ甘味バカが喋っちゃったけど、それ、最近の私のお気に入りなのよ。ほづみと楽しんで」
「ありがとうございます」
「板チョコのほうはね、ラムレーズンとかオレンジとかキャラメルとか、中にいろいろ入ってるの。八枚、全部味が違うから」
「わー! 楽しみ!」
 箱のチョコレートも板チョコも、ビターっぽくて、香りがとてもいいのだ。
 きっとすごく美味しいんだろうなあ。
 ついつい頬が緩む横で、ほづみくんが「よかったね」と笑う。
「うんっ」
 ……だがしかし。
 …………義兄の視線が痛い。
 恨みと羨望がドロドロに入り混じった眼差しで見つめてくるのに根負けして、「ちょっと食べます?」と言いかけたときだった。
 スパーンと曉子さんの平手がかづみさんの後頭部に炸裂し、ほづみくんがさっと私の前からチョコを片付けて袋に入れる。
「いってえ!」
 危うく天板にデコをぶつけるところだったかづみさんの正面から、今度はビシッとチョップをかました。
「アホ息子。妹からお年玉カツアゲすんな」
「いくら甘味狂いでも、桜子さんが喜んでるもんを横取りするなら容赦せんぞ」
「かづみ、俺もさすがに引くから諦めろ」
 三人に言われて、渋々腰を下ろす。
 見るからにしょんぼりしているのが、なんだかちょっとかわいそ可愛くて、頬の内側を噛み締めた。
 こういうとこ、ほづみくんと兄弟だなあ。
「あの、これ、今味見してもいいですか」
「え」
「桜子さん?」
「すんごい美味しそうな匂いだし、たくさんあるみたいだし。美味しいものなら、みんなで食べたほうが楽しいなーって」
「桜子ちゃ、ぐえっ」
 立ち上がって、ガバッと腕を広げたかづみさんをいづみさんが止める。
 セーターの首根っこを掴まれてジタバタする義兄はひとまず置いておいて、ほづみくんと曉子さんを見ると、そっくりな表情で苦笑いしていた。
「全く…アホな兄に気遣いやの妹って、タチの悪い組み合わせね」
「まあ、桜子さんらしいっちゃらしいけどさ」
「だって、夢枕に立たれても怖いもん」
 わりと本気で言うと、揃ってえらい微妙な顔で黙り込んだ。
 ため息をついて、曉子さんがやっと体勢を立て直したかづみさんに、水を向ける。
「ほれ、不甲斐なさで迷惑かけたお詫びに紅茶淹れてきなさい」
「へいへい」
「桜子ちゃん、先に食べてましょ。それ、桜子ちゃんに食べてほしくて取り寄せたんだから」
「はーい」
「すぐに淹れて来るから!」
 バタバタと出て行ったかづみさんを見送り、もう一度袋から出して、箱を開けた。
 ふわっと香るビターチョコの匂いに、顔が緩む。
「いい匂い」
「ん、さすがフランスのチョコって感じだよね」
 ひとつつまんで、金粉が載ったチョコレートを口に入れる。
 外側のダークチョコを噛むと、濃厚なガナッシュがとろけ出して、口いっぱいに広がった。
 鼻に抜けるカカオの匂いに、ほのかなバニラのような甘い香りが混ざっている。
 甘いガナッシュと、酸味が勝つのにまろやかなビターチョコが混じり合って、とんでもなく幸せな味。
「んーーー美味しい!」
「口に合ったみたいでよかったわ」
「すんごい美味しいです。外側のチョコだけでもいいお味なんですけど、中のガナッシュと混ざると幸せ二乗って感じ」
 ほづみくんにも箱を差し出して、もうひとつつまむ。
 箱いっぱいに詰まってるから、惜しみながら食べなくてよさそうなのも嬉しい。
「うん。評判通りに美味い。ここね、マロングラッセも美味しいんだ」
「そうなの?」
「フランスにいたときに、グラッセだけ食べたことがあるんだよ。あと、リキュール入りのボンボンも」
「パリに行けるようになったら、お店で買い物したいね」
「パリの店舗の近くに、ボンマルシェの食料品館もあったはずよ」
「そうなんですか? 美味しいもの地区?」
「散財地区とも言うわねー。私、あの辺で買い物すると、食品しか買ってないのに軽く二百ユーロは使ってたから」
「ひょえー」
 曉子さんといづみさんにもチョコレートを勧めて、お喋りに興じる。
 ほづみくんが、私の背中の帯をちょいちょい触って、首をかしげた。
「これ、なんて結び方?」
「蝶文庫。華やかで大人っぽいでしょ」
「へえ。五月さん?」
「私じゃ無理だからね。久しぶりに若い子に着せるからって、張り切ってたし」
「それ、袋帯だよな?」
 甘いものが得意ではないいづみさんが、こたつの菓子入れから煎餅を出してバリッと割った。チョコはひとつで十分だったようだ。
「そうよ。最初は丸帯で! って言ってたんだけど、あれ、重いし結ぶの大変でしょ。五月さんは資格持ってるから扱えるけど」
「資格って、着付師のですか?」
「そうそう。あのひと、狩衣みたいな平安衣装の着付けまでできるの」
「すごい」
 道理で、物凄く手際がいいと思った。着付けてもらったときも今も、全然苦しくないし。
 帯って、自分じゃ見えないもんなーと思いつつ、ダメ元で背中を覗き込む。
 ほづみくんが笑って、こたつの上に放り出していたスマホを手に取った。
「桜子さん、写真撮っといてあげよっか」
「うん。後で、ゆっくり見たい」
 こんな晴れ着、来たことないし。
 私、成人式のときもスーツだったんだよね。
 立ち上がったほづみくんが、後ろでカシャカシャシャッターを切る音がする。
 いつも通り、やたら数が多いのは気にしない。
 気が済んだのか、「よし」と頷いて、スマホの画面を私に向けた。
「こんな感じ」
「わー……これ、どうなってるんだろ?」
 いわゆる文庫結びの上に、綺麗に羽を広げた蝶が停まっているような変わり結びだ。
 普通の文庫より華やかで、でも賑やかすぎることもなくて、確かに大人っぽい。
 画面に見入る私に、ほづみくんが「データ、送っとくね」と笑う。
「せっかくだから、全身撮っとかない?」
「なら、庭に出てみたら? 今なら、蝋梅が咲いてるから」
「そうしよっか? で、そのまま、近所の初詣行こうよ」
「そうだね」
 頷いたものの、一瞬、何かを忘れているような気がした。
 なんだっけ、と思うと同時に、苦笑いしているようないづみさんと目が合う。
 …あ。
「お待たせー。紅茶淹れてきたぞ」
 ドアが開いて、トレイを抱えたかづみさんが戻ってきた。
 そうだ、紅茶淹れてくるって出て行ったんだった。
 すっかり忘れていた、と冷や汗が浮かぶ。
 ポットとカップが載ったトレイをこたつに置いて、私の後ろで膝をついているほづみくんを不思議そうに見る。
「あれ、ほづみ、どっか行くのか」
「あー…」
「なんでもないわよ。桜子ちゃんの帯、写真に撮ってただけ」
 さすがに、存在自体を忘れていたとは言い難いのか、ほづみくんは言葉を濁し、曉子さんはさらっと流した。
 私も、素知らぬふりで、チョコの箱をずずいと押しやる。
「これ、本当に美味しかったです」
「だろー? ほい、紅茶。ダージリンのセカンドフラッシュ」
 手早くマグカップを並べて、大容量サイズのポットから綺麗な水色の液体を注いだ。
 こちらもチョコに負けず劣らず、香りが一気に広がる。
「わー、いい匂い。ありがとうございます」
「いやいや、俺もお相伴に預かる気満々だし。いただきます」
 いづみさんの横に腰を落ち着けて、幸せそうな顔でチョコを口に入れる。
 横に座ったほづみくんが、微かに息をついた。
「うっかりしてた…」
「だねえ」
 かづみさんチョイスだけあって、チョコレートとの相性抜群の紅茶を啜り、もうひとつチョコを齧る。
 うん、美味しい。



 結局、のんびりお茶を楽しんだために、初詣はなしになり、蝋梅がちらほら咲く庭をほづみくんと散歩した。
「はー、さっむいねえ」
「大寒波だもんね。桜子さん、ショールだけで大丈夫?」
「うん。これ、カシミヤなんだって。分厚いし、ぬっくぬく」
 話すたびに白い息が舞う気温だけど、曉子さんに借りた大判のショールを被って、ほづみくんと手を繋いでいるからなんとかなっている。
 綺麗に晴れた空は、もう端が金色に染まっていて、あと少しすれば、日が落ちて気温も下がるだろう。
 ほづみくんと手を繋いだまま、足を止めて、まだ三分咲きといった蝋梅の枝を見上げた。
 象牙のような淡い色の花は、数が少なくても清しく甘い匂いを漂わせる。
「この髪飾りねえ」
「うん? 桜子さんによく似合ってる」
「ありがと。…もしかしたら、曉子さん、買っておいてくれたのかなあって」
「あ、気づいてたんだ」
「え、知ってたの?」
 驚いてほづみくんを見ると、あっさりと頷いた。
 いつもの黒いコートの上から巻いたダークグリーンのマフラーを片手で直しながら、「かづみ兄さんが電話してきたときさ」と続ける。
「母さんが、桜子さんに晴れ着用意してるから、とにかく絶対連れてこいって言ったんだよ。そのときに、髪飾りのこともね」
「そうなんだ…」
「前に、うちで着物着た正月があったじゃん。あのときに、桜子さんが嬉しそうにしてたの、母さんも嬉しかったらしいよ」
 そういえば、曉子さんとお義兄さんたちがうちに新年の挨拶に来た年に、曉子さんが持参した付け下げを着せてもらったことがあった。
「あれかあ……あれ、生まれて初めてのちゃんとした和服体験だったんだよね」
「そうそう。桜子さん、『こんな綺麗な着物、初めて着ました』って言ってただろ。それで、振袖着せたいなーって思ったんだって」
「そうだったんだ」
 成人式のときはスーツで、卒業式のときはレンタルの袴だった。
 それきり、私の人生に着物を着る機会なんて一度もなかったのだ。
「ほんとは着物から誂えたかったらしいんだけど、桜子さんが知ったら遠慮で死にそうなのと、僕がキレるのわかってたから我慢して、でも何も新しいものがないのも寂しいからって髪飾りは新調したらしいよ」
「曉子さん、私たちのこと、よくわかってるね…」
 つい視線が遠くなる。
 ほづみくんは笑って、私の肩を引き寄せた。
「帯があるから、いつもみたいに後ろから抱えらんないなー」
「確かに」
「着物だと、桜子さんのぬくさとかやわらかさもわかんないし」
「ぐるぐる巻きですからね…」
「でも、着崩した和服の色気は楽しみたい」
「こんな高そうな着物で無理です。第一、タオルやらなんやら巻いてるんだから、そうそう着崩れないよ」
「まあ、桜子さんのプロポーションだと、そうなるよね」
 いかにも残念そうに言って、こめかみの辺りに唇を押し当てた。
 大きな手が頬を撫でて、耳の後ろに留めた飾りを撫でる。
「髪飾りだけでも業腹なんだけど、ま、お年玉ってことで我慢する」
「これもお年玉?」
「きっと、持って帰れって言われるよ」
「えー…嬉しいんだけど、使い道なくてもったいない」
「ケースに入れて飾っておけばいいし、どうせまた着物着せられるから、そのときに使えばいいんだよ。母さんも、そのつもりだろうし」
「そっか」
 ポカポカ暖かいような気がする胸元を押さえて、ほづみくんにゆるっと抱きついた。
「お、積極的」
「今、ちょっと甘えたい気分」
「もー、本当に可愛いんだから。…正直、腹も立つんだけどね」
「なんで?」
「母さんと一緒にいると、なんか子どもっぽくなって可愛いんだもん」
「え、そう?」
 全く自覚がないだけに、どこがそう見えるのかわからない。
 でも、ほづみくんは言葉通り、不満そうに眉を上げてため息をついた。
「桜子さんが楽しそうだから、いいんだけどー。でも、一番に甘えるのは、僕にしといてよ」
「はーい」
 抱きついたまま子どもっぽさを押し出して返事をすると、軽く唇を塞がれた。
 ちゅ、ちゅ、と数回唇を重ねて、目元にもキスをする。
「なんかさ」
 低い呟きに目を開けると、鼻の頭にも唇を触れさせる。
「二十歳そこそこの桜子さんとデートしてる気分」
「さすがにサバ読みすぎだと思う」
「知らないと思うけど、商店街の一部のひとら、桜子さんのこと二十代前半だと思ってるんだよ」
「なにそれ初耳」
 いくらなんでも三十をとっくに超えた女をつかまえて何言ってんだ。
 でも、ほづみくんは真顔のまま、ため息をついて、きゅっと私を抱きしめた。
「こーんな可愛い柄の振袖も、ばっちり似合っちゃうしさー。あと十年もしたら、僕が年上でとんでもない歳の差夫婦だと思われそう」
 老け顔の遺伝子だという旦那のぼやきに、返す言葉が見つからない。
 代わりに、袖が許す範囲まで腕を上げて、広い背中を抱きしめた。
「はー、どうしよう…桜子さんと歩いてて、パパ活とか援交してるとか思われたら」
「さすがにそれはナイナイ。まず、私が未成年には見えないから」
「今どきのパパ活って成人女性もしてるらしいよ」
「それ、どこ情報?」
「豆腐屋」
「うちの風紀が乱れるから、今年こそ完全出禁にするべきだと思うの」
 新年早々、碌でもないと顔を顰めると、温かい唇が眉間に押しつけられる。
「やっぱそろそろ考えるべきかー」
「べきべき」
 夕暮れ前の風が吹いて、ふたりで身を縮こまらせる。
 顔を見合わせて、なぜか笑ってしまいながら、腕を組んだ。
「ま、次にやらかしたら考えよ」
「そだね。年明けに縁起でもないし」
 母屋に向かって、ゆっくりと歩き出す。
 ふと見上げた枝に、小さな蕾が見えた。
「ここって、蝋梅以外の花も咲くの?」
「咲くよー。梅と桃と桜。数は少ないけど、祖母が好きで」
「へー。家で春に向かう花全部見られるのって、素敵。お祖母様って身体弱かったって言うし、おうちで花見用だったのかな」
「まあ…それもあったみたいだけど」
 微妙な言い淀み方に視線を上げると、彫刻のような横顔。
 でも、口から出る言葉はとんでもない。
「花見したいなら、家ですればいいだろって理屈なんだよね…」
「……それは、家から出るな的な?」
「です」
「さすが御厨家本家…」
 聞く気もないけど、座敷牢とかあるんじゃないだろうな、あの母屋。
 しかし、聞けば聞くほど、とんでもエピソードが出てくる一族だ。
 組んだ腕をぎゅっと抱きしめる。
「桜子さん?」
「私たちは、一緒にいろんなとこでお花見しようね」
「うん」
 嬉しそうに笑ってくれるから、大丈夫。
 ほづみくん、閉じ込めたいっていうより、一緒にいられることをずっと重視するから、私がしっかり手を繋いでいればいいのだ。
「今日のお夕飯、なんだろうねえ」
「厨房チームが死ぬほど気合入れてたから、とんでもないものが出てくると思う」
「それは、量的な? 質的な?」
「両方。森上さんも来るからねー。僕、今日は絶対車って言っただろ」
「そういやそうだね。あれ、てっきりパイの材料あるからだと思ってたんだけど、違うの?」
「それもあるんだけど、電車とか泊まりって言うと、絶対泥酔するまで酒につき合わされるからなんだ」
「あらー」
「だから、桜子さんも油断しないでね。無理に飲ませるひとじゃないけど、勧めるのがめちゃくちゃ上手いから、気がついたら飲まされてる」
 なるほど……ワイン三本くらいまでなら、意識保ってられるんだけど、なんとかなるかな?
「がんばる」
「頑張る方向性、間違えないでよ!?」
 ほづみくんが顔を引き攣らせたと同時に、母屋のほうから声がする。
 どうやら、噂の森上さんが到着したらしい。
「そろそろ戻る?」
「そうだね。…僕、今生まれて初めて、実家に泊まることにしとけばよかったって思ってるよ」
「え、なんで? 森上さんに潰されちゃうんでしょ?」
「それはそうだけど、泊まりなら、明日も桜子さんに着物着てもらえるじゃん。そんで、初詣行く」
 どんな深い悩みを抱えているのかと思うような深刻な顔で、ツッコミどころしかないことばっかり言う。
「やっぱ、今からでも泊まるって言って来ようかな…」
「なんの準備もしてないのに無理だよー」
「近くにコンビニもあるし、着替えなら母さんが山と出してくると思うし」
「落ち着いて。泊まるんなら、森上さんに潰されちゃうんだから、どっちにしろ初詣行けないって」
「…む」
 難しい顔で黙り込んだほづみくんの腕にしがみつき、笑いを噛み殺す。
 普段は猪突猛進ってわけでもないのに、私のことになると後先考えないんだもんなあ。
 今年も、変なところで暴走しがちな旦那さんを宥めたり、一緒に突っ走ったりしながら、楽しく過ごすんだろう。
「とりあえず、ご馳走楽しみー」
「気に入った料理あったら、教えて。うちでも作るから」
「期待してます」
「桜子さんは飲んでもいいけど、ほどほどにね。あと、酔っていつもみたいに可愛く他人に懐かないように」
「えー、むずかしー」
「難しくないです、ずっと僕にくっついてればいいんです」
 早々とヤキモチ全開のほづみくんに、コンコンと森上さん対策を聞かされながら、腕を掴んだ手に、しっかりと力を入れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?