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お風呂に行こう

ふと思いついた、おいしい銭湯ネタ。




 八月下旬、まだまだ暑い。
 家の中や店は空調が効いているからいいけども、外は鉄板の上の蒸し器みたいだし、室内外の気温差でどうにも身体が怠くなってしまう。
 私も暑さに弱いけど、ほづみくんがとにかく汗をかくし、暑がりで、私とは別の意味で夏が辛い。
 独り暮らしだったときは、ガンガンに冷房を効かせて乗り切っていたらしいが、今は私に合わせているから、冷風機が手放せない。
 それでも、仕事中はケロッとしているのが不思議。
 そんなほづみくんが、最近ハマっているのが、メンソール系のボディソープや入浴剤だ。
 風呂上がりでも、ひんやりしてだいぶ気分的に楽になるのと、各メーカーからいろんな種類が出ているのがおもしろいと、バスタイムの楽しみに買い込んでいる。
 私も、スースーするのが気持ちいいし、ミントやシトラスの匂いが好きだしで、一緒になって楽しんでいた…わけだが。

「はーっ、今日もお疲れ様ー!」
「お疲れー。桜子さん、先に風呂入る? ごはん食べる?」
「ほづみくん、ごはん作ったらまた汗だくでしょ。食べてから一緒に入ろうよ。私、お風呂ちゃちゃっと洗って、お湯溜めとくし」
 店仕舞いして、二階に上がり、ふたり揃って、まずはと台所でスポーツドリンクを一気飲みする。
 私の手から空になったグラスを取り上げて、ほづみくんは「じゃあ、お願いします」と笑った。
「今日さー、こないだ買ったバスソルト入れてみようよ。湯上がりめちゃくちゃ冷えるっていうやつ」
「あ、あれね。冷えるって、体感の話だろうけど、どんなもんかな」
「まあ、その辺期待外れでも、レモンライムの匂いらしいから、スッキリしそうではあるよね。今日の夕飯、レモンバジルのチキンソテーパスタだから、レモン尽くしだけど」
「とりあえず、おなか空いたから、とっとと風呂の準備してきます」
 鳴り出しそうなハラを押さえて、台所を出る。
 今日も一日、汗だくだから、今すぐシャワー浴びたいくらいなんだけど。
 ごはん食べると、また汗かくもんなー。
 うちの風呂場は、ほづみくんの体格に合わせてあるとかで、一般住宅にしては、かなり広めだ。
 大人がふたりで入れるバスタブに洗い場があり、浴室暖房も付いている。
 全体的に贅沢な造りの家だけど、なんとなく風呂場には拘りを感じる、と同棲当初から思っていた。
 案の定、長いフランス暮らしから帰国して、子どものときにはたいして気にしていなかった湯船の快適さに気づいてしまったんだとか。
 そのわりに、いざ暮らしてみると、掃除のめんどくささに負けて、滅多に湯船を使うことはなかったらしいけど。
 柄のついたスポンジで簡単に浴槽を洗い、水で流す。
 栓をして、湯沸かし器のスイッチを押し……んん?
 いつもなら、軽い電子音がしてすぐにお湯が噴き出してくるのに、うんともすんとも言わない。
 あれ? なんで?
 途方に暮れたものの、そういや説明書があったはず、と思い出した。
 脱衣所の棚の奥を漁って、ビニル袋に保証書と一緒に一度も開封されていないらしい冊子を取り出す。
 ほづみくん、一度も見てないな、これ…。
 トラブル対応のページを開き、読んでみるが、解決できそうな項目がない。
 んー…ガスコンロなら、ライター部分の電池切れで火がつかないってのは、前に住んでた部屋であったけど……違うよなあ。一応、ガス湯沸かし器だけど……あれ、ほづみくん、トラブル時の対応保険、入ってるじゃん。
 説明書の最後のページに貼り付けられていた加入証明書をよく見ると、まだ保証期限内だ。
 対応営業時間内であることを確かめて、スマホを取るためにリビングに戻る。
「ほづみくーん、お風呂、大変っぽい」
「え?」
 カウンターから顔を出した旦那さんに、簡単に状況を説明すると、眉を寄せる。
「故障、かなあ」
「どうだろ。トラブル対応の保険入ってるから、とりあえずかけてみる」
「そんなの入ってた?」
「…まあ、忘れてるってか、入った自覚あるのか疑問だとは思ったけどね」
 本人は庶民だと言うが、完全に坊ちゃん育ちなせいか、諸々大雑把すぎるところがある。
 それが仇になったり、今みたいに救いになったりするから、いいとも悪いとも言いづらいんだけどさ。
「ともかくかけてみるから、ほづみくんはごはん作ってて」
「ありがと。なんか手伝うことがあったら言って」
 念のために風呂場に戻って、電話をかける。
 わりと簡単に繋がり、状況を説明して、指示を受けて操作板を開け、いろいろ試すこと数回。

「部品取り寄せするから、修理に十日前後かかるって…」
「まーじーでー」


 明日、近所の工務店さんが見に来てくれてからの判断になるが、過去の事例から言って、たぶん部品交換が必要な修理になるだろう、その部品の取り寄せにどんだけ頑張っても一週間はかかるんだけど、ということだった。
「まあ、この手の話って、最悪のケースを想定した前提だから、もっと簡単に直るかもしれないけど…少なくとも、今日はお風呂入れない」
「なんてこった…僕、あっせだくだよ…」
「私も…」
 顔を見合わせて、リビングで立ち尽くす。
 どうしたもんか。
「お湯が出ないだけで、水は出るんだよね。こんだけ暑いから、今日は水風呂でも…」
「経験上の話として、強く止めるよ」
 ドキッパリと、深刻な顔でほづみくんが首を振った。
 その表情も気になるけど、それ以上に「経験上」ってのが引っかかる。
「水風呂生活、したことあるの?」
「フランスでね。あっちって、日本みたく、何か壊れても即日対応なんて夢のまた夢だから。住んでた部屋の湯沸かしが壊れて、半月くらい水風呂生活だったんだけど、真夏だったし、暑がりだし、別にいいかと思ってたんだ。でもさ、人間って汗以外にもいろいろ出してるだろ」
「いろいろ……皮脂とか?」
「うん。そういうのと、シャンプーや石鹸もお湯を使うの前提でできてるから、どんだけ流したつもりでも、残るわけ。で、それが堆積していくと、フケとか異臭とか、とんでもねえことになります」
「うわあ…」
「だから、シャワーでもいいから、湯を使うのって重要なんだよ」
「なるほど……でも、お湯出ないしねえ。台所のは無事っぽいから、バケツリレーする?」
「ふたりだから、リレーになんないと思うし、風呂入る前に力尽きるよ。それくらいなら、兄さんに連絡して、御厨で風呂借りよう」
 あ、その手があったか。
 すぐそこ、という距離ではないけど、車で行けば苦になるほどじゃないし。
「じゃあ、何か手土産持って……なんかある?」
「んー…あ、うちのおやつ用に焼いたパウンドケーキがある。あれ、包んで持ってこう」
 すぐにほづみくんからかづみさんに連絡を入れて、「いつ来ても構わんぞ」と快諾してもらった。
 おかげで、汗まみれで寝ずに済んだわけだけども。
 自宅に風呂がないって、不便だと実感する日々の始まりだったのだ。



「…てなわけで、この数日、ほづみくんの実家でお世話になってるんですよ」
「大変そう…」
 カウンターに座った美樹子さんが眉を下げる。
 すっかり恒例になった、ひとり時間満喫中で、お代わりのコーヒーを提供したばかりだ。
 湯気の立つカップを抱えて、吹き冷ます。
「お風呂もらいに行くのって、荷物も増えるし、気も使うでしょ」
「そうなんですよね。気心知れた義実家なんですけど、お風呂だけ借りて帰るってのも…」
 実際、かづみさんたちも、五月さんたちも、いろいろ気を遣ってもてなしてくれるのが、逆に心苦しかったりする。
「冬場なら、ドライシャンプーとか蒸しタオルで乗り切れたかもしれないんですけど、いかんせん、この季節なので」
「飲食業ってのおいといても、厳しいですよね…」
「まあ、お風呂借りられるアテがあるだけでも、恵まれてると思うんですけど」
 御厨がもっと遠方だったり、そもそも実家がなかったり、本気で途方に暮れていた可能性だってあったのだ。
 嫌な顔をされるどころか、快く受け入れてもらえてるんだし、文句を言ったら本気でバチが当たる。
「それで、修理ってどのくらいかかるんです?」
「やっぱり取り寄せ部品が必要で、あと五日くらいですかね」
「結構かかるもんなんだ…」
「それでも、連絡受けた工務店さんが、見越して発注してくれてたおかげで、通常より三日以上早いそうなんですよ」
「三日は大きいですねえ」
 コーヒーを啜り、チーズケーキにたっぷりブルーベリーソースを載せて、口に入れる。
 幸せそうに頬を動かしていたが、ふと目を瞬かせた。
「そういや、この辺って銭湯ないんですか?」
「銭湯?」
「うちの大学病院のそばには、老舗の銭湯があるんですよ。医療スタッフはシャワー室がありますけど、患者さんの付き添いのご家族とかが利用してて。ここも、大学そばだし、学生用マンション多そうだし、公衆浴場ありそうなもんだなーって」
 考えたこともなかった。
 え、どうだろう。
「銭湯なら、お風呂借りるような気兼ねはないから、いいかと思ったんですけど」
「そうですね。広いお風呂も気持ちよさそうだし。…あるかなあ」
「今なら、地図アプリでも探せるらしいですよ」
「へーっ」
 他にお客さんもいないし、ちょっと失礼して、スマホを出してみる。
 現在地を指定してから「銭湯」で検索すると、すぐそばに見つかった。
「えー…こんな近くに? これ……あ、豆腐屋のすぐ裏辺り?」
「豆腐屋って、商店街の? なら、すぐそこですね」
「知らなかった。あの辺、煙突なんてあったかな」
「今の銭湯って、煙突ないとこが殆どらしいけど」
「そうなんですか?」
 実家にいたころ、見かける銭湯と言えば、巨大な煙突が目印みたいなものだったのに。
「今、CO2がどうとかうるさいですしね」
「あー、なるほど」
 こんなところにも、時代の変化が反映されるのか。
 まあ、行ったこと自体、殆どないからただのイメージって部分が大きいんだけど。
 それにしても、銭湯かあ…ほづみくん、どうかな?
 温泉とかは平気だから、公衆浴場自体に拒否感あるとかは、なさそう。
 職場の引率で温泉に行くと、「先生…水着は駄目なんですか…」と絶望的な顔で訴える学生が、毎回一定数いる。
 不特定多数の前で、全裸で風呂に入ることが耐え難いという文化圏出身の学生だが、そもそも、日本のように全裸で公衆浴場を使う習慣のある国や地域、というのが少数派らしい。
 台湾や欧米の一部地域では、全裸で入るところもあるにはあるが、国全体として、というのはあまり聞かない。
 思春期の殆どをフランスで過ごしている旦那さんが、温泉とかじゃない、普通の公衆浴場をどう思うか、ちょっと予想がつかないのだ。
 言うだけ言ってみるかと算段をつけつつ、樹くんたちへのお土産に悩み始めた美樹子さんの声に耳を傾けた。



 その日の夜、店を閉めて夕飯を食べた後、ほづみくんとふたりで銭湯に向かった。
 私が心配したような拒否反応は全くなく、「…銭湯…あったね! 日本には、そんなのが!」と手を打った。
 速攻でかづみさんに連絡して、「銭湯 必需品」で検索するという素早さだった。
 本人曰く、風呂の後で宴会に突入して、廻神さんに代行運転してもらうのが心苦しかったと。
 気持ちは、死ぬほどよくわかる。
 途中、コンビニでミニサイズのシャンプーとリンス、ボディソープのセットをふたつ買い込み、豆腐屋方面を目指して歩いていく。
「こんなとこに、風呂屋があったとは…」
「知らなかったよね。院生でも、泊まり込むのはいるんだけど、一応シャワー室あるから考えたこと、なかったし」
 夜が早い商店街だけあって、店の殆どが閉まっているから、静かなものだ。
 ここも、シャッターが閉まった豆腐屋の横の道を入ると、少し先に灯りが見えた。
 「湯」の暖簾がかかった入り口は、予想外に大きい。
「なんか、立派な銭湯」
「本当だ。それに、お客も多そう」
 入り口の横に、自転車が数台止まっているし、ちょっと覗き込んだ玄関に並ぶ靴箱は、木の割符がないものがちらほらある。
「じゃあ、一応、目安は四十分くらいで」
「オッケー。とりあえず、出たらメッセージだけ入れるね」
 それぞれ荷物を持って、靴を脱いだ。
 入り口をくぐると、「いらっしゃい」と声がかかる。
 代金を払って、目隠しの衝立の向こうに回ると、これまた存外広々とした脱衣所が広がっていた。
 おお…なんか、すっごい綺麗っていうか、清潔。
 マッサージチェアに、コント番組でしか見たことがない、頭を突っ込むタイプのドライヤーが並び、古い電話番号と一緒に不動産屋の広告が書かれた鏡が幅を利かせる。
 うわあ……写真撮って、授業の資料にしたい。
 しかし、服を脱ぎ着する場所を撮影できるわけもなく、手近なロッカーを選んで、服を脱ぐ。
 他のお客さんは、脱衣所にふたりくらいだから、気にもならず、洗面器とタオルなんかを持って、引き戸を開けた。
 塩素の匂いと一緒に、ムワッと熱気が押し寄せる。
 これまた某風呂トリップ映画で見たような、典型的な銭湯で、密かにテンションが上がる。
 中にいるのは、五人程度で、覚悟したような混み具合ではないことに、ちょっとホッとした。
 空いているシャワーの前に座り、お湯で身体を流すとふーっと息が出る。
 あー、気持ちいい。御厨のお家のお風呂も、広くて使いやすいんだけど、なんか種類が違う気持ちよさ。
 髪と身体を洗い、濡れた髪を髪ゴムとクリップでしっかり上に上げる。
 よし、おっきい風呂、堪能するか。
 密かに楽しみにしていたジェットバスを目指して、湯船に足を入れた。
 先客がいるから、飛沫が立たないように気をつけて、手すりと手すりの間に身を沈める。
 背中からうなじの辺りにまで、結構な圧力でバブルを叩きつけてくる感触に、変な声が出そう。おっさんみたいなやつ。
 なんとか堪えて、はーっと息をついたときだった。
「もしかして…桜子ちゃん?」
「え?」
 横からかかった声に驚いて顔を向けると、隣にいた先客が、目を細めて私を見つめている。
 よく知っているその顔に、つい声が大きくなった。
「結子さん?」
「あ、やっぱり桜子ちゃんだ。そうかなーって思ってたんだけど、コンタクト入れてないから自信がなくて」
 和菓子屋の奥さん、結子さんでした。
 髪括ってるし、湯気もあるしで、わかんなかった。
「や、私も全然気づいてなかったです。…結子さんちも、お風呂壊れた、とか?」
 まさかなあと思って訊ねたら、やっぱり笑われた。
「違う違う。うちのお風呂、小さいから、ときどき息抜きとリフレッシュ兼ねて、入りに来るのよ。桜子ちゃんちは、お風呂壊れたんだ?」
「全治十日の重傷です…」
「うわあ…」
 美樹子さんと同じような顔で眉を下げる。
「壊れたの、いつ? 今日?」
「や、数日前なんですけど、昨日まではほづみくんの実家が近いんで、お風呂もらいに行ってたんです。でも、こんな近くに銭湯あるってわかって、行ってみようかって」
「なるほどねー。確かに、お風呂入るのに出かけるのって、近くないとめんどいわ」
「気兼ねもしますしね。関係は良好なんですけど」
「わかるわかる。…うちも、義両親と同居だからさあ」
 声を顰めて、こそっと言うのに、苦労が偲ばれた。
 他に湯船に入ってるひと、いないし、近くの洗い場にも誰もいない。…よし。
「ご主人とは幼馴染なんですよね? それでも、やっぱり?」
「そりゃそうよー。あえて言う必要もないから黙ってるけど、結局は他人だもん」
「あー」
「月に数回くらい、誰にも気兼ねせず、風呂くらい入らせろって思う程度には、ね」
「お風呂借りただけですけど、ちょっとわかるかも。なんか、早く出なきゃって気分になるんですよ…」
「そうそう。だからって、銭湯は贅沢なんて言われたら、我慢切れて同居解消とかなりかねないから、旦那も巻き込んで、ときどき銭湯楽しんでるの」
「旦那さんも? 来てるんですか?」
「隣にいるはずよ。大抵、三馬鹿揃って風呂で遊んでる」
「三馬鹿って…」
「うちのと、豆腐屋、八百屋」
「マジで」
 ほづみくん、大丈夫かなあ?
 何がどう大丈夫じゃないのか、よくわからないけど、そもそもほづみくんって、他人と裸のつき合いとか、得意じゃないっぽい。
 まあ、私だって、得意なわけじゃないけども。
 ちょっとのぼせてきたので、身を起こして、肩を湯から出す。
 ふと、結子さんの視線が下に降りた。
「…セクハラの意図はないんだけど、やっぱ桜子ちゃん、大きいのね」
「…結子さんこそ、大きいじゃないですか」
 泡の間から見えるバスト、結構なものだ。
 でも、真面目な顔で首を振る。
「私は、他のとこにも肉ついてるもん。でも、脱衣所から桜子ちゃんが入ってきたとき、バービー人形みたいなのがいるって思ったのよ」
「あんなボンキュッボンじゃないですよ」
「ウェストが細い。なんか筋トレとかしてる?」
「自慢じゃないですけど、腹筋五回もできません」
「まじか…」
 自分の腹の辺りを摘んで、「和菓子、食べ過ぎかなあ」と呟く。
「小豆って、栄養豊富らしいし、美容によさそうですよね」
「うちの場合、しこたま砂糖も入れるから、カロリー結構なもんだけど。桜子ちゃん見習って、立ち仕事、増やそうかなー」
 他愛ない話をして、広い湯船で足を伸ばす。
 のんびり身体を解して、ほづみくんと約束した時間になる頃合いを見計らって、風呂から出た。
 結子さんは、「このあと、サウナで汗流すの〜」と手を振って見送ってくれた。


 脱衣所に戻ると、ほづみくんと約束した時間より、少し余裕があるくらいだった。
 念のためにスマホを確認して、ちょっと首をかしげる。
 連絡が来ていることは予想通りだから、別に驚くことでもないんだけど、問題は時間だ。
 私よりは早く上がるんだろうとは思ってたけど、早すぎない?
 表示されている送信時間は、二十分も前。
 実質、二十分入っていたかどうか、というところだろう。
 今出たよ、とメッセージを入れると、すぐに返事が来た。
 珍しいことに、「そこのコンビニ行ってるから、銭湯から出るときに電話して」とある。
 急いで髪を乾かして服を着込み、番台に挨拶して、靴箱を開けながら電話をかけると、いつも通り、ワンコール鳴る前に出た。
「もしもーし、今、靴履いてる」
『了解。すぐ行くから、動かないで』
 話す声は、特に変わりない、ように思う。
 なんだろう、喉乾いてたとか? でも、銭湯でも飲み物くらい、売ってるしなあ。
 暖簾の内側で待っていると、本当にすぐにやってきて、ガッと私の手を掴んだ。
「桜子さん、早く行こ」
「え、ええ?」
 いつになく焦っているようで、何かあるのか、あったのかと訊ねる間もなく、その場を後にした。
 商店街の通りに出たところで、やっと歩速を緩めたほづみくんは、ハーッと息をつく。
「どしたの、いったい」
「ごめん…あそこに長居したくなくて」
「なんでまた」
「今日さ、商店街の三馬鹿がいて」
「ああ、うん」
「囲まれて、セクハラされた」
「は?」
 女同士でセクハラってゆーと、さっきの結子さんとの会話や、胸触るとか触られるとかくらいしか思いつかないんだけど、男性の場合って、どこが話題になるんだ?
 つい、下半身に目がいきそうになったが、既のところでほづみくんが続けた。
「胸筋と腹筋触らせろって詰め寄られて」
「…なるほど」
 ごめん、私のほうがヤバかった。
「おっさん三人に触られまくるわ、筋トレ何してるかとか、プロテイン飲んでるかとか、根掘り葉掘り…」
「そりゃーお疲れさんだったね」
「堪りかねて、とっとと出て、逃げたんだよ」
「それで、メッセージ来てた時間、おかしかったのかあ」
 コックリ頷いた顔は、確かにげっそりしている。
 ご近所の風呂屋の弊害、こんなところに出てくるとは。
「明日からは、やっぱ御厨のお世話になったほうがいいね」
「うん…プライバシーは保たれるしね…」
「とりあえず、帰ろっか。あ、私、コンビニでアイス買いたい」
「いいよー。さっきは、どのくらい時間潰すかわからなくて、立ち読みしただけで出てきちゃったし。お詫び兼ねて買い物してこ」
 洗面用具が入ったトートバッグを私の手から取り上げて、大きな手がしっかりと手を繋ぐ。
「お風呂上がり、やっぱりあっついねえ」
「桜子さん、ちゃんと湯船浸かった?」
「ばっちり。結子さんとお喋りしてたから、のぼせかけたくらい」
「じゃあ、水分取らなきゃ」
 真夏の夜は、涼しさなんて全くないけど、ふたりで手を繋いで歩くのは楽しい。
「アイス…まったり系より、シャリシャリ系のがいいな。あるかな?」
「あそこのコンビニなら、アイスクリンあったと思うし…家に帰れば、グラニテがある」
「えー。なら、アイスは我慢して、水かお茶だけにしよっかな。で、うちでアイスティとグラニテ楽しむの」
「それもいいなあ。あ、でもさ、歩きながら食べるアイス、やたら美味くない?」
「…確かに。じゃあ、パピコにしよう。で、半分こする」
「それか、あれ、桜子さんが好きな、ふたつに割れるソーダ味のやつ」
「いいねー」
 サンダルを履いたほづみくんの足元から、ペタペタと音がする。
 商店街の街灯で、影が四方八方に長く伸びるのがおもしろい。
「私ねー、お風呂屋さんのイメージって、『神田川』でさ」
「かん…歌の?」
「それ。真夏だから、石鹸カタカタ鳴るほど冷えること、ないんだけど」
「あの歌、亭主関白宣言しちゃうやつと並んで、父の教訓ソングだったんだよ」
「…ご両親、お風呂屋さん、行ってたの?」
「や、女性を待たせるな、常に待つ側に回れってやつ」
「ああ…」
「まあ、女性の洗い髪が芯まで冷えるほど、男が長風呂してんなって話だけどさ」
「お風呂大好きな男性もいると思うの」
「それは否定しないけど、思いやりと想像力がなさすぎる」
「御厨家、男に厳しいよね…」
 お風呂屋さん行って、帰りにアイス齧って。
 一回こっきりで終わりになりそうだけど、まだまだ初めての経験ってあるもんだなあと思った。


 翌日から、「店長さん、めちゃくちゃ筋肉ついてるんだって? 俺も見たいから、一緒に銭湯行こうや」とゆー商店街民からのお誘いが急増し、ほづみくんがキレ散らかす事態になるとは、さすがに予想だにしなかった。

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