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聖オノレの祝日

 初の「エウロペ」コバナシ。
 本編2直後の時間軸。


 ファウンデーションクラスが終わるなり、前の席に座っていたエスティアが振り返った。
『ね、今日のランチ、シテ島行かない?』
『シテ?』
 ラテン語辞書を入れたタブレットを片付けながら、絵茉は記憶を漁る。
 わざわざエスティアが誘うほど気に入りの店が、あの辺りにあっただろうか。
 シテ島はサンルイ島と並んでセーヌ川に浮かぶ中州の名称だが、パリ屈指の高級住宅地兼観光地だ。
 パリの始まりの地とも言われ、「シテ島に住む者」を意味する古仏語が現代フランス語で市民を表すcitoyenの語源になったとされる。
 ただ、それだけに、物価もダントツに高い。
 貴族令嬢ではあるが、普段は絵茉が意識することがないくらいに庶民派な生活を送るエスティアが贔屓にする店の心当たりはゼロだ。
『シテで何食べるの? アイス?』
『ベルティヨンはサンルイでしょ。第一、アイスじゃランチにならん。今、パン祭りやってるのよ』
『…パン祭り?』
 瞬間、絵茉の脳裏に広がったのは、パンの袋についたシールを集めて食器をもらう例のキャンペーンだ。
 ヤマ●キ春のパンまつり……フランスで?
『エスティア、シール集めてるの?』
『なんて?』
 緑の目が怪訝そうに細められる。
 あ、これ、たぶん違うわ。
『ごめん、なんでもない。シテ島でパン祭り……La fête du pain?』
『そう。次の日曜、サントノレの祝日だから、その前後でやってるのよ。パリのパン屋と招待国のパン屋がその場でパン焼いて、試食や販売してて楽しいの』
『へーっ、楽しそう』
『適当に飲むものだけ買ってって、パン見繕って、なんちゃってピクニックしようよ。今日、いい天気だし』
『いいね』
 机の上を片付け、通学に使っているトートバッグにまとめて、席を立つ。
 他のクラスメイトと挨拶を交わしながら教室を出た。
『メトロで行く? 自転車?』
『シテだと四号線だよね。乗り換えめんどいから、ここからメトロで適当に市内まで出て、そこから自転車で行こっか』
 まずはと、大学のカフェテリアでペットボトルのミネラルウォーターを買い込む。パリ市内には飲み物の自動販売機は殆どなく、スーパーや小売店で購入するしかないが、日本のコンビニのようにいつでもどこでも買い物ができる環境ではないのだ。
 それでも、マリアやエスティアに言わせれば、営業時間の長いコンビニエンスストア形態の店が増え、日曜でも買い物に困らないようになっている分、かなり便利にはなっているらしい。
 一年中、朝でも深夜でもコンビニで食料品や日用雑貨が買える国で生まれ育った絵茉としては、不便さは感じるものの、見方を変えれば、日本の便利さが少々常軌を逸しているようにも思える。
 でも、夜中に食べる熱々のピザまんは正義なんだよなあ…。
 フランスではまず味わえない、チープなトマト味にとろけるチーズの組み合わせ。ちょっと食べたいと思いつつ、バッグにペットボトルを仕舞い込んだ。
 桃フレーバーの紅茶も買うべきか悩んでいたエスティアが、「やっぱやめとこ」と顔を上げたと同時に、後ろから知った声が「絵茉!」と呼ぶ。
『あれ、シャルル』
 振り返った先で、シャルルが手を振っていた。
 昼時で、学生で混み合うカフェテリアなのに、彼の周りはひとが避け、しかし視線だけは死ぬほど集まる。
 当然、彼が笑顔で歩み寄る先の絵茉とエスティアも、同様に注目される。
 いや、もともとエスティアは人目引くんだけど。
 絵茉たちの前まで来たシャルルは、「見つけられてよかった」と笑った。
『ランチがまだなら、一緒にどうかと思って』
 顔を見合わせる絵茉とエスティアの心中は、全く別のものだったが、少なくとも絵茉が気づくことはなかった。
『実は、これから外で食べようと思ってて』
 絵茉が言えば、腕組みしたエスティアが後ろに続く。
『ええ。せっかく市内からこっちまで移動してきたところを悪いけど。私たち、これからセーヌでピクニックなの』
 言外に、「今日も絵茉の尻を追いかけてきたのか」と皮肉ったエスティアに、シャルルは一瞬黙り込んだ。
 これでも多少のことには動じない御曹司だが、ダンスレッスンのときに、無様にも壁ドンされ、締め上げられたことが少々トラウマになっているのだ。
 だが、舞踏会での大失点を全く巻き返せていない自覚もあるだけに、学生であるというアドバンテージを最大限有効活用しなくては、と己を奮い立たせる。
『もしよかったら、僕も一緒にいいかな?』
 またもや顔を見合わせた後、絵茉は「んー…?」と首をかしげた。
『シャルルがどうってことじゃないんだけど、ヴィクトールが』
『…殿下が?』
『シャルルとあんまり仲良くしないでほしいって』
 瞬間、エスティアとシャルルの顔が死んだ。
 げんなりとかげっそりとか、言いようがあるかもしれないが、とにかく目が死んでいる。
 ため息を飲み込みつつ、エスティアが確認する。
『殿下が、シャルル・カローヌと仲良くするなって?』
『うん。なんか侯爵夫人のことがまだ全部片付いてないから、カローヌ本家のひとたちと接触するのは注意してほしいって。私、その辺慣れてないし、無自覚でまずいことして、ヴィクトールの足引っ張ってもって思うし、暫く前みたいにお茶や食事するのはやめとこうかなって』
『なるほどね…』
 上手いこと言ってるなあと半分本気で感心するエスティアをよそに、シャルルは込み上げる怒りを抑え込むのに必死だ。
 怒りの矛先は、当然自分の母親と、それを巧妙に利用するヴィクトールだが、身(内)から出た錆なのでどうしようもない。
 が、大人しく引っ込むほど、諦めがいいわけでもないのだ。
『大丈夫』
 無駄に力強い断言に、三度、絵茉とエスティアは顔を見合わせる。
『何が大丈夫?』
『だって、ふたりきりじゃないだろう。マドモワゼル・フィンチリーが一緒だし、彼女ならそういうところにも気がつくだろうから!』
 途端に、エスティアの目に殺気が籠るが、シャルルは腹に力を入れて続けた。
『それに、殿下が気にしてるのは、母とのことだろう? なら、そっち関係の話をしなければいいだけだしね』
『う、ん』
 煮え切らない返事をする絵茉の心中は、複雑だ。
 シャルルに言ったことは嘘ではないが、それよりも、ヴィクトール自身がシャルルのことを心良く思っていないことが引っかかっている。
 舞踏会の翌日、プロヴァンでデートしたときに聞かされた話を思い出す。

「シャルル・カローヌが、パートナー交換を渋った背景があるんだよ」

 当初、絵茉が考えたように、パートナー交換自体に問題はなかったことに加え、シャルルが裏でファッションメゾンとバーチャルファッションショーを計画していたことを教えられた。
 絵茉自身は、舞踏会が完全に私的なものではないと知っていたから、ファッションショーのことはなんとも思わないし、そういう事情があったのならパートナー交換に乗り気になれなかったのも仕方ないとは思う。正直に教えてくれなかったことについては、不信感がないでもないが、元からシャルルへの信頼度が高くないので大きく心証が変わることはなかった。
 だが、ヴィクトールは、セシリアをパートナーにしたことで、一時的にでも絵茉を傷つけたことが許せないらしい。
 セシリアをパートナーにした件は自身が決めたことだとは言え、ジャンヌとの揉め事を含めて、シャルルが小賢しい真似をしなければ起きるはずがない騒動だった、と考えているようだ。
 …と、シャルルの絵茉への気持ちは一切匂わせず、しかし、絵茉がシャルルを避けたい気持ちになるよう、巧みに誘導している公子殿下である。
 エスティアはエスティアで、絵茉にしては珍しく、はっきりとシャルルを遠ざけたがっている様子なのを感じ取り、しかし同時にシャルルが多少のことでは諦めなさそうなのも察知し、頭を抱えたくなっていた。
 水くらい、大学出てから買えばよかったと後悔しても遅い。
 ため息をついて、「まあ」と口を開く。
『ランチくらいなら、いいんじゃない? 私も注意してるし……それより、私たちはメトロと自転車で行くつもりだけど、あなた、自転車乗れるの?』
『自転車でも一輪車でも乗れるけど、車があるから乗っていけばいい』
 思いがけない絵茉の消極的な態度に肝を冷やしていたシャルルだが、エスティアの助け舟のように思える言葉に、ホッと息をつく。
 だが、長身の美女はくっきりと眉間に皺を刻んだ。
『あのね、私たちが行くのはシテのパン祭りなの。カローヌ家の高級車で乗りつけて、パパラッチでも招き寄せることになったらどうすんの。現地集合なら離れたとこで降りて、一緒に行く気なら今すぐ護衛に連絡しなさい』
『わかった』
 シャルルがスマホを取り出すのを横目に、絵茉にこそっと囁く。
『今のうちに、殿下に連絡しな』
『え?』
『絵茉があんだけ渋るのって、殿下絡みなんでしょ。なら、事前にちゃんと状況を説明しておいたほうが、後から別ルートでバレるよりずっとマシ。私も一緒だからって言っておけば、安心させられるだろうし』
『そっか』
 目を瞬かせて、スマホを出した絵茉は、チラッとエスティアを見上げた。
『なに?』
『私、こういうとこドンくさいから、気が利かないなって。ありがとう』
『絵茉のは恋愛的な駆け引きに慣れてないんでしょ。これから慣れていけばいいのよ』
『ん』
『まあ、絵茉の場合はあれよ、困ったら、まず殿下に連絡。それで、大抵のことはなんとかなる』
『なんで?』
 メッセージアプリに入力しながら、少々不満に思って眉を寄せた。
 それでは恋人と言うより、保護者ではないかと思ったからだ。
 だが、エスティアは護衛と通話しているシャルルを横目で見て、肩を竦める。
『そりゃ、殿下やシャルル・カローヌの世界と、こっち側の世界じゃ、常識や価値観が違うからよ。絵茉が良かれと思った判断が、あっちじゃ通用しないなんてこと、ザラでしょ』
『……なるほど』
 それを言うなら、エスティアもあちら側ではないのかと思ったが、何かが決定的に違う気がしたので、そこは黙っておく。
『だから、今みたいに、ちょっとマズいかもなー、でも状況的に断れなかったけど、みたいなときは、おかしな遠慮せずに殿下に連絡するのが一番面倒がないの』
『それは…いろいろやらかしちゃった後始末するより、ヴィクトール的に楽だからってこと?』
『その通り。刃物持ってる子どもからさっさと刃物取り上げるほうが、問題は簡単に解決できるし、事後策も立てやすいからね。怪我してからじゃ、いろいろ大変』
 そういう考え方もあるのか、と目から鱗だ。
 そっか…全部自力でどうにかできることならいいけど、ヴィクトールが関係するんなら問題が小さいうちに頼ったほうが負担が少ないのか…。
 他人に甘えることが苦手な絵茉には、実にツボをついた説明だった。
 メッセージを無事に送り、スマホをバッグに落とし込む。
 ちょうど同じタイミングで通話を終えたシャルルが、「お待たせ」と振り返った。
『シテ付近の人出を考えると、僕は現地集合のほうがいいみたいだ。ふたりがあっちについたら、連絡をくれる?』
『了解。じゃあ、あとで』
 校門まで一緒に行ってもよさそうなものだが、これ以上周囲の視線を集めるのはごめんだと、エスティアとふたり、さっさと離脱する。
 シャルル自身を嫌いではないし、舞踏会でのことも、ヴィクトールほど彼に責任があるとも思っていないが、恋人が気分を害するとわかっている相手を殊更優先する理由があるとも考えない。
 こういうときに、キッパリ断れるだけの強さとか潔さを身につけないとな、とシャルルが知ったら絶望しそうなことを考えつつ、歩速を上げたのだった。



 シテ島そばのステーションに自転車を返し、歩いて会場に向かう。
 五月の明るい陽射しと、カラッと乾いた空気が心地よく、観光客も含めて人出は多い。
 ノートルダム大聖堂に向かって歩くに連れ、空腹を刺激する香ばしい匂いが濃くなり、混み合ってくる。
 大聖堂前の広場に到着したときには、絵茉もエスティアもいつ腹の虫が大音声で鳴き出さないかとヒヤヒヤするほどだった。
『すっごいいい匂い!』
『でしょー!? 私、イギリスのものでも普通に美味しく食べる人間だけど、パンだけはほんっとにフランス大勝利だと思うもん。我が国が誇れるのは、モッサモサのスコーンとクランペットくらいよ』
 褒めてるのか貶しているのかわからないことを言いながら、エスティアは「まずはランチゲットしようか」と居並ぶ白いテントに向かって歩き出す。
 それについて行きながら、絵茉は物珍しく辺りを見回した。
 白い屋根の下にスタンドが出て、ずらりとパンが並んでいる。
 バゲットをはじめ、クロワッサンにパン・オ・ショコラといったオーソドックスなものから、ペストリーにピロシキのような具材を包んで焼き上げた惣菜パン、ブリオッシュと様々なパンが山盛りだ。
 中には、タルトシトロンやショコラタルト、こんがり焼けたショソン・オ・ポムにカヌレのような焼き菓子の類が充実している店もある。
 いちごがたっぷり載ったペストリーにフラフラしそうになるが、エスティアにはっしと腕を掴まれた。
『気持ちはわかるけど、落ち着け。欲望のままに買うと、あとで地獄見るから』
『…そうなの?』
『初めて来たとき、食べ過ぎで吐きかけた女が言うことだから信用しろ』
『わかった』
 真顔で言われて、こっくり頷く。
 エスティアはスマホを出して、何やら確認しつつ、「獲物を絞ろう」と続けた。
『まずはランチ用にサンドイッチ系と塩味系のパン狙って…絵茉、デザートも入りそう?』
『うん。おなかペコペコだし、甘いものは別腹』
『だな。なら、いくつか買ってシェアしよう。サンドイッチが充実してるって評判の店、あっちにあるから、そこからスタートして、そこのスイーツたっぷりの店に戻ってこよっか』
『オッケー。私、クロワッサンも食べたい』
『私、どっかでフィグ入りのパン買いたい』
 最後のほうは会話になっていないが、お互い気にせず、テントに突撃した。
 空腹で目移りが激しいが、暴走しそうになるのを堪え、品定めしていく。
『エスティア、あのサンドイッチは絶対買いだと思う』
『ねえねえっ、あれっ、あの丸パン、フィグがあふれそうっ』
『うわー、パニーニ焼きたてだって。買っちゃおう』
『ちょっと…あのリンゴタルト、あの大きさで三ユーロだって…』
 普段フラットな絵茉も、年齢以上に落ち着いているエスティアも、どんどんテンションが上がり、荷物が増えていく。
 結局、何も絞れず、食べたいものをしこたま買い込んでしまった。
 ふと冷静になって、お互いの両腕に抱えたパンを眺めるが、「ま、仕方ない」と笑う。
『残ったら、持って帰って食べればいいんだし』
『私も夜食にする。夜中にメイドさんにお願いするの、気兼ねするし』
『よく考えたら、絵茉のほうがよっぽど御令嬢らしい生活してるよね…』
『だから気兼ねするんだって』
 話しながら、大聖堂裏手にある公園に移動した。
 ここは、ノートルダム大聖堂を背面から見られる場所で、大きな噴水がある広場のような場所だ。
 巨木が多いことで日陰があり、テーブルやベンチもあるために、絵茉たちと同じく、パンを買った人々が思い思いに寛いでいる。
 絵茉とエスティアも空いているテーブルに落ち着き、戦利品を広げた。
 ハムとチーズのバゲットサンド、モッツァレラチーズとトマト、ハムとバジルのホットパニーニ、アンチョビとオリーブ、パテのバンズサンド、ドライフィグがたっぷりのカンパーニュ、オレンジとクリームチーズのフィセルに巨大なクロワッサン。
 貝殻型のアップルパイに、カスタードとミラベルのコンフィチュールがこぼれそうなペストリー、キャラメルソースがずっしり詰まったブリオッシュ。
『やっぱ買いすぎた…?』
『んー…まあ、私らふたりなら……ん?』
 ミネラルウォーターのキャップを捻ったエスティアが、首をかしげた。
 それを見て、絵茉も首をかしげ、数秒後、「あ」と声を揃えた。
『しまった、シャルルに連絡するの忘れてた』
『私も。完全に忘却の彼方だったわ』
 嫌がらせではなく、空腹にボディブローを食らわすパンの匂いに、完璧に忘れていたのだ。
 さすがに放置ではまずいだろうと、ふたりしてアタフタとスマホを探す。
 授業前にマナーモードにしたっきりで、バイブレーション設定をしていないために、着信があっても気づかないのだ。
 シャルルにしてみれば、すっぽかされたと思っても仕方ない。
 案の定、絵茉にもエスティアにも、十件以上の着信があって、つい揃って首を竦めてしまった。
 折り返すと、すぐに出て、謝罪するも盛大に嘆かれる。
『本当にごめんっ。パンの山を見たら、理性が飛んでいっちゃって』
『僕はパンの山に負ける程度の価値しかないんだね…』
 スピーカーにしたスマホから流れる嘆きに、絵茉は眉を下げたが、エスティアは強かった。
『そりゃそうよ。あなたの顔見てもおなかはふくれないからね。忘れてたことは謝るけど、いつまでもグダグダ言うなら、今日はこれで解散にしましょ。パニーニが冷める』
『今から行くからっ。Fontaine de la Viergeだね!』
 ブチッと通話が切れたスマホを眺める絵茉に、エスティアはパニーニの包みを取り上げた。
『とりあえず食べよう。冷める』
『今の、嫌味とかじゃなくて本気だったんだね…』
『冷めたパニーニなんて、クロテッドクリームのないスコーンより許し難いわ』
 キッパリ言って、バッグから多目的ナイフを取り出した。
 常にエスティアが携帯している便利グッズで、銃刀法みたいなものに引っかからないのかと常々思っているが、絵茉も便利にお世話になっているので文句はない。
 豪快に真っ二つにしたパニーニを取り、それぞれ食前の挨拶を済ませてかぶりついた。
「……んまーいっ」
 つい日本語で叫んだくらい、美味しい。
 表面がカリッと焼けた白パンは、いい感じにふわっともちっとしたパンで、ミルキーなチーズとハムの塩気が絡まり、堪らない。ペースト状のバジルもマヨネーズ風のソースと相性がよく、よく伸びるチーズもジューシーで酸味が強いトマトも、それぞれが喧嘩することなくまとまっている。
 向かいに座ったエスティアも、大口で頬張ったひと口目を飲み込むと、「っかー!」とどこぞのオヤジのような声を上げた。
『美味しいっ。最高! ワイン飲みたいっ』
『わかる…これ、スパークリングでスッキリ爽やかに流し込みたい』
『私は赤かなー。イタリアの軽めのやつと相性良さそう』
『この近く、ワインショップってなかったっけ』
 絵茉の呟きに、エスティアが無言でスマホを操作する。
 それを眺めて大口でパニーニに齧りついて、行儀が悪いと思いつつ、絵茉もテーブルに放りっぱなしだったスマホに手を伸ばした。
 だが。
『お嬢さん方、ワインはいかがですか』
 突如、頭上から降った声に硬直する。
 パンを咥えたまま、顔を上げ、大天使の微笑がこちらを見下ろしていることに、完全に固まった。
 サングラスをかけているから、まだたいして周囲の注目を集めるようなことにはなっていないが、多少隠れていようとも見間違えようのない美貌だ。
 仕事の途中だったのか、ネクタイこそないがシャツとジャケットというスタイルで、パリのランチタイムによく見かける休憩中のビジネスマンといった風体だ。
「え…ヴィクトール?」
「やあ、絵茉」
「ちょ、え、なんで!?」
「君がシテでピクニックランチだって連絡をくれたんだろう?」
「あ…あれは、ただの報告っていうか…なんで!?」
 助けを求めるようにエスティアに視線を向けるが、絵茉と同じくパニーニにかぶりついたままだった美女は、盛大にため息をついた。
『なんかよくわかりませんが、フットワーク軽すぎません?』
『たまたまだよ。今日はパワーランチの予定がなく、パリ市内にいたから、駆けつけられた。座っても?』
 ふたりに訊ねるものだから、断る理由もなく頷いた。
 当たり前のような顔で絵茉の隣に腰を下ろしたヴィクトールは、持っていた紙袋をテーブルに置く。手提げの厚紙製と、絵茉たちも持っていたパンが入っているものだ。
『ワインを持ってきたんだけど、どうかな』
『すごいタイミングです』
『ほんとに。殿下、もしかして絵茉のスマホに盗聴アプリとかGPSでも仕込んでます?』
 あながち冗談でもなさそうな顔で訊ねたエスティアに腹を立てた様子もなく、ヴィクトールは肩を竦めた。
『それができれば楽でいいが、現実はもっとアナログだ。ここは秘書が駆けずり回って探してくれて、差し入れはパン全般に合うものを探した結果』
『なるほど。では、ありがたくいただきます』
 多機能ナイフからワインオープナーを引っ張り出して、器用に開けていくエスティアに、さすがのヴィクトールも少々呆気に取られた様子だ。
 一緒に入っていたプラスチックの使い捨てのコップを出して、並べていた絵茉に視線を向ける。
「さすがというか、彼女はいつもこんな感じ?」
「そうですね。エスティアとなら、無人島に漂着しても生きていける気がします」
 恋人が友人に寄せる全幅の信頼に、ヨーロッパ社交界に鳴り響く美貌が複雑そうな色を浮かべる。
 だが、ヴィクトールの心境などお構いなしに、ポン、といい音を立ててコルクが抜けた。
『殿下、こっちの赤も開けていいですか』
『もちろん。全部飲んでもらうつもりで持ってきているから』
 結局、赤白ロゼと三本を開けて、乾杯した。
『いくつか選んで買ってきたんだが、君たちが買ったものとかぶっていないかな』
『どうでしょう……あ、大丈夫そうです』
 ヴィクトールが買ってきたものは、塩味のマフィン類と招待国であるイタリアのパン屋が出している揚げ菓子だ。
 これも気になってたんだーと内心喜ぶ絵茉をよそに、エスティアが微妙な顔でテーブルを眺める。
『どうでもいいですけど、殿下、ご自分で買い物されたんですか』
『パンくらい買えるが、マドモワゼルは私をどんな世間知らずだと思っているのか気になるね』
『まあ、マルシェで百ユーロ札出しそうとは思ってますけど』
『エスティア…』
 それは死ぬほど迷惑がられるやつ…と視線が遠くなる。
 ヴィクトールは、ここまで素で女性に邪険にされることがないために、少々おもしろさすら覚えていた。
 絵茉に抱くものとは全く別次元のものだが、好意…好感と言ってもいい。
『なんかすっごい量になってきたけど……適当に切り分けちゃう?』
 気を取り直すように言った絵茉に、エスティアも頷く。
『そうだね。サンド、調子に乗って、一番大きいやつ買ったし』
 エスティアがナイフで切り分けたものを、絵茉が破って広げた紙袋の上に並べていく。
 各々、好きなものを取り、ワイン片手に味わう。
 絵茉はまずはと食べかけだったパニーニを片付けるべく、口に押し込んだ。
 温度が下がって食べやすくなったパンを咀嚼していると、ふと視線を感じた。
 ヴィクトールが見つめている。
『なに?』
『いや……ついてる』
 手を伸ばして、唇の端を拭われた。
 さらには、そこにちゅっとキスを落とされて、またもや硬直した。
 だが、ヴィクトールはふっと色ガラス越しに目元を笑ませる。
「可愛い」
 日本語だが、「kawaii」は日本のサブカルが浸透している国々では通じる言葉に変化している。エスティアも、絵茉の影響で単語程度の日本語ならわかるために、当然理解した。
 が、日本人よりはこの手のことには免疫があるし、日常的に見聞きもする。
 平然と友人カップルのいちゃつきを眺めながら、なかなかいい味わいの赤ワインを飲み干した。
 むしろ当人である絵茉のほうが動揺して、顔を真っ赤にしている。
「そ…外で、ダメ」
「このくらい、普通のスキンシップだよ」
「でも」
「せっかく昼休みに絵茉と会えたんだから、少しくらい触れたい」
 絵茉の手を取り、指先に口づける。
 実際、周りにはカップルも多く、日本人基準だと密着しすぎではないかと思うくらいの距離で、当たり前のように笑い合っている。
 エスティアは心得たようにワインを楽しみながらフィグのパンにかぶりついて、こちらを見ていないし、ヴィクトールは当たり前のように腰に腕を回してくる。
「直接顔を見られたのは三日振りだ。キスしても?」
 言いながら、ゆっくりと頬をかたむける。
 距離が縮まり、いつものウッディノートが香ったことで、絵茉の遠慮や羞恥心も消え失せかけたのだが。
『あっ、いたいた! 絵茉……え?』
 今度はエスティアの後ろから手を振って現れたシャルルに、ハッと我に返った。
 しまった、完全に流されてた!
 触れる直前だった唇から顔を背け、ぐいーっとヴィクトールの胸を押し退ける。
『シャ、シャルルっ、遅かったね!』
 さっきの比ではなく顔を真っ赤にした絵茉と、微かに寄せた眉根から最大限の不機嫌を垂れ流すヴィクトールの前で、エスティアは気配を消し、シャルルは呆然と立ち尽くした。
『ああ……うん、そう……どうして、殿下が?』
 シャルルの手には、世界的コーヒーチェーン店の紙袋が下がっている。
 おそらく、差し入れに買ってきたものだろうが、一足早かったヴィクトールと彼が持参したワインの前で完全に精彩を欠いていた。
『えっと……たまたま?』
『たまたま?』
 シャルルは心底疑わしげに顔を顰めるが、ヴィクトールは目が笑っていない笑顔で横から絵茉の言葉を奪い取った。
『そう、たまたま。ランチに時間ができたから、絵茉に連絡したら、シテでピクニックだというから飛び入り参加した。それだけだし、絵茉の恋人の私が絵茉とランチしたところで何も問題はないと思うが?』
『…そうですね』
 言いたいことはいくらでもあるが、自分の分が悪いことはわかっているので、シャルルはため息ひとつで頷いた。
 しかし、諦めることも譲ることもせず、エスティアの隣に腰を下ろすあたり、やはり面の皮は十分に厚い。
『これ、カフェラテ。パンは…十分あるみたいだね?』
『まあね。なんだかんだで、私と絵茉が爆買いしちゃったし、殿下からも追加があって、この山』
『なら、フルーツでも買ってくればよかったかな』
『や…パンだけでおなかいっぱいになると思う。あ、シャルル、ワイン飲む?』
 一度テーブルにつけば、弁えることを知っている人間ばかりなので、それ以上険悪な雰囲気にはならず、食事と談笑を楽しむことに専念する。
『それにしても…フランスにもパン祭りってあるんですね』
 エスティアお気に入りのフィグ入りのパンをむしって絵茉が言えば、シャルルが不思議そうに首を捻った。
『フランスにもって、日本にもあるってこと? 日本は米が主食の国だろ』
『ああ、ごめん。パン祭りって言っても、そんな宗教的な話じゃないの』
 簡単にシールを集めて景品をもらうキャンペーンの説明をすると、他の三人がなるほどと頷く。
『それで、絵茉、私がシール集めてるのかって言ったのか』
『うん。てっきりスタンプラリーとかポイント集めみたいなのやってるんだと思って』
『あー、そういう…シテのパン祭り自体は、そんな歴史的行事じゃないはずなんだけど、サントノレの祝日は昔からあるね』
『そういえば、サントノレってひとの名前? 同じ名前のケーキ、あるよね』
 絵茉の疑問に、ヨーロッパ人三人がなぜか黙り込んだ。
 何かまずいことでも言ったかと焦るが、完全な勘違いだとすぐに理解する。
『全く無関係じゃなかったと思うんだけど…』
『あれ、なんだったっけ。サントノレ発明したケーキ屋が、サントノーレ通りにあったとか、そういう話…?』
『そもそも、Saint Honoré自体、パン屋と菓子屋の聖人じゃないからね』
 記憶を掘り返すように頭を抱えたエスティアとシャルルだが、ヴィクトールが付け足した言葉に、顔を上げた。
『え、そうでしたっけ』
『私、サントノレがパン屋の守護聖人だからシテでパン祭りやるんだと思ってましたけど』
『いや…マドモワゼルが言ったように、シテのパン祭りの歴史自体、たぶん三十年もないじゃなかったかな』
『そうなんですか!?』
『うっそ、私、子どものときから祖父母に連れてきてもらってたから、てっきり古い祭りだと思ってました』
『まあ、マドモワゼルたちが生まれる前には始まっていたと思うが。フランスではなぜかSaint Honoréがパン屋と菓子屋の守護聖人ということになっているけど、ヴァチカンの見解では旱魃や雨の守護聖人のはずで、初めて知ったときは不思議な感じがしたのを覚えてるよ』
 フランス人とフランス人のハーフが、リンデンブール人にパリの歴史をレクチャーされている図をおもしろく眺めて、絵茉はワインを舐める。
『絵茉が言ってたケーキは、発祥の店があった場所が名前の由来のはずだけど、あの通りになぜSaint Honoréの名前がついていたかは、さすがに知らないな』
『…確か、祖父があの通りはパリでも相当古い道だって言ってた記憶があります』
『そういえば、フランスっていうか、パリの道って人名も多いよね。日本だと、ズバリ地名なことが多いんだけど』
『そうなの?』
『まあ、地名が人名由来だったり、逆もあるから、正確にどうこうっていうのは難しいかも』
 取り止めがないわりに、知識勝負な話題が続く。
 その間にも、パンを食べ、ワインを飲みと旺盛な食欲が衰えないのも、若い集団らしい。

 五月のパリの昼下がり、束の間の平和な時間のことだった。
 

 


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