「侍少女戦記」 第4幕(全7幕)

はじめから読む→「侍少女戦記」 第1幕|青野晶 (note.com)
前回の話→「侍少女戦記」 第3幕|青野晶 (note.com)

■第4幕 第1場
赤い絨毯が隙間なく敷き詰められた応接間に、金髪碧眼の男が入っていく。青いジャケットに灰色の軍袴を纏った彼は、立ったまま腰を折って礼をした。赤地の詰襟には鷲を模した銀糸の刺繍が日の光に瞬く。両肩の先端には立派な円形の肩章がせり出していた。左胸には黒い鉄製の十字型の勲章がピンで留めてある。
「マシューか」
国王は応接間のソファに深く座したままドアの方へ一瞥をくれると、マシューにも座るように勧めた。
「鏡の間」と呼ばれるこの応接間には、壁際に大理石製の暖炉とその上に巨大な鏡が貼られている。鏡の間の中央には木製テーブルと、それを囲む四つのソファが設えられていた。軋む床は赤い絨毯に覆われている。暖炉も鏡もテーブルもソファも絨毯も、すべてマシューが持ち込んだものだった。
「国王陛下、ご機嫌うるわしゅう」
マシューはソファにかけて長い脚を組むと、まるで久しぶりに会った友人のように気さくに挨拶した。国王は「うむ」とうなるだけである。
正直、国王はマシューをよく思っていない。それも当然のことだ。マシューが黒い怪物に船をひかせ、無理やりこの国に入り込んできたのだから仕方ない。ところがマシューの持ち込んだ舶来品の魅力は、認めないわけにいかないのも事実だった。ソファは国中のどんな座布団と比べても座り心地がいいし、テーブルだって慣れてしまえば座卓より便利だと感じるようになってしまった。畳よりも絨毯の方がなんとなく気品が高いようにも思う。
「本日は特にご機嫌のようですな!」
マシューは陽気に笑うと、革張りのソファに浅く腰を預け、背もたれの弾力を確かめた。脚を組み変える。この態度が許されるのはマシューがこの国の人間ではないからだ。マシュー以外の人間はとてもこんなふうには寛げない。この国で、国王は神の代理人であると信じられているのだから。しかしそんな殊勝な宗教とは全く無関係の土地で育ったマシューにとって、国王は国王でしかなかった。それも未開の地、小さな島国の。
「玄鉄が軍事力を持ちすぎている、と聞くが」
国王は率直に切り出した。もはやマシューの不遜な態度を咎める気はない。自分を神として崇めてくれる従者や国民とは違う。そんなことを仕方なく受け入れる気にもなってきたのだ。
マシューは長い指を組むと腿の上に両肘を乗せ、笑顔を見せた。
「ええ、陛下のおっしゃることに間違いはございません」
 マシューの目は湖の底のように清冽に輝く。嘘ではないらしい。
 いけ好かない若造だ。
 国王はむっとしたが顔に出さないように気を付ける。相手は強大な軍事力をもって無理やりに港にあがってきた渡海人だ。機嫌を損ねたら何をされるかわからない。
「マシュー、なぜ玄鉄に西洋怪物を与えた?」
 国王の従者が用意していた紅茶をマシューは遠慮なく啜った。これも最近、マシューから国王に贈ったものだった。贈った、というより「私が訪問する時は抹茶ではなくこれを出せ」という、いくらか強制力のある根回しである。「抹茶は苦すぎる」とマシューが言うので国王の従者たちは気を遣って、マシューの来訪時には紅茶を出すことに決めているのだった。調子の良い奴め、と国王は舌打ちしたくなるが、紅茶の香りの良さもまた認めないわけにいかない。
 国王の眼前にあるテーブルには白いテーブルクロスがかかっている。薄く硬く滑らかな陶器のカップの持ち手は細く金色で、側面にはキジらしい鳥の絵が描かれている。揃いのカップとソーサーが一組。十分に温まった蓋つきの銀製ポット。スパイスで風味をつけた梨のパイ。しょうがの砂糖漬け。スポンジケーキにジャムをはさんだだけのサンドイッチ。アイスクリーム。スコーンと、スコーンに塗るクロテッドクリームといちごジャムまで用意してあった。
 マシューは銀製のシュガーニッパーで角砂糖を七つ摘まむと、紅茶液に落としてミルクを注いだ。カップの底が傷つかないように、柔らかい純銀のスプーンで紅茶液を混ぜる。マシューは一口啜って、軟水は渋いな、と眉間に皺を寄せた。
「どうして玄鉄に西洋怪物を渡したかって? それは玄鉄が私の親愛なる友だからですよ、陛下! 友好の印にペットを譲りました。うちの国ではよくあることで……って、冗談ですよ。そんな顔しないで。軍事力の強化のためですよ。軍事力の強化。以前言ったではありませんか。この国が長く外交を拒否していた間、外の国では文明が急速に発展したのです。外の国から攻め込まれでもしたら、まったく勝ち目はありませんよ」
 お前もその攻め込んできたひとりではないのか。
国王は胸の内で悪態をつく。
 マシューはそれを見透かしたように目を細めたけれど、口角には笑みを湛え続けた。
「玄鉄はまことに賢い男ですね。西洋怪物の習性をいろいろ教えましたが、飲みこみが早い。すぐに使いこなせるようになります」
「だからそれが問題だと言っている。玄鉄が西洋怪物を従えて都に攻め込んできたらどうする。我が軍は西洋怪物を持たない」
「ご安心なさいませ、陛下。玄鉄に与えている怪物よりももっと強力なものがいます」
「それを譲ってくれ」
 マシューはあごをさすって「ふーむ」とうなり、床を見、天井を見、鏡を見、悩んだ挙句右手の指をぱちんと鳴らして答えた。
「ええ。もし陛下が制御できるのであれば、お譲りしますよ」
「なんだと?」
 マシューの態度に国王はついに顔を紅潮させたが、マシューは「まあまあ」と笑ってまったく気にしない。
「それだけ獰猛なものでして。仮に玄鉄が西洋怪物軍を組織したとしても一夜で食いつぶしてしまいますよ」
「どんな怪物だ」
「私の船をひいた怪物です。もともと冥王ハデスが所持した犬でして、私の祖先が冥界から連れてきたのですよ。現在も注意を払って管理していますが」
「戦力になるか。ほしい」
 国王は食いつく。
 こいつに扱えて私に扱えないはずがない。
 そう思っていることはマシューに筒抜けだったが、マシューは柔和な表情を崩さなかった。
「前向きに検討いたしましょう」
 マシューは唇の右端だけを上げて微笑むと、カップに角砂糖を四つ追加した。
 
■第4幕 第2場
玄鉄は客間に侍たちを召集すると座卓に地図を広げた。
「どうもおかしいと思わないか?」
地図には赤い×がいくつか書き込んである。
「何が言いたい。さっさと言え」
朱雀は青紫の羽織を衣擦れさせて腕を組む。朱雀の隣に正座する龍香は朱雀の不機嫌らしい態度をそわそわと気にしていた。龍香の向かいに座る於菟は目だけを動かし、隣の玄鉄とテーブルを挟んで向かいに座る龍香を交互に見る。玄鉄は朱雀を非難するように口を尖らせたが、まったくしょうがない、といった調子で本題に入った。
「あの渓谷では鹿が死にすぎていた。ハーピーは雄鹿を襲わない。角で返り討ちにあうからな」
玄鉄は話しながら地図上の赤い×印を指先でさしていった。全部で十四ある。これだけ雄鹿が死んでいたということだろう。いくらハーピーが群れで行動するとはいえ、かぎ爪以外に武器のないハーピーたちに鹿が狩れるとは思えない、というのが玄鉄の考えだった。
「何か別の怪物が潜んでいるとしか思えん。ハーピーはそいつ獲物のおこぼれを頂戴していただけだろう」
「何か別の怪物……」
於菟はうかがうように玄鉄の横顔を見る。
朱雀は小さくうなって腕を組むと龍香を見た。
「龍香、お前はどう思う」
「私ですか?」
 龍香はびくっと肩を震わせて自分を指さす。
 朱雀は厳しく目尻を尖らせたまま龍香を見つめて言った。
「お前はハーピーに捕まって空を飛んだだろう。上空からハーピー以外の西洋怪物を見なかったか?」
その可能性があったか、と言いたげに玄鉄と於菟が同時に龍香を見る。龍香は突然向けられた期待に困惑しつつ、瞼を閉じて記憶をたどり始めた。
三羽のハーピーを斬り裂けなかった龍香は、ハーピーたちに捕らえられた。ハーピーたちは垂れ下がった皮膚のひだの下に埋もれている人間の口を開き、ひどい悪臭を吹きながら空へと舞い上がった。
「いえ……朱雀さま。そのようなものは……」
ハーピーの爪の肩に刺さる痛みがよみがえりそうになって鳥肌が立つ。龍香が上空から見たものは、足元に続く木々の緑のさざめきと、遠くに広がる煙霧、その向こうに煌めく湖だけだ。
「霧も出ていましたから……見たのは木と湖だけです」
「湖?」
龍香の答えに怪訝な顔つきで反応したのは玄鉄だった。玄鉄はテーブルの上の地図を凝視する。
「湖なんてどこにもないが」
龍香は身を乗り出して地図を覗き込んだ。朱雀と於菟もそれに続く。四人は頭を寄せ合って地図上の湖を探した。
「ない……」
龍香は呟き、右手を口に当てて考えた。
「でも、確かに湖を見たんです。霧の向こうで水面が光って……。ああでも、なんだか不思議な湖だと思いました」
霧ではっきりとは見えなかったが、遠くに湖のようなものが見えたと龍香は記憶している。しかしそれはなんだか普通の湖という感じがしなかった。
「どんなふうに不思議だった?」
朱雀は地図から顔を上げ、隣に座る龍香に問いかける。龍香は深く呼吸し、瞼を閉じて思い起こした。
「湖にしては波が立ちすぎていたような気がします。遠かったのと、霧でよく見えませんでした。霧の向こうで湖が波打つと、蠢動した水面がこう、きらきらとして」
龍香は目を開くと朱雀に視線を返した。
「それだけです」
龍香は自信なさげに俯く。朱雀は黙って何かを考えていた。すっと白い首をめぐらせて玄鉄を見る。玄鉄は「充分だ」と言って立ち上がった。
「これより再調査に行く。侍諸君、戦闘の準備を」
龍香と於菟は「はいっ!」と気を引き締める。
玄鉄が仕切ったことに朱雀は不満そうに口を歪めたが、仕方なしと立ち上がった。
 
■第4幕 第3場
龍香の言う場所に到着しても、そこに湖はなかった。円形に開けたその地は木々に囲まれ、土が剥き出しで草花が生えていない。
「湖がなくなっている……?」
龍香は於菟を見て首を傾げ、その次に朱雀を、玄鉄を見上げた。四人は無言のうちに顔を見合わせる。
確かにそれは、かつて湖のあった場所のように見えた。しかし地面には窪みがない。本当に湖があったのだとしたら、水が干上がると窪みが残るはずだった。
「確かにここに湖があったと思うのですが……」
龍香は言葉を途切らせる。見間違いだったのだろうか。いや、しかしそんなはずは……。龍香が困惑していると、玄鉄はしゃがみこみ、土に触れた。湿り気もない。
「西洋怪物の仕業であることには間違いないだろう」
「私も同感だ」
 朱雀は目を鋭く細めて周囲をうかがう。
玄鉄は立ち上がると同時にさりげなく柄頭に指を触れた。
「周辺を探索するか?」
朱雀は青紫の着物を風に翻して言う。於菟はそれに挙手して答えた。
「あの、まずは川を見るのはどうでしょう?」
「川?」
「このあたりにある水ってそれくらいだと思って」
玄鉄は持ってきていた地図の絵巻を広げた。ここから東へ歩いて森を抜ければ川がある。あの、吊り橋の下を流れていた川だ。
川を湖と間違えたのだろうか。龍香にはとてもそんなふうには思えなかった。けれどそれはおそらく於菟もわかっているだろうし、朱雀も玄鉄も同意見だろう。他に手がかりもないのだ。
「いいだろう。川だな」
朱雀は於菟の意見に首肯し、玄鉄に先を越されまいと早足に歩き出した。龍香は慌てて朱雀の背を追う。
於菟は顔をしかめて地図を見、朱雀の背を見、を繰り返した。
於菟の隣に立つ玄鉄は両手を口の端に添えメガホンにして叫ぶ。
「朱雀、そっちは西だ」
 
■第4幕 第4場
森を抜ける途中で霧が立ちこめてきた。せせらぎが聞こえる。川は近い。
「迷子になるなよ」
玄鉄は保護者らしい口調で於菟と龍香に注意をうながした。
玄鉄は目指す川の向こう岸、崖の上に、墓地があることを知っている。朱雀が墓参りをしないから、代わりに花を供えてやっているのだ。……という話はもちろん、誰にもしないけれど。
「あっ」
その時、龍香が声をあげた。
三人は同時に龍香を見る。龍香は川へと続く細道を歩みながら、道を囲む木々の隙間へと指をさした。
「あの煌めきが……」
さざめく枝葉の向こうに、霧の中でも閃く光が見える。水だ。水飛沫があがっている。
やっぱり湖はあったんだ!
龍香はそう思って朱雀を見たけれど、朱雀は顔を強張らせていた。玄鉄も息を殺している。二人は音をたてないように巻柄をつかんだ。
龍香と於菟は状況が読めない。けれど只事ではない空気を感じて黙っていた。
何かを引きずる音が聞こえる。霧のたちこめる木々の隙間で、蠢く湖から。引きずる音? 龍香は不思議に思う。なぜ水音ではないのだろう。白い鱗のような水飛沫が舞う。それなのに波の音は聞こえない。代わりに何か重いものが地面を引きずられる音が鈍く響き続けた。
「龍香、あれは湖じゃない」
玄鉄はできるだけ落ち着いた口調を意識して左手の親指で鯉口を切った。刀の鍔に散りばめられた金細工が薄靄の中で冷たい光を放つ。
「ヒュドラだ」
玄鉄がつぶやいたその時、朱雀が凄まじい勢いで抜刀した。次の瞬間、龍香の足元には何かが転がった。
「逃げろ!」
朱雀の叫びに龍香は駆け出す。視界の端に映ったのは、地に描かれた血飛沫と黒い鱗に覆われた大蛇の頭だった。
四人は森の中を走り出す。後方からは、蛇が腹を引きずる音が響き続けた。追ってきているらしい。
「頭を斬り落とされたのにどうして!」
走りながら於菟は叫ぶ。玄鉄は於菟と龍香の前を走りながら答えた。
「ヒュドラの頭はひとつじゃない。ひとつの胴体に無数の大蛇の頭がくっついてると思ってくれ」
玄鉄の説明に龍香はようやく理解した。水飛沫だと思ったあの光は、大蛇ヒュドラの鱗の輝きだった。あんなにも波打って見えたのは全て、蛇の鱗のうねりだった。それも遠くから見れば湖に見間違えるほどに巨大な……。
霧が晴れてくる。龍香は振り返るのが怖くなった。
「あの大蛇を斬れるのはおそらく私の骨噛だけだ。お前たちは斬るな」
朱雀は肩で呼吸しながら銘刀骨噛の柄を握った。朱雀の愛刀である骨噛は、ヒュドラの骨さえ断つ鋭い切れ味をもつ。この特別に鍛えられた刀でしか、大蛇の首は落とせそうにない。朱雀は一刀でそう悟った。
刹那、煙霧を切り裂いて大蛇が四人の前方に現れた。
「散れ!」
玄鉄の言葉に於菟と龍香は左右に飛び退く。朱雀だけが蛇と対峙した。と、思った次の瞬間、朱雀の骨噛は大蛇の鎌首を落としていた。鱗を、肉を、血管を、骨さえも一瞬で断ち切る硬質な鋼の音が響く。地に転がった大蛇は牙を剥いたまま絶命していた。
「やった!」
龍香は声をあげたが、場の緊張はほぐれなかった。玄鉄が鋭い声で注意を促す。
「龍香、隙を見せるな。朱雀。お前もできるだけ斬るんじゃない!」
玄鉄がそう言う間に、蛇の断面はみるみる黒い鱗で埋まった。再生していく鱗は二手に分かれて細く伸びていく。
「走れ!」
玄鉄の声に打たれたように三人は駆け出した。龍香は密かに振り返る。
二手に分かれて再生された鱗の塊は、やがて二頭の蛇になった。
「なんなんですかあれは!」
龍香は前方を走る玄鉄に叫ぶ。玄鉄は振り返らなかった。
「ヒュドラの頭をひとつ落とせば、傷口から二頭の蛇が生えてくる。そういうものだ」
ち、と朱雀が舌打ちした。また行く手を大蛇が遮る。
「絶対に噛まれるなよ。猛毒だ」
 朱雀の背後に控えた玄鉄が叫ぶ。
仕方ない、と言いたげに朱雀は骨噛を振るった。一陣の白銀光が黒蛇の鱗を砕く。もたげた鎌首が落ちても、龍香はもう喜べなかった。蛇の首が再生する前に四人は再び駆け出す。
「このままでは体力を消耗するだけです!」
龍香の息が上がっていることに気付いて、於菟は玄鉄の背に訴えた。玄鉄さま、何か戦う方法の指示を! そう言いかけた時だった。
「わかっている!」
玄鉄が於菟に余裕のない返事をするのは初めてのことだった。沈黙が重く苦しく降りてくる。あたりには四人の駆ける足音と揺れる枝葉のざわめき、ヒュドラの這いずり回る音に満ちていた。
於菟は後悔した。この場の誰も、ヒュドラを討伐する方法を知らない。その事実を明るみに出してしまったのだ。ごめんなさい。於菟は胸中で謝る。声に出すことは玄鉄が望んでいない。それくらいのことは於菟にもわかった。しかしどうすればいい。於菟は考える。このままでは全員……。
その時、視界の端でふっと龍香が消えた。
「龍香!」
於菟が驚いて視線を落とすと、龍香は木の根につまずいて転んでいた。狙いすましたように、茂みから黒い大蛇がぬめるような頭を出す。於菟は刀を鞘走らせた。が、誰かに肩をつかまれた。振り返ると玄鉄が厳しい顔をしている。「朱雀の骨噛でなければあの蛇は斬れない。危険だ」。玄鉄は手のひらの力と体温でそう伝えていた。於菟は振り切れない忠告に足を止めたまま、再び龍香を見る。
でも、ほうっておけるわけがない! 龍香!
そう思ったが。
直後、於菟の瞳には、骨噛を構えて立つ朱雀の姿が映った。転んだ龍香は大きく見張った瞳で朱雀を見上げている。あの時と同じだ。朱雀さまが、龍香をグリフィンから守った日。於菟が痛い記憶に胸を焼いているうちに、朱雀は大蛇の頭を切り裂き、龍香を立ち上がらせた。走れるか。そう聞いているらしい。龍香は潤う瞳に強い意志を宿らせてうなずいた。
「行くぞ」
玄鉄の声がして、於菟は玄鉄の背を追って走り出した。
俺なら。
於菟は思う。俺なら怪我した龍香を走らせはしないのに。龍香を背負って、安全な場所まで駆けてやるのに。どうしてだ、龍香。どうして俺じゃないんだ!
言えるはずのない言葉は於菟の胸で熟して朽ち果てそうだった。いっそヒュドラの毒牙に心臓を貫かれた方が幸福かもしれない。於菟は鼻が詰まりそうなのが情けなくなって、何も考えないように、前を行く玄鉄の背だけを見つめた。
龍香は朱雀に手をひかれて走る。転んでできた膝の擦り傷は痛いけれど、それでも自分の足で走りたかった。
もう一度、朱雀さまを見た、と龍香は思った。初めて見たのは故郷の山の中だ。あの時の朱雀は、暗青色の甲冑に身を包んでいた。信じがたい剛腕で真剣をグリフィンの喉に突きを打ち込んで……。朱雀は龍香の手を取り言ってくれた。「これはすでに、まことの侍であるらしい」と。あの時の手は今も、龍香の右手を握ってくれている。温かく、強く。龍香の眼前にはヒュドラの返り血を浴びた朱雀が、藍色の羽織の裾をはためかせていた。
ああ、どうして。
龍香は叫び出したくなった。
私は、於菟を守りたくて侍を志したはずなのに。
龍香は泣きたいほどに、今が幸福だった。そして同時に。
朱雀さま。朱雀さま。朱雀さま! 私たちは夫婦として旅立ったのに、どうしてこんなにも遠いのですか!
龍香は黙って朱雀の手を握りしめる。この気持ちがいつか通じるようにと願いながら。前を行く大きな背中越しに、あの日グリフィンの放った火焔がよみがえってくる気がした。
「朱雀さま」
龍香はハッとして呼びかけた。
「どうした?」
「火です」
龍香は目を見開いて朱雀の後頭部を見つめた。汗が、鬢を艶やかに濡らしていた。
「ヒュドラの首を斬り落とした後、断面を焼いてしまえば、再生できなくなるのではないでしょうか?」
朱雀はしばらく沈黙した。
「そうかもしれないが……火なんてこの状況でどうやって起こす?」
朱雀の返答に対して、すぐに答えた者がいた。
「俺に案がある」
玄鉄はそう言うと、一人だけ三人から離れて走り出した。
「玄鉄さま!?」
於菟は一人違う方向に駆け出した玄鉄に呼びかける。玄鉄は一瞬於菟を振り返ると「龍香と朱雀を頼むぞ!」と叫んで茂みへと消えて行った。直後、指笛が聞こえた。
「信じろ。今は逃げるしかない」
朱雀の指示に、於菟は後ろ髪を引かれる思いでついていく。また指笛が響いた。
霧はすでに晴れていた。三人の脚は疲労の限界に達している。ヒュドラの胴体はついに三人の視界を囲んだ。一つの身体を共有する無数の蛇の群れがじわじわと四方八方からにじり寄ってくる。
二股に分かれた細い蛇なら、私にも斬れるかもしれない。
龍香は鞘に左手をかけて鯉口を切った。
於菟も同じように抜刀する。朱雀も、もはやこの状況で文句は言わなかった。ヘビの頭数を増やしてしまうことにはなるが、殺されるくらいなら斬らなければ。三人は背中合わせになり、それぞれの白刃を正眼に構えた。
三つの異なる銀の軌跡が、弧を描いて蛇の頭を次々に叩き斬った。刀が振るわれるごとに蛇たちは死に、再生を繰り返し、細かく増えていく。
龍香は初めて「不死身」というものの恐ろしさに触れた。一閃、また一閃、まとめて二匹の蛇を斬り落とした時、龍香は背後で於菟の叫びを聞いた。
「朱雀さま!」
龍香が振り向くと、朱雀が胸を押さえて地面にうずくまっていた。朱雀の眼前には斬ったばかりであるらしい大蛇の頭が転がっている。
まさか、噛まれたのだろうか。龍香が聞こうとした時、朱雀は真剣を手放し、懐に手を伸ばして印籠を取り出した。息が荒い。龍香の脳裏に鋭く光が切り込んでくる。秀夜の言葉がよぎった。
「朱雀さまもお体のお加減はいかがですか?」
玄鉄館に初めて来た日、秀夜は朱雀にそう聞いた。龍香が「朱雀さまはどこかお体の具合が悪いのですか?」と聞いた時、朱雀はなんと答えたか。「気にするな」。その朱雀は今、胸を押さえ脂汗を額に浮かべ、印籠から丸薬を取り出している。
「朱雀さま!」
龍香は思わず駆け出した。朱雀の背にまわり寄り添って背をさする。
やはり朱雀さまは何かご病気を……?
どうして無理にでも教えてほしいと秀夜に迫らなかったのか、龍香は自分で自分を責めた。
無防備になった二人の背後に於菟が立つ。右足を前に一歩踏み出し、上段の構えをとった於菟は切っ先を素早く振り下ろし、襲いかかってきた蛇の頭を斬り落とした。再生すればまた頭数が増えてしまう。これではキリがない。斬り落とした蛇の胴体の断面が少しずつ新しい鱗で覆われていく。流れていた血は止まり、潤う肉は骨の断面を隠し、二手に分かれて伸びた。それを細かな鱗が覆っていく。次は二匹同時に斬らなければならない。その次は四匹同時、次は……。於菟が覚悟を決めて巻柄を握り直した時だった。
「どいてくれ!」
玄鉄の指示が聞こえて、於菟は空を見上げた。
空? なぜ頭上から声が?
数瞬の後、地鳴りが生じて突風に砂が舞い上がった。
於菟は目に塵が入る痛みを涙で和らげながら振り向き、腕を広げて龍香と朱雀の背を守る。
何が起きたのだろう? 玄鉄さまはどこだ?
粉塵の中で、於菟は衝撃的なシルエットを目にした。
巨大な鷲の頭。それを支える獅子の身体。背には一対の翼を備えた……。
「グリフィン……!」
於菟は本能に叩き込まれた恐怖を呼び起こされて震えた。
グリフィンは翼をはためかせて竜巻を起こし、粉塵を払った。火焔珠のような瞳で於菟を見る。グリフィンには大きな首輪がかかり、そこに手綱が結いつけられ、ひとりの人間が手綱を握って騎乗していた。
「於菟」
「玄鉄さま!?」
それは確かに玄鉄だった。玄鉄が、グリフィンの背に乗って空から舞い降りたのだ。
「細かい説明は後だ。火を持ってきた」
玄鉄は細い手綱を握りグリフィンを前進させる。一匹の蛇がグリフィンの足に噛みついたが、黄金の脚には歯型ひとつつかない。行く手を阻む蛇たちを、グリフィンは容赦なく踏み潰した。水牛の角ほどに太い爪は蛇の頭蓋ごと押し潰していく。玄鉄に手綱を打たれると、グリフィンは喉に準備していた炎を吹いた。再生し始めていた蛇たちの胴体の断面はグリフィンの高温の火焔で焼き払われていく。肉は焦げて炭になり、再生が止まった。
「於菟、蛇を斬ってくれ。断面は俺が焼く」
「はい!」
「小さくなった蛇にも絶対に噛まれるなよ。猛毒だからな」
猛毒、という言葉が龍香の耳をかすめた。
龍香は朱雀を横たえ、額に浮かんだ汗を拭ってやる。薬のおかげか、苦悶の表情は緩んだ。しかし朱雀は左胸をおさえたままである。
心臓……? 朱雀さま、まさか心臓を患って……。
龍香は目が潤むのを感じた。グリフィンに突きを穿った朱雀。道場で玄鉄と真剣を交えた朱雀。ハーピーを三羽連続斬りした朱雀。ヒュドラに立ち向かう朱雀。どんな時も朱雀は、身の内を巣食う病とも闘い続けていた。
どうして私は、守るどころか守られてきたのだろう。
守りたいと思ったのだ。大事な人を守る力がほしい。だから龍香は、侍になりたいと願ったのだ。
龍香は溢れ出した涙を手の甲でぐっと拭う。今、龍香は朱雀を守るために立ち上がった。
 
於菟は、枝分かれを繰り返し細くなった蛇を次々に斬った。水平に抜刀した構えのまま跳んで一回転すると、軌道上にいた蛇の首を一気にはねることができる。玄鉄は於菟のそばにつき、グリフィンに炎を吐かせた。
「玄鉄さま! こちらにも火を!」
玄鉄が振り向くと、そこには太刀で蛇に応戦する龍香の姿があった。龍香のすぐそばでは朱雀が力なく横たわっている。
まったく朱雀のやつ、随分とむちゃをしたな。
玄鉄は胸中で呟くと、グリフィンを龍香の元へと走らせた。龍香は朱雀に狙いを定める蛇たちを片っ端から叩き斬っている。
「おい朱雀、嫁さんに礼を言えよ。便宜的結婚とか、しょうもない嘘をつくな」
玄鉄の言葉はグリフィンの羽ばたきと、炎を放射する音でかき消された。
やがて静寂が訪れた。蛇の頭は全て落とされ、ヒュドラは炭になり、少しずつ朽ち始めた。
「勝てたのか」
於菟は誰にともなくそう言って地面にへたり込んだ。足元には無数の蛇の頭が牙を剥いたまま転がっている。
玄鉄は地に降り、グリフィンの手綱を引いた。
「さて、ではしょうもない病人をうちに送るとするかな」
グリフィンは耳のように立てた白金の羽根をひくひくさせ、地面に伏した。
「朱雀、帰るぞ。立てるか?」
グリフィンの背から降りた玄鉄は朱雀に歩み寄る。横たわる朱雀の上体を起こし、立ち上がらせて玄鉄はグリフィンの方へ戻っていく。龍香も朱雀を支えた。
「玄鉄」
朱雀は消え入りそうな声を絞り出す。蒼白い顔を上げて隣を歩む玄鉄の横顔を見つめた。
「お前、どうして西洋怪物を乗りこなせるのか、言え」
龍香もおずおずと顔を上げる。玄鉄の真新しいジャケットは、舶来品のにおいがした。

続き→「侍少女戦記」 第5幕|青野晶 (note.com)

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