短編小説 『マドカ・カコイ』 (約4500字)

 少し前に引っ越したばかりなのだが、近所に変な建物がある。建物というか、正確には区画と言った方がいいだろうか。
「井」の字を思い浮かべてほしい。真ん中に四角く囲われたブロックがある。囲んでいる四本の線は道だと思ってほしい。四角いブロックには何があるだろうか。家屋である。別に奇妙でもなんでもない。しかし家屋が一軒しかないとしたらどうだろう。そしてその家屋が、とてもささやかなサイズだとしたら。
「井」の中に大小さまざまな「口」の字を、たとえば六つほど入れてみてほしい。四面を道路に囲まれた六軒の住宅。わたしに馴染みがあるのは、たとえばそのようなブロックだ。わたしが住む町も、概ねそのようなブロックが前後左右に隣接し合う、ごく一般的な構造になっている。この構造を仮に井口と呼ぶことにしよう。こうした井口構造が連なりながら成る区画に、先ほど述べたようなひじょうに小さい家屋を一軒だけ抱え込む井口がどのように存在するか、想像してみてほしい。
 簡単に言えば、井の中心にそれはポツンと建っているのである。これを簡略化すれば「回」あるいは「丼」となる。「回」もしくは「丼」の中心点である建物は、地上から十メートルばかり盛り上がった丘に建っており、冷奴を切って置いただけのような、簡素なフォルムでありながら、どことなく古代遺跡を思わせる寂しさと威厳を漂わせている。そしてその狭い頂の四方から、地上に向かって白い石階段が降りている。
 この不思議な一角は一体なんだろうと、わたしは越してきてからしばらく興味を持ち、散歩がてら近くを歩いてみたりした。というのも、その施設のすぐ北側の井にわたしの家があるからだ。わたしが住むのは、井の中にさらに小さな井の字を入れ込んだ「囲」、その中心のブロックに位置する古いアパートである。
 そのアパートから、いつものようにわたしが出てくる。散歩を日課とするわたしは、囲の内部をうろついてまず足を慣らし、それから平家の向こうにこんもりとそびえる豆腐めいたものをながめやり、回を想いながら遊歩する。すると、頭にある顔が浮かんできた。
 
 越してきてひと月ほど経ったころのこと。わたしはちょうどこの辺りで、近所に住むとある夫人と会話を交わした。
 わたしの家のあるブロックの外郭である井の左辺に接続する井、その中にTの字を逆さにした線を嵌め込んだ、「円」。円の下部の空間に建つライオンズマンションの六階に住む夫人とは、カルチャーセンターの習字教室で知り合った。
 夫人は文鎮で延ばした和紙を前にぴんと背筋を伸ばして腰掛け、たいへん豪胆な筆づかいで「裁」という字を書きつけていた。わたしはその文字面がしばらく頭から離れず、たまたま道で出会った夫人に井戸端会議を持ちかけ、それとなく話題を振って、どうしてあの字を選ばれたのですか、と聞いてみた。
 すると夫人は上品に口角を折り上げて、次のように言った。
「最近何かと、世間では物騒なことが多いでしょう。物騒なことをしでかすような人は、同じだけの分量のしっぺ返しを被るのが正当でしょうから、その願いを込めて、あの字を書いたんです」
 わたしは顔に寄ってきた羽虫を払いのけながら、夫人に頷きかけた。わたしは製作所の青いつなぎを着たままだったので、木屑の甘い香りに誘われて、こうしてよく羽虫が寄ってくるのだ。
「要するに、広く言えば世界平和の祈りというのかしら。大袈裟だと思われるでしょうけど」
 大袈裟だなんてとんでもない。わたしはニッコリと笑い、つなぎについた木屑をそれとなく払った。
 夫人に名前を聞きそびれたままだったので、わたしは勝手に円(まどか)と呼ぶことにし、習字教室の日になると、それとなく夫人の隣に座って、わざわざ「円」という字を何度も練習して、どうもハネのところがうまくいかないのですが、などと夫人にアドバイスを求めてみたりしたが、円夫人がわたしの企みに勘づくような素振りはなかった。
 その間、円夫人は「裁」の字を完全に熟達させ、その後は「神」であるとか「罪と罰」であるとか、あるいはどこかから引いてきたらしい、ものものしい宗教的箴言のようなものを、熱心に紙に書きつけていた。最近では草書にも挑戦して、だんだん、わたしのような初心者には、何が書いてあるのだか全然わからない、ぐにゃぐにゃした呪文みたいなものを書くようになってきた。

 囲の下辺から通りへ出てきたわたしは、右折してライオンズマンションの前で足を止める。色味の少ない、目をつぶったら忘れてしまいそうな住宅街の一角には誰もおらず、どこかで子どもが騒ぐ声が建物の間を反響していた。ちょっと煙草でも吸おうかと思っていると、思いがけないことに、ちょうどマンションのエントランスから円夫人が出てくるのが見えた。
 夫人はわたしに気がつくと、びっくりした様子で足を止め、それからややぎこちなく口角を折り上げ、ご機嫌よう、といったふうに会釈をした。わたしは夫人が表へ出てくるのを待って、何か世間話でもと思い、ちょうどいい機会なので、冷奴の方を指差して、あの変なものはなんでしょうねと軽い調子で言ってみた。
 夫人はすると、いつものしなしなとした肩をまっすぐにして、なんだか急に早口になって、先生がどうであるとか、超越的存在がどうとか、意味のよくわからないことをぶつぶつ言いながら、潤んだ目でわたしの顔をのぞき込んでくる。わたしが笑っていると、何を勘違いしたのか、わたしの腕を日傘みたいに取って、どこかへ引っ張っていこうとする。
「何をするんですか。痛いじゃないですか」
 わたしはびっくりして抗議したが、円夫人はどこか破れかぶれな感じで、あなたのような人は早くあそこへご挨拶に行った方がいいのだと、そればっかりを繰り返して微笑うので、まるであのぐにゃぐにゃした字を見せられているようで、腹が立ち、夫人の腕を振りほどいて、わたしはあんなところへ挨拶に行く気はしないし、あなたの考えは独りよがりで内容を欠いていて、ご自分の問題を世間の問題へとすり替えているようだけど、そんなものはごまかしにすぎないし、お子さんの不登校とかご主人の不貞には同情するけれど、それを他所の問題へすげ替えたり、目を背けたところで、そしてどこかの罪深い誰かにたとえ首尾よく裁きが下ったところで、あなたは不満足なままだし、あなたが遠ざけたしっぺ返しは結局どうせ、あなたのところへ返ってきますよ、形を変えて、とできるだけ冷静に私見を述べ、
「それより、これから一緒に飯でも食いに行きませんかっ」
 と勢いにまかせて言ったときには、すっかり息切れしていた。
 夫人は眉をひそめ、困惑したように辺りを見回していた。憑き物が落ちたように辺りが急にしんとして、やっぱり子どもの声ばかりが響いていた。
 わたしは、口にすべきでないことまでうっかり口にし、それについてどう始末をつけるべきか思案して黙っていたが、夫人はわたしに背中を向けてさっさと歩いていってしまい、それから急に振り返って、
「どこへ行くんですか」
 と言った。
 わたしが困惑していると、
「どこへ食事に行くのですか」
 と、たしかにそう言った。
 
 連れ立って歩いていく道中で、
「あなたはとても匂います」
 と夫人が、前を向いたままで言った。
「せめて、習字教室に来るときには、お風呂に入ってから来てくれませんか。それから、同じ服を続けて着るのもやめて、新しい服を前もって洗濯しておくようにしないと」
 わかりました、とわたしは小さな声で言った。
 わたしたちは、駅前の牛丼屋に入った。
 テレビ放送の昼のワイドショーを聞きながら、わたしたちは黙って、最後まで口を利かずに牛丼を食べきった。
 空になった丼をじっと見つめて、夫人が思いつめたように黙り込んでいるので、このまま泣き出してしまうのではないかと心配したが、勘定をどうすべきか迷っているのかもしれないと思い、わたしはポケットから財布を取り出した。マジックテープを引き剥がすと、中から五円玉が転がり落ちて、しばらくテーブルの上でくるくる回って、ペタンと止まった。
「そういえば、あの施設はちょうどこんなふうになっていますね」
 わたしは言った。
 わたしは、例の区画および施設が、「回」もしくは「丼」に見立てられるのだと説明し、
 それからふと思いついて、五円玉を、空になった丼の中へ放り込んだ。
「ほら、見てください。『丼』の中に『回』が入りました。こういうのを、入れ子構造と言うんですよ。
 マトリョーシカのような工芸品とか、あるいは物語にもよく利用される仕掛けで、夢の中で夢を見るといったような、複雑な状況から、幻想的な雰囲気を作り出すんですね」
 わたしは特に何の計画もなくしゃべっていたが、丼の端に引っかかっていた牛肉の切れ端に目をとめると、今度はそれを摘んで、五円玉の中に押し込んだ。
「円さん、ミノタウロスの神話をご存知ですか? 人間の女と雄牛が交わって生まれた、牛の頭を持つ子どもで、たいへん凶暴なので、迷宮をつくって幽閉したという話です。こうしてみると、ちょうど神話の略図のようじゃないですか?」
 わたしは自分の思いつきに興奮し、調子に乗って、蘊蓄めいたどうでもいいようなことを、また息切れするまでしゃべってしまった。
 わたしはだけど、話の着地点をまるで考えなかったわけではなかった。一応の算段としては、例の冷奴を凶暴なものと連絡づけることで、夫人の願いである世界平和をそれとなく風刺しつつ、あなたは複雑な迷宮に迷っているけれど、それはあなた自身が知らないうちに、幾重にも心に築いたもので、わたしはその地図を持っている、少なくとも一緒に協力して作成することができる、それでもってあなたを、きっと外へ導いてやれるのだという、一種の意思表明を込めたつもりだったのだが、夫人は黙って、じっと丼の中の回の中の牛を見つめ、それから、
「あなたは、せつない人ですね」
 と言った。
 それからまた黙り込み、しばらくしてから、そっとため息をついた。
「あなたが習字教室に入会してきたときには、とても驚きました。あなたの格好は目立ちますから、わたしの後ろをよく、もじもじ歩いていたのは、何度も見かけて知っていましたけど、まさかと思って。
 だけどさっき、円さん、と言ったから。あなたが練習していた字がそれだったから……」
 夫人は言いにくそうに、しかし言った。
「わたしから見たら、あなたは子どもですから。というか、たぶん、わたしの息子とそう変わらないと思うのだけど。わたしは、あなたのお母さんじゃないんですから」
 わたしの青いつなぎに纏わりついていた羽虫が、すると丼の底へ飛び移って、ふらふらと辺りを徘徊しはじめた。
 わたしは急に、頭の中が五月蝿くなったような気がした。
 
 夫人は二人分の牛丼代を支払い、それから帰り際に、新しい服を買いなさいと言って一万円札をテーブルに置き、出ていってしまった。
 わたしは膝の上に手を置いて、丼の底をじっと見つめていた。わたしが構成した迷宮。テレビの音を聞くともなく聞きながら、考えをめぐらせた。そして、そうか、わたしがミノタウロスにならなければいけなかったのだ、とそう思った。
 それがわかると、不思議と頭の中が静かになったので、わたしは一万円札をポケットに入れて、店を出た。

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