« Quels gâteaux aimez-vous ? »

 晴れた夏前、まだ二十度に届き切らない午前の気温は散歩には心地良く、アレクサンドルはいつもよりゆっくりとした歩調で散策を兼ねて街を北上していた。仕事用のブーツよりは軽く、スニーカーやサンダルよりは重たい、革靴が石畳を踏む音もリズミカルで悪くない。
 平日の昼間だというのに路上にはアレクサンドルと同じく日差しに誘われて家から出てきた人々が各々おのおのの思うままに歩き、くつろいでいた。職業病のようにあたりを見渡しながら上機嫌に先に進むアレクサンドルは、自分が目的としていた店のうちの一つの前に佇む、最終目的地の家主と思しき姿にはたと足を止める。店先の窓からいくらか身をかがめて中を覗き込んでいると思ったら、ガラスの向こう側と目が合ったのかにこりと笑ってドアに向かった。
 きっちりと着込まれた明るいブルーグレーのウィンドウペンチェックのスリーピースはクラシカルな印象で、開放的なその日の天気の中では多少目立つものの、暑苦しさを感じさせないのは色味や着こなしの成すものだろう。スタイルの良さと整った顔もさわやかさの一端を担っている。
 こだわりがなく、ノーネクタイでラフにすることで涼しげに見せている自分とはやはり違う、とアレクサンドルは一度自分の服装を見下ろした。隣に立つのは若干気後れするものの、着てきてしまったものはどうしようもないと、顔にかからないように持ち上げてきた髪がいまだ崩れていないかだけをそれとなく確認して、ドアの中に消えていく後ろ姿に声をかけた。
「こんにちは。お買い物ですか」
「やあ、こんにちは。外で会うのは初めてだね」
 店内に一歩踏み込んだ状態で振り返ったシャルマンは、先程ガラスの向こうに向けていたものよりも心なしか砕けた笑みを浮かべ、ドアを押えたまま半身を引いて当然のようにアレクサンドルを招き入れた。甘い匂いの充満するそこには「パティスリー」の看板が揺れる。
「客人用の茶請けをと思って。君もお買い物?」
 シャルマンのさわやかなあいさつに明るく返したカウンターの中の、アレクサンドルよりは年上に見える店員の女性は、ガラス越しでは一人だったはずの紳士が引き入れたアレクサンドルにも同様に声をかけてくれる。出先でシャルマンに話しかける緊張を引きずったアレクサンドルも人懐こい笑顔でそれに応え、それほど広くない店内には和やかな空気が流れた。
 客人用となると自分に出すためのものだろう、下手に同じものを買う前に遭遇できてよかったかもしれない、とアレクサンドルも素直に用件を打ち明ける。
「いつもいただいてばかりだから、たまにはなにか買っていこうかと」
「気にしなくていいのに」
 話す間に焼き菓子の並ぶ窓際の棚とショーケースの上に一通り視線を巡らせ、最終的にアレクサンドルに戻ってきたシャルマンの目は柔和に細められていた。店内でじっと見つめあっているのもおかしなことだと、アレクサンドルはショーケースの中の華やかなケーキたちに視線を逃がす。
 眼前の男の青い目にも負けないくらい魅力的、と返事を兼ねて肩をすくめたところで、何を考えているんだ、と頭を振った。
「うちに来る途中だったんだね。すれ違いにならなくてよかったよ」
 シャルマンはいまだ出入り口近くから動かないアレクサンドルの背中を押し、まるでエスコートするようにショーケースの前に連れてくる。
「一緒に食べるものだし、一緒に選んでくれ」
「はあ……」
 会話を聞きながら関係性に疑問を抱いたらしい店員の女性は特に口を挟むことなく黙って二人の様子を観察していたが、ショーケースに近づいたアレクサンドルの表情がそれとわかるほど明るくなったのを見て、無言のままシャルマンに目配せした。じっとケーキを眺める姿をかわいいだろうと自慢するかのように、シャルマンはその視線に笑顔でうなずいてみせる。
「君、生菓子は好き?」
「すごく」
「ふふ、せっかくだから買って帰ろうか」
「えぇ、いや、大丈夫です……」
 誰がどう聞いても遠慮だとわかる回答に、シャルマンは笑い、店員の女性は呆れたように眉を寄せた。ほんの一瞬だけその二人の目が合う。
「私が食べたいんだ。紅茶にもよく合うよ。おすすめは?」
「今日のおすすめはネクタリンとカスタードのタルトね」
「だそうだ。君が来る時のために買っておこうにも、日持ちのするものとなると種類が限られてくるからね。こんな機会でもないと、ねえ?」
「わかんないけど、おおむねそのとおりよ。パティスリーに寄ったのにケーキを買わないなんてもったいない」
 何故か結託してケーキを買わせようとする二人に怖気付きながらも、アレクサンドルは照れた様子でぎこちなく笑った。
「じゃあ、買っていこうか」
 ぎこちないながらもしっかりとショーケースの中をさまよい始めた視線に、笑みの消えない二人が畳みかけるように話しかける。
「シャルロットはどう?」
「いいね。そうだ、私の分も選んでくれ」
「……あなたの好みを知らない」
「君が食べたいのでいい。私もきっとそれが好きだ」
「俺が食べたいのだと、俺が食べたくなっちゃうじゃん」
「その時は私の分もあげるよ」
「なにそれ。あなたの分がなくなっちゃう」
「三個か四個選んでふたりでシェアするのはどう?」
「そんなに?」
「それもそうだ。お嬢さん商売上手だね。君ならそれくらい食べられるだろう」
「ケーキは別腹でしょう」
「食べられるけど……」
「決まりだ。私は焼き菓子を選ぶからそっちは任せたよ」
 そう言うとさっさと背を向けたシャルマンに、アレクサンドルがむず痒そうに口をゆがめた。それでも任された任務はまっとうせねばと真剣にショーケースを覗き込むアレクサンドルに、店員が耳打ちするように声を潜めた。
「すてきな彼氏ね」
「そんなんじゃない、友人だ。いや、友人になりかけてる」
「そう? あっちはそんな感じしないけど」
「どんな感じ?」
「さあ? 決まった?」
 はぐらかされ、アレクサンドルが渋い顔で注文を伝えているうちに、シャルマンも焼き菓子の包みをいくつか持って戻ってきた。喜びを隠しきれていないアレクサンドルの硬い口元に、またシャルマンと店員がアイコンタクトをとる。
「会計しておくから外で待っていて」
「えっ、いや俺の分は自分で出します」
「ここに引きずり込んだのは私だからね」
「でも」
「もう一緒に計算しちゃったわ」
「だそうだ。すぐに行くよ。君は荷物持ちだ」
 言いくるめられ追い出されたアレクサンドルがまたも渋い顔で扉を引くと、ドアベルが軽やかに鳴った。シャルマンがひらひらと手を振ってその後ろ姿を見送る。
「かわいいお友達ね。あなたもだけど、モテそう」
「ありがとう。彼が私を友達だと?」
「そう。『友人になりかけてる』ですって」
 おかしそうに笑う店員が、おまけしとく、とショーケースの上のクッキーを袋に追加した。
「いい表現だ。彼らしい」
「もっと積極的にならないと」
「そんなんじゃないよ。かわいい野良猫に餌をあげているんだ」
「なにそれ。やらしい」
 多めのチップを含む会計を済ませ、手際良く詰められたケーキの箱と焼き菓子の小ぶりな紙袋を受け取ったシャルマンが意味深に笑った。
 軽いあいさつを交わして外に出れば、店のすぐ前で姿勢良く待つアレクサンドルが振り返る。シャルマンがケーキの箱を差し出すと、ありがとうございます、と複雑な感情が混ざり合った声と、その声とは一致しない下がりきった目尻がシャルマンに返された。
「チョコレート、好きなんだね」
「そうかも」
「次回の参考にしよう」
 アレクサンドルは慣れない小さな箱を右手左手と何度か持ち替え、歩き始めたシャルマンの隣でにんまりと笑う。横目にそれを見ていたシャルマンから満足そうなため息がこぼれた。
 数分前に一人で歩いて時にはきょろきょろと四方に散っていたアレクサンドルの視線は慎重に運ばれる手元のケーキ箱や自分の足元、シャルマンの顔に集中するようになり、しかし足取りは変わらず軽い。
「あのお店はお気に入り?」
「いや? 今日初めて入ったよ。おいしければまた来よう」
「仲良さそうだったからよく来るのかと思った」
「初対面だよ。おそらく君のおかげだろう」
「俺、結局ケーキ選んだだけですけど」
「大役だ。私一人では選べない」
 興奮を隠さないアレクサンドルの口数の多さに、シャルマンも機嫌良く答えていく。
「暑くないですか、その恰好」
「慣れればなんてことないよ。薄い生地だから体感は君とそんなに変わらないと思うが。それに、すぐに帰るつもりだった」
「すぐに帰る理由ができた」
「そうだね。楽しみ?」
「楽しみ」
「せっかくだから外でランチでも、と思ったけれど、寄り道しないほうがいいね。昼はうちでいいかい? たいしたものはないが」
「ランチにケーキがつくなんて、十分たいした食事だ」
「たしかに」
「買って帰ってもいい。そうだ、昼メシは俺が出すのはどう?」
「それもいいね。お願いしようかな」
「次はあなたに選んでもらおう」
「任せてくれ。君の好みは、少しならわかる」
「今日、すごく楽しい休日だ」
「それはなによりだ」
「さっき、声かけてよかった」
「そう思ってもらえてよかったよ」
 うふふ、とこぼれたシャルマンの声に、アレクサンドルがはっと立ち止まった。はしゃいで話しすぎたぎたかもと気付き照れ笑いを浮かべる姿に、極上の笑顔が送られた。

タイトル日本語訳:「どんなケーキが好き?」

2022.08.30 初稿
2024.02.02 加筆修正