call my name

「シャルマン」
 確かに目は合っているのに呼んでも返事も動きもないことに、会話途中で気付いた司祭がシャルマンの顔の前で手を振る。
「シャルマン? 聞いてる? シャルマン」
「なんだい」
 視界を遮る手を握り押さえると、シャルマンは再度司祭と視線が絡んだことに満足気にため息をこぼした。何度か手を握り直し、冷たい手のひらを指で撫でる。
「シャルマン、どうかしたのか。具合でも悪いかい」
「いや、全然」
 自然と持ち上がったシャルマンの口角に、司祭が怪訝そうに眉をひそめた。次の言葉をそのまま待つ司祭の手をほぐしながら、シャルマンは媚びを売るように甘くささやく。
「君が私の名を呼ぶのを聞いていた」
「なんだそれ」
「君が呼ぶ私の名は格別なんだ」
「そう? それはどうも。自分は人の名前を滅多に呼ばないくせに、呼ばれるのは好きなのか」
「君にならね」
「左様ですか」
 冷たかった司祭の指先に触れるたびに少しずつ熱が戻ってくるのを、シャルマンは楽しんでいた。その感情にいくらかの興奮が含まれることを自覚し、隠しもしない。
 口元にその手を運び、第一関節を喰むように唇を落とす。熱っぽい唇に、ぬるい指先はまだ冷たかった。
「君も私に呼ばれると嬉しい?」
 上目で、唇で爪を撫でるように話すシャルマンを、司祭は目を細めて見つめ返す。
「うんまあ、どうだろう。そうかもしれない。ファーストネームで僕を呼ぶのはおまえだけだし」
「たくさん呼んであげなければね。君が自分の名前を忘れないように」
「あまり悪魔に呼ばれると魅入られてしまうかもしれない」
「それならなおさらだ」
 司祭の満ち足りたため息と熱を持つ目尻に、シャルマンは楽しそうに喉を鳴らした。握った手を自身の首に回し、司祭を抱き寄せ鼻先で耳元の髪を掻き分ける。
「ほどほどにしてくれ」
 襟足に触れる指先はもう冷たくない。
「善処しよう。私の──」

「シャルマン、……シャルマン?」
 司祭とは違う声がシャルマンを記憶から引き戻す。明るい客間のどこにも湿った空気は見当たらない。それでも襟足を混ぜる手の感触は生々しいほどすぐそこにあった。
「どうしたの、ぼうっとして。眠い?」
「どうもしないよ」
 残る感触を逃さぬよう、シャルマンはするりと指先で唇を撫で、機嫌よく笑う。
 妙に色っぽい仕草は眠たいせいだろうと勝手に判断したアレクサンドルは、その様子とソファに深くもたれる姿勢からそろそろ彼は昼寝の時間かと腕時計に視線を落とした。
「ならいいけど。シャルマン、こないだの……」
「君が」
「?」
 シャルマンは人差し指で自分の唇を押しながら、中断していた会話を続けようとしたアレクサンドルの言葉を遮りひとりごちる。
「君が私の名を呼ぶのも気持ちがいいな」
「は?」
 何を言っているんだと顔をしかめたアレクサンドルを、シャルマンはいつもの薄い笑みで受け流した。
 アレクサンドルは爪の先で引っ掻くように歪められたシャルマンの形のよい唇に嫌でも向かう視線を無理矢理引き剥がす。スリッパを脱ぎ捨てた自分の剥き出しのつま先が毛足の長いカーペットに埋まるのを恨めしげに睨んだ。
「アレクサンドル」
「……なに」
「私のかわいい子猫ちゃん」
「なんだよ、もう」
 足元を泳いでいたアレクサンドルの視線が持ち上がり、まつ毛に見え隠れしていた瞳が自分を捉えたことに満足そうにシャルマンが目尻を下げる。ゆっくりとまばたきアレクサンドルを見つめて、甘えるようにつぶやいた。
「もう一回私を呼んで」
 アレクサンドルがその目を見開くのを、シャルマンは変わらず自分の指に唇を押し付けながら観察する。唇はずっと熱い。
 シャルマンから目が離せないままに苦しそうに背中を丸めたアレクサンドルが、息を逃すように答えた。
「……なに、改めて頼まれると恥ずかしいんだけど」
「サーシャ」
「……わかったよ」
 髪をぐちゃぐちゃに掻き上げたアレクサンドルが両手を上げて降参のポーズを取る。いつも何気なく呼ぶ名を気恥ずかしそうに、それでも視線は逸らさずに絞り出した。
「シャルマン。……、これでいい? どうかした?」
「ふふ、ありがとう。なんでもないよ」
 極上の笑顔というのはこれのことだろうか。アレクサンドルは艶やかな笑みを浮かべた目の前の男にかどわかされぬよう、ギュッと目をつぶる。
 自分を落ち着かせるために首の後ろを掻き、顔を両手で包んでしまったアレクサンドルの乱れた襟元が肌の色味を際立たせるのを、シャルマンは愉快そうに眺めていた。
「なんなんだよほんとに、調子狂うな」
「サーシャ。君は私が呼ぶとすぐ首が赤くなる。かわいいな」
 慌てて首を隠す姿すら笑われ、アレクサンドルはやけになって声を荒げた。
「ちょっと、あんまり見ないでください! えっち!」
「うふふふ。そっちに行っていいかい? 手を握りたい」
「嫌です。来ないで! 触らないで!」
「ふられてしまった。残念だ」
 少しも堪えていない様子で、シャルマンからわざとらしい、甘いため息がこぼれる。
 アレクサンドルはあまりにも突然変わったシャルマンの空気についていけず、手近なクッションを引き寄せそれに隠れるように顔を押し付けながらソファにうつ伏せた。くぐもった小さな悲鳴がクッションから漏れ聞こえる。
 唇の熱は触れずとも彼に移ったようだと、真っ赤に染まる無防備な足先やクッションを握る手を見つめシャルマンがご機嫌に喉を鳴らすと、クッションから今度は憎らしげな抗議のうめき声が上がった。

2022.11.03